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二章 夢見鳥
十九
しおりを挟む椿は右手で頭を抱え、必死に思い出そうとする。次第にガンガン頭が鳴る。酷い頭痛と共に脳裏に浮かんだ景色は、今ここにいる禁域だった。
椿はようやっと、今一度自身の状況を悟った。自分の中に入り込んだ何かが、この身体を使って好き勝手している……。
「ふふ……気に入らないな」
椿は汗を握る右手を懐に突っ込み、護身用の小刀を取り出して順手に握る。
まだ戦うつもりなのだろうか? と胡兵や鱗は思ったが、瀬々は黙って見守るだけだった。
そして、椿はその小刀の刃を、自身の左目めがけて突き刺した。
「先生⁉︎」
突然の奇行に瀬々は驚き、椿に寄り添おうとするが、椿は手を前に出して制止の身振りをした。痛みに悶え苦しみながら、その身から「何物か」が離れ行くまで椿は左目を抉る。
瀬々が顔を覗き込むと、左目を囲う災厄封じの呪印が薄れていく。それと同時に、禍足が椿の身から上方に出て集まり始めた。
蝶というより蛾のような、大きな虫の姿をした穢魂のようなものが、極彩色の光と土煙を発してゆっくりとその翅を広げ、姿を表す。
――これが、怪物が禁域に私を導いて、この身に埋め込んだ災厄の姿か。
椿は左目を押さえながら、開いた右目でその姿を捉えた。篝火の光を反射し美しくきらめくその翅は、かつて紙芝居で見た夢見鳥に似ている。同じことを思ったか、胡兵はそれを呆然と見ながら、
「夢見鳥……」
と呟いた。当然その「御伽話」のほうの夢見鳥でないのは胡兵にもわかってはいた。「都市伝説」のほうなのだろうか?
椿はゆっくり立ち上がり、四つの祠が設置された壁面に向かう。壁面はよく見ると縦に長い亀裂が入っていて、地面に輪状の窪みが彫られた石板が埋め込まれている。椿が壁面を叩くのに目をやったとき、胡兵の目にその石版が映り、そしてその窪みの大きさ、形になんとなく見覚えを感じる。
「オイ椿! お前は何を考えてんだ?」
「……化け物はこれで終わりではない。禁域にはまださらに奥がある……」
楸と椿の会話を聞き流しながら、胡兵は人型穢魂に渡されていた首飾りをポケットから出して、石板の窪みと比べるように重ねてみた。ゴリゴリと音を立てて亀裂の隙間が広がっていく。
「た……確かに洞窟はまだ続いてるみたいだな⁉︎」
新たな空間が奥に広がるのを見届けるのを待っていたかのように、ゆっくりと翅を開き切った夢見鳥は、その奥の空間へ飛んで行く。
一同がそれを追って踏み入れた禁域の最奥は、洞窟の中とは思えない明るさで、色とりどりの花と鉱石が壁中でひしめき合う、美しくも作り物のような世界。これまでの空間と同様に篝火が燈り、せせらぎの音の方を見遣れば泉が湧いている。
「なんだ騒がしいなぁ」
どこからともなく、男とも女ともわからない高さの声で、話し声が聞こえてきた。続いて数人分の声が会話するのが聞こえる。
「災厄がいくらか外に逃げましたからねー」
「その代わり客人も入ってきたようだが」
「ん? 人間が五人……門番が間違えたのか?」
「まあ大した問題じゃないさ、それより災厄どうするよ」
「人々は我々を信じていませーん。救ってやる義理は無いでしょー」
「一応聞いてみようか。汝らは、わたしを信じるか?」
会話は一同の答えを待つかのようにぴたりと止んだ。夢見鳥は、無理に先に進もうとしているかのように、一番奥の壁に体を何度もぶつけている。
「……だ、誰の声……? 誰かいるのか?」
胡兵はぐるりとあたりを見回す。
「答えよ」
空中にぽかりと浮かぶようなその声は、戸惑う胡兵らに返答を急かした。
「……昔、人々は八百万の神と言って、太陽、月、海に山……あらゆるものに神性を見出していた。人々がまだ神を信じていた頃……神々は人々の恐怖を拭い、幸福を願う心を支えてきた」
唐突に楸が胡兵に向けて語りかける。神を信じなくなった虹華国民には遠い昔話である。胡兵は楸のわかりにくい話にはそれなりに意味があることを経験から知っているため、聞き漏らさぬよう考えながら耳を傾けた。
「七百年前、災厄が文明を滅ぼすまでは……」
そこからが、虹華国民の価値観に繋がるところである。人間が神を信じなくなったその日、人間によって造られたはずの神は居場所を無くした。
「聡い人間は好きでーす」
「愚かな人間もまた愛しいものだがね」
「我々はいつでも人々を愛しているのに……あー。伝わらなければ愛ではないのか……」
空間に響く、誰のものかわからない複数の声の会話がまた始まる。
「……楸さん。情報提供感謝するわ……」
「じゃ、代表して答えをどーぞ」
楸は胡兵の肩を強めにポンと叩いた。
「さて今一度問おう。汝はわたしを信じるか?」
胡兵はすう、と息を大きく吸うと、どこにいるのかわからない声の主に届くように声を張り、
「信じるぜ! 災厄封じのために力を貸してくれ!」
と答えた。
「聡い人間は好きだ……そして、己の身の程を正しく知る人間は聡い」
「汝らよ……この虹架る国の難を救い、英雄となれ」
「汝らの未来に幸多からんことを!」
口々に話す何者か――四人の神の声がまた止むと、爆風と共に最奥の突き当たった壁が破れ、夢見鳥はそのまま外界に飛び出して行ってしまった。胡兵らは、その身に莫大な力を感じながら禁域外に弾き飛ばされる。洞窟に入ってからは地下に向かって下がって進んだはずなのに、飛び出した場所は崖下のようで、目下に森が広がるのを鳥瞰できる。
「お、落ちる! 死ぬ!」
胡兵は慌てふためいて、バタバタを空中を泳ぐ。着地しなければ――胡兵は落ちる間に頭を目一杯回して、指輪のはめられた親指を見る。
胡兵、鱗、椿、楸は胡兵が魔脚で作り出した大きな土のスロープに雪崩れ込み、ゴロゴロ転がって衝撃を和らげながら地上へ着いた。
「鱗さん無事かぁ!?」
「大丈夫! 目が回ってふらつくけど!」
――瀬々は?
楸は洞窟から弾き出されたその時から、瀬々だけが居ないのに気づいていた。あの禁域の中に取り残されたのだろうか。壁は壊れていたし、あいつならどうにかして出られるだろう、と楸は自分らが落ちてきたその穴を遠く見遣り、振り向いて目前の状況に目を向けた。
「お嬢、あいつの目、応急処置を頼めるかい?」
「もちろん」
鱗は椿の方へ駆け寄り、抉った目の様子を確認すると、懐から出したガーゼを細長く引き裂いて左目を覆うように巻いた。
ひと足先に禁域から飛び出した夢見鳥は、橙城方面に飛行していく。
「瀬々さんいないのは気になるけど、あいつ追わねーとやばいんじゃねーの」
胡兵が夢見鳥を指差す。夢見鳥は決して速くはないスピードで、ひらりひらりと飛んでいく――ところどころに穢魂の稚児を撒き散らしながら。
四人が禁域から弾き飛ばされるその時、瀬々の左袖を強く掴んで内へ引き込んだ何者かがいた。瀬々は四人が遠く吹き飛ばされるのに右手を伸ばしたが、瀬々だけは行動を異にすることになる。
爆風が止み、禁域内が再び静かになると、瀬々を囲む二人の童がいた。
「漸く見つけましたぞ」
「見つけましたぞ、虹華の王」
髪をみずら様に結ってまとめ、えらく古風な衣装を着た男女の童たちは、瀬々の顔を見上げて懸命に話しかけていた。
「……? 貴方たちは、どなた?」
瀬々の視線は、子供に向けるべき優しいそれではない。訝しげで、かつ、何かを企んでいるような目だ。童たちはそれぞれ瀬々の左右の手を掴んで、また別の場所へ誘おうと歩き出す。瀬々は抵抗もせずに伴って歩いた。
「王よ。虹華国の王はなにも、人間の住む五州のみを統べる存在ではありませんぞ」
「ありませんぞ。ここ地の国隠州と、われわれの住む神の国、陽州をも治めてもらわねば」
童らは口々に、質問にも答えずに勝手に話を進めていこうとする。瀬々は黙って、ふうん、という風にそれを聞いていた。
「代々王は即位前に、ここへ来て、この国のすべてを知るのです」
「知るのです。……先代の王が死んだ後、どこかにいるはずの貴女がいないから困りました」
童はいかにも子供らしいふっくらした頬をさらに膨らませて、首を左右に振ってみせた。
「そうですね、で、先代崩御から今まではどうしていたんです?」
瀬々は純粋に興味で聞いた。
「先代の死の理由が理由なので、えーと」
「えーと、それで、人間の住む領域の騒ぎを収めるためにここへ来た軍人に、暫定の王を任せました」
瀬々はくすくす笑って言った。
「暫定、ね……そんなのが良しとされるなんて結構テキトーなんですねぇ」
「ところがあの軍人、われわれの願いを完全には聞き入れてくれなかった」
「くれなかった! 陰陽二州には我関せず、人間の領域でさえ、先代のやり方をなぞるだけ」
童は不満げに目を釣り上げて、怒ったように文句を言った。
「暫定の、なんて枕詞つけたからじゃないですか。ちゃんと頼むべきだったのでは?」
瀬々はその「暫定の王」の意地悪な顔を思い浮かべて、余計に笑えてきてしまう。あの人はこんなところでまで巻き込まれ体質なんだ、とも。
瀬々は二人に手を引かれ、入って来た場所とも四人と逸れた場所とも違う出口に着いた。
外なのに、これまでいた世界とは少し違う空気感の場所。何もいないように見えるが、何者かが暮らす気配がする。瀬々は辺りをすこし見回しながら、二人の童に尋ねようとした――
――頭の中に、なにかたくさんのことが流れ込んでくる!
こんなにも突然で、一方的なのかと……こんなやり方じゃ暫定の王――楸さんが言うことを聞いてくれるはずない、と、瀬々はチカチカと細かい光が瞬いて揺らぐ視界の中、思わずくつくつ笑うのを抑えられない。
流れ込む大きな波が去ると、瀬々はそのあまりの量に一瞬吐きそうになるが、留まった。
「なるほどこれは人間のやり方じゃないですよ、まあでもわかりました、あなた方はほんとうに……」
瀬々がべらべら喋るのを遮って、童たちが口を開く。
「人間ではないですから」
「ないですから……でも、人間とある種対等で、怪異ともまた、そうなのです」
瀬々は喋ろうとするのをやめた。まだ、この状態で、振る舞いをコントロールすることに慣れない。何も考えないままもとの人間の領域とやらに戻っていつも通りに振る舞えば、少しおかしなことになると、短絡ながらに危惧した。
瀬々はその後二人の童と別れ、誰に聞くでもなく自らの足で禁域の外、抹香や蚕蛾が待たされている洞窟入り口までたどり着いた。
「あ、あの時のおん……」
「こら蚕蛾! 閣下の恩人に向かってその口の利き方はなんだ」
「……お二人は、橙城にお戻りになられた方が。禁域からまた化け物が飛び出したので」
瀬々は言葉を選びながら、不自然のないラインを探りながら話した。それがまた、彼女らしくなく不自然なのだが。
「なんと、して閣下はどこへ?」
「とっくに禁域を出て化け物を追っています。だから貴方たちもここから動かないと置いてけぼりですよ」
抹香と蚕蛾はその言葉に煽られて、意気揚々と武器を抱えて走っていった。去り際、蚕蛾が一度瀬々の方を振り向くと、瀬々は高い空を見上げて、これまた彼女らしくない神妙な面持ちで、数多の天書鳩を集めては飛ばしていた。天書鳩を扱えるのは、皇族と一部の軍上層部の人間のみと限られている。「どこの馬の骨かわからない」瀬々の正体に俄然興味が湧いた蚕蛾は口元を緩ませながら、急くように足取り軽く橙城方面に飛ぶように走った。
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