4 / 78
一皿目 採用試験と練り切り
その1 咲人との出会い
しおりを挟む
いよいよ『甘味堂夕さり』の採用試験の朝になった。
緊張から夜中に目を覚ました時は、雨が音を立てて降っていた。今朝は大理石のような雲が風に流されて青空に変わり、やわらかく明るい光が差し込んでいる。
「頑張ってね。菜々美ちゃんなら大丈夫だから。母さん、うまくいくように祈っているからね」
「ありがとう、お母さん。行ってらっしゃい」
いつものように保育園へ出勤していく母に元気よく手を振り、菜々美はキッチンで夕食の下準備を済ませると、簡単に食事を摂った。
(そろそろ出かける準備をしなきゃ)
時間まで和菓子の本を読んでいた菜々美は、リクルートスーツに着替えた。
バッグを肩にかけて外へ出ると、玄関横のアジサイが色あざやかに咲き誇っている。
封筒で指定された大元神社の鳥居の前に、約束の時間の三十分前に到着した。
(落ち着いて実技試験に取り組めば、きっと大丈夫……)
書類選考でたくさん落とされてきて、やっと面接と実技試験まできた。
母が言ったように落ち着いて頑張らなくてはと思い、手を開いたり閉じたりして緊張を逃そうとする。
しかし握りしめた拳が震え、指先は冷たく感じる。
(怯むな。いける。実技試験の練習もしてきたし、大丈夫……)
懸命に自分を鼓舞していると、背後に人の気配がした。
「――君が桃瀬さんか?」
耳に心地よい優しい声に、こくりと喉を鳴らし、菜々美はゆっくり振り返った。
「わ、わざわざ迎えに来てくださり、ありがとうございま……っ」
そこにいたのは、長い黒髪を風になびかせ、研ぎ澄まされた刃のような、空恐ろしいほど美しい顔の男性だった。
着ているのは涼しげな藍色の作務衣で、雪駄を履いた彼は見上げるほどの長身だ。
この美貌でさらに背も高い。しかも和装のせいか落ち着いた雰囲気で、余裕というか色香のようなものがすごかった。
(こんなきれいな男の人、初めて見た。すごい……心臓が止まりそう)
菜々美はガチッと音がするほど強く歯を噛みしめた。そうしないと心の声が漏れてしまいそうだ。
周りの音が消え、周囲が遠ざかり、目の前の美青年しか見えなくなってしまう。
「お待たせした」
彼の声は凛として張りがあり、優しく耳朶を打つ。
「い、いいえ……あの……わ、私がももっ、桃瀬、菜々美でひゅ……あの、よ、よろぴく、お願い、しまふ」
あわてて返事をしたが、盛大に噛んでしまった。
怜悧な美貌を持つ男性は、凍り付くような冷やかな眼差しを向けたまま、こくりと頷いた。
「俺が『甘味堂夕さり』の店長だ。これから採用面接と実技試験を受けてもらうわけだが、その前にひとつ確認しておきたいことがある。いいか?」
「は、はい。どうぞ」
「うちの店は特殊だ。驚くこともあると思うが、守秘義務を守って他言しないでほしい。約束できるか?」
「もちろんです。守ると約束します」
菜々美はすぐにそう返した。仕事上で知り得た情報を漏らしてはいけないとはもちろん知っている。
「もうひとつ知りたいことがある。君はなぜ、うちで働きたいと思った?」
(えっと、志望理由……?)
神社の鳥居のそばで菜々美はあわてて姿勢を正した。
「はい。お、御社の和菓子の評判を聞き、ぜひ私もスタッフの一員として、皆に喜んでもらえるような美味しい和菓子を作りたいと思いました」
甘味堂夕さりについて、ウェブサイトを検索しても見つからなかったが、幸いなことに、和菓子好きな母の智子が、行ったことはないが噂で聞いたことがあると教えてくれた。
「人気のあるお店なのよ。出てくる和菓子がどれも美味しいと有名なの」
その言葉で志望動機を考えたのだが、彼が引き続き難しい表情を浮かべているのを見て、どんどん不安になっていく。
(な、何か失敗したかな。もしかして私、不採用になってしまうのかも……)
朝まで降っていた雨が嘘のように、じりじりと照り付ける日差しと緊張で、菜々美の背中を汗が伝い落ちていく。
そっと見上げると、彼は涼やかな白色の美貌のまま、汗ひとつ掻いていなかった。
(これだけ美しいと、暑さも逃げていくのかな……)
そんなことを考えていると、彼がじっと菜々美を見つめ、覚悟を決めたように口元を引き結んだ。
「わかった。それでは場所を『甘味堂夕さり』へ移し、そこで採用面接の続きをする。ついて来い」
命令口調で言い放つと、彼は踵を返して、宗忠神社の中へと入って行く。
「はい……!」
ついて来いということは、まだ不合格にはなっていないのだ。
よかったと思いながら、急いで後を追う。
彼の身長はおそらく百九十センチ近くあるのではないか。ものすごく高く、百五十五センチの菜々美は彼と話す時、首が痛いと感じた。
歩く歩幅も違うため、菜々美は小走りで後を追わなくてはいけない。
緊張から夜中に目を覚ました時は、雨が音を立てて降っていた。今朝は大理石のような雲が風に流されて青空に変わり、やわらかく明るい光が差し込んでいる。
「頑張ってね。菜々美ちゃんなら大丈夫だから。母さん、うまくいくように祈っているからね」
「ありがとう、お母さん。行ってらっしゃい」
いつものように保育園へ出勤していく母に元気よく手を振り、菜々美はキッチンで夕食の下準備を済ませると、簡単に食事を摂った。
(そろそろ出かける準備をしなきゃ)
時間まで和菓子の本を読んでいた菜々美は、リクルートスーツに着替えた。
バッグを肩にかけて外へ出ると、玄関横のアジサイが色あざやかに咲き誇っている。
封筒で指定された大元神社の鳥居の前に、約束の時間の三十分前に到着した。
(落ち着いて実技試験に取り組めば、きっと大丈夫……)
書類選考でたくさん落とされてきて、やっと面接と実技試験まできた。
母が言ったように落ち着いて頑張らなくてはと思い、手を開いたり閉じたりして緊張を逃そうとする。
しかし握りしめた拳が震え、指先は冷たく感じる。
(怯むな。いける。実技試験の練習もしてきたし、大丈夫……)
懸命に自分を鼓舞していると、背後に人の気配がした。
「――君が桃瀬さんか?」
耳に心地よい優しい声に、こくりと喉を鳴らし、菜々美はゆっくり振り返った。
「わ、わざわざ迎えに来てくださり、ありがとうございま……っ」
そこにいたのは、長い黒髪を風になびかせ、研ぎ澄まされた刃のような、空恐ろしいほど美しい顔の男性だった。
着ているのは涼しげな藍色の作務衣で、雪駄を履いた彼は見上げるほどの長身だ。
この美貌でさらに背も高い。しかも和装のせいか落ち着いた雰囲気で、余裕というか色香のようなものがすごかった。
(こんなきれいな男の人、初めて見た。すごい……心臓が止まりそう)
菜々美はガチッと音がするほど強く歯を噛みしめた。そうしないと心の声が漏れてしまいそうだ。
周りの音が消え、周囲が遠ざかり、目の前の美青年しか見えなくなってしまう。
「お待たせした」
彼の声は凛として張りがあり、優しく耳朶を打つ。
「い、いいえ……あの……わ、私がももっ、桃瀬、菜々美でひゅ……あの、よ、よろぴく、お願い、しまふ」
あわてて返事をしたが、盛大に噛んでしまった。
怜悧な美貌を持つ男性は、凍り付くような冷やかな眼差しを向けたまま、こくりと頷いた。
「俺が『甘味堂夕さり』の店長だ。これから採用面接と実技試験を受けてもらうわけだが、その前にひとつ確認しておきたいことがある。いいか?」
「は、はい。どうぞ」
「うちの店は特殊だ。驚くこともあると思うが、守秘義務を守って他言しないでほしい。約束できるか?」
「もちろんです。守ると約束します」
菜々美はすぐにそう返した。仕事上で知り得た情報を漏らしてはいけないとはもちろん知っている。
「もうひとつ知りたいことがある。君はなぜ、うちで働きたいと思った?」
(えっと、志望理由……?)
神社の鳥居のそばで菜々美はあわてて姿勢を正した。
「はい。お、御社の和菓子の評判を聞き、ぜひ私もスタッフの一員として、皆に喜んでもらえるような美味しい和菓子を作りたいと思いました」
甘味堂夕さりについて、ウェブサイトを検索しても見つからなかったが、幸いなことに、和菓子好きな母の智子が、行ったことはないが噂で聞いたことがあると教えてくれた。
「人気のあるお店なのよ。出てくる和菓子がどれも美味しいと有名なの」
その言葉で志望動機を考えたのだが、彼が引き続き難しい表情を浮かべているのを見て、どんどん不安になっていく。
(な、何か失敗したかな。もしかして私、不採用になってしまうのかも……)
朝まで降っていた雨が嘘のように、じりじりと照り付ける日差しと緊張で、菜々美の背中を汗が伝い落ちていく。
そっと見上げると、彼は涼やかな白色の美貌のまま、汗ひとつ掻いていなかった。
(これだけ美しいと、暑さも逃げていくのかな……)
そんなことを考えていると、彼がじっと菜々美を見つめ、覚悟を決めたように口元を引き結んだ。
「わかった。それでは場所を『甘味堂夕さり』へ移し、そこで採用面接の続きをする。ついて来い」
命令口調で言い放つと、彼は踵を返して、宗忠神社の中へと入って行く。
「はい……!」
ついて来いということは、まだ不合格にはなっていないのだ。
よかったと思いながら、急いで後を追う。
彼の身長はおそらく百九十センチ近くあるのではないか。ものすごく高く、百五十五センチの菜々美は彼と話す時、首が痛いと感じた。
歩く歩幅も違うため、菜々美は小走りで後を追わなくてはいけない。
0
お気に入りに追加
53
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
家路を飾るは竜胆の花
石河 翠
恋愛
フランシスカの夫は、幼馴染の女性と愛人関係にある。しかも姑もまたふたりの関係を公認しているありさまだ。
夫は浮気をやめるどころか、たびたびフランシスカに暴力を振るう。愛人である幼馴染もまた、それを楽しんでいるようだ。
ある日夜会に出かけたフランシスカは、ひとけのない道でひとり置き去りにされてしまう。仕方なく徒歩で屋敷に帰ろうとしたフランシスカは、送り犬と呼ばれる怪異に出会って……。
作者的にはハッピーエンドです。
表紙絵は写真ACよりchoco❁⃘*.゚さまの作品(写真のID:22301734)をお借りしております。
この作品は、別サイトにも投稿しております。
(小説家になろうではホラージャンルに投稿しておりますが、アルファポリスではカテゴリーエラーを避けるために恋愛ジャンルでの投稿となっております。ご了承ください)
ハバナイスデイズ~きっと完璧には勝てない~
415
ファンタジー
「ゆりかごから墓場まで。この世にあるものなんでもござれの『岩戸屋』店主、平坂ナギヨシです。冷やかしですか?それとも……ご依頼でしょうか?」
普遍と異変が交差する混沌都市『露希』 。
何でも屋『岩戸屋』を構える三十路の男、平坂ナギヨシは、武市ケンスケ、ニィナと今日も奔走する。
死にたがりの男が織り成すドタバタバトルコメディ。素敵な日々が今始まる……かもしれない。
未亡人クローディアが夫を亡くした理由
臣桜
キャラ文芸
老齢の辺境伯、バフェット伯が亡くなった。
しかしその若き未亡人クローディアは、夫が亡くなったばかりだというのに、喪服とは色ばかりの艶やかな姿をして、毎晩舞踏会でダンスに興じる。
うら若き未亡人はなぜ老齢の辺境伯に嫁いだのか。なぜ彼女は夫が亡くなったばかりだというのに、楽しげに振る舞っているのか。
クローディアには、夫が亡くなった理由を知らなければならない理由があった――。
※ 表紙はニジジャーニーで生成しました
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました
結城芙由奈
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】
私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。
2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます
*「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
※2023年8月 書籍化
雇われ側妃は邪魔者のいなくなった後宮で高らかに笑う
ちゃっぷ
キャラ文芸
多少嫁ぎ遅れてはいるものの、宰相をしている父親のもとで平和に暮らしていた女性。
煌(ファン)国の皇帝は大変な女好きで、政治は宰相と皇弟に丸投げして後宮に入り浸り、お気に入りの側妃/上級妃たちに囲まれて過ごしていたが……彼女には関係ないこと。
そう思っていたのに父親から「皇帝に上級妃を排除したいと相談された。お前に後宮に入って邪魔者を排除してもらいたい」と頼まれる。
彼女は『上級妃を排除した後の後宮を自分にくれること』を条件に、雇われ側妃として後宮に入る。
そして、皇帝から自分を楽しませる女/遊姫(ヨウチェン)という名を与えられる。
しかし突然上級妃として後宮に入る遊姫のことを上級妃たちが良く思うはずもなく、彼女に幼稚な嫌がらせをしてきた。
自分を害する人間が大嫌いで、やられたらやり返す主義の遊姫は……必ず邪魔者を惨めに、後宮から追放することを決意する。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる