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病院から渡された書類に目を落とし、悠里は深い溜息をついた。
母が働けなくなってしまった以上、自分一人の稼ぎで全てを賄うしかない。悠里はこの数ヶ月必死だった。アパートの家賃、食費に日用品代、光熱費、通信費、大学の学費、そして母の入院費…。何も贅沢しなくても二人で生きていくだけで、金は嫌というほどかかる。大学に通いながらコンビニやカフェのアルバイトを掛け持ちし懸命にやってきたが、ついに金は底をつきてしまった。母の入院費用が払えていない。
このままでは入院を継続することは難しくなる。どうにかしないと…。母の前では平静を装っていたが、病院を出て帰宅の途につく道すがら、悠里は何度も溜息をついていた。大学を休学するしかない。もっと働く時間を増やさなければ。
20年以上もの間、自分を抱えて休みなく働き続けてきてくれた母。高校どころか、大学まで通わせてくれた。大丈夫、あなた一人の学費くらいどうにかなるわ。勉強したいなら遠慮しないでちゃんと大学に行きなさい。そう言って、ためらう自分を後押ししてくれた。自らを顧みずひたすら働き続けた母。もちろん悠里自身もアルバイトを頑張り出来る限り学費を捻出しようと懸命だったが、母はそれ以上だった。そんな母がある日の朝突然背中の激痛を訴えた。立つことも難しいほどの痛みだった。慌てて病院に連れて行ったときには、もうすでに病状はどうしようもないところまで来てしまっていた。
肺癌だった。骨にまで転移し、背骨が一部折れていた。医師から告げられたとき、悠里は何かの間違いだと思った。そんなわけない。何故?煙草なんか吸ったこともない母なのに。それだけが理由じゃないと頭では分かっていても、現実を受け入れることは困難だった。
母の人生を思った。苦労ばかりだったろう。頼る人もなく、働き詰めで、辛いことだらけだったはずだ。健康診断なんて受けに行く暇もなかったから、こんなことになってしまった。胸が張り裂ける思いだった。母が可哀相で、申し訳なくて、運命を呪った。母がいなくなってしまったら、俺はもうひとりぼっちだ。
そしてついに、金も尽きてしまった。歩く力も湧いてこない。薄暗くなった道を、一歩一歩引き摺るようにして足を動かし進んでいく。これからどうすればいいのか。もう普通のアルバイトを掛け持ちしたって、生活していけるか分からない。母の状態を考えると、入院はまだ長く続くだろう。今のところ退院できる見込みはない。どうやって今後の費用を捻出するか。もっと割の良い仕事を探さなくては。例えば、水商売とか…。あるいは、それでも首が回らなくなったら、借金するしかないのか。でもどこから…?銀行なんかがうちに貸してくれるわけがない。だとすると消費者金融か…。
俯いてとぼとぼと歩いていると、ようやく帰り着いた。ふと顔を上げると、アパートの前に黒い車が停まっていて、その横に誰かが立っているのが見える。…あの人は…、何度か会ったことがある。先日の門倉社長の葬儀の日にも会話した。秘書の人だ。何故ここに…?
悠里が近くまで来ると、その秘書の男性は悠里に向かってスッと頭を下げた。無表情で心が読めないタイプだ。銀縁の眼鏡をかけていて、いつもきっちりとスーツを着こなしている。まだ30代前半くらいだろうか。端整な顔立ちの真面目そうな男だ。
「お帰りなさいませ」
「…どうも」
何と答えていいか分からず、ぼそっと返事をする。すると秘書の男性は唐突にこんなことを言い出した。
「突然で申し訳ありませんが、篠崎悠里さん。これから門倉冬真の自宅にお越しいただくことは可能でしょうか」
「…………え?」
意味が分からず、悠里はきょとんとした。門倉冬真?誰?
…まさか。
「…その、人って」
「はい。先日亡くなった門倉秀一郎社長のご子息です。悠里さんとお話がしたいと、自宅で待っております」
「……な、何故、でしょうか。俺と何の話が…」
悠里は胃袋をぎゅうっと掴まれたような気がした。あの時の冷酷な男が自分を呼んでいる。一体何の用が…?まさか。母の件で慰謝料など請求されてしまっては…、もうどうにもならない。心臓がドクドクと激しく鳴り始め、背中にじわりと嫌な汗が浮いた。
「用件につきましては、本人より話があるかと。よければこのまま、ご同行ください」
そう言うやいなや、秘書は横に停めてあった黒塗りの車の後部座席のドアを開けた。問答無用のようだ。
「………………。」
どうせ今何かと言い訳をしてこの場を逃れたところで、いつかは必ず行かねばならないのだろう。悠里はそれを察し、ヨロヨロと車に乗り込んだ。
母が働けなくなってしまった以上、自分一人の稼ぎで全てを賄うしかない。悠里はこの数ヶ月必死だった。アパートの家賃、食費に日用品代、光熱費、通信費、大学の学費、そして母の入院費…。何も贅沢しなくても二人で生きていくだけで、金は嫌というほどかかる。大学に通いながらコンビニやカフェのアルバイトを掛け持ちし懸命にやってきたが、ついに金は底をつきてしまった。母の入院費用が払えていない。
このままでは入院を継続することは難しくなる。どうにかしないと…。母の前では平静を装っていたが、病院を出て帰宅の途につく道すがら、悠里は何度も溜息をついていた。大学を休学するしかない。もっと働く時間を増やさなければ。
20年以上もの間、自分を抱えて休みなく働き続けてきてくれた母。高校どころか、大学まで通わせてくれた。大丈夫、あなた一人の学費くらいどうにかなるわ。勉強したいなら遠慮しないでちゃんと大学に行きなさい。そう言って、ためらう自分を後押ししてくれた。自らを顧みずひたすら働き続けた母。もちろん悠里自身もアルバイトを頑張り出来る限り学費を捻出しようと懸命だったが、母はそれ以上だった。そんな母がある日の朝突然背中の激痛を訴えた。立つことも難しいほどの痛みだった。慌てて病院に連れて行ったときには、もうすでに病状はどうしようもないところまで来てしまっていた。
肺癌だった。骨にまで転移し、背骨が一部折れていた。医師から告げられたとき、悠里は何かの間違いだと思った。そんなわけない。何故?煙草なんか吸ったこともない母なのに。それだけが理由じゃないと頭では分かっていても、現実を受け入れることは困難だった。
母の人生を思った。苦労ばかりだったろう。頼る人もなく、働き詰めで、辛いことだらけだったはずだ。健康診断なんて受けに行く暇もなかったから、こんなことになってしまった。胸が張り裂ける思いだった。母が可哀相で、申し訳なくて、運命を呪った。母がいなくなってしまったら、俺はもうひとりぼっちだ。
そしてついに、金も尽きてしまった。歩く力も湧いてこない。薄暗くなった道を、一歩一歩引き摺るようにして足を動かし進んでいく。これからどうすればいいのか。もう普通のアルバイトを掛け持ちしたって、生活していけるか分からない。母の状態を考えると、入院はまだ長く続くだろう。今のところ退院できる見込みはない。どうやって今後の費用を捻出するか。もっと割の良い仕事を探さなくては。例えば、水商売とか…。あるいは、それでも首が回らなくなったら、借金するしかないのか。でもどこから…?銀行なんかがうちに貸してくれるわけがない。だとすると消費者金融か…。
俯いてとぼとぼと歩いていると、ようやく帰り着いた。ふと顔を上げると、アパートの前に黒い車が停まっていて、その横に誰かが立っているのが見える。…あの人は…、何度か会ったことがある。先日の門倉社長の葬儀の日にも会話した。秘書の人だ。何故ここに…?
悠里が近くまで来ると、その秘書の男性は悠里に向かってスッと頭を下げた。無表情で心が読めないタイプだ。銀縁の眼鏡をかけていて、いつもきっちりとスーツを着こなしている。まだ30代前半くらいだろうか。端整な顔立ちの真面目そうな男だ。
「お帰りなさいませ」
「…どうも」
何と答えていいか分からず、ぼそっと返事をする。すると秘書の男性は唐突にこんなことを言い出した。
「突然で申し訳ありませんが、篠崎悠里さん。これから門倉冬真の自宅にお越しいただくことは可能でしょうか」
「…………え?」
意味が分からず、悠里はきょとんとした。門倉冬真?誰?
…まさか。
「…その、人って」
「はい。先日亡くなった門倉秀一郎社長のご子息です。悠里さんとお話がしたいと、自宅で待っております」
「……な、何故、でしょうか。俺と何の話が…」
悠里は胃袋をぎゅうっと掴まれたような気がした。あの時の冷酷な男が自分を呼んでいる。一体何の用が…?まさか。母の件で慰謝料など請求されてしまっては…、もうどうにもならない。心臓がドクドクと激しく鳴り始め、背中にじわりと嫌な汗が浮いた。
「用件につきましては、本人より話があるかと。よければこのまま、ご同行ください」
そう言うやいなや、秘書は横に停めてあった黒塗りの車の後部座席のドアを開けた。問答無用のようだ。
「………………。」
どうせ今何かと言い訳をしてこの場を逃れたところで、いつかは必ず行かねばならないのだろう。悠里はそれを察し、ヨロヨロと車に乗り込んだ。
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