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掌編
試しの代償
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困ったときはサレ様に来てもらうだけの。
記憶喪失ネタ。
男同士だけの集まりというのは政治的には必要なのだが別段、楽しいというわけではない。
義務的にこなすものであるのに、対する者はそうではないらしい。楽しみを含んでいるようでもある。
それは、今回はサシだからというのもあると思う。
国賓をもてなさないわけにもいかず、俺はアーデルハイトの所に戻りたいのを我慢してここにいるのだ。
さっさとお開きにしてしまいたいと思っていたのに、サレンドルはそうさせてくれない。
「最近、嫁をとれとしつこくてな……どうやって逃げていたんだ?」
「さっさと妃を見つければ黙る」
「だからその、見つける方法を聞いているんだが」
苦笑まじりに杯を傾ける。サレンドルの相手などいくらでもなりたいものがいるだろうに。
好いた相手がいないのなら適当に決めれば良いだろうと言えば、それをお前がいうのはおかしいと笑う。
なんとなく気まずいが、俺とアーデルハイトの始まりは良い条件だった、というところからだ。
それまでにも色々あったのだが。それはそれだ。
あの頃の俺は、きっと今の俺を見れば正気かと思うだろう。
「必要があれば巡りあうだろう。それがないのなら、まだそういう時期ではない」
「なるほど、それで逃げよう」
ところで、と。
サレンドルは意地の悪い笑みを浮かべる。
「相変わらず、大事で堪らないみたいだが……はたしてアーデルハイト妃が同じ、それ以上に好いていると本当に言えるのか、と思ったことは?」
その言葉にすぐ、ないと言い返せない。
愛されている自信はあるが、しかし。
しかし、絶対だとは言えない。
そんな心情を察したのだろう、サレンドルは笑いながらこんな話があってなと続ける。
臣下の一人が階段から落ち、記憶喪失になったのだという。
ここ一年ほどのことを忘れ、最近できた恋人の事も覚えていない。
けれど、恋人は思い出してくれるように努力したのだ。
結局、数日後に記憶は戻り、その話を聞いた臣下とその恋人は一層仲睦まじくなったのだと。
「その話を何故、する」
「記憶喪失のふりをして奥方がどのような反応をするか、気にはならないか?」
「……そんなことは」
「あるのだろう?」
ないと、言えない。
俺が記憶を無くす。そうなればアーデルハイトはどんな顔をするのか。
興味がないわけではないが、バレた時に機嫌を損ねるのは間違いない。
「愛されている自信があるなら、私と賭けないか? 記憶を失った君に……泣きついたりはしないな。怒りもしなさそうだ」
「別にいつもと変わらないと思うが」
「いや、そんな事はない。やはり多少はうろたえると思う。きっと時間が許す限りは君の傍にいるんじゃないかな」
そうであれば嬉しいとは思う。
しかし、待て。この口振りはもうすでに、俺がやると言っているようなものだ。
やらないからな、と再度釘をさす前に、それでは奥方に言ってくるとサレンドルは立ち上がる。
「そんなことしなくていい。やめろ、バレたら機嫌を損ねる」
「それはバレないように上手にやるんだよ。そういうの、上手だろう」
酒を飲み、うっかり階段を踏み外して頭を打ったで行こうと言うがそんなミスを俺がするだろうか。
それはないだろう。無理があると言えば、じゃあこの場で問答となり、熱が入った末のと言う。
余計にわからないが、状況はどうにでもなると言ってサレンドルは出て行った。
止めることもできただろうに、結局――止めなかったのは俺だ。
アーデルハイトが来たときにサレンドルの悪ふざけだと言えば、怒りはするだろうが機嫌を損ねてしまうことはないだろう。
よし、素直に言おう。アーデルハイトを試すようなことをしてはいけないと結論付けたのだが、しかし。
しばらくしてサレンドルがアーデルハイトと共に戻ってくる。
部屋に入るなり心配そうな顔をして急ぎ俺の元にやってくる。
傍に膝をついて見上げるその顔は、心配しているのだと思えるような表情だ。
少し、泣きそうな。不安そうな。
「ねぇ、記憶がないって本当なの?」
声色も震えているようなか弱さだ。こんな、こんな声、聞いたことがない。
面食らってしまって、言葉を発する余裕がない。驚いてしまった。
「ここ数年の記憶が飛んで、自分を王太子だと言っているんですよ」
「本当に? わたくしのことも覚えていないの?」
俺が否定する前に、サレンドルが紡ぐ。告げる機会を逸してしまい、サレンドルを見ればにやにやと面白そうに笑っているのだ。
「――お、覚えて……いない」
少しばかり躊躇しながら、サレンドルの話に乗ってしまった。
その瞬間、後悔ばかりが押し寄せる。酷く傷ついた顔をさせてしまったのだ。
まずい、これは。
機嫌を損ねるどころではないかもしれない。上手に、バレないようにことを治めなければ面倒なことになるのは間違いない。
「ということで、あとは奥方に任せよう。二人でいれば何か思い出すこともあるかもしれない。他の者にはまだ内密にしておくので」
「え、ええ……サレンドル様、お気を使っていただきありがとうございます」
「いえ、とんでもない」
それでは、とサレンドルは部屋を出ていく。好きなだけかき回して、そして去っていくだけという。
あとは俺だけでどうにかしてみろというところか。いや、おぜん立てはしたので後で話せということかもしれない。
何にせよ食えない相手ではあるのだから、何かあとで取引を持ちかけられそうでもある。
が、今はそれよりも。
「……わたくしは……貴方の妻なのです。どこの出自か、というとこからお話した方が?」
「いや……いい。最低限は知っている」
「では……わたくしとの出会いは?」
「それは……」
ここは、覚えていないと言った方が良いのだろう。
あの出会いがなければ――俺は一体どうやってアーデルハイトと出会っていたのだろうか。
出会わなかったとしたら、どうなっていたのか。
「覚えて、いない」
「……そう。でしたら忘れていた方がよろしいかもしれません」
「忘れていた方が、良いのか?」
「ええ。出会って、あなたわたくしに色々なことをしましたの」
色々とは、含みのある言い方だ。
アーデルハイトは気にしないでと言って俺の隣に腰かけた。
「あなたが嫌と言っても夫婦であることはどうにもなりませんもの。ですから受け入れてくださいまし」
けれど、とアーデルハイトは手を伸ばしてくる。
俺はそれを受け入れ好きにさせた。すると嫌がりませんのねとアーデルハイトは笑う。
「記憶が戻らないと、思い出さないと色々と問題がありますわね」
「そう、だな」
「とまどってらっしゃいます? 突然、妻だと言われて」
問われて、ああと頷くとそうですわよねと笑う。
「わたくしの事は……嫌いです? 嫌だと、思います?」
「嫌ではないと思うが」
「なら、よろしくてよ」
そう言ってアーデルハイトは立ち上がり、俺を見下ろして笑う。
「わたくしが記憶喪失になったら、あなたがしそうなことをして差し上げますわ」
「は?」
「だから……早く思い出しなさいよ」
俺の膝の上に載って抱きついてくる。耳元でささやいて、そのまま唇を這わせてきた。
こそばゆくくすぐったい。ぺろりと耳朶を舐められびくりと震えた。
「思い出せないならまた覚えて、受け入れなさいよ。わたくし達ちゃんと……あ、愛し合って、ますのよ」
このままされるがまま受け入れていたら、アーデルハイトはどうしてくれるのだろうか。
そのことに興味がある。じっと物言わぬままでいると、アーデルハイトはひとつ息吐いて、俺とまっすぐ視線を合わせた。
「きっとわたくしが記憶を失ったら、身体は覚えていると言うと思うのよね」
だからわたくしも真似をするわと、唇を合わせてくる。
躊躇いがちに舌先を合わせてきて思わずその腰を抱いてしまった。
このように求められた事はたまにしかない。いつも俺が求めて応えてくれるばかりだったのだから。
「……思い出せそう? 思い出してくれなくても、またわたくしを愛してくださる?」
俺を窺うような視線。それには不安が含まれている。泣きそうなのを堪えているような、そんな。
弱弱しい顔だ。こんな表情は今まで、俺に見せたことはないのに。
息が詰まる。こんな顔をさせては――いけないというのに。
「……無理だ」
「む、り?」
「ああ、無理だ。悪い、アーデルハイト。嘘だ、全部覚えている。記憶喪失などというのは嘘だ。お前に嘘をつくなんてやっぱり無理だ」
そう言うと、きょとんとした顔をして。そしてかぁと顔を赤くして離れなさいと逃げようとする。
もちろんそうさせるつもりはなく一層、力を込めて腰を抱いた。
「もう! なんなの! なんのつもりよ!」
「サレンドルが……悪ふざけで」
「じゃあそれに乗らなければいいじゃない! わ、わたくしのことを試したの? わたくしは、とても……心配したんだから!」
先程までの弱弱しい表情はない。頬を染めて、俺に文句を言う顔はいつもの顔だ。
その表情にほっとする。
「悪ふざけと言ってもあなたが、最初にそれは冗談だと言えばいいのに。頷いたりするから……もう、怒りましてよ、わたくし!」
「今回は俺が悪い。全部悪い。だから怒らないでくれ、機嫌を直してくれ、アーデルハイト」
「嫌よ! あ、ちょっと口付けて誤魔化そうとしないでくださる!?」
ぺちりと掌で唇を抑え込んでくる。
やろうとしたことはばれていた。放しなさいというので仕方なく、抱きとめる腕の力を緩めればアーデルハイトは抜け出てしまう。
やっぱり捕まえておくべきだったか、と思ったのはその表情を見たからだ。
「悪ふざけにも、程がありましてよ」
「ああ。怒って……いるんだな」
「ええ。多少は、ええ、もちろん」
多少じゃない。
これは多少じゃないぞと俺の背筋は冷える。こんなのは初めてだ。
初めてだ。
離縁する、とは言わないだろうがしばらく触れさせてもらえないような気がする。
「わたくし、サレンドル様が帰られたらしばらく実家に帰ります。国の事でもありますから、義務は果たしてからにしてあげますわ。わたくしは、優しいので」
「ま、待ってくれアーデルハイト、本気か?」
「ええ。公務はお休みしますので、申し訳ありませんけれど。それくらいはどうにでも、してくださいますわよね?」
本気だ。
にっこり笑って、俺を威圧する。
本当に怒らせている。これは、サレンドルが帰るまでにどうにかして機嫌を直してもらわなければ。
国に帰って、もうこちらに戻らないとまで言いそうな気配がある。
いやだ、それはいやだ。
アーデルハイトが傍にいないと、俺の方がおかしくなってしまう。
「アーデルハイト。いやだ、帰らないでくれ。傍にいてくれ」
「いやよ」
「アーデルハイト」
「懇願しても、だめ。だってあなた、まだ最低限の事をしてませんもの」
「最低限……?」
ええ、とアーデルハイトが頷く。
それがわかるまではとりあってあげませんと言い放って、追いかける俺の手を交わしてアーデルハイトは部屋を出ていく。
すぐ立ち上がって追いかければ良いものを、そうできなかったのは思いのほかダメージがあったからだろうか。
二人の部屋にすぐ行くがそこに姿はなく、ツェリにどこに行ったと尋ねると教えるなと言われておりますととりあわない。
子供たちも一緒に連れていったようで姿が見えない。城からは出ていないようで、行きそうな所、アーデルハイトたちがいそうな場所を巡っていく。
深夜、アーデルハイトを探して歩き回りあれの犬達を見つけたのは一般の者達を泊める、最低限のものしかないような部屋だった。
いつも使っている部屋のひとつよりも小さな部屋。寝台の質も段違いの部屋だ。
犬達も俺に気付き、しかし部屋の中へ入れてくれるそぶりはない。
「どけ」
「アーデに入れるなと言われてますので」
俺の命よりアーデルハイトの命を優先する。それを許しているのは俺なのだが、こういう時は譲れと思う。
「陛下がアーデを試したい気持ちもわかりはしますけが……あれは相当怒ってますよ」
「やはり……そう、なのか」
「ああなったアーデは頑なです」
「実家に帰るも実行すると思いますよ」
それは、避けたい。
そうなったら迎えにいくだけだが、簡単に城を開けられないのもわかっている。
王太子の頃より動けないのはわかっていたことだが、それでも俺は行くだろう。
「まぁ扉向こうには聞こえていると思いますので、どうぞ語りかけたいならご自由に」
扉前に控えていた犬達はそこから離れる気配はない。が、まずここを開けてもらえなければどうにもならない。
アーデルハイト、と呼びかけるがまったく返事はない。
「アーデルハイト、顔を見せてくれ。お前に相手にされないのは答える。機嫌を直してくれないか」
話しかけても何も返さない。というより――気配が、感じられない。
「試すようなことをして俺が悪かった。浅はかだったのだ、だから許してくれ」
「……それですよ、陛下」
と、傍らから声をかけられた。
それとは、と聞き返せばアーデに言われたのではと返される。
何を、だ。
「最低限の事をしていない、と」
「……言われた、な。それが、何、俺はそれを今、したのか?」
「まぁ、一応ぎりぎり……したラインでしょうか」
自分の紡いだ言葉を思い出してみる。
許してくれ。浅はかだった。悪かった。
俺が悪かった――これか!
そういえば、そういえばアーデルハイトには悪かったと言っていない。言っていない!
「謝ったしいいですよ、陛下。中に入って頂いて。もともと鍵などかかっていませんから」
何、と思ったのだが今はどういうことだと咎める時間も惜しい。
扉を開ければそこには――誰もいなかった。
「っ、アーデルハイトは、どこだ!?」
問えば笑いながら、自分の部屋にと返された。
それは最初に見た場所だ。しかし、すべての部屋を調べたわけではない。
どこかに隠れていたということか。
急いで部屋に戻れば、居間で茶を飲んでいる。ちらりを俺を見て、その視線は外された。
俺はすぐさま傍に寄って、その足元に膝をつき見上げる。
「アーデルハイト、俺が悪かった。すまない、謝らせてくれ」
「……何が、ですの?」
「サレンドルの、悪ふざけに乗ってしまった事と、そのせいでお前にいらぬ心配をかけさせ不安にさせた事をだ」
「ちゃんとわかってはいらっしゃるのね。いえ、わかったのかしら?」
つんと澄ました、冷たい声だ。視線向けずにそう言われると俺の方が不安に煽られる。
捕まえたと思っていたのに、逃げていかれるような。そんな不安だ。
「……それで?」
「それで、とは」
「あなた、わたくしに謝りたいのでしょう? 何か、言う事はありませんの?」
「そ、それはさっき悪かったと」
「は? 悪かった、といった程度では……わたくしに気持ちは届きませんわよ。言わないと、わかりませんの?」
ここで言っただろうと言えば、さらに怒らせる。
それを感じ取った俺は、改めてアーデルハイトを見つめた。
今度は視線を合わせてくれる。大丈夫だと、思えた。
「俺が悪かったのだ。申し訳ない。どうか、許して欲しい」
「……悪かった、申し訳ないなんて。なんだか事務的な謝り方ね。フリードリヒも、ローデリヒももっと素直に謝るわよ」
ごめんなさいって。
どこか、楽しげに口端があがった。
ごめんなさい。ごめんなさい?
悪かった、申し訳ないではだめなのか? 意味としては同じようなものだろう。
「……す、すまなかった。ご……」
ごめんなさい、と。簡単に紡げない。子供のように、謝れということか。
アーデルハイトの瞳はどこか楽しそうに輝いている。言わせたいのか。言わせたいのだな。
アーデルハイトを失うことに比べれば、こんな。
こんな、一言。
「ご……ごめん、な、さい」
「もう一度、つまらず流れるようにおっしゃって?」
「……ごめん……なさい」
「…………まぁ、いいわ」
許してさしあげますわ、と笑いながらアーデルハイトは俺に抱き着いてきた。
いつもの様子にほっとする。
どうやら機嫌はもうすでによくなっているようだ。
ほっとする。安堵したのは俺のほうだ。
ああ、アーデルハイトもきっと、俺のように心配して。けれどそれが嘘だと知って、試すようなことをしていたのだと知って怒ったのだろう。
今回は、俺が悪い。いやサレンドルが悪いのもあるが、乗ってしまった俺が悪いのだ。
アーデルハイトがどんな顔をするのか知りたくて乗ってしまった俺が。
「それにしてもごめんなさいと言う時のリヒトの顔! とてもかわいらしかったわよ」
それが見れただけでも怒った甲斐があったわと笑う。
途中から試されていたのは、俺かもしれないが。
もうこのような、アーデルハイトを心配させるような試しは二度としないと、心に誓った。
絶対に、だ。
自分は試すけど試されるのは嫌というやつ。
というより試しても、見破ってわかってて対応してくるのがわかっているのだけれど。
自分は本当に危機だと思ったのに、そんな、こんな。そして謝らないのでおこであるですが。
そもそも謝る、とうい行為をあまりしない(できない)(王様ですし)のでそれが抜けるんですよね。
記憶喪失ネタ。
男同士だけの集まりというのは政治的には必要なのだが別段、楽しいというわけではない。
義務的にこなすものであるのに、対する者はそうではないらしい。楽しみを含んでいるようでもある。
それは、今回はサシだからというのもあると思う。
国賓をもてなさないわけにもいかず、俺はアーデルハイトの所に戻りたいのを我慢してここにいるのだ。
さっさとお開きにしてしまいたいと思っていたのに、サレンドルはそうさせてくれない。
「最近、嫁をとれとしつこくてな……どうやって逃げていたんだ?」
「さっさと妃を見つければ黙る」
「だからその、見つける方法を聞いているんだが」
苦笑まじりに杯を傾ける。サレンドルの相手などいくらでもなりたいものがいるだろうに。
好いた相手がいないのなら適当に決めれば良いだろうと言えば、それをお前がいうのはおかしいと笑う。
なんとなく気まずいが、俺とアーデルハイトの始まりは良い条件だった、というところからだ。
それまでにも色々あったのだが。それはそれだ。
あの頃の俺は、きっと今の俺を見れば正気かと思うだろう。
「必要があれば巡りあうだろう。それがないのなら、まだそういう時期ではない」
「なるほど、それで逃げよう」
ところで、と。
サレンドルは意地の悪い笑みを浮かべる。
「相変わらず、大事で堪らないみたいだが……はたしてアーデルハイト妃が同じ、それ以上に好いていると本当に言えるのか、と思ったことは?」
その言葉にすぐ、ないと言い返せない。
愛されている自信はあるが、しかし。
しかし、絶対だとは言えない。
そんな心情を察したのだろう、サレンドルは笑いながらこんな話があってなと続ける。
臣下の一人が階段から落ち、記憶喪失になったのだという。
ここ一年ほどのことを忘れ、最近できた恋人の事も覚えていない。
けれど、恋人は思い出してくれるように努力したのだ。
結局、数日後に記憶は戻り、その話を聞いた臣下とその恋人は一層仲睦まじくなったのだと。
「その話を何故、する」
「記憶喪失のふりをして奥方がどのような反応をするか、気にはならないか?」
「……そんなことは」
「あるのだろう?」
ないと、言えない。
俺が記憶を無くす。そうなればアーデルハイトはどんな顔をするのか。
興味がないわけではないが、バレた時に機嫌を損ねるのは間違いない。
「愛されている自信があるなら、私と賭けないか? 記憶を失った君に……泣きついたりはしないな。怒りもしなさそうだ」
「別にいつもと変わらないと思うが」
「いや、そんな事はない。やはり多少はうろたえると思う。きっと時間が許す限りは君の傍にいるんじゃないかな」
そうであれば嬉しいとは思う。
しかし、待て。この口振りはもうすでに、俺がやると言っているようなものだ。
やらないからな、と再度釘をさす前に、それでは奥方に言ってくるとサレンドルは立ち上がる。
「そんなことしなくていい。やめろ、バレたら機嫌を損ねる」
「それはバレないように上手にやるんだよ。そういうの、上手だろう」
酒を飲み、うっかり階段を踏み外して頭を打ったで行こうと言うがそんなミスを俺がするだろうか。
それはないだろう。無理があると言えば、じゃあこの場で問答となり、熱が入った末のと言う。
余計にわからないが、状況はどうにでもなると言ってサレンドルは出て行った。
止めることもできただろうに、結局――止めなかったのは俺だ。
アーデルハイトが来たときにサレンドルの悪ふざけだと言えば、怒りはするだろうが機嫌を損ねてしまうことはないだろう。
よし、素直に言おう。アーデルハイトを試すようなことをしてはいけないと結論付けたのだが、しかし。
しばらくしてサレンドルがアーデルハイトと共に戻ってくる。
部屋に入るなり心配そうな顔をして急ぎ俺の元にやってくる。
傍に膝をついて見上げるその顔は、心配しているのだと思えるような表情だ。
少し、泣きそうな。不安そうな。
「ねぇ、記憶がないって本当なの?」
声色も震えているようなか弱さだ。こんな、こんな声、聞いたことがない。
面食らってしまって、言葉を発する余裕がない。驚いてしまった。
「ここ数年の記憶が飛んで、自分を王太子だと言っているんですよ」
「本当に? わたくしのことも覚えていないの?」
俺が否定する前に、サレンドルが紡ぐ。告げる機会を逸してしまい、サレンドルを見ればにやにやと面白そうに笑っているのだ。
「――お、覚えて……いない」
少しばかり躊躇しながら、サレンドルの話に乗ってしまった。
その瞬間、後悔ばかりが押し寄せる。酷く傷ついた顔をさせてしまったのだ。
まずい、これは。
機嫌を損ねるどころではないかもしれない。上手に、バレないようにことを治めなければ面倒なことになるのは間違いない。
「ということで、あとは奥方に任せよう。二人でいれば何か思い出すこともあるかもしれない。他の者にはまだ内密にしておくので」
「え、ええ……サレンドル様、お気を使っていただきありがとうございます」
「いえ、とんでもない」
それでは、とサレンドルは部屋を出ていく。好きなだけかき回して、そして去っていくだけという。
あとは俺だけでどうにかしてみろというところか。いや、おぜん立てはしたので後で話せということかもしれない。
何にせよ食えない相手ではあるのだから、何かあとで取引を持ちかけられそうでもある。
が、今はそれよりも。
「……わたくしは……貴方の妻なのです。どこの出自か、というとこからお話した方が?」
「いや……いい。最低限は知っている」
「では……わたくしとの出会いは?」
「それは……」
ここは、覚えていないと言った方が良いのだろう。
あの出会いがなければ――俺は一体どうやってアーデルハイトと出会っていたのだろうか。
出会わなかったとしたら、どうなっていたのか。
「覚えて、いない」
「……そう。でしたら忘れていた方がよろしいかもしれません」
「忘れていた方が、良いのか?」
「ええ。出会って、あなたわたくしに色々なことをしましたの」
色々とは、含みのある言い方だ。
アーデルハイトは気にしないでと言って俺の隣に腰かけた。
「あなたが嫌と言っても夫婦であることはどうにもなりませんもの。ですから受け入れてくださいまし」
けれど、とアーデルハイトは手を伸ばしてくる。
俺はそれを受け入れ好きにさせた。すると嫌がりませんのねとアーデルハイトは笑う。
「記憶が戻らないと、思い出さないと色々と問題がありますわね」
「そう、だな」
「とまどってらっしゃいます? 突然、妻だと言われて」
問われて、ああと頷くとそうですわよねと笑う。
「わたくしの事は……嫌いです? 嫌だと、思います?」
「嫌ではないと思うが」
「なら、よろしくてよ」
そう言ってアーデルハイトは立ち上がり、俺を見下ろして笑う。
「わたくしが記憶喪失になったら、あなたがしそうなことをして差し上げますわ」
「は?」
「だから……早く思い出しなさいよ」
俺の膝の上に載って抱きついてくる。耳元でささやいて、そのまま唇を這わせてきた。
こそばゆくくすぐったい。ぺろりと耳朶を舐められびくりと震えた。
「思い出せないならまた覚えて、受け入れなさいよ。わたくし達ちゃんと……あ、愛し合って、ますのよ」
このままされるがまま受け入れていたら、アーデルハイトはどうしてくれるのだろうか。
そのことに興味がある。じっと物言わぬままでいると、アーデルハイトはひとつ息吐いて、俺とまっすぐ視線を合わせた。
「きっとわたくしが記憶を失ったら、身体は覚えていると言うと思うのよね」
だからわたくしも真似をするわと、唇を合わせてくる。
躊躇いがちに舌先を合わせてきて思わずその腰を抱いてしまった。
このように求められた事はたまにしかない。いつも俺が求めて応えてくれるばかりだったのだから。
「……思い出せそう? 思い出してくれなくても、またわたくしを愛してくださる?」
俺を窺うような視線。それには不安が含まれている。泣きそうなのを堪えているような、そんな。
弱弱しい顔だ。こんな表情は今まで、俺に見せたことはないのに。
息が詰まる。こんな顔をさせては――いけないというのに。
「……無理だ」
「む、り?」
「ああ、無理だ。悪い、アーデルハイト。嘘だ、全部覚えている。記憶喪失などというのは嘘だ。お前に嘘をつくなんてやっぱり無理だ」
そう言うと、きょとんとした顔をして。そしてかぁと顔を赤くして離れなさいと逃げようとする。
もちろんそうさせるつもりはなく一層、力を込めて腰を抱いた。
「もう! なんなの! なんのつもりよ!」
「サレンドルが……悪ふざけで」
「じゃあそれに乗らなければいいじゃない! わ、わたくしのことを試したの? わたくしは、とても……心配したんだから!」
先程までの弱弱しい表情はない。頬を染めて、俺に文句を言う顔はいつもの顔だ。
その表情にほっとする。
「悪ふざけと言ってもあなたが、最初にそれは冗談だと言えばいいのに。頷いたりするから……もう、怒りましてよ、わたくし!」
「今回は俺が悪い。全部悪い。だから怒らないでくれ、機嫌を直してくれ、アーデルハイト」
「嫌よ! あ、ちょっと口付けて誤魔化そうとしないでくださる!?」
ぺちりと掌で唇を抑え込んでくる。
やろうとしたことはばれていた。放しなさいというので仕方なく、抱きとめる腕の力を緩めればアーデルハイトは抜け出てしまう。
やっぱり捕まえておくべきだったか、と思ったのはその表情を見たからだ。
「悪ふざけにも、程がありましてよ」
「ああ。怒って……いるんだな」
「ええ。多少は、ええ、もちろん」
多少じゃない。
これは多少じゃないぞと俺の背筋は冷える。こんなのは初めてだ。
初めてだ。
離縁する、とは言わないだろうがしばらく触れさせてもらえないような気がする。
「わたくし、サレンドル様が帰られたらしばらく実家に帰ります。国の事でもありますから、義務は果たしてからにしてあげますわ。わたくしは、優しいので」
「ま、待ってくれアーデルハイト、本気か?」
「ええ。公務はお休みしますので、申し訳ありませんけれど。それくらいはどうにでも、してくださいますわよね?」
本気だ。
にっこり笑って、俺を威圧する。
本当に怒らせている。これは、サレンドルが帰るまでにどうにかして機嫌を直してもらわなければ。
国に帰って、もうこちらに戻らないとまで言いそうな気配がある。
いやだ、それはいやだ。
アーデルハイトが傍にいないと、俺の方がおかしくなってしまう。
「アーデルハイト。いやだ、帰らないでくれ。傍にいてくれ」
「いやよ」
「アーデルハイト」
「懇願しても、だめ。だってあなた、まだ最低限の事をしてませんもの」
「最低限……?」
ええ、とアーデルハイトが頷く。
それがわかるまではとりあってあげませんと言い放って、追いかける俺の手を交わしてアーデルハイトは部屋を出ていく。
すぐ立ち上がって追いかければ良いものを、そうできなかったのは思いのほかダメージがあったからだろうか。
二人の部屋にすぐ行くがそこに姿はなく、ツェリにどこに行ったと尋ねると教えるなと言われておりますととりあわない。
子供たちも一緒に連れていったようで姿が見えない。城からは出ていないようで、行きそうな所、アーデルハイトたちがいそうな場所を巡っていく。
深夜、アーデルハイトを探して歩き回りあれの犬達を見つけたのは一般の者達を泊める、最低限のものしかないような部屋だった。
いつも使っている部屋のひとつよりも小さな部屋。寝台の質も段違いの部屋だ。
犬達も俺に気付き、しかし部屋の中へ入れてくれるそぶりはない。
「どけ」
「アーデに入れるなと言われてますので」
俺の命よりアーデルハイトの命を優先する。それを許しているのは俺なのだが、こういう時は譲れと思う。
「陛下がアーデを試したい気持ちもわかりはしますけが……あれは相当怒ってますよ」
「やはり……そう、なのか」
「ああなったアーデは頑なです」
「実家に帰るも実行すると思いますよ」
それは、避けたい。
そうなったら迎えにいくだけだが、簡単に城を開けられないのもわかっている。
王太子の頃より動けないのはわかっていたことだが、それでも俺は行くだろう。
「まぁ扉向こうには聞こえていると思いますので、どうぞ語りかけたいならご自由に」
扉前に控えていた犬達はそこから離れる気配はない。が、まずここを開けてもらえなければどうにもならない。
アーデルハイト、と呼びかけるがまったく返事はない。
「アーデルハイト、顔を見せてくれ。お前に相手にされないのは答える。機嫌を直してくれないか」
話しかけても何も返さない。というより――気配が、感じられない。
「試すようなことをして俺が悪かった。浅はかだったのだ、だから許してくれ」
「……それですよ、陛下」
と、傍らから声をかけられた。
それとは、と聞き返せばアーデに言われたのではと返される。
何を、だ。
「最低限の事をしていない、と」
「……言われた、な。それが、何、俺はそれを今、したのか?」
「まぁ、一応ぎりぎり……したラインでしょうか」
自分の紡いだ言葉を思い出してみる。
許してくれ。浅はかだった。悪かった。
俺が悪かった――これか!
そういえば、そういえばアーデルハイトには悪かったと言っていない。言っていない!
「謝ったしいいですよ、陛下。中に入って頂いて。もともと鍵などかかっていませんから」
何、と思ったのだが今はどういうことだと咎める時間も惜しい。
扉を開ければそこには――誰もいなかった。
「っ、アーデルハイトは、どこだ!?」
問えば笑いながら、自分の部屋にと返された。
それは最初に見た場所だ。しかし、すべての部屋を調べたわけではない。
どこかに隠れていたということか。
急いで部屋に戻れば、居間で茶を飲んでいる。ちらりを俺を見て、その視線は外された。
俺はすぐさま傍に寄って、その足元に膝をつき見上げる。
「アーデルハイト、俺が悪かった。すまない、謝らせてくれ」
「……何が、ですの?」
「サレンドルの、悪ふざけに乗ってしまった事と、そのせいでお前にいらぬ心配をかけさせ不安にさせた事をだ」
「ちゃんとわかってはいらっしゃるのね。いえ、わかったのかしら?」
つんと澄ました、冷たい声だ。視線向けずにそう言われると俺の方が不安に煽られる。
捕まえたと思っていたのに、逃げていかれるような。そんな不安だ。
「……それで?」
「それで、とは」
「あなた、わたくしに謝りたいのでしょう? 何か、言う事はありませんの?」
「そ、それはさっき悪かったと」
「は? 悪かった、といった程度では……わたくしに気持ちは届きませんわよ。言わないと、わかりませんの?」
ここで言っただろうと言えば、さらに怒らせる。
それを感じ取った俺は、改めてアーデルハイトを見つめた。
今度は視線を合わせてくれる。大丈夫だと、思えた。
「俺が悪かったのだ。申し訳ない。どうか、許して欲しい」
「……悪かった、申し訳ないなんて。なんだか事務的な謝り方ね。フリードリヒも、ローデリヒももっと素直に謝るわよ」
ごめんなさいって。
どこか、楽しげに口端があがった。
ごめんなさい。ごめんなさい?
悪かった、申し訳ないではだめなのか? 意味としては同じようなものだろう。
「……す、すまなかった。ご……」
ごめんなさい、と。簡単に紡げない。子供のように、謝れということか。
アーデルハイトの瞳はどこか楽しそうに輝いている。言わせたいのか。言わせたいのだな。
アーデルハイトを失うことに比べれば、こんな。
こんな、一言。
「ご……ごめん、な、さい」
「もう一度、つまらず流れるようにおっしゃって?」
「……ごめん……なさい」
「…………まぁ、いいわ」
許してさしあげますわ、と笑いながらアーデルハイトは俺に抱き着いてきた。
いつもの様子にほっとする。
どうやら機嫌はもうすでによくなっているようだ。
ほっとする。安堵したのは俺のほうだ。
ああ、アーデルハイトもきっと、俺のように心配して。けれどそれが嘘だと知って、試すようなことをしていたのだと知って怒ったのだろう。
今回は、俺が悪い。いやサレンドルが悪いのもあるが、乗ってしまった俺が悪いのだ。
アーデルハイトがどんな顔をするのか知りたくて乗ってしまった俺が。
「それにしてもごめんなさいと言う時のリヒトの顔! とてもかわいらしかったわよ」
それが見れただけでも怒った甲斐があったわと笑う。
途中から試されていたのは、俺かもしれないが。
もうこのような、アーデルハイトを心配させるような試しは二度としないと、心に誓った。
絶対に、だ。
自分は試すけど試されるのは嫌というやつ。
というより試しても、見破ってわかってて対応してくるのがわかっているのだけれど。
自分は本当に危機だと思ったのに、そんな、こんな。そして謝らないのでおこであるですが。
そもそも謝る、とうい行為をあまりしない(できない)(王様ですし)のでそれが抜けるんですよね。
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