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 篠崎悠里は車椅子を押し、母の入院先の総合病院に戻ってきた。病室に入ると母が車椅子から降りるのを手伝い、一番奥の窓際にある母のベッドに休ませる。

「体、どう?辛くない?」
「大丈夫よ、ありがとう、悠里。…もう、思い残すことはないわ」
「…なんか縁起でもない言い方止めてくれる?」
「そうね、ふふ。ごめんね」

 母に布団をかけながら、そんな会話を交わす。

「…ねぇ、本当に、大丈夫だったの?さっきの…」
「…葬儀会場の外で声をかけてきた人でしょう?うん、別に大丈夫だったよ。社長の息子さんだったけど、母が社長の知り合いだったので少しだけでもと寄らせていただきましたって話したら納得して会場に戻っていってたし」
「…ならいいんだけど。…私の我が儘で、悠里に嫌な思いさせてしまったんじゃないかって…」
「心配しないで。何も嫌なことは言われてないから」
「そう…。息子さんも、お辛いでしょうに。こんなにも突然…」

 そう言うと、母はふいに黙り込み、瞳を潤ませて天井を見上げた。

「……。少し休んで、母さん。俺ちょっと下の売店に行ってくる」

 そう言うと悠里は病室を離れた。



 母である春美の恋人、門倉秀一郎に悠里が会った回数はさほど多くない。初めて会ったのは、具合の悪い母を連れて自宅アパートまで送ってきてくれた時だった。
 母春美はシングルマザーとして、苦労しながらも懸命に悠里を育ててくれた。悠里の父親となるはずだった男は、春美の妊娠が分かるやいなや逃げ出した。あまり詳しく話してくれたことはないが、母の育った家庭環境は良くなかったらしい。元々母に対して暴力的に振る舞っていた母の両親は、未婚での妊娠に激怒し、母を家から追い出した。頼る相手が誰ひとりいなくなってしまった母は、悠里が幼い頃から朝も夜も働き詰めだった。息子を養うためにあらゆる仕事をこなした。早朝から新聞配達や弁当屋でのパート、夜は工場やスナックで働いたりもしていた。子どもの頃から母が不在で寂しい思いをすることもたくさんあったが、母はどんなに疲れている時でも悠里に優しく接してくれていた。
 悠里が高校生の時だった。その頃の母は夜にスナックで働いていた。深夜になってもなかなか帰って来ず心配していた時。
 ふいにアパートのドアが控えめにノックされた。
 驚いて悠里が開けると、そこには身なりの良い紳士が、ぐったりとした青い顔の母を支えて立っていたのだ。

「突然すまない。お母さんが目まいがするようで…。心配だったから、送ってきたんだ。…ちょっと失礼するよ」

 そう言うと部屋の中に母を抱えて入ってきた。

「…布団を敷いてもらえるかな」

 男がそう言うので、呆気にとられてポカンとしていた悠里は慌てて母の布団を敷いた。
 男はゆっくりと母を寝かせると、優しく声をかけた。

「…大丈夫かい?本当に病院には行かなくていいのか」
「…ええ。…ご迷惑を、かけてしまって…」

 母が呻くようなか弱い声でそう答えると、男は母の髪を大事そうにそっと撫でた。

「いいんだ。私のことは気にするな。ゆっくり休むんだよ。もし何かあったら、遠慮なく連絡してくれ。…いつでも」
「…ありがとう…ございます…」

 しばらく母を傍で見守っていた男は、立ち上がると悠里に向かって、

「突然上がり込んで驚かせてしまって申し訳ない。私はこれで失礼するよ。…お母さんを、頼む」

 そう言うと玄関に向かった。悠里は慌てて見送り、玄関先で頭を下げた。

「す、すみませんっ。わざわざありがとうございました」
「…君からも、もし何か助けが必要なことがあったら、遠慮なく私に連絡してくれ」

 そう言うと男は名刺を取り出し、悠里に渡してくれた。
 男が帰った後、悠里は名刺に目を落とした。そこにあった会社名は誰もが知っている大企業のもので、そこの代表取締役社長として男の名が記されていた。
 悠里は驚いていた。今の男が社会的地位のある人物だったことだけではない。母と男の間の空気は、二人がただの他人ではないことを悠里に感じさせた。あの男が独身なはずがない。おそらくは既婚者だろう。だとすれば、これは許される関係ではないはずだ。母を責めたい気持ちはあった。だが…。
 悠里は鍵をかけ、母の元へ戻る。

「…大丈夫?母さん」
「…ん…。…ごめんね、悠里…。…すぐに、元気になるから…」
「お願いだから、無理しないで。…水いる?飲む?」
「…ううん、いい。ありがとう…。少し、眠るから…」
「…うん」

 悠里は母の掛け布団にそっと手を置くと、明かりを消した。

 自分を産んでくれた時から、17年間。頼る身内もない母は、たった一人でずっと頑張ってきてくれた。それはどれだけ大変なことだったろう。こんなに体を酷使して、朝も晩もずっと働き詰めだったのだ。こうして高校にも通わせてくれている。困ったことがあっても、悩みがあっても、相談する相手もいなかったはずだ。幼い自分とずっと二人きりだったのだから。心細い時もたくさんあっただろう。

「………………。」

 悠里は狭い部屋の中で、母の隣に布団を敷いてそっと潜り込んだ。
 支えてくれる手に縋りつきたい時だって、きっとある。母を責めることはできなかった。



 病室を出て廊下を歩き、少し離れたトイレの中に入る。幸いにも誰もいなかった。

「…………っ、くっ……」

 悠里は顔を覆った。我慢していた悔し涙が溢れる。

『なんかおこぼれが貰えるとでも思ったのか。残念だったな。愛人が受け取れる遺産なんかねぇぞ』

『うるせぇよ。愛人の分際で、何がそんな人間じゃねぇだ。立場分かってんのか。』

『てめえらと違ってな、こっちには世間体っていうもんがあるんだよ。考えりゃ分かるだろうが。日陰の身が、こんな場所にのこのこ出てきてうちに恥かかすんじゃねぇ』

 あの息子の冷たく見下した、刺すような視線。辛辣な言葉。
 堪えようのない怒りで体が震える。分かっている。母と自分があの場に行っていいわけがなかった。ご家族にとっては俺たちなど害虫のような存在だろう。でも。
 余命いくばくもない母の、俺を抱えてずっと必死に生きてきた母の、最後の望みだったのだ。人生でたった一人、愛してくれた男性との、最後の別れだったのだ。

 母が憐れで、自分が惨めで、そしてあの冷酷な息子が憎くて。
 悠里は涙が止まらなかった。




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