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本編
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「…………やって、しまいましたわ……頭が……」
「あれだけ上機嫌で飲めばな」
隣から面白いものを見せてもらったとディートリヒ様の笑い声が聞こえました。
それすら、頭に響くのですが。
「……お水くださいます?」
「口移しでか?」
「申し訳ありませんが、それに対して辛辣な言葉を返せるほど頭が回っておりませんの」
それは重症だなと笑いながらディートリヒ様は寝台から出られました。
そばにあるコップに水を注ぎ持ってきてくれます。
わたくしはのろのろと起き上がり、コップを受け取って水を一口。喉に落ちるそれが少し気分を上向きにしてくれます。
「大丈夫か?」
「……気遣いありがとうございます」
「もう一泊してもいいが」
「いえ、大丈夫ですわ。どうせ馬車に乗っているだけですし」
水を一口ずつ飲めば目も覚めて、意識もはっきりしてきました。
頭痛はまだありますが、痛みは耐えられないほどではありませんしそのうち収まるでしょう。
それから朝食をとって、支度をしてわたくしたちは帰途につきました。
「大分、復調してきたな」
「ええ……」
「……俺がお前をこの旅に連れ出したのはな」
何か変わるかと思ってだと、突然ディートリヒ様は仰りました。
変わる? 何がですか。
「そもそもサレンドルとの話はどこでもできる。今回はお前を連れてこいという話だったんだが。それはあの女がいたからだったんだな」
まぁ、いいかと思って。お前が行きたくないと言うなら行かないつもりだったのだとディートリヒ様は仰います。
でも、言いたかったのはそれじゃないのでしょう?
わたくしが続きを、と視線で促すとディートリヒ様は笑いを零しました。なんでしょう、そんな柔らかな笑い方、気持ち悪いような恐ろしいような。
「お前を、あの学園で捕まえて、共に過ごした一週間があった」
「……ありましたわね」
「俺はあの時、色々と酷い事をお前にした」
あら、それは理解されていたのですね。
連れられてある屋敷に閉じ込められて。
そこで向けられたのはわたくしをなじる言葉ばかりでした。
お前が助けなかったせいだ、とか。救うことはできた、一言で変わっていた。
あの女もあの男も、お前ならば止めることも正すこともできたと。
その機会もあっただろうに、お前は何もしなかった。
何があったか、すべてを話せと言われても、わたくしが知っているのは断片的なことで。
皆様それぞれの感情がすべてわかるわけではありませんのにと思ったのです。
この方は何に怒ってらっしゃるのか。そう思って、そんな思いをしたくなかったのならば、させたくなかったのならば、外に出さなければ良かったのに。
そこまで大切にしたい相手だったのなら、ご自分のものにされたら良かったのにと、わたくしはそう。
笑ったのです。
それはディートリヒ様の地雷だったのでしょう。それをわたくしは綺麗に踏み抜いて、怒りを買ってしまったのです。
わたくしは面白がって彼女を貶めたわけではありません。
けれど、確かに。
助けることもできたけれど、そうしなかったのは事実でしたし。
怒りに満ちるこの方を、誰かが受け止めねばどうにもならないのだろうなと思って、受けて差し上げたのです。
ただ、わたくしに手をあげてそこで冷静になった部分もあったのでしょうけど。
「……口の中を切ったり、鼻血を出したりなんて子供の頃以来でしたわ」
「手を挙げたことは悪いと思っている、謝ったしもうしないと誓った」
「ええ。わたくしも怒って等いませんからお気になさらず」
そう言っても、わだかまりとしてこの方の内にはあの時の事が残り続けているのでしょう。
わたくしは本当に、もうそれは終わったことだと思っているのですがディートリヒ様にとってはそうではないのでしょう。
「失恋して気がたってらっしゃったんでしょう? 今までずっと、好きだと思って愛でていた方に好きな男がいる事を知って、その方はつらい悲しいと泣いて。逆に手が出せなかったのでしょう?」
「俺はな……お前に言うその失恋というのを、確かにセレン相手にしたんだろうな。ただ、もう恋などではなく家族として愛そうと、愛していると思っていたのにお前に掘り返された」
突かれたくないところに触れられて腹が立ったのだとディートリヒ様は苦笑して。
本当に、お前は嫌な女だったと仰いました。
「なぁに、それはわたくしが悪いと仰ってますの?」
「いや。俺の覚悟が甘かっただけだ」
「そうですか。それで、この辺りのお話からどういう風に、わたくしを旅に連れ出したに繋がりますの?」
それは、と言いかけて。ディートリヒ様はどう言おうかと零されました。
思案している様子に珍しいとわたくしは思うのです。
いつも、思案するふりはあってもその場でこうして、長く考える姿なんて見た事ないのですから。
「何か変わる、ではないな。俺は変えたいのだ、お前との関係を」
「何を仰っているのか、よくわかりませんわ」
わたくしと、ディートリヒ様の関係は。
王太子と王太子妃。それが上手く、問題なく機能するためにお互いがあるというもの。
互いに好き合う相手ができたならば、その相手と関係を持てばいい。互いはそれに干渉しないという約束をしてあります。
わたくしにもディートリヒ様にも、そんな方はいませんでした。
それでなし崩し的に関係を結んでいるところが無いとは言えませんけど。別に生理的な嫌悪があるわけではなかったのでわたくしはそれを受け入れました。
しかしそれは絶対ではないのでいつでも捨てることができるものです。
ディートリヒ様は、国のためにわたくしを使いたいと仰って。
わたくしは、わたくしが退屈しないのであればとその言葉に、誘いに乗ったのです。
わたくしの事が嫌いなくせに、この方はよくこんな提案ができるものねと思った覚えがあります。
それほど切羽詰まっている事情なのかしら、と。
そう、わたくしのような悪い女は傍に置いて見張っておかないと何をするかわからないとか。
そんなことも仰られていました。
始めは、確かに……そんなのだったのに。時折この方はわたくしに優しいので気持ち悪いと思っていたのです。
つまりは、わたくしに罵声を浴びせ、自らの淀みを吐き出して、そして自分がしたことを顧みてしまったのでしょうけど。
ああ、あれらに罪悪を感じるのなら、やはりこの方も普通の方だったのですね。
完全無欠、なんて言われてらっしゃるからもっと非道で、人を切り捨てるのがお上手だと思っていたわたくしの想像は。
そうではなかったと、気付いてはいたのですが見て見ぬふりをしていたのも、またわたくしなのです。
「俺は、お前を愛してみようと思う」
「気でも違いましたの?」
「いや、それも面白いかと思っただけだ」
お前はそれを受け入れてもいいし、そうしなくてもいい。
俺を愛してもいいし、愛さなくてもいい。
戯れのようにそう仰るのですが。ねぇ、どうして今、それをここでおっしゃいましたの?
ねぇ、まだわたくしたち、この馬車の中にずっと一緒にいますのに。
「あれだけ上機嫌で飲めばな」
隣から面白いものを見せてもらったとディートリヒ様の笑い声が聞こえました。
それすら、頭に響くのですが。
「……お水くださいます?」
「口移しでか?」
「申し訳ありませんが、それに対して辛辣な言葉を返せるほど頭が回っておりませんの」
それは重症だなと笑いながらディートリヒ様は寝台から出られました。
そばにあるコップに水を注ぎ持ってきてくれます。
わたくしはのろのろと起き上がり、コップを受け取って水を一口。喉に落ちるそれが少し気分を上向きにしてくれます。
「大丈夫か?」
「……気遣いありがとうございます」
「もう一泊してもいいが」
「いえ、大丈夫ですわ。どうせ馬車に乗っているだけですし」
水を一口ずつ飲めば目も覚めて、意識もはっきりしてきました。
頭痛はまだありますが、痛みは耐えられないほどではありませんしそのうち収まるでしょう。
それから朝食をとって、支度をしてわたくしたちは帰途につきました。
「大分、復調してきたな」
「ええ……」
「……俺がお前をこの旅に連れ出したのはな」
何か変わるかと思ってだと、突然ディートリヒ様は仰りました。
変わる? 何がですか。
「そもそもサレンドルとの話はどこでもできる。今回はお前を連れてこいという話だったんだが。それはあの女がいたからだったんだな」
まぁ、いいかと思って。お前が行きたくないと言うなら行かないつもりだったのだとディートリヒ様は仰います。
でも、言いたかったのはそれじゃないのでしょう?
わたくしが続きを、と視線で促すとディートリヒ様は笑いを零しました。なんでしょう、そんな柔らかな笑い方、気持ち悪いような恐ろしいような。
「お前を、あの学園で捕まえて、共に過ごした一週間があった」
「……ありましたわね」
「俺はあの時、色々と酷い事をお前にした」
あら、それは理解されていたのですね。
連れられてある屋敷に閉じ込められて。
そこで向けられたのはわたくしをなじる言葉ばかりでした。
お前が助けなかったせいだ、とか。救うことはできた、一言で変わっていた。
あの女もあの男も、お前ならば止めることも正すこともできたと。
その機会もあっただろうに、お前は何もしなかった。
何があったか、すべてを話せと言われても、わたくしが知っているのは断片的なことで。
皆様それぞれの感情がすべてわかるわけではありませんのにと思ったのです。
この方は何に怒ってらっしゃるのか。そう思って、そんな思いをしたくなかったのならば、させたくなかったのならば、外に出さなければ良かったのに。
そこまで大切にしたい相手だったのなら、ご自分のものにされたら良かったのにと、わたくしはそう。
笑ったのです。
それはディートリヒ様の地雷だったのでしょう。それをわたくしは綺麗に踏み抜いて、怒りを買ってしまったのです。
わたくしは面白がって彼女を貶めたわけではありません。
けれど、確かに。
助けることもできたけれど、そうしなかったのは事実でしたし。
怒りに満ちるこの方を、誰かが受け止めねばどうにもならないのだろうなと思って、受けて差し上げたのです。
ただ、わたくしに手をあげてそこで冷静になった部分もあったのでしょうけど。
「……口の中を切ったり、鼻血を出したりなんて子供の頃以来でしたわ」
「手を挙げたことは悪いと思っている、謝ったしもうしないと誓った」
「ええ。わたくしも怒って等いませんからお気になさらず」
そう言っても、わだかまりとしてこの方の内にはあの時の事が残り続けているのでしょう。
わたくしは本当に、もうそれは終わったことだと思っているのですがディートリヒ様にとってはそうではないのでしょう。
「失恋して気がたってらっしゃったんでしょう? 今までずっと、好きだと思って愛でていた方に好きな男がいる事を知って、その方はつらい悲しいと泣いて。逆に手が出せなかったのでしょう?」
「俺はな……お前に言うその失恋というのを、確かにセレン相手にしたんだろうな。ただ、もう恋などではなく家族として愛そうと、愛していると思っていたのにお前に掘り返された」
突かれたくないところに触れられて腹が立ったのだとディートリヒ様は苦笑して。
本当に、お前は嫌な女だったと仰いました。
「なぁに、それはわたくしが悪いと仰ってますの?」
「いや。俺の覚悟が甘かっただけだ」
「そうですか。それで、この辺りのお話からどういう風に、わたくしを旅に連れ出したに繋がりますの?」
それは、と言いかけて。ディートリヒ様はどう言おうかと零されました。
思案している様子に珍しいとわたくしは思うのです。
いつも、思案するふりはあってもその場でこうして、長く考える姿なんて見た事ないのですから。
「何か変わる、ではないな。俺は変えたいのだ、お前との関係を」
「何を仰っているのか、よくわかりませんわ」
わたくしと、ディートリヒ様の関係は。
王太子と王太子妃。それが上手く、問題なく機能するためにお互いがあるというもの。
互いに好き合う相手ができたならば、その相手と関係を持てばいい。互いはそれに干渉しないという約束をしてあります。
わたくしにもディートリヒ様にも、そんな方はいませんでした。
それでなし崩し的に関係を結んでいるところが無いとは言えませんけど。別に生理的な嫌悪があるわけではなかったのでわたくしはそれを受け入れました。
しかしそれは絶対ではないのでいつでも捨てることができるものです。
ディートリヒ様は、国のためにわたくしを使いたいと仰って。
わたくしは、わたくしが退屈しないのであればとその言葉に、誘いに乗ったのです。
わたくしの事が嫌いなくせに、この方はよくこんな提案ができるものねと思った覚えがあります。
それほど切羽詰まっている事情なのかしら、と。
そう、わたくしのような悪い女は傍に置いて見張っておかないと何をするかわからないとか。
そんなことも仰られていました。
始めは、確かに……そんなのだったのに。時折この方はわたくしに優しいので気持ち悪いと思っていたのです。
つまりは、わたくしに罵声を浴びせ、自らの淀みを吐き出して、そして自分がしたことを顧みてしまったのでしょうけど。
ああ、あれらに罪悪を感じるのなら、やはりこの方も普通の方だったのですね。
完全無欠、なんて言われてらっしゃるからもっと非道で、人を切り捨てるのがお上手だと思っていたわたくしの想像は。
そうではなかったと、気付いてはいたのですが見て見ぬふりをしていたのも、またわたくしなのです。
「俺は、お前を愛してみようと思う」
「気でも違いましたの?」
「いや、それも面白いかと思っただけだ」
お前はそれを受け入れてもいいし、そうしなくてもいい。
俺を愛してもいいし、愛さなくてもいい。
戯れのようにそう仰るのですが。ねぇ、どうして今、それをここでおっしゃいましたの?
ねぇ、まだわたくしたち、この馬車の中にずっと一緒にいますのに。
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