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「なんか食うもの持って来い。何でもいい」

 それだけ言うとガチャリと受話器を置いた。

「………………。」

 誰に電話したんだろう。悠里はソファーに倒れ込んだまま、泣き疲れた頭の中でぼーっと考えた。もう終わりだ。絶対に機嫌を損ねるわけにはいかない相手だったのに。やってしまった。……まぁいいや、もう。母を看取ったら、俺も死のう。こんな人生、もう耐えられない。どうでもいい。
 自暴自棄になった悠里が、見るともなく床のラグをぼうっと見ながらそんなことを考えていると、しばらくして部屋のドアがノックされ、例の銀縁眼鏡をかけた秘書が入ってきた。

「失礼いたします。お持ちいたしました」

 スッと礼をすると、そう言って何やらワゴンを押して中まで入ってくる。悠里が転がっているソファーの前のローテーブルに次々と何かを並べていく。悠里とは一度も目を合わせない。どんどん並べてスッと立ち上がると、ワゴンを押して部屋の入り口まで戻り、振り返って一礼するとまた出て行った。ワゴンをコロコロと動かす以外、何ひとつ音を立てなかった。
 秘書が出て行くやいなや、冬真がドサリと悠里の横に腰かける。

「起きろ。食え」

 短く命じられ、悠里はヨロヨロと起き上がる。冬真の命令に反応することがすっかり身についてしまっている。
 起き上がってテーブルの上を見ると、様々な料理が並べられていた。サンドイッチにスープ、グラタンのようなもの、サラダ、フルーツがたくさん盛り付けてある大きな皿……。
 …え、食えって…、これ、まさか俺のために…?悠里はまじまじと冬真の顔を見つめる。

「…………。」
「…ど、どうして、俺に…」
「さっき言っただろうが。痩せすぎて抱き心地が悪ぃんだよ、お前。もう少しちゃんと肉つけろ」
「…………。」

 何だ、そんな理由で。…バカバカしい。悠里が動かずに黙っていると、

「…母親が心配するんじゃねぇのか。そんななりじゃよ」
「……っ、」

 母親を持ち出されると弱い。たしかに最近、母は悠里の心配ばかりしていた。こんな俺の姿を見て、さぞかし胸を痛めているだろう。

「…………い、……いただきます……」

 渋々手を合わせると、少し迷ってからスープ皿を手に取った。固形物よりは喉を通る気がした。

「…………。」
「…………。」

 隣に座って足を組んでいた冬真が、頬杖をついて悠里を見ている。ものすごく食べづらいが、スープを一口飲む。
 …あ、…美味しい。
 小さな角切りのような野菜がいろいろと浮いたクリームスープはとても美味しくて、食べ始めると途端に食欲が湧いてきた。パクパクと夢中で食べ続け、スープはあっという間に空になった。冬真はその間身動きもせずずっと悠里を見つめていた。

「……もっと食え」
「……。…そ、そんなに横でじっと見られたら、…食べづらいんだけど…」
「あぁ?」

 冬真は不愉快そうにチッと舌打ちして立ち上がると、フルーツの大皿から何かを一つ取って口に運びながら仕事机の方に向かった。
 …一緒には、食べないんだ。
 チラリと見ると、パソコンを打ちながら書類を片手に持ち、何か作業を始めた。仕事だろうか。何にせよ、見られていないので悠里は落ち着いて食事を続けることができた。

 サンドイッチやフルーツをいくつも食べて腹が満たされると、先ほどの自分の取り乱した姿が急に恥ずかしくなってきた。冬真の前で泣きわめき暴れてしまった。しかも…、どんなに偉そうなことを主張しても、自分が彼の父親の愛人の息子であることに変わりはない。

「……。……ごちそうさまでした」
「…………食ったか」

 先ほどまで穴があくほど自分のことを見つめていた冬真は、いつの間にか仕事に集中していたようだ。声をかけると少し間があって返事をした。

「……ちょっと待ってろ」
「…………。」

 居心地の悪い思いをしながらそのまましばらく座って待っていると、ようやく机から離れた冬真が悠里のそばにやって来て、ローテーブルの上の料理の残りをチェックする。

「……ふん。まぁいい」

 それだけ言うと受話器を取り上げまたどこかに電話をかけ始めた。

「車用意しろ」

 一言だけ命じてガチャリと受話器を置く。…おそらくあの秘書の人にかけているのだろう。間を置かず例の秘書がドアをノックする。やっぱり。

「行くぞ」

 今度は短く悠里にそう言うと、先に部屋を出て行く。悠里は慌ててジャケットを手に取り後を追った。

 いつもの黒塗りの車に乗り込むと、運転席に座った秘書に向かって冬真が

「こいつの家に向かえ」

と命じた。

「承知いたしました」

 秘書も簡潔に答えると、そのままエンジンをかけて車を出した。どうやら送ってくれるつもりらしい。
 車が動き出してしばらく経っても、自分の隣に座った冬真は一言も喋らない。悠里は逡巡した。やはり先ほどの失礼な態度をこのままうやむやにするわけにはいかない。気がする。

「……………………あの、」

 勇気を出して、隣に座り頬杖をついて外を見ている冬真に話しかける。

「…………。」
「…さ、さっきは…………すみませんでした」
「…………。」
「……俺の母が、…あなたのお父様と不倫をしていたことは、事実です。それなのに……、…ただ好きになっただけだなんて……、ゆ、…許されることでは」
「案外近いな」
「……え?」
「お前んちだ。ほら、もう着くぞ。ボロアパートに」
「……あ」

 目の前に悠里が暮らすアパートが見えてきた。車はいつものようにアパートの前に停まり、秘書がハザードをたいて運転席から降りると、悠里の横のドアをスッと開けてくれた。最後に何か声をかけるべきかとおそるおそる冬真の方を見ると、こちらには無関心な様子でアパートを見ていた。

「…犬小屋みてぇだな」
「……。」
「じゃあな。また呼ぶ。…飯食えよ」
「……し、失礼します」

 癪だが一応挨拶だけはした。食事も出してもらって、しっかり食べたのだ。さすがにプイッと帰るわけにはいかない気がした。

 秘書が運転席に戻り、すぐに車が発進した。去って行く車のテールランプを見ながら、悠里はふと気が付いた。

「あ…。今日、結局してない…」

 金も貰わなかった。…何だか変な一日だった。悠里はアパートの鍵を開けると部屋に入り、静かに鍵をかけた。電気を点け、ジャケットを脱ぐ。

(…怒られなかったな、意外にも…)

 あの暴力的な傲慢男相手に、突き飛ばして泣きわめいて、セックスもせずに帰ってきた。あの男は俺に食事をさせただけだった。何故か帰りの車にも一緒に乗って送ってくれた。

(…訳が分からない)

 悠里は大きく溜息をついた。




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