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終話 鍋奉行に必要な、たったひとつのこと
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梅雨が明けた空はとても高い。
清々しい休日だ。
風が丸く緑を孕み、ひらけた空間を抜ける。
えんとつフーズ所有の、小さな敷地。そこに集まっているのは、鍋師筆頭に関係者数名。
後藤さんが担当していた企業相手。いつか二人で営業に行った個人経営の卸し農場。以前の相談内容では、卸し相手を増やす案が欲しいと言っていた。
そのアンサーとしてこちらから提案したのが、体験型のイベントを開催してはどうかというものだった。野菜の収穫体験や、それをその場で食べるなどのイベントを通して、まずは会社そのものの認知度を上げることを提案したのだ。
その準備、いわゆる試金石として我々が道具を持ち込み、食材をえんとつフーズから買い取り敷地のレンタル料を払うことで鍋をしてみることにした。
とどのつまり、会社の危機を乗り越えたお祝いと称しバーベキューを鍋で代用してわいわいやろうというわけだ。
「いやあ、晴れましたね師匠」
「今まで通り社長と呼んでくれて構わんぞ」
そうは言ってもなあ。鍋師としての記憶を取り戻した以上、社長が元土流の師匠であるのは事実で。事実は認めなければならんからなあ。
野外ということもあり、ばかでかい寸胴鍋を、コンクリートで簡易的に組んだ竈門に乗せて火をくべている。繊細さを求める、しきたりを重視する土鍋もいいが、野趣に富んだ豪快なものもいい。
「香奈子センパイ! 火の様子は伊賀さん、あ、えっと三鍋さんが見ててくれるそうです! 次は何をしましょうか!」
「ありがとう。座ってて大丈夫よ。基本的に今回悪いのは三鍋だからね。あいつが瀬戸の連中に攫われなければ騒動になんかならなかったんだから」
三鍋が姿を消した日、食材の買い出しに行った先でころっと攫われて記憶を消されたというのだ。鍋師たるもの、常に誘拐に備えて気を張って然るべきだというのに。易々と背後を取られてどうする。
そんな三鍋に琴科さんが歩み寄っていく。何を話しているかは分からないが、にこやかに盛り上がっている。
「あの二人、やっぱり似てますよね」
「んー、まあ、どっちも変人だからね。ああいうのに騙されちゃだめよ竹内ちゃん」
「……センパイはしっかり騙されてるくせにー」
「私も変人寄りだからいいの」
くすくすと、竹内ちゃんが笑う。
あの騒動から後、私が鍋師であったことを告げ、記憶を無くすことにした経緯も、それを取り戻したこともそっくり伝えてあった。
彼女は唇を尖らせて、「私に内緒にしてたの、ずるいです。もう秘密は無いですか。今なら白状しても許してあげますよ」と拗ねる真似をしてみせた。控えめに言って、とてもかわゆかった。記憶が無かったんだから、内緒にしていた訳ではないのだ。そうとも、そうですとも。
「んもう。大和田さんのフォロー、大変なんですからね」
「いやはや、面目ない。本当に好意を向けられてるなんて思ってなくてさあ。ほんと、恩に着ます」
「分厚い恩ですよ。しっかり着込んでくださいね」
「初夏が過ぎればどんどん暑くなるからなあ。脱いでもいい?」
「だーめーでーす」
屈託なく笑い合うような仲になれたことは、とても嬉しいことだ。ぎくしゃくしなくて本当によかった。関係というものは変わっていくもので、良い変化は良い人生に繋がるものだ。私の鍋にもさらに深みが増すに違いない。
「あ、そうだ。えんとつフーズの社長さんに、炭の処理どうしたらいいか聞いてきてくれない?」
「わっかりました!」
ぺこりとお辞儀して、とてとてと走り去る彼女はどこまでもかわゆい。
結果として、データ盗難の件は内密のうちに取り下げになり、こちらの流派から若淡流へ特に申し立ても行わなかったので、今のところ平穏な鍋師生活を送っていられる。
ふと、確認したいことを思い出した。師匠、いや社長? どちらで呼ぶか悩みどころだな。社長にしておこう。隣にいる社長にたずねる。
「社長。三鍋の試練とやら。あれはどう処理をつければ?」
「何のかんのあったが、お前さんの記憶を取り戻すためにやった修行でもあるからなあ。記憶が戻ったなら、あとは好きにするがいいさ」
「ふむ。試練は通ったとみてよい、と。では、話をつけてきますね」
火の番をしている三鍋と、その横で話を続ける琴科さんへと歩みを進める。大きな寸胴鍋の中にはごろごろとした野菜が煮立っていて味噌の香りが漂っていた。良い、実に良い。山形の名物である芋煮会を思いだす。この素朴さが良い。
っと、そうじゃない。今話をするべきは、三鍋の今後だ。
「やあ、白井君。今ちょうど君の話をしていたんだ」
「どうせ私の悪口でも言い合っていたのでしょう」
「いいや、逆さ。僕は仕事における君の重要性を。三鍋君からは君の鍋師としての輝かしい経歴を」
「悪口よりタチが悪いので即刻やめてください」
「やめたいのは山々だが、口が勝手に動いてしまうのだよ」
「三鍋。その煮えてる芋、一つ放り込んでやって。その、大きめのやつ」
琴科さんが両の手のひらを上にあげてやれやれとポーズを取る。腹立たしいなこの天狗。人を喰ったような態度に磨きがかかっている気がする。これが琴科さんの本性だとでもいうのだろうか。
琴科さんが愉快そうに笑いながら、私たちに礼を述べる。
「二人には感謝しないといけない。僕の長年の悲願が叶ったからね」
「何かしたつもりもありませんが」
「三鍋君は知っているだろうが、僕は天狗を探していてね。ついに見つけたのさ。あの晩の白井君はまさに天狗だった。傲岸不遜な態度、丁々発止な言葉の投げ様、直王邁進たる鍋の振る舞い。どれをとっても天狗に相応しかった」
「大変不名誉な栄誉をいただいておりますね。即刻辞退を希望します」
「それは残念だ。しかし気付きを得た。人は誰でも天狗になれる。天狗を探すのではなく、僕自身が天狗になれば良いのさ。だから、白井君を師と仰ごうかと思ってね」
「はい破門」
しょうもない天狗談議をしにきた訳ではないのだ。私は三鍋と話をつけなければ。
寸胴鍋の中身をぐるりとかき混ぜ、三鍋は一つ「うむ」と頷く。
「カタコよ。そろそろ良い塩梅だぞ」
「その言い方やめてったら。恥ずかしいんだから」
「二人の時だけの呼び名、というやつかな?」
「いやもうほんと黙ってください自称天狗は!」
けらけらと琴科さんが笑う。ええい、話が一向に進まんじゃないか。
三鍋は、私の記憶をもとに戻すために来た。それが叶った今、私の家に居座る必要はないんじゃないのか。そういう話をしに来たのに。
「三鍋、あんたこれからどうするの?」
「やることなど変わらぬ。俺は鍋師だ。これからも鍋師として精進を重ねることに何の憂いもない」
「そういう今後じゃなくて……んもう」
「時に白井君。鍋師の名はすべて焼物の名からきているのだろう? 伊賀は忍者では?」
「マイナーではありますが、ちゃんと伊賀焼があります。確かに伊賀忍の方が有名ですが」
「なるほどそうだったのだね」
「だからそうじゃなくて! 私は三鍋に話を――」
三鍋への言葉を遮るように、広場の向こうから声が投げられる。
竹内ちゃんが手を振って帰ってきた。
「香奈子センパーイ! お、お客様ですー!」
「あ、はいはい、よかった。来てくれないかと思った」
視線を向けると瀬戸の鍋師、静美さんがいた。こちらと目を合わせると、少しバツが悪そうに顔を背けてから、ふるふると首を振ってもう一度こちらを見る。それからゆっくりとこちらへと歩いてきてくれた。
「お招き……ありがとう」
「そんなに固くならなくてもいいのに。同じ鍋師なんだから」
「どんな顔で来たらいいかとても悩みましたのよ。その、あなた達に酷いことをしてしまったのですから」
そんな困った顔をされてもな。私としては、少し親睦を深めたいなと思っただけなのに。別に催眠の一つや二つ気にしない。世の中は理不尽なものなのだから、我が家の居候ニートが誘拐されて催眠にかけられる可能性というものも、少なからずあるのだろう。可能性があるのならば、それは起こっても不思議ではないのだ。
「先日ね、静美さんに言い忘れたことがあって」
「なんでしょう?」
「まあ、鍋でも食べながら話しましょ。もうすぐ出来上がるから」
鍋は大勢で囲むのが良いのだ。
○ ○ ○
キャンプに使うような折りたたみ式のチェアーを並べ、テーブルを囲む。シンプルな木の器に盛られた鍋の中身を前に、社長が口を開いた。
「ちょいとゴタついたが、まあ、その、あれだ。泰山鳴動して鍋師一匹。新たな社員が一人増えただけのこったから、大げさに考えず緩く鍋でも食おうや」
「新たな社員? 何のことですか社長」
「おや、白井君は聞いていなかったのかな?」
「センパイはとっくに知っているんだとばかり……」
「え、なに? みんな何か知ってるの? どういうこと?」
すっくと三鍋が立ち上がり、深々と礼をする。
「お世話になりま――」
「聞いてません聞こえません聞きたくありません。え、ちょっと、え?」
社長以下、琴科さんや三鍋がからからと笑う。
知ってて隠してやがったなこの野郎。
「本当に、賑やかな会社ですのね」
「心労が増える気しかしない……。私、静美さんのところに転職してもいい?」
「ふふ、お断りいたします。弊社では扱いかねますので」
「私を珍獣か危険物だと思ってない!?」
まったく、みんなして私を何だと思っているのだ。理不尽。あまりにも理不尽が過ぎる。一度や二度の意趣返しで足りるものではない。しっかりと根に持つからな男性陣。
「時に、香奈子さま。先日わたくしに伝えそびれたこと、というのは?」
「いやいや。もっとくだけた呼び方を――まあいいや、本題本題。鍋師にとって、いや、うん、鍋奉行にとって大事なことをお伝えしていなかったなと思って」
「鍋奉行にとって、ですか。やはり作法ではありませんか?」
「それも大事だけどね。修行して、鍋奉行になって、それを忘れて、また思いだして。それでやっと気づいたことがあってさ」
目の前の光景を見る。ただ、野外で集まって何の変哲もない食事をしようとしているだけの日常を。
初代鍋師、松永義鍋は言った。鍋の底は、涅槃と繋がっている、と。作法を究めていけば、ぐずぐずに煮溶けた野菜くずとともに鍋に溶けて悟りをひらくことができると。
まっぴらごめんだ。
悟りをひらいたところで、つまるところ、そこは一人の世界でしかない。
鍋師にとって、必要なこと。
鍋奉行にとって必要な、たったひとつのこと。
「一緒に、鍋をつつける相手がいること。それだけで、いいんじゃないかなあ」
いくら美しい作法であったとて、見せる相手がいなければどうしようもないし、料理は食べる人がいてはじめて料理足り得るものだ。作法やしきたりは、つまるところ食べてもらう相手を思ってのものなのだから。
「でもま、現実問題として後継者とかの問題はあるけどね」
「左様でございますね。ではまず、この場の鍋を皆様と楽しませていただきましょう」
「うん、そうしましょ。この場にはほら、鍋師に関わる人しかいないわけだし。気も楽でしょ」
「僕と竹内嬢はいつの間に鍋師界隈に引き入れられたのかな?」
「師匠の身内であれば半分は鍋師みたいなものです。琴科さんはほら、私と静美さんと三鍋の三人で作った鍋を食べたのです。これはもう琴科さんも鍋師といって差し支えないでしょう」
「なんとも理不尽なものだね」
「世の中は、理不尽で八割ほど占められていますので」
鷹揚に笑う琴科さんにつられ、皆笑った。
もうすぐ、夏が来る。
○ ○ ○
場が解散となり、それぞれが帰路に着く。夕暮れを背に、私と三鍋は同じ方角へと歩いていた。
まあ、当然だ。家が一緒なのだから。そうだ、結局これからのことを決められなかった。
「ねえ、三鍋」
「どうした」
なんと言えばいいのだろう。出ていくのか、問うのもなんだか違う気がするし、別に出て行って欲しいわけでもない。ただ、なんとなくふわふわとしたこの状態にやきもきしているだけなのだ。
質問に困ったので、思いついたことを口にして場を繋ぐことにする。
「結局さ、あんたが食べたいものって何? ほら、鍋師になるきっかけとか言ってたやつ。記憶が戻っても、それは思いだせないっていうか、私、元々知らないんじゃない?」
「そうだな。言ったことは無かった」
「遠慮せずに教えてよ。一緒に食べましょ」
「玉子焼きだ」
「うわ、普通。なんでまた」
「最後まで聞け。俺は、カタコの作った玉子焼きが食いたいのだ。一度、作ってくれたことがあったろう」
「あったっけ? あ、記憶消しの薬膳食べる前に作ったわね。思い出した」
「これが最後の晩餐にならぬように心せよとも言ったな。一時たりとも、あの味を忘れたことはない」
「大袈裟ねえ。それくらい、毎日だって作ってあげるわよ。こうして記憶も戻ったことだし」
数秒の沈黙が流れた後、私は何やら自分がとんでもない事を言った気がして三鍋を見た。少し後ろで立ち止まって、目を丸くしてこちらを見ている。
「あー! 違っ、あの、そういう意味じゃなくて……いやでも別にほんと卵焼きくらい、パパッと作れるって話で! ほら、じゃあ代わりに三鍋が私に味噌汁を毎日作るってのはどうかしら!? ほら、これで対等! イコール! イーブン!」
そこまで言って、私は語るに墜ちたことに気が付いた。もはや頭の中が真っ白になり声も出せない。
口をぱくぱくさせる私を見て、夕暮れ空に向かって三鍋が大きく笑った。ゆっくりと歩いてきて、私の横に並ぶ。
「香奈子」
「……なによぅ」
羞恥に耐える私に向かって、三鍋が優しく、そしてはっきりと名を呼んだ。
「その契約、乗った。末永く、よろしく頼むのである」
夕日を背にして、私たちの影は一つに重なって長く伸びていた。
清々しい休日だ。
風が丸く緑を孕み、ひらけた空間を抜ける。
えんとつフーズ所有の、小さな敷地。そこに集まっているのは、鍋師筆頭に関係者数名。
後藤さんが担当していた企業相手。いつか二人で営業に行った個人経営の卸し農場。以前の相談内容では、卸し相手を増やす案が欲しいと言っていた。
そのアンサーとしてこちらから提案したのが、体験型のイベントを開催してはどうかというものだった。野菜の収穫体験や、それをその場で食べるなどのイベントを通して、まずは会社そのものの認知度を上げることを提案したのだ。
その準備、いわゆる試金石として我々が道具を持ち込み、食材をえんとつフーズから買い取り敷地のレンタル料を払うことで鍋をしてみることにした。
とどのつまり、会社の危機を乗り越えたお祝いと称しバーベキューを鍋で代用してわいわいやろうというわけだ。
「いやあ、晴れましたね師匠」
「今まで通り社長と呼んでくれて構わんぞ」
そうは言ってもなあ。鍋師としての記憶を取り戻した以上、社長が元土流の師匠であるのは事実で。事実は認めなければならんからなあ。
野外ということもあり、ばかでかい寸胴鍋を、コンクリートで簡易的に組んだ竈門に乗せて火をくべている。繊細さを求める、しきたりを重視する土鍋もいいが、野趣に富んだ豪快なものもいい。
「香奈子センパイ! 火の様子は伊賀さん、あ、えっと三鍋さんが見ててくれるそうです! 次は何をしましょうか!」
「ありがとう。座ってて大丈夫よ。基本的に今回悪いのは三鍋だからね。あいつが瀬戸の連中に攫われなければ騒動になんかならなかったんだから」
三鍋が姿を消した日、食材の買い出しに行った先でころっと攫われて記憶を消されたというのだ。鍋師たるもの、常に誘拐に備えて気を張って然るべきだというのに。易々と背後を取られてどうする。
そんな三鍋に琴科さんが歩み寄っていく。何を話しているかは分からないが、にこやかに盛り上がっている。
「あの二人、やっぱり似てますよね」
「んー、まあ、どっちも変人だからね。ああいうのに騙されちゃだめよ竹内ちゃん」
「……センパイはしっかり騙されてるくせにー」
「私も変人寄りだからいいの」
くすくすと、竹内ちゃんが笑う。
あの騒動から後、私が鍋師であったことを告げ、記憶を無くすことにした経緯も、それを取り戻したこともそっくり伝えてあった。
彼女は唇を尖らせて、「私に内緒にしてたの、ずるいです。もう秘密は無いですか。今なら白状しても許してあげますよ」と拗ねる真似をしてみせた。控えめに言って、とてもかわゆかった。記憶が無かったんだから、内緒にしていた訳ではないのだ。そうとも、そうですとも。
「んもう。大和田さんのフォロー、大変なんですからね」
「いやはや、面目ない。本当に好意を向けられてるなんて思ってなくてさあ。ほんと、恩に着ます」
「分厚い恩ですよ。しっかり着込んでくださいね」
「初夏が過ぎればどんどん暑くなるからなあ。脱いでもいい?」
「だーめーでーす」
屈託なく笑い合うような仲になれたことは、とても嬉しいことだ。ぎくしゃくしなくて本当によかった。関係というものは変わっていくもので、良い変化は良い人生に繋がるものだ。私の鍋にもさらに深みが増すに違いない。
「あ、そうだ。えんとつフーズの社長さんに、炭の処理どうしたらいいか聞いてきてくれない?」
「わっかりました!」
ぺこりとお辞儀して、とてとてと走り去る彼女はどこまでもかわゆい。
結果として、データ盗難の件は内密のうちに取り下げになり、こちらの流派から若淡流へ特に申し立ても行わなかったので、今のところ平穏な鍋師生活を送っていられる。
ふと、確認したいことを思い出した。師匠、いや社長? どちらで呼ぶか悩みどころだな。社長にしておこう。隣にいる社長にたずねる。
「社長。三鍋の試練とやら。あれはどう処理をつければ?」
「何のかんのあったが、お前さんの記憶を取り戻すためにやった修行でもあるからなあ。記憶が戻ったなら、あとは好きにするがいいさ」
「ふむ。試練は通ったとみてよい、と。では、話をつけてきますね」
火の番をしている三鍋と、その横で話を続ける琴科さんへと歩みを進める。大きな寸胴鍋の中にはごろごろとした野菜が煮立っていて味噌の香りが漂っていた。良い、実に良い。山形の名物である芋煮会を思いだす。この素朴さが良い。
っと、そうじゃない。今話をするべきは、三鍋の今後だ。
「やあ、白井君。今ちょうど君の話をしていたんだ」
「どうせ私の悪口でも言い合っていたのでしょう」
「いいや、逆さ。僕は仕事における君の重要性を。三鍋君からは君の鍋師としての輝かしい経歴を」
「悪口よりタチが悪いので即刻やめてください」
「やめたいのは山々だが、口が勝手に動いてしまうのだよ」
「三鍋。その煮えてる芋、一つ放り込んでやって。その、大きめのやつ」
琴科さんが両の手のひらを上にあげてやれやれとポーズを取る。腹立たしいなこの天狗。人を喰ったような態度に磨きがかかっている気がする。これが琴科さんの本性だとでもいうのだろうか。
琴科さんが愉快そうに笑いながら、私たちに礼を述べる。
「二人には感謝しないといけない。僕の長年の悲願が叶ったからね」
「何かしたつもりもありませんが」
「三鍋君は知っているだろうが、僕は天狗を探していてね。ついに見つけたのさ。あの晩の白井君はまさに天狗だった。傲岸不遜な態度、丁々発止な言葉の投げ様、直王邁進たる鍋の振る舞い。どれをとっても天狗に相応しかった」
「大変不名誉な栄誉をいただいておりますね。即刻辞退を希望します」
「それは残念だ。しかし気付きを得た。人は誰でも天狗になれる。天狗を探すのではなく、僕自身が天狗になれば良いのさ。だから、白井君を師と仰ごうかと思ってね」
「はい破門」
しょうもない天狗談議をしにきた訳ではないのだ。私は三鍋と話をつけなければ。
寸胴鍋の中身をぐるりとかき混ぜ、三鍋は一つ「うむ」と頷く。
「カタコよ。そろそろ良い塩梅だぞ」
「その言い方やめてったら。恥ずかしいんだから」
「二人の時だけの呼び名、というやつかな?」
「いやもうほんと黙ってください自称天狗は!」
けらけらと琴科さんが笑う。ええい、話が一向に進まんじゃないか。
三鍋は、私の記憶をもとに戻すために来た。それが叶った今、私の家に居座る必要はないんじゃないのか。そういう話をしに来たのに。
「三鍋、あんたこれからどうするの?」
「やることなど変わらぬ。俺は鍋師だ。これからも鍋師として精進を重ねることに何の憂いもない」
「そういう今後じゃなくて……んもう」
「時に白井君。鍋師の名はすべて焼物の名からきているのだろう? 伊賀は忍者では?」
「マイナーではありますが、ちゃんと伊賀焼があります。確かに伊賀忍の方が有名ですが」
「なるほどそうだったのだね」
「だからそうじゃなくて! 私は三鍋に話を――」
三鍋への言葉を遮るように、広場の向こうから声が投げられる。
竹内ちゃんが手を振って帰ってきた。
「香奈子センパーイ! お、お客様ですー!」
「あ、はいはい、よかった。来てくれないかと思った」
視線を向けると瀬戸の鍋師、静美さんがいた。こちらと目を合わせると、少しバツが悪そうに顔を背けてから、ふるふると首を振ってもう一度こちらを見る。それからゆっくりとこちらへと歩いてきてくれた。
「お招き……ありがとう」
「そんなに固くならなくてもいいのに。同じ鍋師なんだから」
「どんな顔で来たらいいかとても悩みましたのよ。その、あなた達に酷いことをしてしまったのですから」
そんな困った顔をされてもな。私としては、少し親睦を深めたいなと思っただけなのに。別に催眠の一つや二つ気にしない。世の中は理不尽なものなのだから、我が家の居候ニートが誘拐されて催眠にかけられる可能性というものも、少なからずあるのだろう。可能性があるのならば、それは起こっても不思議ではないのだ。
「先日ね、静美さんに言い忘れたことがあって」
「なんでしょう?」
「まあ、鍋でも食べながら話しましょ。もうすぐ出来上がるから」
鍋は大勢で囲むのが良いのだ。
○ ○ ○
キャンプに使うような折りたたみ式のチェアーを並べ、テーブルを囲む。シンプルな木の器に盛られた鍋の中身を前に、社長が口を開いた。
「ちょいとゴタついたが、まあ、その、あれだ。泰山鳴動して鍋師一匹。新たな社員が一人増えただけのこったから、大げさに考えず緩く鍋でも食おうや」
「新たな社員? 何のことですか社長」
「おや、白井君は聞いていなかったのかな?」
「センパイはとっくに知っているんだとばかり……」
「え、なに? みんな何か知ってるの? どういうこと?」
すっくと三鍋が立ち上がり、深々と礼をする。
「お世話になりま――」
「聞いてません聞こえません聞きたくありません。え、ちょっと、え?」
社長以下、琴科さんや三鍋がからからと笑う。
知ってて隠してやがったなこの野郎。
「本当に、賑やかな会社ですのね」
「心労が増える気しかしない……。私、静美さんのところに転職してもいい?」
「ふふ、お断りいたします。弊社では扱いかねますので」
「私を珍獣か危険物だと思ってない!?」
まったく、みんなして私を何だと思っているのだ。理不尽。あまりにも理不尽が過ぎる。一度や二度の意趣返しで足りるものではない。しっかりと根に持つからな男性陣。
「時に、香奈子さま。先日わたくしに伝えそびれたこと、というのは?」
「いやいや。もっとくだけた呼び方を――まあいいや、本題本題。鍋師にとって、いや、うん、鍋奉行にとって大事なことをお伝えしていなかったなと思って」
「鍋奉行にとって、ですか。やはり作法ではありませんか?」
「それも大事だけどね。修行して、鍋奉行になって、それを忘れて、また思いだして。それでやっと気づいたことがあってさ」
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まっぴらごめんだ。
悟りをひらいたところで、つまるところ、そこは一人の世界でしかない。
鍋師にとって、必要なこと。
鍋奉行にとって必要な、たったひとつのこと。
「一緒に、鍋をつつける相手がいること。それだけで、いいんじゃないかなあ」
いくら美しい作法であったとて、見せる相手がいなければどうしようもないし、料理は食べる人がいてはじめて料理足り得るものだ。作法やしきたりは、つまるところ食べてもらう相手を思ってのものなのだから。
「でもま、現実問題として後継者とかの問題はあるけどね」
「左様でございますね。ではまず、この場の鍋を皆様と楽しませていただきましょう」
「うん、そうしましょ。この場にはほら、鍋師に関わる人しかいないわけだし。気も楽でしょ」
「僕と竹内嬢はいつの間に鍋師界隈に引き入れられたのかな?」
「師匠の身内であれば半分は鍋師みたいなものです。琴科さんはほら、私と静美さんと三鍋の三人で作った鍋を食べたのです。これはもう琴科さんも鍋師といって差し支えないでしょう」
「なんとも理不尽なものだね」
「世の中は、理不尽で八割ほど占められていますので」
鷹揚に笑う琴科さんにつられ、皆笑った。
もうすぐ、夏が来る。
○ ○ ○
場が解散となり、それぞれが帰路に着く。夕暮れを背に、私と三鍋は同じ方角へと歩いていた。
まあ、当然だ。家が一緒なのだから。そうだ、結局これからのことを決められなかった。
「ねえ、三鍋」
「どうした」
なんと言えばいいのだろう。出ていくのか、問うのもなんだか違う気がするし、別に出て行って欲しいわけでもない。ただ、なんとなくふわふわとしたこの状態にやきもきしているだけなのだ。
質問に困ったので、思いついたことを口にして場を繋ぐことにする。
「結局さ、あんたが食べたいものって何? ほら、鍋師になるきっかけとか言ってたやつ。記憶が戻っても、それは思いだせないっていうか、私、元々知らないんじゃない?」
「そうだな。言ったことは無かった」
「遠慮せずに教えてよ。一緒に食べましょ」
「玉子焼きだ」
「うわ、普通。なんでまた」
「最後まで聞け。俺は、カタコの作った玉子焼きが食いたいのだ。一度、作ってくれたことがあったろう」
「あったっけ? あ、記憶消しの薬膳食べる前に作ったわね。思い出した」
「これが最後の晩餐にならぬように心せよとも言ったな。一時たりとも、あの味を忘れたことはない」
「大袈裟ねえ。それくらい、毎日だって作ってあげるわよ。こうして記憶も戻ったことだし」
数秒の沈黙が流れた後、私は何やら自分がとんでもない事を言った気がして三鍋を見た。少し後ろで立ち止まって、目を丸くしてこちらを見ている。
「あー! 違っ、あの、そういう意味じゃなくて……いやでも別にほんと卵焼きくらい、パパッと作れるって話で! ほら、じゃあ代わりに三鍋が私に味噌汁を毎日作るってのはどうかしら!? ほら、これで対等! イコール! イーブン!」
そこまで言って、私は語るに墜ちたことに気が付いた。もはや頭の中が真っ白になり声も出せない。
口をぱくぱくさせる私を見て、夕暮れ空に向かって三鍋が大きく笑った。ゆっくりと歩いてきて、私の横に並ぶ。
「香奈子」
「……なによぅ」
羞恥に耐える私に向かって、三鍋が優しく、そしてはっきりと名を呼んだ。
「その契約、乗った。末永く、よろしく頼むのである」
夕日を背にして、私たちの影は一つに重なって長く伸びていた。
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◇ ◇ ◇ ◇
💛画像はAI生成画像 自作
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