彼と彼女の選択

沢 美桜湖

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彼女の

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**************





「…湊…」

やっとの思いで出た声は小さく彼の名をつぶやいていた。

彼のこのまっすぐな眼差しを、わたしは一生忘れないだろう。


泣いてしまうのは卑怯だから……。
やさしい彼を困らせてしまうから…。


震えてしまう唇をきゅっとかみ締める。



彼の右手が伸びてきて、わたしの頬に触れた。いつものように………。

温かい彼の手に安堵と、胸の痛みを感じながら、目を閉じて大きく息を吸い込んだ。


今目を開けば、まっすぐな彼の瞳に吸い込まれそうになるだろう。その胸に飛び込んでしまいたい衝動に駆られるだろう。

だから目を閉じたまま、彼の手に触れた。大好きな彼の大きな手。この指先さえも愛おしいのに。

放さなければならない。

自分で決めたこと。これが二人の決断。



ゆっくり息を吸って、目を開けた。










*******************











「香奈子」

雑踏の中、ふいに名前を呼ばれ立ち止まった。


歩き出そうとしていた足が地面に張り付いたように動かない。

懐かしい声で。
昔よりも少し低くなった声で。
呼ばれた名前。
ざわめく喧騒の中だというのに、見なくてもすぐに誰だかわかってしまった。だからこそ振り返ることを躊躇した。


なんで? え? どうして?


頭の中でハテナが渦巻く。


ありえないよね?






久しぶりに友達と夕飯を食べに行った帰り。まだ八時前だというのに
「ごめん!彼が来る予定なのよー。」
と、長年の友人・愛美はレストランを出たところでひとりさっさと帰ってしまった。

愛美から
「たまには贅沢におしゃれなバーに行ってみようよ。」
と誘われ、貴重な週末におしゃれして出てきたのに!とんだ裏切り行為だ。しかも当初の目的のバーにも行っていない。
本当なら今日はDVDでも見ながらのんびり過ごすつもりだったのに!と、文句を言いながらも、折角おしゃれなワンピースにハイヒールでテンション上げて出てきたというのに、こんなに早く帰るのはもったいない気がして、さてどうしようか?と、悩んでいたときだった。
そう、声をかけられたのは。


「香奈子?」
もう一度名前を呼ばれて。
思わず振り返れば・・・。

行き交う人のなかで、たたずむ長身の人。
あの頃と変わらない優しい笑顔の彼がいた。



「…みなと……。」


情けなくもかすれた声しか出てこなかった。心臓が痛い。ドキドキと脈打ってるのが自分でよくわかる。
彼の名をつぶやいたまま、その先が出てこなかった。


「香奈子」


あの頃と変わらない笑顔。


近づいてくる彼を見ながら、あ、少し目じりのしわが深くなってる、なんて考えている冷静な自分とは反対に、胸の高鳴りを抑えられないもう一人のわたしがいた。






「久しぶり。元気そうだな。」
懐かしいこの笑顔。優しい笑顔。目の前に立った湊にドキドキが激しくなっていく。

私…顔が真っ赤だきっと

「うん…湊、久しぶりだね・・・。」
彼の変わらない眼差しを見上げながら、声をしぼりだした。




あれ?なんでこんなに緊張してるの、わたし? 












別れてから6年。
あっという間に過ぎてしまった…





もう6年…


わたしが23歳の頃。

湊の海外転勤が決まり、別れを選んだ。
結婚してついて行く、という選択肢もあったが、仕事の面白さを知り始めた当時のわたしにとってそれは苦渋の選択だった。彼も理解してくれていて無理について来いとは言わなかったし、たとえ遠距離恋愛を選んでいたとしても、さみしがりやのわたしたちはきっとお互いに傷つけあうだけでダメになっていただろう。


湊を心から愛していた。


でも
だからこそ
 別れ がそのときのわたしたちに出来る唯一の、精一杯の愛し方だった   と、わたしは思う。



別れた後も湊を忘れられなかった。
でも、今でもあの時の選択は間違ってはいなかったと信じている。
いや、今確信した。
目の前にいる湊はとても素敵だから。きっと充実した時間を過ごしてきたのだろう。

素直に言える。あの時、別れを選んだわたしたちは間違っていなかったと・・・・。







破裂しそうなほどのドキドキを無理やり笑顔の下に押し込めて、大人の対応!と自分に言いきかせる。

「元気そうね。こっちに戻ってきてるの?」
「いや…、3週間だけ仕事の都合で戻ってきたんだ。またすぐトンボ帰りさ。」
そう言って、湊は相変わらず日に焼けた顔で苦笑いしながら、わたしの頭に手を置きぽんぽんと撫でた。胸がキュッと締め付けられる。


少し低くなった声。心地よい響き。大きくてあたたかな手。
胸が苦しいのはこの声のせい?それとも触れてくるこの指先のせい?

まずい。顔が上げられない。きっとわたしの顔は赤くなっているだろうから。




な、何か話さなきゃ
えっと、えーっと



目を泳がせながら話題を探す。

「今もアメリカにいるの?」
やっとの思いで声をだした。
「うん、今は東側だけど。」
「そう。仕事、順調そうだね。」
「ああ、おかげさまで。」
にっこり笑う湊の顔が直視できず目をそらした。


ほら、素敵な笑顔
わたしたちの選択は間違ってなかったのよ



「なあ 香奈子。飯食った?」
「え? 何よいきなり。もう食べちゃったわよ。」
ニヤッと笑う湊。ドキっとした。

「俺今からなんだよ。つきあえよ。昔から大食いの香奈子ちゃん、まだ食えるだろ?」
「ちょっと!失礼ね!大食いじゃないわよ、人聞きの悪いこと言わないでよね。」
「いつも俺と同じくらい食ってたじゃないか。」
変わらない。六年ぶりなんて信じられない。

「な?」
そうだった。人懐っこいのは笑顔だけじゃなかった。押しの強さも昔のままだ。


どうしようか迷うわたしの顔を覗き込む優しい瞳。大好きだった笑顔。
本当は
考える必要なんかない。答えは決まっているのだから。

「もう、相変わらずね。もちろんおごってくれるんでしょうね?」
そう。わたし、この笑顔に弱いんだったっけ。

「そういう香奈子こそ、相変わらずのヘラズグチだな。」
そう言って、湊はあの頃のようにわたしの頭をわしゃわしゃとなでて髪の毛をぐしゃぐしゃにした。
「ちょっ! 何するのよ!もう!」
「あはははっ!これも久しぶりだ!」

あの頃のようにわたしも怒ったふりをしながら髪を手ぐしでなおした。
















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