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それでも、まだ好きで……

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真っ白い壁とベッド。
窓際の棚の上には綺麗な花が飾られた花瓶がある。
消毒液の臭いのするその部屋の中、わずかな電子音だけが虚しく音を奏でていた。
ベッドの上でたくさんのチューブに繋がれた美しい青年は、もう半年間も目を覚まさない。怪我は完治しているし、医師によればいつ目覚めてもおかしくはないらしい。
けれどまるで起きることを拒否しているかのように、彼、華月はずっと眠り続けていた。
「――お前、学校はどうした」
音を立てることなく部屋に入ってきたのは兄の帝一だ。
「また朝からここにいたのか? いくらなんでも、卒業できなくなるぞ」
「兄さんこそ、仕事はどうしたんだよ。忙しいんだろ」
「ある程度自由が利く仕事をしてるからな。お前みたいに全部投げ捨ててここに来てると思うのか?」
大仰な溜息を吐いたかと思うと、皇司とは反対側の椅子に座り、ベッドで眠り続ける華月の頭を撫でた。
「華月からもなんとか言ってやれ」
そう声はかけるものの、華月は眠り続けたままだ。
「お前が早く起きてくれないと、皇司が留年するぞ……。せっかく記憶が戻ったのにな……」
ぽつりと呟いた言葉の語尾に、胸がズキリと痛む。
この世で一番大切な人のことを三年間も忘れていたのだ。それを自覚したとき、皇司は嘆かずにはいられなかった。
記憶が戻ったのは、華月が三竹に撃たれ、床に倒れたときだった。その光景を見た瞬間、皇司は三年前のことをすべて思い出したのだ。
あの男によって崖に突き飛ばされた華月を助けようと自分も崖から落ちたこと。そのとき頭を強打し、岩場で鮮血の中で横たわる華月を前にして意識を失ってしまったこと。
さらには記憶を失っていた頃、華月に言った言葉や仕打ちも、伸ばされた手を振り払ったときの、華月の驚愕した顔も、自分の言葉によって傷ついた顔もそのすべてを皇司は昨日のことのように思い出せる。
華月は自分が守ると誓ったのに、この三年間どれほど彼を傷つけたことだろう。
華月は最後まで皇司を想っていたというのに。
項垂れて膝の上で握りしめた拳を睨みつけていると、小さな嘆息が聞こえてきた。
「それで? お前は東京の高校に編入した矢先にこれだと、冗談抜きで留年か退学になるんじゃないのか? いい加減、学校に顔を出したらどうなんだ」
「……別に留年でも退学でもいい」
「華月がそれを望むと思ってるのか?」
「でも、今は華月の傍にいたい」
いつ目覚めてもおかしくないということは、今日、目が覚めるかもしれない。そう思うと、学校になど行っていられなかった。
あの事件の後、華月は如月が運営する病院に運び込まれて処置を受けた。だがそのあと、メディアがこの事件を大きく取り上げたことにより病院に取材が殺到してしまった。地方の病院がその対応に慣れているはずもなく、帝一の提案で東京でもメディア対策を徹底している大病院に華月を移したのだ。
そして華月の傍にいるため、皇司はわざわざ東京の高校に編入してまでふたりに付いてきた。
あの場に居合わせた両親も、皇司が東京に行くことを心から賛同しはしなかったが、帝一のマンションに一緒に住むという条件で東京に行く許可が下りた。
だが両親はこのとき腹を括っただろう。帝一だけではなく、皇司すら如月を継がないだろう、ということに。
「高校を出ないのはお前の自由だが、如月に帰らないのなら、将来苦労するぞ。お前が思っているほど世間は甘くないからな」
「華月のいない未来ならいらない」
「――お前もまだ子どもだな」
大きな手がヌッと伸び、皇司の頭を乱暴に掻き乱す。
「ちょっ…!」
跳ねのけようと見上げた帝一の顔を見て、ハッとする。帝一の表情は、どうしようもない弟を見つめる、優しく面倒見の良い兄の顔になっていた。
「兄さ……」
「俺みたいなのが言うのもなんだけどな、如月を継がないのであれば、自分の夢だけでも探しておけよ。華月はちゃんと自分の夢を目指して頑張ってたんだ」
「華月の……夢……?」
氷見に囚われていた華月と、将来の話をしたことは一度もなかった。
華月がなりたいものも、将来の夢も、何も知らなかった。
「華月らしいといえばらしいよ。華月は今、大学の経済学部で経済について学んでる。いつか店を持つのが夢だそうだ」
「店って……」
「街の小さな花屋をさ。華月の腕は本物だからな、俺も何度かショーのときにフラワーアレンジメントを作ってもらったことがあって、それが好評でな。俺の知り合いたちも頼みたいって言ってるくらいだ。だから華月は独立するためにも経済を学んでる」
「…………」
「正直、お前に茶道以外何もなくさせたのは俺も原因の一つだろ。お前に家のことを全部押し付けたんだからな。でもこうなった以上、お前も自由だ。だからやりたいことを探してみろよ。何をするにしても学は必要だ。それを忘れるな」
言いたいことだけ言い終えた帝一は「仕事に戻る」と言って病室を出て行った。
華月とふたり取り残された皇司は、眠り続ける綺麗な横顔を見つめ、小さな声で「夢」とだけ呟いてみる。茶道と華月以外に、皇司は何も持っていない。いつか華月が目覚めて、いつかふたりで歩いていく中で、自分だけ目指すモノがないというのはあまりにも格好がつかないだろう。なら、華月が目覚めるまでに手に入れなければ。
彼が笑顔で「一緒に頑張ろうね」と言ってくれるよう、そして彼が「自分のせいで」と落ち込むことがないように――。
「ほんと……兄さんの言う通りだ……」
さすがは兄弟とでもいうのか、生まれたときから皇司を知っている帝一は、どうすれば弟がやる気を出すのかを知っている。何になるのかとか、何を目指すのかはこれからだが、華月の目覚めを待つ間の目標ができた。
白くて細い華月の手に自分のそれを重ねて優しく握りしめ、その手を自分の頬へと寄せる。
「早く、華月と話がしたい……」
小さな手の甲へとキスをし、皇司は静かに席を立つとある場所へと向かって歩き始めた。



華月が目覚めないまま、歳月は流れて行った。
桜の季節になって、皇司は高校を卒業し、四月からは専門学校に通うことになっている。自分にできることとやりたいことを総合した結果、大学よりも専門学校の方が良いという結論に至ったからだ。
大学を中退して専門学校に入り直したという経緯がある帝一は弟の決断に「はっきり夢が決まったなら大学に行く必要はない」と言い、入学金と学費の一部を工面してもらうことになっている。学費の残りは皇司がアルバイトをして稼ぐ予定だ。
如月という世界しか知らなかった皇司にとって、アルバイトをしながら社会を学ぶのも良い機会であり、結果的に将来の役にも立つため、そうすることに決めた。
専門学校に通いながらアルバイトをするのはかなり大変そうだが、皇司の意思は揺るがなかった。
それからまた春が過ぎ、夏が終わり、秋から冬へと移り変わる。
専門学校とアルバイトの合間を縫いながら、毎日欠かさず華月の病室で皇司は今日あったことを報告している。一向に目覚める気配がなくても、まるで目覚めることを拒否しているようだと医師に言われたとしても、ただその日を待っている。
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