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 ドンドンドンドンドン!!
 ドンドンドンドンドン!!

「………………。」

 ガチャガチャ

「ったく、何だよ、開いてんじゃねぇか。…おい」
「…………。」
「…………おい!」
「…………。」

 部屋が突然明るくなったかと思うと、冬真が真上から悠里を見下ろしていた。

「…………と、う」
「てめえが生意気にも来るのを断ったとか神谷が言うから、何事かと思ったらよ…。死んでねぇじゃねぇか、母親」
「…………っ」

 調べさせたのか。デリカシーの欠片もない物言いに、悠里はキッと冬真を睨みつけた。つもりだったが、そんな気力も湧かず、ジロリと見ただけになった。

「……なんて顔してんだ、……ったく…。床までぐしょぐしょじゃねぇかよ、汚ぇな」

 冬真は古い畳の上にドカッとあぐらをかくと、悠里の体を起こしてその筋肉質な腕で支える。

「…何があった」
「………………か、…………かあさん、」
「…………。」
「…………っく、……うわぁぁぁぁぁっ!」

 悠里は堰を切ったように大声を上げて泣き出した。細い肩が冬真の腕の内側で震えている。何かを考えるより早く、冬真はその体を両手でそっと抱きしめた。

「う゛ぅぅ……っ!……っく、あぁぁぁぁ!」
「…………。」

 冬真は自身の行動に驚いていた。何をやってるんだ俺は。こんなところまで飛んできて、こいつのことを抱きしめて。だが放っておけなかった。腕の中で震えながら絞り出すような声で泣いている悠里はあまりにも頼りなくか細くて、どうにかしないとこのまま消えてしまうんじゃないかとさえ思えた。
 だが生まれてこの方他人を慰めたことなどない冬真だ。こんな時にどうすればいいのかなんてさっぱり分からない。ただひたすら腕の中で守っていた。悠里が壊れてしまわないように。


 しばらくして悠里の声が聞こえなくなった頃。冬真は悠里の顔を覗き込んだ。顔が真っ白で、目は真っ赤だ。顔中が濡れていた。

「…………。おい」
「………………ご、めん、」
「…………。」
「……母の、主治医が、……もう尽くす手はないから、……痛みをコントロールする方向でいこうって」
「…………。」
「…いよいよ、なんだなって…。もうすぐ、…きっ、と……」
「…………。」

 まぁそりゃそうだろ。もうすぐ死ぬんだからよ。と、他の人間になら何も考えずに言ったかもしれない。でもさすがの冬真も思いとどまった。どうすれば悠里を少しでも楽にしてやれるか分からず、背中をそっと擦り、頭を少し撫でた。

「…………。」
「……お前の母親は、」
「…………。」
「何で俺の親父に惚れたんだろうな。俺には理解できねぇ。金と社会的地位以外にあの親父に何の魅力があったんだ」

 確かにオッサンにしては見てくれは悪くなかっただろうが、あんなしかめっ面の面白みの欠片もない仕事人間の、一体どこに惹かれる要素があったというのか。金が目当てじゃなかったのなら。いつか聞いてみたいと思っていたのだ。そんな機会は巡って来ないだろうとは思いつつも。
 悠里はポツポツと話し始めた。

「俺は…、門倉社長と母がどうやって出会ったのかは知らない。ただ、俺がまだ高校生だった頃のある日、母がスナックのパートに行っていて、深夜まで帰って来なかった日があって…、体調を崩していた母を門倉社長がここまで送ってきてくれたんだ。…もしかしたら、母が働いていたその店で出会ったのかも…」
「……。」
「社長みたいな方が、一体何のきっかけがあって母が働いていた場末のスナックに顔を出すことになったのかは知らないけど。癌が発覚して入院してからしばらくして、何かの時に母がふと社長のことを俺に話したことがあって…。……いつも、私を気遣う言葉をかけてくれたって。他のお客さんみたいに、露骨に体目当てで誘ってきたりとかしなくて…、触ってきたり、いやらしいことを言われるなんてことも一度もなくて、…時々やって来ては隅っこで静かに飲んでいて、母のことをただ見てたって。帰り際にいつも、体に気を付けてって、……言ってくれてたって……」
「…………。」
「その優しさは、母にとって救いだったって。疲れていても、お客さんから嫌な思いさせられても、時々社長が来てくれてほんの少し言葉を交わせるだけで、元気になれたって」
「……想像もつかねぇな」

 父にそんな一面があったとは。惚れた女を見つめる時、どんな顔をしていたんだろう。

「……母は、縋り付いてしまったんだ。ダメだと分かっていたのに。俺の父親になるはずだった男に裏切られて以来、たった独りで頑張ってきたから……、俺を抱えて、ずっと……、」

 悠里の瞳から新たな涙が流れる。冬真は思った。父も同じだったのだろう。おそらく。安らぎも愛もない結婚生活。大企業の頂点に立ち、大勢の人間を引っ張っていく失敗が許されない重圧。互いが引き寄せあうように、心の拠り所を見つけ、肩を寄せ合ったのだろう。

「母が入院してからも、社長はたびたび見舞いに来てくれていた。社長が来ている時は遠慮して病室には入らなかったから、何を話していたのかは知らないけど……、社長の顔も、…少しずつ、やつれていっていた気がする」
「…………そうか」

 俺はそんなこと全く気が付かなかった。愛した女が助かる見込みのない病だと知った父は、独りで苦しんでいたんだろうか。

 悠里は話し続けた。自分が知っている社長と母の話。社長に一度だけ呼び出され、二人きりで話をした時のこと。日々衰えていく母のこと。たった一人の身内である母を失う怖さを。寂しさを。

 悠里もまた、ずっと独りで抱え込んでいた。誰かに聞いて欲しかった。感情を吐き出す場所が、受け止めてくれる相手が欲しかったのだ。

 冬真は悠里の隣に座ったままずっと、ただ黙って聞いてくれていた。

 空が白くなり始めた頃、悠里の言葉と涙がふと途切れた。

「………………あ…」
「……ちったぁ落ち着いたか」
「………………。…うん…」
「なら、もう寝ろ。朝になるぞ。……俺は帰る」

 冬真はそう言うと部屋の奥に畳んで置いてあった布団を引っ張り出して広げた。

「……寝ろ」

 再び促されて、悠里は素直に布団の上にポスンと倒れ込んだ。
 そんな悠里に掛け布団をふわりと掛けると、冬真はしばらく悠里の顔をじっと見つめた。そして悠里の瞼の上にそっと手を当てる。

「…………。」

 悠里は目を閉じた。温かい。

「……またな」

 冬真はぼそりと呟くように言うと静かに立ち上がり、部屋の電気を消した。テーブルの上に放り出されたアパートの部屋の鍵を手に取ると、靴を履き、部屋を出て行った。
 すぐに鍵をかける音が聞こえ、ドアに備え付けられた郵便受けにガチャンと音を立てて鍵が落ちてきた。

 ほの白く静かになった部屋で、悠里はそのまますうっと眠った。



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