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一章 名もなき怪物
十
しおりを挟む地面に散った枯葉を踏み鳴らしながら走る大きな蹄。背ではその主人が手綱を握っている。夏が過ぎて下がった気温の中を駆け抜けると、歩いているより寒く感じるものだ。瀬々は時折コートの襟を口元に手繰り寄せて、息で暖をとりながら進む。
獣道を抜け、砂利道を抜け、目的の「怪物」のもとへ。
「やっとお会いできましたね!」
瀬々は軽やかな身のこなしで、ふわりと鞍寅の背から飛び降りた。
「探したんですよ……美味しかったですか? 私の左腕は」
胡兵の身体を乗っ取った怪物は、自らを睨む瀬々の姿に、六年前の事件を鮮やかに思い出す。
「……殺すっ、今度こそ殺すっ! 皇ぞ……」
「そういうおつもりで来られるのなら、こちらもそれなりの対応をさせていただきます」
瀬々は怪物の話を遮って冷たく答えた。
「温室育ちの姫さまなんかに何ができる!」
怪物は胡兵の身体を無遠慮に振り回し、瀬々を狙って叩きつけようとする。瀬々はその場からジャンプして、攻撃を避けた。勢い余った怪物は、逆にそのまま地面に叩きつけられる。
「うーん……温室育ちなのは否定しませんが、それゆえに、一定の訓練を受けていますよ」
自らの、義手の左手首を右手で強く掴み、捻り取ってしまう瀬々。前腕の先に露出した銃口を、怪物に向け、
バン、バン!
二発の威嚇射撃。怪物は跳ねるように後方へ退がる。
――ガワは胡兵くんの身体だから、急所は避けて動きだけ止めたい。
「昇木葉付芯入牡丹先青紅光露……」
瀬々が呪文を呟くと、先程放たれた二発分の銃弾が、激しく火花を散らしながら怪物に飛びかかる。
バン!
「あちあち!」
バン!
咄嗟には避けきれない、広範囲の火花の雨に慌てふためいて見せながら、怪物は退がって瀬々の攻撃を避ける。怪物も負けじと右手を掲げると、皮膚が塵のようにぱらぱら剥がれ落ちて、鋭い爪を備えた凶獣の前足に姿を変えた。
「ナイアガ……」
瀬々が次の呪文を唱えようとしたとき、怪物は離れて見守る鞍寅の方へ走り寄って、その獣の前足を振り上げた。
「鞍寅!」
瀬々が思わず攻撃を止めて叫ぶ。鞍寅を守ろうと駆け寄る瀬々の脇腹に、急に振り返って方向を変えた怪物の腕が鞭打った。
「ギャハハハハハ! 甘いんだよー‼︎」
――しまった……! 鞍寅、逃げて……
瀬々は宙を低く飛んで、藪の中に落ちた。怯えた鞍寅はどこかへ走って逃げてしまう。
「逃がさねーぞ、とどめを刺さないとな~……」
怪物は瀬々が落ちたあたりの藪の中を手探って、触れたものをそのままずるりと引き上げた。
人のかたちの、人のおもさの、人に似て非なる……
拾い上げたそれ――瀬々に似せて作られた人形は、怪物を嘲笑う滑稽な顔が描かれた頭をカタカタ震わせ、数秒後、ぱん! と軽い音を立てて弾けた。怪物の顔に、中から飛び出した赤黒い液体がこびりつく。
「なんだ!? ちくしょう、目が!」
目を強く擦る怪物。付着した液体の濃度・粘度が高いのか、擦っても擦っても視界が濁って前が見えず、狼狽える。
「どうだ……驚いたかぁ?」
血の色に霞む景色のどこかから聞こえたのは、瀬々の声ではなかった。
「くそ、次は何が出てきたっていうんだ……」
見えないながらにその声の主を探そうとキョロキョロ見回す怪物。藪をかき分ける音を頼りに、ぼんやり人影を捉えた。気を失った本物の瀬々を抱え、怪物を見据えて悠然と立つ、黒い人影。
――こいつは、あの時の……
怪物はその気配にまた六年前の騒ぎを回想した。
「生き残っていたか……随臣……」
「あぁ? なんでお前がそんなこと知ってんだ」
人影の正体――楸は、怪物にそう問うておきながら興味なさげに、腕の中に力なく収まる瀬々に苦い表情を向けた。
「戦ったことあるだろう。戦術を変えたか? それとも、鈍になっ……たのか」
怪物は次第に息苦しそうに、ゆっくりと上体を屈めながら、途切れ途切れに言う。
「……皇太弟を殺……したときの……あの鋭さはど……」
「フン、鈍か。まあ一線を退いて尚、物騒なことばかり考えてるほど俺は血生臭くない」
肩で息をする怪物に冷笑を送る楸は、からかうように楽しそうに訊いた。
「苦しいかァ?」
口角をにやりと引き上げて、しかしその目は黒曜石の矢尻の如く、怪物を射殺すように睨み、
「さっきお前が被った血糊なぁ、アレちょっとした毒薬混ざってんだ~……」
「ふ ざけ……や がっ」
怪物はその場に崩れ、前足の変化も解けた。倒れ込み、そのまま気絶してしまう。
「安心しな、致死性は無い」
楸は瀬々を抱えたまま、倒れた怪物――胡兵の身体に近寄って、その呼吸を確認した。脂汗をかいて、悪夢に唸りながら眠るその顔は、怪物の気配が消えた元の胡兵のものだった。
「守りたいもんの為ならどんなインチキでもしてやるさ……なぁ、青桐先生よ」
独り言のあと、楸は木陰に隠れて一部始終を見ていた鞍寅の無事も確認し、
「鞍寅。おまえのご主人、運んでくれるかい?」
と声をかけた。鞍寅は心配そうに瀬々の顔を覗き込んだが、すぐにくるりと胡兵の方へ歩き、胡兵の身体を起こそうと鼻先で突いた。
「……そっちを運んでくれるのか」
瀬々を任せた楸の隣を、鞍寅は背に乗せた胡兵が落ちないようにゆっくり静かに歩いた。三人と一頭は道中ずっと黙ったまま、橙城に向かう。
「お嬢、いるかい」
青桐医院の玄関の扉を叩くと、鱗が慌てた様子で出迎えた。
「楸さ……胡兵⁉︎ 瀬々ちゃんも」
「二人の手当てを頼みたい、胡兵の方には、悪いが少々毒を盛った。どちらも気絶しているだけ」
楸は端的に説明すると、鱗に促されて診察室へ入る。まず瀬々をベッドに下ろし、鞍寅が背負う胡兵も運び入れた。
街なかで騒ぎや事件の噂を聞かないまま、胡兵が戻ってきたことには安堵しながらも、鱗はこの状況を見て問わずにいられない。
「もしかして胡兵が瀬々さんを?」
楸は首を横に振り、
「正確には『名もなき怪物』の仕業」
と答えた。
「やっぱり……そうなの」
「胡兵が知るはずのないことを口にしていたし、おそらく」
楸は首を回してゴリっと鳴らすと、ひとつ大あくびをして、壁に寄せてある背もたれのある椅子を引き出して掛けた。
鱗は二人が負った細かい傷に、消毒液を塗り絆創膏を貼るなどしていく。
「なんの毒を盛ったの」
「それは言えない、国家機密」
「それじゃ解毒のしようがない!」
「テキトーにやってくれぇ……あ」
楸は机の上の二人分の遺影に気づいて、眉を顰め、
「お嬢。先生の、お参りさせてもらってもいいかい」
鱗は一瞬調剤の手を止めて、
「母さんにもお願いします」
と答えた。楸はうん、と頷いて、二階の居住スペースの、仏壇のある和室に向かう。
壊れたままの壁の向こうにはまだ、鱗の母が生活していた跡がそのまま残っている。
虹華の民は宗教を嫌うというか、そんなものはないと相手にしたがらない国民性なのに、仏壇はあるのはなぜなのか? 神だの仏だのを考えるのが面倒で、それでも死者を悼む気持ちは表したいからと、遺跡から発掘した前文明の儀式を形だけ再現したのだろうか。眠い目を擦り、ぼんやり考えながら楸は仏壇の前に正座する。
「あとはどうにかしますよ、必ず」
作法通り手を合わせて祈ると同時に、そう呟いた。
階段を降りて、三人のいる診察室へ戻る。二人はまだ眠っていて、鱗は浮かない顔でぼんやり空中を見つめている。
楸は何も聞かなかった。
♢
六年前、二七一八年。当時、楸は香淵帝の側近だった。彼女の単なる話し相手になることも多かった。
帝は凛々しい美貌の持ち主で、普段は寡黙ながら、口を開いた時にはかなりズバズバとものを言う人だった。説明不足といえるほど端的に、結論しか言わない。しかし、呼びつけられてふたりで話をする時は、茶や菓子なんかを味わいながら、地に足のつかない他愛ない話をふわふわ楽しむことも多かった。
そんな帝に、突然「おまえさんの魔脚は水だな」と言い当てられた時は驚いた。他人の魔脚を読むことができる人間なんているのか。楸が率直に疑問をぶつけると、帝は「虹華の皇族は……いや、そのなかでも一部の人間は、この力を備えていることがあるのだよ」と答えた。
そして『あの日』――虹華帝国皇帝の居城にて。
「御所に向かってきているだと! 衛士らはどうした!」
「中将殿! ここも危険です、どうにも止められない……」
「なんだって」
外から一人の衛兵が走ってきて、左近衛中将に状況を伝えた。それを横で聞いていた右近衛少将――玄倉楸は、
「陛下、発砲許可を……」
と帝に要求した。
「右近の! 相手は……皇太弟殿下であるぞ」
「殿下を生かしたまま救う手立てがおありですか。それに我々は皇太弟殿下ではなく、帝の随臣ですよ」
淡々と言ってのける、玄倉少将に絶句する左近衛中将。奥の玉座の女帝・香淵は、
「皇太弟への発砲……攻撃を、許可する」
とあっけなく宣言した。動じているようには見えないが、予断を許さない緊急事態であることくらい周囲の様子でわかる。玄倉少将は、
「私は時間を稼ぎます。左近殿は陛下をお連れしてお逃げください、できるだけ遠くへ、早く」
自動小銃を抱えて、皇太弟――怪物が暴れる現場の方へ歩き出す玄倉少将。それを唖然と見ている左近衛中将に、
「早く! 多分、そんなに長くは止められません」
――こいつでも止められないと判断する相手……死ぬ気なのか、右近の。
左近衛中将に促され、脱出の準備をする香淵帝が、一度玄倉少将の方を振り向いて告げた。
「右近衛少将、命令です。殺される前に……殺しなさい」
「御意の通りに」
――俄然やりやすくなった。しかし、
宮中を破壊し、衛士らをゴミのように払いのけて暴れる皇太弟だったものを前に、目を見開いて現実を疑う。
殺さなければ殺される。止められなければ帝も国民も危険に晒す。意を決して玄倉少将は引き金の指に力を込めて、皇太弟の身体をいくつもの銃弾が貫いた、が。止まる気配のない皇太弟――怪物。
――殿下の体はおそらくもう、生命維持できる状態じゃない、なのにあれは、なんで動いてんだ?!
皇太弟のものだった身体は華奢な美丈夫の面影をすっかりなくし、剥がれ落ちた皮膚の内からは深い金の毛並みが垣間見える。化け物の力は見た目からの想像を遥かに超えて、その獣のような手で壁を殴ると宮城は瞬く間に瓦礫の山に変わった。
「もうすぐ都の外に出ます。急ぎましょう、陛下」
左近衛中将と香淵帝は馬に乗り、橙城の南端のあたりまで来ていた。
美しい街の真ん中あたりから炎や煙の上がるのが見える。大きな音がして、すこし揺れた。
宮城が、崩された。
そして道路を砕く大きな足音がどんどん迫る。
「もう追ってくる!」
左近衛中将は香淵帝を庇ったが虚しく、二人ともその場で死亡した。
破壊され崩れ落ちた宮城の壁に埋もれ、足止めされた玄倉少将。根性を振り絞り、折れた脚を引き摺って自力で瓦礫から脱出したものの、とうに怪物は取り逃してしまっていた。右額から頬にかけて裂けたような傷を負い、目がまわるほどの痛みがびりびり走り続ける。
軍刀を杖代わりに、ところどころに火の手が上がる宮中から離れようと無理やり歩く。一帯にたちこめる鉄くささと、焼け焦げた皮肉の臭いが鼻を刺す。
あちらこちらに、兵士の死体が横たわっていた。彼らをどんなに悼んでも悼みきれない、生き残ってしまった悔しさと情けなさで、傷から流れる血に一筋、涙が混じった。
♢
「楸さん、楸さん」
診察室の椅子に掛けたまま、楸は眠ってしまっていた。時間も時間だし無理はないけど、と鱗は思いながらも、
「瀬々ちゃん、気がついたよ」
と声をかけて起こした。
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