鍋奉行に必要な、たったひとつのこと

三衣 千月

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第6話-2 居候が消えた日のこと

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 思考がまとまらず、何を考えて良いかもわからないまま、オフィスへと戻る。
 竹内ちゃんは無言のままだ。美和子さんが私たちの間に流れる淀んだ空気に気が付いたのだろう。私と同じように、何を言ったものかという顔をした。そうだ、黙っていても仕方がないのだ。

「社長はほら、大丈夫って言ってたから、大丈夫よ。ね? 私たちは普段通り仕事しましょ」

 大丈夫。大丈夫。データを盗んだのなんだの、きっとデタラメに決まってる。
 お昼になったら河内さんや筒井さんも戻ってきて、事実無根だってことが判明するはずだ。うん。きっと、きっとそうだ。お仕事のトラブルなんか、パパっと解決するに決まっている。

 竹内ちゃんが無言のまま、私を見て少し目を丸くしている。
 美和子さんも同じような表情をしてから声をかけてくれた。

「白井さん……?」
「大丈夫ですよ美和子さん! ほら、まだまだ仕事は残ってますよ! 琴科さんも戻った戻った!」
「そうだね。僕は速やかに戻るとしよう」
「……そうね、分かった。あなた達はお昼に行ってらっしゃいな。少し長めに。ね」

 美和子さんは竹内ちゃんの肩をぽん、と叩いて応接室の方へ消えていった。
 私の正面に位置を移した可愛らしい後輩は、袖をくいと引っぱって何も言わずに給湯室まで私を連行した。

「ちょ、ちょっと、どうしたの」
「いいからこっち来てください!」

 いつもなら、軽口なんかも出てくるだろうし、積極的な竹内ちゃんの行動にトキメキの一つや二つ感じてもおかしくないシチュエーションだけれど、何も言えなかった。

「あ、あの、竹内ちゃん? 早く戻らないと、仕事――」
「だって、香奈子センパイ、泣いてます」
「……え?」

 そこで初めて、頬を伝っていたものを知覚した。
 堰を切ったように、私の意思とは無関係に嗚咽がこぼれだす。



   〇   〇   〇



 なんとも、いやはやなんとも情けないところを見せてしまった。
 竹内ちゃんは私が泣き止むまでずっとそばにいてくれて、冷やしたハンカチを私の目に当ててくれさえしたのだ。なんだ、この天使のようないきもの、いや、天使そのものは。

 崩れに崩れたメイクを直し、少し腫れてしまった目の周りを厚く隠す。
 美和子さんに言われたこともあり、そのまま二人で会社近くの喫茶店へ行って、いろいろ話をした。どんなドラマが好きだとか、好みのタイプはどうだとか、本当に、他愛もない話を。そして私は、私の周りに降りかかった鍋師のあれこれをすっかり白状した。

「ずるいです、香奈子センパイ」
「え、嘘、どうして!?」
「先に泣かれたら、責めることもできないじゃないですか」
「ごめんね。まさか自分が泣いてるなんて思ってもなかった」

 三鍋が修行のために居候していることも、お弁当が三鍋製であったことも、急に姿を消したことも包み隠さず。

「鍋師なんて、初めて聞きましたよ」
「私も実在するなんて思ってなかった。でもまあ、こうなっちゃった以上、信じるしかないしなあ」
「まだ、伊賀さんのことが好きなんですか?」
「伊賀……あ、三鍋のことか。どうなんだろう。あんまり、好きだとかどうとかいう自覚はない、かな。それに、竹内ちゃんの憧れの人だから……」
「香奈子センパイを泣かせるような男は減点百ですっ」
「ふふ、何それ」

 気を遣って、元気づけてくれているのだろう。もうほんと、いやほんと申し訳ない。醜態だ。しかしそれが逆に彼女にとっては嬉しかったらしい。

「香奈子センパイが、完璧じゃないって思うと、なんだか親近感です」
「いやー、私は頼れる先輩でいたかったんだけどなあ」
「もちろん、頼れる素敵なセンパイです。おまけにカワイイ」
「ちょっとちょっと。冗談はやめてよ。竹内ちゃんの方が数兆倍カワイイんだから」
「いや比較のスケール壮大すぎません?」

 ゆっくりとお昼を済ませて戻ると、午前の営業やらを終わらせた組の人たちも戻ってきていた。オフィスの奥、美和子さんが応接室から手招きをしている。

 竹内ちゃんと顔を見合わせて中に入ると、社長、美和子さん、琴科さんが大きなテーブルを囲むように座っている。テーブルの上には、ノートパソコンが一台。
 なんの円卓会議ですかこれは。そもそも、データを盗んだどうこうの話が結局どうなったか、こちらは何も分からないのですが。

「まあ、座ってくれ」
「先ほどの客の件で、社長から白井君に頼みたいことがあるそうだ」
「悪巧みですか? 合法の範囲なら乗らせていただきますよ」

 よくよく考えてみれば、なぜこれ見よがしに奪い取ったかのような様を見せつけられねばならないのだ。三鍋はうちの食事担当ニートだぞ。しかも、本人希望で我が家に採用したのだから、私としては契約不履行を申し付けて多額の違約金を請求してもいいくらいだ。
 まあ、三鍋が途中で職務を放り出すなんて微塵も思っていなかったから、そんな時の契約など結んでいないが。我ながら、甘い契約だと思う。

 つまり何が言いたいかと言えば、正式な契約破棄を踏んでいない以上、あれはまだうちのニートなのだから、返却されてしかるべきだという話だ。

「まずは、向こうさんが持ってきたこの映像なんだがな」
「ウェルネスリビングに出向していたのは筒井さんと後藤さんですね。お二人はこのことは?」
「知らせる必要もない。どう考えてもあいつらはやってない。だが、映像証拠はしっかり残っている」

 社長はそう言ってノートパソコンで動画を再生した。先刻はこれを提示しにきたのだという。
 それは防犯カメラの映像で、日付、時間とともに、筒井さんが向こうの職場のパソコンからディスクを取り出し、懐にしまい込む様子が映っていた。

「……どう見ても、犯人の行動に見えますが、合成の可能性は?」
「さっき筒井君の机を漁ったら見事にデータディスクが出てきたよ、白井君」
「動かぬ証拠にも程がありますね」
「しかしなあ。本人に聞いても覚えてないと返ってくるに決まっとる」
「あのう、それは、筒井さんがシラを切るってことですか?」

 おずおずと竹内ちゃんが尋ねるが、社長は首を横に振る。

「いやいや、覚えてないのさ。本当にな」
「詳しくお聞きしても?」
「鍋師の事は、ある程度知っとるだろう。その秘伝の中にな、記憶を消す薬膳というものがある」

 そんな非現実的な。
 私はその言葉をぐっと飲み込んだ。事実、三鍋は私のことを忘れているようだった。事実は、認めなければいけない。たとえそれがどんなに理不尽であろうとも、だ。

「何のためにそんなものが……」
「まあ、要点だけで言えば、鍋師の作法に必要な時もあってな。だが、連中の狙いは、会社ではなく鍋師としてのうちの流派を消すことだ。手段を選ばん連中でな。見事に薬膳を悪用しとるんだろう。こういう絡め手がやけに上手い。記憶を消した上で、ある種の催眠に近いことをやってのける。筒井も三鍋も、それにやられたんだろう」

 だから、現実的、かつ社会的な方法では明らかに相手に分があり、他の方法をとる必要があると言った。
 どさりとソファに体を沈めて、社長は息を吐いた。

「鍋師のことは、他には何か知っとるか?」
「三鍋が、鍋奉行抱えの鍋与力だというところくらいでしょうか」
「センパイ、何ですかその呪文みたいな言葉」
「あいつがね、鍋師の見習いだって話よ」
「そうだったんですか」

 こくりと頷き、社長はしばらく天井を見た。何か、迷っているような気配がする。この場にいる面々の中で、鍋師のことをはっきりと知らないのは竹内ちゃんと琴科さんの二名だろう。社長はどうやら姪っ子である彼女にはその内情を隠していたようだ。さっき知ってることは全部話してしまったが。

「ああ、そういえば。一つお尋ねしますが、三鍋の師匠は、社長だということでよろしいですか」
「……そうだな。間違いない。私が十二代目、元土もとつち流の家元だよ」
「鍋師のシステム面について色々と口をはさみたいところですが、つまるところ、私はどうすれば?」
「三鍋を取り戻してきてくれんか」
「分かりました。それで事態が解決するなら」
「あのぅ……」

 再びおずおずと、竹内ちゃんがかわいく手を挙げる。

「伊賀さん……みなべ、さん? の、お名前が違うのはどうしてですか?」
「そういえばそうね」

 社長の方へ顔を向けると、渋面を作って目を閉じている。
 つまりこれは、言いたくないとかそういう類の事なのだろう。

 そういえば、あの蛇みたいな女も、鍋師としては瀬戸だが、普段の名前は朝に電話で名乗ってきた真田という名なのだろう。
 つまり、だ。

「ふむ。伊賀、というのは、三鍋君が鍋師として活動する際の名、だということですね」
「ちょっと琴科さん。私の推理を横から奪わないでいただけますか」
「いいじゃあないか。減るものでもないし」
「名前が、変わるものなんですか……?」
「それほど不思議なことでもないよ、竹内嬢。落語やら華道、茶道の世界なんかでも、師の名前を継いだりするものだろう」
「ああ、なるほど!」

 この天狗め、いいところだけ持って行きやがった。
 社長が渋い顔をしたままそれに頷いている。

 ああ、そうか。

 確か、第三者に鍋師としての名(確か鍋号と言ったか)がバレてはいけないという話だった。まあ、有事の例外ということでご容赦いただきたいところではある。そもそも、鍋師を知らない竹内ちゃんに堂々と名乗っている時点で矛盾してはいまいか。その時点で三鍋は鍋師の資格を失うのではないか。

「竹内ちゃんに、伊賀の名を知られていることは問題なかったのですか?」
「問題と言えば問題だがなあ。まあ、所詮な、古い伝統だからな。公式の場でなければ、屁理屈なんぞいくらでも捏ねられる。身内なんざ、半分鍋師みたいなもんだろうよ」
「呆れるほど縛りの緩い伝統ですね」
「伝統ってな、そんなもんさ」

 なるほど、強制力のないしきたりならば何とでも言いようはあるのか。それじゃあ、三鍋の催眠とやらを解くのが最も手っ取り早そうではある。
 具体的な方法は、ちょっと思いつかないけれど。社長には何か策があるのだろうか。私に頼みたいと言ったくらいだから、あるのだと思いたい。

「それで、社長。三鍋を取り戻す算段はどのように?」
「居場所は分かる。策は、ない」
「え」

 その状態でどうしろと言うのだ。
 え、いやちょっと待てそれ以前に場所は分かるってのはどういうことだ。あ、分かった。今分かった。社長も変人だった。
 そうだな。三鍋の師匠だもんな。深く考えてはいけないと思うので、伝家の宝刀を抜かせていただこう。うん、鍋師だもんな。しょうがない。

「あ、あの、場所がどうしてわかるんですか?」
「それは言えん」

 そうよね。気になるわよね竹内ちゃん。私も気になる。でもね、気にしてはいけない所なの。それが鍋師とうまく折り合いをつけるコツなのよ。
 何事か考え込んでいた琴科さんが、ふむ、と一つ呟いて立ち上がった。

「ちょっと、タバコ吸いにいかないか白井君」
「え、いや私、非喫煙者ですけど」
「いいからいいから」

 応接室から顔を出して、自称天狗の末裔がオフィス内を見渡す。

「ああ、いたいた。おうい、河内君」
「なんです、琴科さん」
「ちょっとタバコ吸いに行こう」
「はあ」

 なんの脈絡もない一服に連行される。タバコを吸いにいけば解決策が出てくるとでもいうのか。まったくもって理解に苦しむ。理論的な説明を要求する。色んなことが起こり過ぎて、もうなされるがままだ。
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