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「……最近、少し顔色が良くなってきたわね」
「…え、そう?」
「……ええ。……安心、したわ。…ご飯ちゃんと、食べてるのね」
「う、うん。もちろんだよ」
悠里の返事を聞くと母はにっこりと微笑んだ。そう言う母の方がだいぶ痩せている。毎日会いに来ているが、日々どんどん衰えていっているのが手に取るように分かる。母を見るたびに悠里の胸は苦しくてたまらなくなった。お願いだから、俺を置いていかないで、母さん。そう縋り付きたくなった。だが母を困らせるわけにはいかない。心残りだと思わせたくない。毎日病の苦しみと闘っている母に、せめて俺のことは大丈夫だと、この子は一人になってもしっかりやっていけるはずだと思って安心してほしかった。自分にできることなんて、もうそれしかないのだから。悠里は必死で自分に言い聞かせ、母の前では懸命に笑顔を保っていた。
だが病院を出るとダメだった。張り詰めていたものがたちまち弾け、アパートに着くたびに涙が溢れる日々だった。玄関の鍵を閉めた途端に、嗚咽し、涙を流しながら震えていた。
それでも痩せ細ることなく、倒れることもなくどうにかやれていたのは、冬真の力が大きかった。
相変わらず呼び出されれば体の関係を強要されるが、それは以前のような乱暴なものではなくなっていた。むしろ悠里を優しく解き、ゆっくりと時間をかけて進めることが増えていった。何度も何度も無理に曝かれることもなくなり、一度か二度射精した後はバスルームで丁寧に体を洗われた。その後はそのまま自室で悠里に食事をさせる。バスルームから出るといつもローテーブルの上には様々な料理が並んでおり、悠里は秘書の抜群の手際の良さにいつも驚かされた。
悠里が食事をしている間、冬真も一緒に食事をとることが多かった。といっても別に何か会話をするわけではない。冬真は片手に外国の新聞や難しそうな雑誌を読みながら、片手でつまめるものを少し食べている程度だった。おそらく悠里の食事が終わるまでの時間つぶしのようなものなのだろう。悠里は食べながら冬真の横顔をそっと盗み見ることがあった。雑誌に目を落とし、伏し目がちに真剣に読んでいるその横顔は美しく、何故か鼓動が高鳴ることがあった。信じられない。なんで、こいつに。悠里は自分の動揺を認めたくなくて、フイッと目を逸らすと目の前の料理をもぐもぐと食べた。いつどれを食べても美味しかった。
そして帰りは大抵一緒に車に乗って送ってくれるようになった。車中でも別に大して会話はない。だが悠里の隣に座って外を見ながら、時々「飯食えよ」だの「帰ったらすぐ寝ろ」だの、気遣うような言葉をかけてくることがあった。そのたびに悠里は何故だか胸がキュッと甘く締め付けられるような感じがするのだった。
そんな日々が続いていたある日、悠里は母を見舞った後病室を出ると、主治医に呼び止められた。
「篠崎さん、少しお話できるかな」
優しい顔立ちをした温和な主治医だが、そう呼び止めれ悠里はギクッとした。主治医について廊下を歩いて行くと、カウンセリング室のような小さな部屋に通された。胃がぎゅうっと絞られたような感覚がして、ドクドクドク…と嫌な動悸がしてきた。頭がクラリと揺れ、汗が滲む。お願い、どうか…悪い話ではありませんように…。悠里は固唾を呑みながら祈った。
無情にも、主治医の口から聞かされた言葉は絶望的なものだった。
「お母さんは最初の入院以来ここ数ヶ月、ずっと頑張ってこられました。できる限りの治療を、君やお母さんと相談の上でやってきたけど…、もう、手は尽くしたといったところで…」
「………………はい」
悠里は下を向いて、小さく声を絞り出した。唇が震える。膝の上で拳をぎゅっと握りしめた。
「…そろそろ、緩和ケア病棟に移った方がいいかな、と思っているんだ。お母さんにとって、それが一番良いかと」
「………………。」
声を出せば溢れるものを抑えることができないと思い、悠里は歯を食いしばってコクコクと数回頷いた。ずっと親身になって最善と思われる治療を提案し、俺たち親子の気持ちに寄り添いながら手を尽くしてくださった先生だ。この先生が、もうできることはないと言うのなら、本当にそうなのだろう。
「緩和ケア病棟に移れば、今後は痛みをコントロールしていくことがメインになるから、今のお母さんにとっては最善の選択だと思う」
「………………はい」
もっときちんと礼を言うべきなのだが、喉が締め付けられるように痛くてこれ以上声が出せない。ここに来てなお、悠里は今自分や母に起こっていることが現実だとは信じられない思いだった。悪い夢なんじゃないだろうか。本当に、その時が近づいてきているの…?
呆然としながら真っ暗になった道を足を引きずりながら歩いた。崩れ落ちそうな体を無理矢理動かしどうにかアパートの前まで帰ってくると、冬真の家の車が停まっていた。横に立っていた秘書が悠里を見てスッと一礼する。
「お帰りなさいませ、悠里さん」
「…………。」
秘書が後部座席のドアをいつものように開ける。悠里の足は動かない。二人はそのまま立っていたが、しばらくして、悠里はゆっくりと首を横に振った。
「…………。」
「…………。」
「…本日は、お越しになれませんか?」
「…………。」
唇を震わせ、次々に涙を零しながら悠里は首を振り続けた。秘書は無表情のまましばらく黙って悠里を見ていたが、
「承知いたしました」
と一礼して、後部座席のドアを閉めると、そのまま運転席に乗り、車を発進させた。
悠里はヨロヨロとアパートの部屋に入り、そのまま崩れ落ちるように床に転がった。
「…え、そう?」
「……ええ。……安心、したわ。…ご飯ちゃんと、食べてるのね」
「う、うん。もちろんだよ」
悠里の返事を聞くと母はにっこりと微笑んだ。そう言う母の方がだいぶ痩せている。毎日会いに来ているが、日々どんどん衰えていっているのが手に取るように分かる。母を見るたびに悠里の胸は苦しくてたまらなくなった。お願いだから、俺を置いていかないで、母さん。そう縋り付きたくなった。だが母を困らせるわけにはいかない。心残りだと思わせたくない。毎日病の苦しみと闘っている母に、せめて俺のことは大丈夫だと、この子は一人になってもしっかりやっていけるはずだと思って安心してほしかった。自分にできることなんて、もうそれしかないのだから。悠里は必死で自分に言い聞かせ、母の前では懸命に笑顔を保っていた。
だが病院を出るとダメだった。張り詰めていたものがたちまち弾け、アパートに着くたびに涙が溢れる日々だった。玄関の鍵を閉めた途端に、嗚咽し、涙を流しながら震えていた。
それでも痩せ細ることなく、倒れることもなくどうにかやれていたのは、冬真の力が大きかった。
相変わらず呼び出されれば体の関係を強要されるが、それは以前のような乱暴なものではなくなっていた。むしろ悠里を優しく解き、ゆっくりと時間をかけて進めることが増えていった。何度も何度も無理に曝かれることもなくなり、一度か二度射精した後はバスルームで丁寧に体を洗われた。その後はそのまま自室で悠里に食事をさせる。バスルームから出るといつもローテーブルの上には様々な料理が並んでおり、悠里は秘書の抜群の手際の良さにいつも驚かされた。
悠里が食事をしている間、冬真も一緒に食事をとることが多かった。といっても別に何か会話をするわけではない。冬真は片手に外国の新聞や難しそうな雑誌を読みながら、片手でつまめるものを少し食べている程度だった。おそらく悠里の食事が終わるまでの時間つぶしのようなものなのだろう。悠里は食べながら冬真の横顔をそっと盗み見ることがあった。雑誌に目を落とし、伏し目がちに真剣に読んでいるその横顔は美しく、何故か鼓動が高鳴ることがあった。信じられない。なんで、こいつに。悠里は自分の動揺を認めたくなくて、フイッと目を逸らすと目の前の料理をもぐもぐと食べた。いつどれを食べても美味しかった。
そして帰りは大抵一緒に車に乗って送ってくれるようになった。車中でも別に大して会話はない。だが悠里の隣に座って外を見ながら、時々「飯食えよ」だの「帰ったらすぐ寝ろ」だの、気遣うような言葉をかけてくることがあった。そのたびに悠里は何故だか胸がキュッと甘く締め付けられるような感じがするのだった。
そんな日々が続いていたある日、悠里は母を見舞った後病室を出ると、主治医に呼び止められた。
「篠崎さん、少しお話できるかな」
優しい顔立ちをした温和な主治医だが、そう呼び止めれ悠里はギクッとした。主治医について廊下を歩いて行くと、カウンセリング室のような小さな部屋に通された。胃がぎゅうっと絞られたような感覚がして、ドクドクドク…と嫌な動悸がしてきた。頭がクラリと揺れ、汗が滲む。お願い、どうか…悪い話ではありませんように…。悠里は固唾を呑みながら祈った。
無情にも、主治医の口から聞かされた言葉は絶望的なものだった。
「お母さんは最初の入院以来ここ数ヶ月、ずっと頑張ってこられました。できる限りの治療を、君やお母さんと相談の上でやってきたけど…、もう、手は尽くしたといったところで…」
「………………はい」
悠里は下を向いて、小さく声を絞り出した。唇が震える。膝の上で拳をぎゅっと握りしめた。
「…そろそろ、緩和ケア病棟に移った方がいいかな、と思っているんだ。お母さんにとって、それが一番良いかと」
「………………。」
声を出せば溢れるものを抑えることができないと思い、悠里は歯を食いしばってコクコクと数回頷いた。ずっと親身になって最善と思われる治療を提案し、俺たち親子の気持ちに寄り添いながら手を尽くしてくださった先生だ。この先生が、もうできることはないと言うのなら、本当にそうなのだろう。
「緩和ケア病棟に移れば、今後は痛みをコントロールしていくことがメインになるから、今のお母さんにとっては最善の選択だと思う」
「………………はい」
もっときちんと礼を言うべきなのだが、喉が締め付けられるように痛くてこれ以上声が出せない。ここに来てなお、悠里は今自分や母に起こっていることが現実だとは信じられない思いだった。悪い夢なんじゃないだろうか。本当に、その時が近づいてきているの…?
呆然としながら真っ暗になった道を足を引きずりながら歩いた。崩れ落ちそうな体を無理矢理動かしどうにかアパートの前まで帰ってくると、冬真の家の車が停まっていた。横に立っていた秘書が悠里を見てスッと一礼する。
「お帰りなさいませ、悠里さん」
「…………。」
秘書が後部座席のドアをいつものように開ける。悠里の足は動かない。二人はそのまま立っていたが、しばらくして、悠里はゆっくりと首を横に振った。
「…………。」
「…………。」
「…本日は、お越しになれませんか?」
「…………。」
唇を震わせ、次々に涙を零しながら悠里は首を振り続けた。秘書は無表情のまましばらく黙って悠里を見ていたが、
「承知いたしました」
と一礼して、後部座席のドアを閉めると、そのまま運転席に乗り、車を発進させた。
悠里はヨロヨロとアパートの部屋に入り、そのまま崩れ落ちるように床に転がった。
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