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愛してる、だからさよなら(過去回想)

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翌週の週末。華月の気分はどん底だった。
急に三竹が外へ行こうと言い出したからだ。
もちろん二人っきりというわけではなく、目付け役として高崎が付き添っている。三竹は嫌な顔をしたが、保護者として同行することを高崎は断固として譲らなかった。氷見家の者たちもその場にいたため、三竹もその申し出を断ることはなかった。しかし母はどうしてそこまで、とぶつくさ文句を言っていたのだが、高崎が言いくるめてしまった。
アルファである父が認めるベータの高崎にとって、母を黙らせることなど赤子の手をひねるくらい簡単なのだろう。
高崎の隣、三竹の目の前に座る恰好で氷見家が所有する運転手付きのベンツで訪れたのは、紅葉が美しい近くの山岳地帯だった。
ハラハラと舞い散る紅葉やイチョウの葉は鮮やかに色づき、地面は赤と黄色のキレイな色に染まっている。
だが華月の心が突き動かされることはなかった。
もしも隣に皇司がいたのであれば、思いっきりはしゃいでいたような絶景だ。
けれど、この場に愛しい彼はいない。
「綺麗だろう? 君に見せたくてね」
「……感謝いたします」
「…………」
淡々と答える華月が気に入らないのか、彼の額に青筋が立っている。しかし華月にはどうでもいいことだ。むしろさっさと諦めて帰してほしいとさえ思っている。
「……少し登ろうか。頂上付近には別荘もあるんだ」
恐らくそれは氷見の持ち物なのだろう。
どこかの山に別荘を持っていると聞いたことがある。
だが、それすらどうでもよかった。
早く屋敷に帰れるのであればそれでいい、とばかりに華月は舗装された道路を歩いていく。山は緩やかで登山というほどでもない。ところどころ急な崖があるものの、足を滑らせて落ちるほど道は狭くなかった。
三竹の植物や景色のうんちくを適当な相槌で聞き流し、西洋造りの別荘へとたどり着く。
「おや? 車の中に薬を置き忘れたようだ」
そのとき、思い出したかのように三竹が半ばオーバーに慌て始めた。
「申し訳ないが高崎くん。取りに戻ってくれないかい?」
「今、ですか?」
警戒心剥き出しに高崎が訪ねる。
「持病の薬でね、あれがないと発作が起こるんだ」
「…………」
高崎の視線は、無表情の華月へと向けられている。
「――取りに行って差し上げて。ほんの数分だし。大丈夫」
最後の言葉は彼にしか聞こえない音量で囁いた。ベンツを置いてきた駐車場からこの別荘まで普通に歩けば十分程度だ。多く見積もって往復三十分かかったとして、その間に何か起こることもないだろう。
多少触れられるかもしれないが、それ以上のことはできないはずである。
「かしこまりました。すぐに戻ります」
言って、高崎は足早に来た道を下っていく。すると三竹は今だとばかりに肩を抱いてきた。鳥肌が立つのを我慢して、促されるまま足を進める。
「さぁ、疲れただろう。私たちは中で休んでいよう」
「そう、ですね……」
別荘は二階建てで、華月が暮らす離れと同じかそれよりも少し広いくらいだった。木の温かみのある内装で、暖炉とストーブ、八人掛けのテーブルとソファがそれぞれ置かれている。その奥にはキッチンがあるようで、ドア一枚で仕切られていた。
二階へ続く階段もあったが、そちらには足を向けずに四人掛けのソファへと腰を下ろす。
「何か飲むかい? 日本茶と緑茶があるようだけど」
「いえ、それなら僕が淹れます」
「いいんだよ。これくらいやらせてくれ」
言いながら男はキッチンへと入っていく。ひとりになって、ようやくほっとした。
お湯を沸かしてお茶を一杯淹れた頃には高崎も戻ってくるだろう。早く戻ってこないものか、と大きなガラス張りの窓へ視線を移したその時だった。
「ッ!」
ガラスに映った部屋。華月の背後に三竹が立っている。
慌ててソファから立ち上がり距離を取ろうとしたが、それより早く肩を掴まれ、勢いのまま倒れ込んでしまう。
「グッ!」
背中をしたたか打ち、一瞬呼吸ができなくなる。
「な、なに……!」
掴まれた肩の骨が悲鳴を上げている。痛みに顔を顰めると、三竹は手を振りかざした。
殴られる、そう思って目を閉じた。しかし襲ってきたのは首元のチクリとした痛みだった。
「これが何か、わからないわけじゃないよね?」
カラン、と空になった注射器が床を転がっていく。コロコロと転がり、壁にぶつかった注射器のそのラベルには「Inducerインデューサー」の文字。
「誘発剤……ッ!!」
サーっと血の気が引いていく。
逃げようともがいたが、大きな手で口を押さえつけられ、無理やりシャツを捲られた。
「あぁやっぱり。君はもう男を覚えているんだね」
素肌には今も生々しい性交の跡が残っている。
「っ!」
「この痕は誰が付けた? 高崎くんではないそうだね。如月の兄弟か? それとも、お友だちのあの綺麗な子かな?」
悠のことまで調べたのか、と驚愕した。
だが瞬時に納得する。興信所を使うまでもなく、氷見の門下生であるこの男であれば、簡単に調べられるのだ。
三竹は赤くちりばめられた痕に指を這わせ、最後に胸の粒を摘まんでくる。皇司にされたときはどうしようもなく感じたのに、這う手が違うというだけで吐き気がするほど気持ち悪かった。
「んー! ん――っ!!」
ジタバタと手足を動かして抵抗を試みると、口を押えていた手が離れ、バシンッと頬を叩かれた。その衝撃で口の中を切ってしまったようで、口腔内に血の味が広がる。
「大人しくしてろ」
どこから出したのか、麻のロープで両手を縛りあげられてしまう。それはもがくほど華月の手首を強く締め付けてくる。
「何のつもりですか! こんなこと……!!」
「別に良いだろう? この前の色っぽいキスマークを見た日から、君を味見したくなってね。構わないだろう? 今すぐ番にするってわけじゃない」
「正気ですか……! それに、同意なく誘発剤を使うのは……!」
「犯罪だろう? そんなの、君が黙っておいてくれればいいだけの話だ」
するりと下肢へと手が伸びる。ベルトを取り払われ、下着ごと引き抜かれた。
「っ! 高崎!! 高崎ぃ!!!」
助けを求めて高崎の名を叫ぶが、三竹はクツクツと喉の奥で嗤い、両足の膝の裏に手を差し込んでくる。
「呼んでも無駄だよ。私にもね、氷見に出入りしていたときに慕ってくれた弟弟子がいるんだ。今頃、彼らが足止めしてくれている」
三竹は華月の細い太ももが腹にくっつくほど折り曲げ、最奥を覗き込んできた。恐怖で硬く閉ざされたそこへ、ぬるりとしたものが押し付けられる。
「ひっ!」
思わず喉がひきつった。
ぴちゃぴちゃと最奥を舐められ、全身が硬直する。気持ち悪さと恐怖で歯がガチガチと鳴り、噛み合わなくなる。
「ここを舐められるのは初めてかい? それはよかった。もう全部済ませてしまったのかと思ったよ」
男は愉快そうに嗤い、濡れた最奥に指を突き立ててくる。
「うっ!」
強烈な痛みに背中がのけ反った。皇司との行為では身体を引き裂かれるような、こんな激しい痛みを感じなかった。
「おや? 意外と硬いな……。てっきりゆるくなっていると思ったが……」
強引に指が入ってくる。痛くて苦しくて、目がチカチカと光って意識を失いそうになった。
「まぁいい。そろそろ薬も効いてくる頃だ――、ほら」
硬く閉ざされていたはずの場所が、華月の意思とは別にゆるゆると男の指を呑み込んでいく。中を蠢いていたそれは一本から二本、三本と徐々に増やされていった。
「あ、あぁっ!」
頭の中がぼーっとする。体の中心が熱くて、身体の中をまさぐられることに快楽が呼び起される。
「一回、抜いておこうか」
三本の挿入が勢いを増し、男の唾液と華月の体液でぐちょぐちょと泡立っていく。
「ぃっ……! やっ、だぁあああっ!」
無理やりに絶頂まで追い詰められ、華月の背がしなやかに沿った。びくびくと体を震わせて精を吐き出すと、腹を流れる精液を、男は甘い蜜でも舐めるかのように舌を這わせていき、まだ震える華月の小さな牡を咥え込んだ。
ジュッジュッ、と吸いつかれ、不快感に悲鳴が迸る。
「気持ちよくない? 下は早くもっと大きくて太いのが欲しいって言ってるみたいだけど」
誘発剤によって変化した華月の体は、本人の意思とは無関係にアルファの精を欲し始めている。
「あぁ……オメガのフェロモンが出はじめたね……。いい匂いだ」
ズルリと指が抜かれると、最奥は切なそうにヒクヒクと痙攣していた。そこへ、男のモノが押し付けられる。
「……ッ!」
「さぁ、もっと気持ちよくしてあげるよ」
先の、一番太いところが華月の中に入ってこようとした、その時だった。
「何やってんだ!! この野郎!!!」
鈍い音と同時に、身体の上にのしかかっていた重みが消え去る。
そして次に、そっと抱き起された。
「華月……!」
「こ、う……ちゃ……?」
男を殴り飛ばしたその手で、皇司は優しく華月を抱きしめている。どうして彼がここにいるのだろうか。それが一番の疑問だった。
「っ! このクソガキ……!」
皇司に殴られた三竹は逆上し、殴りかかってくる。
「ちっ!」
舌打ちをしながらも、皇司は華月を抱きかかえると拳を振り上げた男の腹へ足蹴りを食らわせた。
「グッ!」
鳩尾に入ってしまったのか、三竹はその場にずるずると膝を折り、動かなくなる。
それをぼんやりと、他人事のように眺めていた。
「華月? 大丈夫か? 華月……」
「皇ちゃ……」
どくんっ、と心臓が脈打つ。
触れた場所から電気のような刺激が襲ってきて、離れられなくなる。
「あ……だめっ……僕……変……ッ!」
こんな場所で、と頭は思っていても、身体は彼を求めてしまう。ぼろぼろと涙をこぼしながらも、濡れそぼる下肢を彼に押し付けると、服を掴んだ手を大きなソレで包まれた。
「や……、う……っ」
 体が熱くて辛くて、下肢を彼の腹部にこすりつけている自分が恥ずかしくて、華月は泣きじゃくる。
「なんだ……この、甘い匂い……」
 言いながら、皇司は自分のズボンを緩め、既に大きく猛った物を華月の秘口へと当てがった。そのままズンッ、と彼が中へと挿ってくる。
「あっ! あぁっ!!」
欲しかった熱い熱に貫かれ、全身が歓喜に震えた。鼻孔を擽る花の香りに頭が溶けていくようだ。何も考えられず、お互いをむさぼるように求めあう。
ふたりの間に香るこの花のような甘い香りは何だろうか。
今まで感じたことのない何か強い衝動を皇司から感じる。
「はっ………、華月……ッ!」
 熱い吐息が首筋を掠め、ぞくりと全身が総毛立つ。
 そしてカシャン、と首輪が外される音がした。つながったまま身体を反転させられ、華月は甘く喘ぐ。
「俺のだ……、お前は、俺のモノだ……! 誰にも、渡さない……ッ!」
 ガブッ、とうなじを噛まれるが、痛みではなく快楽が生まれた。
「あ、あぁぁっ!」
 ただそれだけで達してしまうが、まだ熱は冷め止まない。しばらくの間、激しくお互いを求めあった後、彼の精を体の奥に感じたその時、剥き出しの太ももにプスリ、と何かが突き刺された。
「……まったく。せめて場所を選べ」
聞こえてきたのは帝一の声だ。
「もう『飛び』かけてるみたいだから聞こえてないかもしれないけど、鎮静剤だ。時期に落ち着く」
その声が聞き終わるより前に、華月は安堵と極度の快楽の中、眠るように意識を手放した。



意識を手放していたのはほんの数分のことで、目を覚ますと皇司に首輪をつけ直されているところだった。
「皇ちゃん……?」
「起きたか? 起きられるなら、早くここを出よう」
言いながら腕を引っ張り上げられ、そのまま背中に担がれた。
「――あの人、は?」
「今、警察に引き渡すところだ。違法薬物所持に強姦未遂。立派な犯罪だろ」
外に出ると、別荘がある山の駐車場には警告灯を鳴らす五、六台のパトカーが停車していた。
皇司によると三竹が持っていたあの薬は、海外から輸入した強力な誘発剤で、日本の法律では違法薬物に指定されている代物だったらしい。証拠の注射器とその指紋、そして帝一と皇司の証言が決め手となり、逮捕されるのだという。
警察官に連行される集団の中に氷見の門下生もおり、彼らは自分たちが強姦幇助ほうじょに加担しているとは知らなかったようだが、高崎への暴行により警察署に連れていかれるという。
「大事に、なっちゃったね……」
駐車場が見渡せる崖の上で、華月は小さな溜息を吐いた。
「当然だろ。自分が強姦されたの、わかってるのか?」
「うん……」
アルファである三竹が襲い掛かってきたときの血走った目が怖かった。だが、多少なりとも自分のフェロモンが影響していたのではないかと考えてしまうと、何となく後味が悪い。
「そういえば、高崎は大丈夫かな? 暴力振られたって……」
「肋骨と足と腕の骨を折ったって話だけど、今は病院で治療を受けてる。命に別状はないそうだ」
「それって、本当に大丈夫なの……?」
「結構ピンピンしてたぞ? 十人近くが金属バッドとか木刀持って襲い掛かってきたのに、返り討ちにしてたからな。骨折だけで済んだことが奇跡だな」
どうやら皇司たちが駆け付けたときには、高崎は満身創痍ながらも同じ門下生の男たちを片付けていたようだ。
「あと一人多かったらやられてた、なんて、どっかの漫画みたいなこと言ってたよ」
「なにそれ、高崎もそんな冗談言うんだ」
「高崎に感謝しろよ。俺たちがここに来れたのも、高崎の機転があったからなんだから」
「そういえば、どうしてここがわかったの?」
「高崎が、兄さんに相談してたんだよ。お前の身が危ないかもしれな……」
不自然に区切った皇司は、ハッとして背後を振り返った。
そこには、警察に連行されていったはずの三竹がいる。少し遅れて、血相を変えた警察官が数人、山道を駆け上ってくるのが見えた。
「お前……往生際が悪いな」
そっと華月を降ろし、皇司がジリッと砂利を踏みしめる。
「ははっ……、本当に、お前たちのことを甘く見ていた……」
目の前にいる三竹は、正気の沙汰とは思えない形相をしていた。眼光はギョロリと大きく見開き、瞳孔は開いている。白目が血走り、呼吸も荒くなっており、もう後には引けない、追い詰められた人間の目をしていた。
「っ……! 皇ちゃん……!」
こういう人間は危険だと、本能がそう叫んでいる。
今にも人を殺しそうな形相の男は、必死で皇司の腕にしがみ付く華月を凝視した。
「どうしてこの私が捕まるんだ……。こんなのはおかしい」
「強姦しといてよく言うな! あんた、アルファとして恥ずかしくないのか!」
 華月を庇うように皇司が二人の間を遮った。
「うるさい! これは同意の上だ、そうだよねぇ? ……華月くん、私たちは同意の上でしたんだ、それを証明してくれよ……」
意味の分からないことをぶつぶつと呟きながら、鼻息荒くこちらに近づいてくる三竹は、思わず後ずさった華月へと飛び掛かってきた。
皇司が止めに入り、揉み合いになる。そんなふたりをただ見ているだけしかできなかった華月を、皇司に押さえつけられながらも伸ばされた手が突き飛ばす。
「あ……」
ふわり、と一瞬体が宙を浮き、視界が反転する。華月の背後は崖だったのだ。
重力に逆らうことなく身体が下へと落ちて行き、激しい衝撃に反射的に目を閉じた。
「華月!!」
ドン、と激しい衝動のあと、背中の焼けるような熱さに呻いた。
瞼を開けると、崖の上には駆け付けた警察官に取り押さえられている三竹が見える。
よかった、と安堵するが、身体が動かない。
崖から突き飛ばされ、岩に全身を強く打ち付けたせいだろうか。だが、不思議と痛みはなかった。
華月の周りを真っ赤な水たまりが、心音に合わせて波のように広がっていくのがわかる。
緩慢な仕草で頭だけでも動かすと、真横には皇司が頭から血を流して倒れていた。
「ッ……!」
 ぐったりとして動かない皇司の横たわる姿に息を呑んだ。一緒に落ちてしまったのだろうか。
「や……だ……、こ……ちゃ……」
手を伸ばそうとするが、ぴくとも動かない。
崖の上では「誰かが突き飛ばされた!」と警察官たちが騒いでいるのがわかる。その中には帝一と悠の姿もあった。
「華月!」
悠の声が聞こえる。帝一の静止も聞かず、彼は緩やかな岩肌を滑り、泥だらけになりながらも駆けつけてくれる。
「早く! 救急車!!」
崖の上で帝一が叫ぶ。
出血のせいだろう、徐々に視界が暗くなり、華月は泣き叫ぶ悠に何も言えないまま、意識を手放してしまった。



目が覚めると、そこは病院だった。
警察に呼ばれたのだろう、氷見家が勢ぞろいしている中、母はヒステリックに叫び、父は怪我をしている華月の頬を殴りつけた。
「お前はどれだけこの家に泥を塗れば気が済む! お前のようなオメガがいたからこうなったんだ!!」
「そうよ! あなたのせいで氷見はめちゃくちゃよ!! どうしてくれるの!!」
父と母の激高に、医師や看護師が止めに入ったが、兄や姉たちは忌々し気にこちらを眺めていた。こちらまでは聞こえては来ない音量ではあったが、口が「いっそ死ねば良かったのに」と、そう形作っている。
彼らは医師と看護師、そして警備員に連れられて部屋を出て行った。
そのあと医師に聞いたところ、二週間ほど昏睡状態だったらしい。奇跡的に命を取り留めた華月は、背中の大きな裂傷のため出血多量であと数分、病院に連れ込まれるのが遅ければ死んでいたそうだ。おまけに腕や足の骨を複雑骨折していて、内臓に至ってはあばら骨が臓器に突き刺さっていたのだという。
八十六時間に及ぶ大手術だったと医師から聞かされたが、ずっと眠っていたせいか実感がわかない。
それよりも、気になることがあった。
「あの……」
点滴を取り換えに来てくれた看護師に声をかける。
「はい? どうかしましたか?」
にこやかに話しかけてくれる看護師に、ずっと気にかけていたことを問いかけた。
「皇ちゃ……、いえ、如月皇司はどうなりましたか? 一緒に運ばれたと思うんですけど……」
「あぁ如月さんのところの。彼は見た目より軽傷でしたので、華月さんが目を覚ます前に退院していきましたよ」
ただ……と彼女は続ける。
「記憶に若干の障害が出ているようです」
「記憶……?」
「事故のときの記憶がないそうで。生活には支障がないからということで退院にはなったのですが」
「そう、ですか……」
自分よりも怪我が軽傷で済んだと安堵するものの、変だ。
あの事故の記憶がないとはいえ、華月が入院していることも知らないはずがない。
それなのに、どうして一度も来てくれないのだろうか。
「あの、それってどの程度の……」
「さぁ……私は担当外なので。気になるようなら、担当医に聞いてみましょうか?」
「――いえ、大丈夫です」
そう? と看護師は点滴を取り換えると病室を出て行った。
見慣れぬ天井を見つめ、華月は一抹の不安を覚えていた。これを解消するために、早く皇司に会いたい。そんな気持ちが募っていく。
「皇ちゃん……」
愛しい少年の名を、囁くよりも小さな声でつぶやいた。
その声が、彼に届くことがないと、わかっていても、それでも――。



しばらくして起き上がれるようになった頃、華月は我慢できなくなって病院を抜け出した。何故か彼は見舞いにも来てくれない。あの事故の後、皇司に何かあったのではと不安で、華月はタクシーで如月邸を目指した。
今日は平日だから、この時間に屋敷の前で待っていれば彼に会えるはずだ。
如月邸より少し前でタクシーから降り、華月は松葉杖で体を支えながらも彼を待った。この季節、パジャマの上にコートを羽織っただけでは凍えそうなくらいの冷気が肌を刺した。それでもなかなかやって来ない皇司を待ち続け、霜焼けになりそうな手に息を吐きかけた、その時だった。
ふっと、目の前を長身の学生が通る。
顔を上げると、皇司が通り過ぎるところだった。
「皇ちゃ……」
 明らかに華月の横を通り過ぎたのに、彼は全くと言って良いほど無反応だった。
 無視された?
 もしかしたら怒っているのだろうか?
 急に不安になり、足が痛むのも忘れて皇司を追いかけた。
「皇ちゃん、待ってよ!」
背後から肩かけのカバンを力一杯引っ張る。
「っ!」
怪訝そうな顔で振り向いた皇司に笑顔を向けると、思ってもいない言葉を浴びせられた。
「………誰だ」
ぐいっ、と掴んだカバンを自分の方へと引き寄せると、彼はくるりと踵を返してまた歩き出してしまう。
「どうしたの? 僕だよ、華月……!」
咄嗟に伸ばした手は、彼のカバンによって振り払われた。
「触るな! 汚らわしいオメガが!!」
「――え……?」
 鈍器で頭を殴られたような衝撃に、華月は目を見開いた。

耳を疑った。彼は今、なんと言ったのだろうか。
「その首輪、オメガだろ。どこのオメガかは知らないけど俺に触るな! 汚らわしい」
そう吐き捨てられ、その瞬間、目の前がぐらりと揺らいだ。
「どうしちゃったの……? 僕だよ……。氷見の……末っ子で……」
「氷見の? お前みたいなやつは知らない」
「何言って……、ねぇ、どうしちゃったの?」
「だから知らないって言ってるだろ!」
 険しい表情は、彼が赤の他人に向けるときのそれだ。
 おかしい。
 看護師は記憶に異常があると言っていたが、まさか――。
「本当に、僕のこと……覚えてないの……?」
「だから知らないって何度も……」
「僕たち、番ったんだよ?」
 まっすぐに皇司を見つめる。だが、返ってきた言葉はあまりにも酷いものだった。
「番? 馬鹿にするな。お前みたいな汚らわしいオメガと番うなんてあり得ない。どうせお前も、俺が如月のアルファだからそんなことを言って気を引こうとしてるんだろ。本当に……これだからオメガは」
「……ッ……!」
 目の前が、真っ白になった。
 先ほどまで寒くて凍えそうだったのに、何も感じなくなっていく。
「それ……本気で言って……?」
「俺にはオメガの番なんか必要ない。もしお前が本当に氷見家の人間だったとしても、俺には関係ないことだ」
 いらない?
 必要ない?
 その言葉が、何を意味するのか彼はわかって、それで言っているのだろうか。
「二度と俺の前にその姿を見せるな」
 びくりと、身体が震えた。
 アルファ特有の、支配者然としたその命令に、身体が動かなくなる。背中を向けて去っていく後ろ姿を、追いかけられない。
「どう……して……?」
 喉がカラカラに乾いて、心にぽっかりと穴が開いたような喪失感に、華月はしばらくその場に立ち尽くしていた。



夕陽が沈み夜になってから、華月はとぼとぼと病院へと帰ってきた。抜け出したことを医師や看護師から叱られたが、その言葉すら耳に入ってこなかった。
『触るな! 汚らわしいオメガが!』
皇司に言われた言葉が、頭の中で反芻する。
『お前みたいなオメガは必要ない』
 どんなに怒っていても、あんなことを言う子ではないのに、彼は一体どうしたのだろうか。
華月のことを怒っている、という風ではなかった。あれは他人に向ける言葉。まるで、華月のことを忘れてしまったかのような、そんな冷徹なものだった。
だがその答えは、数日後、知らされることになった。
何もする気が起きず、ただ病院のベッドの上で眠っていた華月の前に、帝一と悠がやってきたのだ。
彼らはどこか神妙な面持ちをしている。
ぼんやりとした意識の中彼らを迎えると、悠がそっと手を握ってきた。
それに続いて、帝一が窓際に置いてあったパイプ椅子を引き寄せて腰を落ち着ける。
「皇に会ったんだな」
「…………」
「華月。辛いことを言うようだけど、話さないといけないことがあるんだ」
帝一は、らしくもなく泣きそうな顔をしていた。
「――皇は……お前のことがわからなくなったみたいなんだ」
「…………」
「俺たちが一緒に過ごした子どもの頃のことも、憶えてなかった」
「…………」
「医師の話だと、事故のときに頭を打って記憶障害を引き起こしたらしい……。お前のことを思い出せる可能性は半々だって……」
華月はその言葉をどこか他人事のように聞いていた。
「――なんでだろうなぁ? あいつ、お前のことを忘れて……。こんなお前を放っておいて……」
 ギリリと奥歯を噛みしめる帝一に、華月はそっと視線を向けた。
 どうして帝一がそんなに怒っているのか、それがわからなかったからだ。彼が怒りをぶつけるべきは華月だろう。皇司に怪我を負わせてしまったのだ。帝一は兄として、華月を責める権利がある。
 それなのに帝一は華月を責めるどころか、皇司に怒りの矛先を向けていた。
「帝一さん。辛いのは……華月だよ」
 帝一の様子に何を思ったのか、悠が彼の肩に手を置き、華月の顔を覗き込んだ。その双眸には涙が溜まっている。
「ね、華月……。辛いよね……」
 悠に肩を抱き寄せられ、抱きしめられる。その瞬間、華月の瞳からぽろりと大粒の涙が零れ落ちた。それは止めようと思っても止められず、華月は悠の肩口に顔を埋め、声もなく泣き続けた。
 それから数か月、帝一と悠は入れ替わり病院に訪れては、抜け殻のようになってしまった華月を気遣い、時間が許す限り傍にいるようになった。その献身的なふたりの温かさに華月は救われ、やっと笑えるようになった頃には、一年が終わろうとしていた。
「年末年始は家族と東京で過ごすことになったんだ……。本当は三人で過ごしたかったんだけど」
 大晦日の前日、悠はそう言って渋々ながら東京へ旅立っていった。
 年明けにはまた会おう。そう約束して。
 だが、悠が年明けに戻ってくることはなかった。
 



 悠の訃報を華月が知ったのは、彼の葬儀が終わった後だった。このことを知らせてくれた高崎によると、東京から戻ってくる帰り道、悠が乗った車が玉突き事故に巻き込まれ、搬送先の病院で家族全員亡くなったという。
 親友の突然の死を最初は受け入れられなかったが、帝一が見舞いに来なくなったことで、実感せざるを得なかった。
 皇司だけではなく、悠を失い、帝一からも距離を置かれた華月は、さらに心を閉ざし、誰とも話さず、病室に引きこもるようになっていた。
 そんな中、華月の元に氷見家の当主――華月の父親がやってきたのだ。父親は病室に入るや否や、華月を拳で殴りつけ、怒鳴り散らした。
「いつまで寝ているつもりだ! この穀潰しが!!」
 殴られた衝撃でベッドから転げ落ちた華月は、無表情で男を見上げる。すると胸倉を掴まれ、引き立たされた。
「役立たずな上、疫病神ときたか!」
「……な、に……」
 何かあったのか、と尋ねようとしたが、声を発した途端、再び拳が振り落とされた。それは華月の頬を殴りつけ、口の中に鉄の味が広がる。
「門下生から犯罪者を出したのは、お前が居たからだ! お前さえいなければ……!!」
 耳をつんざくような大声で怒鳴るこの男によると、どうやら三竹が刑事裁判にかけられ有罪になったらしい。内々で治めようとこの男も動いたらしいが、オメガの人権団体がここぞとばかりに首を突っ込んできて、もみ消そうとした事件が公になってしまったようだ。
「貴様のようなオメガだとしても、氷見の人間として育ててやったというのに!」
 ギリギリと歯ぎしりをしながら、また顔を打たれる。
 育ててやった、と言われるほど、育てられた覚えはない。金銭的な意味では高校まで行かせてもらったため、それを「育てた」と言うのであれば感謝しなければならないのかもしれない。だがあまりにも一方的な物言いに、華月は感情のない双眸で喚き散らしてくる男を見据えた。
陽一とこの男はよく似ている。気に入らないことや、どうしようもないことが起こると、すべて華月のせいにして、こうして当たり散らしてくる。
 欠片も関係ない、とは言わないが、理不尽だと思う。そもそもの発端は、母が三竹の人となりを見誤ったことが元凶ではないか。一方的に責め立てられて、『お前がオメガだからいけなかった』と、それこそどうしようもないことで手を上げられる。
「お前が……ッ! お前のせいだ!!」
 何度も殴られ、最後には床に転がされ鳩尾を蹴りあげられた。あまりの苦しさに奥歯を噛みしめて唸ると、頭を革靴で踏みつけられる。
「貴様など、生まれて来なければよかったんだ!」
 その言葉は鋭利な刃物となって、華月の心を切り裂いた。
 かつて母親にも、似たようなことを言われたことを思い出す。
『あなたを産み落としたことさえ忌々しい消し去りたい過去だというのに……!』
 知っていた。
 わかっていた。
 自分が不必要で、不要な邪魔者であることは、ずっと気づいていた。
 アルファの家系に生まれた、オメガだから。
 だから親や兄弟に疎まれる。暴力を振るわれることは仕方のないことなのだ。こうして生きていられることを有難く思わなければいけない。
 ずっと――そう思っていた。
 けれど……。
「ど……して……」
 悠の顔が、言葉が、脳裏に蘇る。
『オメガであることで後ろ指さされても鼻で笑ってやれ』
 彼の母親は、オメガであっても強く生きろと、悠に教えていたという。
 ならば、それは華月とて同じことだ。
 オメガだからと、何故こんな暴力を甘受しなければならないのだろう。
 今まで感じたことのない怒りにも似た衝動が、腹の奥から湧き上がってくる。
「なんだ。口答えするつもりか」
 ギリッ、と頭を踏みつける靴に力が込められたが、華月は全身の力を振り絞ってその足首を掴み上げ、浮いた足の下で、顔を横にずらし男を睥睨した。
「そんなに疎ましいなら、僕など捨てれば良いでしょう」
 ずっと華月の中をぐるぐると渦巻いていたどす黒い感情が、飲み込んできた怒りが、顔を覗かせる。男の足を力づくで払い、口の端から滴る血を手の甲で拭いながら起き上がり、華月は初めて父親と真正面から対峙した。
「そんなに僕が目障りだというなら、消えて差し上げますよ」
 それは強がりなどではなく、本心からの言葉だった。
 華月が氷見から逃げ出さなかった最大の理由は、皇司がいたからだ。
 皇司と離れ離れになりたくなくて、ほんの少しの時間だけでもいい。彼の傍で、彼の隣で不器用な笑顔を見ていたいと願った。
 けれど、もうその対象である皇司には、背を向けられてしまった。理由はどうであれ、もう、彼の隣には立てない。
 ならば、もう氷見に固執する理由もなかった。
「その方が、お互い清々するのではありませんか?」
 淡々とそう告げると、男は身体をブルブルと震わせ、最後にもう一度、拳を振り上げてきた。
 まっすぐにその拳を見つめる。
 甘んじてこの暴力を受け入れて氷見と縁が切れるというのであれば、安いものだ。奥歯を噛みしめて振り落とされた拳を頬で受け止めようとしたが、その勢いに負けて華月はその場に倒れ込んでしまった。
 口の中に血の味が広がる。
「そうまで言うならお前など勘当だ! 二度と氷見の敷居を跨ぐことは許さんぞ!! お前など、どこぞかで野垂れ死ね!」
 男はそう一喝すると、病室の扉が壊れんばかりの勢いで病室を出て行った。バタンッ、と病室の扉が閉まりひとりになった華月は床の上で片膝を抱え、ぐしゃり、と前髪を鷲掴み、震える唇から小さく息を吐いた。
 父に反抗したのは、これが初めてだ。だがそれ以前に、会話という会話をしたのも、これが初めてかもしれない。
「――勘当、ね……」
 とっくの昔に、それこそ華月がオメガだとわかった途端、手のひらを返した人間が、今更『勘当』を言い渡してくるなど、ちゃんちゃらおかしくてへそで茶が沸かせそうだ。
「はは……」
 自然と、笑みがこぼれた。
 小さな笑い声は、高笑いへと次第に変化していく。
 騒ぎを聞きつけた看護師が駆け付けて悲鳴を上げるまで、華月はずっと、乾いた笑い声をあげていた。



 父親がやってきて数日後、華月は少ない荷物をまとめていた。
 この病院にもいられなくなったのだ。
 理由は、氷見家が勝手に退院手続きを進めてしまったからである。家を出ていく、と宣言した華月に、あの男は猶予を与えてくれなかったのだ。
 父に力いっぱい蹴られたせいでくっつき始めていた肋骨にまたヒビが入ってしまったが、足のギブスは外れたので、自力で歩けないことはなかった。
「このくらいかな……」
 閑散とした病室を改めて眺める。
 ちらりと窓ガラスに映った自分の姿を確かめると、殴られた頬は痛々しいほどに腫れていて、ひどい顔になっていた。そんな惨めな自分の姿に目を反らし、リュックを肩にかける。
 病院の看護師と主治医に挨拶をしたとき、華月を追い出すような形になって申し訳ないと何度も謝罪された。病院側としては、華月はまだ退院させて良い身体ではないのだという。だが氷見家当主の命令には逆らえないのだ。氷見家はこの地域では権力のある家であり、その家を敵に回せば、厄介なことになることは目に見えている。だからこそ華月は「気にしないでほしい」と笑顔で返して病棟を後にした。
 入院している間にいつの間にか季節が流れ、もう春だ。病棟の周りには、桜の樹がピンク色の花を満開にして咲かせている。
 その木々たちに誘われるようにして、華月は無意識に歩き出していた。着いた先は、母校である卒業することができなかった高校だ。
「せめて……卒業したかったな……」
 悠と一緒に、卒業式に出たかった。
 だがそれは叶わぬ夢だ。
 卒業式はとうに終わっており、華月は長期入院をしていたため、卒業に必要な単位を得られなかった。金さえあれば留年もできただろうが、今の華月は無一文であり、家からも勘当された身だ。
 それに悠はもう、この世にはいない。
 ふたりで卒業式に出ることなど、出来るはずもなかった。
「……あれ?」
 痛む胸を抱えて高校の正門前まで辿り着いたとき、真新しい制服を着た学生たちが出てくるのが見えた。既に卒業式は終わっている時期のはずなのに何故、と思う前に、ふとあることを思い出し、もうそんな季節なのかと思い至った。
「……進級式、今日だったんだ」
 華月の高校は中高一貫教育だ。中等部から高等部に上がるとき、入学式の代わりに進級式というものが催される。
 今日はまさに、その進級式の日だったのだろう。
「……皇ちゃんも、高校生になったんだ……」
 自嘲気味に口元を吊り上げる。
 せめて、一目だけでも皇司の姿を見られないだろうか。そんな愚かな考えに頭が支配されていく。
「きっと似合うだろうな……、高校の制服」
 想像するだけで胸の中が温かくなる一方、ぽっかりと穴が開いたように冷たい風が吹き抜けていく。
 痛む胸元を押さえながらも、華月はただ真っすぐにそこを見つめていた。新たに高校生となった生徒たちが校門から笑顔で出て行く中、華月の視線がある一点で止まる。
 同級生たちよりも頭一つ分飛び出たその頭は、顔を見なくても誰だかすぐに判別できてしまった。
「っ……」
 ビクッと身体が震える。
 彼だと認識した瞬間、足に根が生えたように身体が動かなくなってしまう。彼は――皇司は、俯き加減でこちらに向かって歩いてきている。
 どうしよう、と焦る一方、再び顔を見ることができて泣き出しそうなくらい嬉しくてたまらなくなる。
 だがその感動も、すぐに霧散した。
 その隣にひとりの少女の姿があったのだ。
 彼女は中等部の制服を着ているから、きっと皇司よりも年下なのだろう。進級式では中等部の代表が祝辞を述べるのがプログラムに含まれているので、それなりの成績と家柄の令嬢に違いない。
 そしてその少女を見下ろす皇司の瞳はとても優しくて、それだけでふたりがどんな関係なのかはすぐにわかってしまった。
「っ……!」
 触るな、彼は僕のものだ! と心が叫ぶ。
 だがそれを、華月は胸に手を押し当てることで何とか抑えた。泣き出したい衝動に駆られながらも、その胸の痛みを、先日の父からの暴力のせいにして短く息を吐き、ガチガチに固まった足を一歩引く。
 気づかれる前に早く立ち去らなければ。そう思うのに、視線はずっと皇司と少女を追ってしまう。
 視界が涙で歪みそうになり、乱暴に服の袖で目を擦り、顔を上げたその瞬間、華月は息を呑んだ。
「ッ!」
「お前……」
 数歩先にはすでに、皇司が立っていた。その視線は華月を見止めると、忌々し気に吊り上がり、その瞳は汚いモノでも見るような侮蔑の色を纏っていた。
「あ……」
 気づかれた。
 そう気づいた途端、彼から言われた言葉が脳裏に蘇り、身体がガタガタと震え出す。
「チッ」
 そんな華月に何を思ったのか、皇司は小さく舌打ちをし、憎々し気に呟いた。
「まだこの街にいたのか。目障りなオメガだな」
 その言葉にサー、と全身から血の気が引いていく。
 皇司はグイッ、と華月の胸倉を乱暴に掴むと、少女には聞こえない声で低く呟いた。
「あの時のオメガだろ。俺の前に姿を見せるなと、言ったはずだが」
 冷たい双眸に睥睨され、明らかに敵対する皇司の態度に、深い絶望感と共に全身から力を抜いた。
 もう彼は自分のモノではない。
 華月との思い出がない皇司にとって、今の自分はしつこく付きまとうストーカーでしかないだろう。それに彼には、もう恋人がいる。警戒されるのは当然のことと言えた。
「消えろ」
 短く命じられ、突き飛ばされる。華月の身体はその衝撃に耐えられず、桜並木の幹に強か背中を打ち付けた。
「うっ……」
 その衝撃で肋骨に激痛が走り、華月はその場に蹲る。
「そうやってアルファに取り入ろうって魂胆か?」
 冷汗を掻いて苦しがる華月を見ても、皇司の態度は変わらなかった。
 見るからに怪我人だとわかる身なりだが、労わってもらえるはずもない。今の華月は、彼にとってどうでも良い存在なのだから。
「俺の周りをうろつくな。俺がお前を求めることなんかない」
 皇司はそう吐き捨てると、状況が呑み込めていない少女の肩に腕を回して抱き寄せた。少女は困惑気味だが、大人しくその腕に納まり華月の前を通り過ぎていく。
 その姿を地面に尻餅をついたままの態勢で見つめ、華月はぽつりと呟いた。
「――そうだね……、もう、僕はいらないね……」
 溢れそうになる涙を堪え、無理やり口元に笑みを刻む。ちゃんと約束はしていなかったが、華月は彼に言ったのだ。
『皇ちゃんにいつか本当に好きな子ができたら、僕はちゃんと皇ちゃんの前から消えて、番が解消しやすくするようにする』
 まさかこんなに早くあの時の言葉を後悔するなんて思わなかった。お互いに好き合っていたはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
 よろよろと立ち上がり、皇司たちに華月は背中を向けて歩き出そうとした。その時だった。
「待て! 華月!」
 思わぬ方向から手首を掴まれ、華月は反射的にその声の方を振り返っていた。
「帝……ちゃん……?」
 華月の手首を掴んだのは、スーツ姿の帝一だった。何故か息を切らせて、額には汗が滲んでいる。
「お前、その顔……!」
 帝一に指摘され、つい顔を背けて俯いてしまった。
「どうしてここにいる? そんな荷物持って……。退院したなんて、聞いてないぞ」
「……帝ちゃんこそ、大丈夫なの?」
 ずっと帝一は華月の病室には訪れなかった。
 悠を失って、華月と会うことすら辛いはずだ。
 ちらりと帝一を見上げると、その表情は苦し気に歪んでいて、華月は眉根を寄せる。
「――もう、行くから……」
「どこに行くんだ。あっちは駅の方だろう」
「放っておいて。帝ちゃんにも、二度と会わないから……」
「おい、それはどういう意味だ!」
「言葉のままだよ……」
 掴まれた腕を振り払おうとしたが、その力が強く振り払えない。
「帝ちゃん、離して……」
「嫌だ」
「僕のことなら心配しなくて良いから。家も――もう関係なくなったんだ。これからは自由に生きていくつもりだから」
「関係なくなったって……」
「僕はもういらないんだって。勘当されたんだ。だから、大丈夫だよ」
 口元に笑みを刻むが、頬が引き攣ってしまう。上手く笑えない。
 こんな笑顔では、帝一を誤魔化すことなどできないだろう。
 だが、誤魔化し切らなければならない。
 もう、帝一に頼るつもりはなかった。
 今までの恩を何も返せなかったが、彼が華月を見て悠を思い出さないよう、二度と会わないことを誓うことくらいはできる。
「もう行かないと……。今まで、ありがと」
 今は、礼を言うことしかできない。もっと他に何かできれば良いのだが、華月は何も持っていなかった。帝一のためにできることなど、何もない。本当に何の役にも立たない人間なのだと、再認識してしまった。
 父や兄、そして皇司の言葉は事実なのだ。オメガなど、アルファに媚びを売ってでしか生きられない、卑しい存在でしかないのである。
「怒ってるのか? 俺が会いに行かなかったから……。でも、それは……」
「そんなことで怒らないよ。帝ちゃんの気持ちはよくわかるから」
 悠を――魂の番を失ったのだ。華月もまた、魂の番に拒絶され、番の契約を一方的に破棄された。経緯は違えど、魂の番を失うことは身を引き裂かれるより苦しく辛いものだ。それなのに、帝一を責められるはずがない。
「だから、気にしないで」
「皇のこと、諦めるのか?」
「諦めるも何も……」
 ちらりと、華月は帝一の背後へと視線を向ける。
 もういないだろうと思っていたその場には、まだ皇司が少女を伴って立っていた。それに気づいた瞬間、ビクッと肩が竦んだ。
「兄さん。なんでオメガなんかと話してるんだ。早く行こう」
 帝一はスーツを着て、校門から出て来た。それは、彼が皇司の進学式に保護者として出席したからだったのだろう。これから如月家で進級祝いの宴でも催すのかもしれない。そう思い、華月は引き攣った笑顔で帝一の肩を軽く叩いた。
「ほら、皇ちゃ……。皇司くんも呼んでるよ。早く行きなよ」
「――お前まで、俺を置いていくのか?」
「え……?」
 帝一は皇司を無視して、真っすぐに華月を見降ろしていた。
 その瞳は何故か滲んでいて、彼らしくなく、今にも泣きそうな顔をしている。
「兄さんってば……!」
 一方の皇司は、無視され続けていることに苛立ったのか、ズカズカと歩み寄ると、帝一の肩をガッと掴み、彼を振り向かせた。
「何やってんだよ! 早く行こう!」
 その一言に帝一が眉間に皺をよせ、鋭い眼光で皇司を睨みつけた。弟の苛立ちと困惑がない交ぜになった表情に帝一の拳が飛ぶ。
「帝ちゃん!」
 咄嗟にそれを止めようとした華月だったが、身体の痛みでそれは叶わず、風を切る音と、ガシャンッ、と学園の敷地を区切るフェンスに皇司の身体が倒れ込んだのは、ほぼ同時だった。
 皇司が連れていた少女の悲鳴が上がる。この現場に丁度居合わせていた進級式を終えた生徒たちも、帝一の行動に騒然とし始めた。
「さっさと散れ。弟を教育し直してるだけだ」
 帝一は低い声で唸るように一言告げると、騒めき始めた生徒たちを一瞥する。アルファ特有の有無を言わさぬその迫力に、生徒たちはシン……と静まり返った。
「いきなり、何すんだよ!」
 皇司の怒鳴り声が、静まり返った桜並木に木霊する。
「うるさい。お前は黙ってろ」
「最近の兄さんはどこかおかしいと思ってたけど、そのオメガのせいなんだろ! ずっと部屋に引き籠ってたかと思えば、こんな……!」
「聞こえなかったのか? 俺は黙れと言ったんだ」
 地を這うような低い声音に、皇司がグッと口を噤む。帝一が皇司を見る目は、実の弟に向けているとは思えないほど、冷ややかだった。
「帝……ちゃん……」
 恐る恐る帝一に声をかける。
「華月。少し、話がしたい」
「でも……」
「少しで良いんだ。少しだけ、話をさせてほしい……」
 背中を向けたままそう懇願される。華月よりも体格がよく、背の高い彼のその後ろ姿は、まるで迷子の子どものように頼りなく見えた。
 そんな彼を放っておくことなど、できるはずもない。
 ずっと、華月は帝一に救われてきた。
 その彼に恩返しをするのであれば、それは今なのかもしれない。
「――わかった。少しだけなら……」
 彼の懇願を受け入れ、真っ赤になった彼の拳に手を添えた。すると帝一は驚いたように振り返り、だがすぐにぐしゃりと顔を顰めて苦しそうに笑みを浮かべ、華月の肩口に額を押し当てた。
「――ありがとう」
 帝一に促されるようにして、高校の敷地内に停められている車の方へと促される。
「待てよ! 兄さん!!」
 それを皇司が大声で引き留めたが、帝一は弟など見向きもせず、華月を助手席に乗せると車を発進させたのだった。



 連れて来られたのは、隣の県にある高級ホテルのスイートルームだった。
 軽く食事でもしようということになり、ルームサービスで軽食と飲み物が用意された。三人掛けのアンティークのソファに腰かけた華月は、湯気立つティーカップを両手で持ち、向かい側の一人掛けのソファに座る帝一の様子を窺った。
 車の中では、ほとんど会話はなかった。
 帝一はどちらかといえば饒舌な方だ。その彼がなかなか口を開かないので、華月もなかなか声が掛けられない。
 いつも彼とどんな話をしていただろうか、と思い返してみても、適当な話題を見つけられず、華月が密かに落ち込んでいると、そっと手が伸びて来た。
 その手は、華月の頬に貼られたガーゼをそっと撫でていく。
「これ、誰がやったんだ」
 やっと帝一が口を開き、尋ねてくる。
「言わなくても、わかるでしょ?」
「――陽一か?」
「ううん……」
「――親父さんか……」
 苦虫を噛み潰したような顔で、帝一は小さく舌打ちをした。それを受け華月は微苦笑を零し、頬に添えられた大きな手に自ら顔を寄せる。
「でも、これで清々したよ。やっと氷見と縁が切れた」
「――……お前はそれで、本当によかったのか?」
「うん。だってこれからはどこへでも自由に行けるんだ。これ以上幸せなことってないでしょう?」
 本当は、皇司とふたりで自由になりたかった。だがそれは叶わぬ夢だ。
「それに……最初からそのつもりだったんだし」
 今回の一件がなかったとしても、華月はこの街から出て行く算段だったのだ。皇司と番になれなかったとしても、三竹の問題が解決しなかったとしても、氷見から離れることが最重要事項だったのだ。
「俺は……、お前が高校を卒業したら、その後は一緒に行こうって話したよな?」
「そうだね……」
 氷見から解放されるということは、家を追い出されるということだ。帰る家をなくした華月のことは、帝一が面倒を見てくれることになっていた。
 だが現状それは難しいと、華月は思っていたのだ。
 皇司が記憶喪失になり、悠が交通事故に遭って亡くなることまで、いくら帝一でも計算に入れているはずがない。予想だにしないことが立て続けに起きたのだ。当初の計画通り帝一を待ち続けることなど、できるはずもなかった。
「ならどうして、俺にも黙ってこの街を出て行こうとしたんだ」
「それは……」
「俺が信用できなくなったか?」
「そんなことは……」
 ない、と言いかけたが、帝一がテーブルを回りこんで華月が座るソファまで移動し、足元で両膝を折り、懺悔するかのように見上げて来た。
「――悠が死んだと知って、俺も余裕がなかった。お前のところに何度も行こうと思ったが、できなかった」
 最愛の恋人を――番を失ったのに、傷心した幼馴染みの面倒など見る心の余裕などあるはずがない。
「大丈夫だよ。僕、気にしてないから……」
 帝一は頭を左右に振り、そうではないのだと顔を顰めた。
「それでお前まで俺から離れて行ったら、意味がないんだ。もう俺には、華月しかいないんだよ……」
「――帝ちゃん……」
「こんな情けない姿……、お前には見せたくなかったんだ……」
 高崎は、悠を失った帝一はかなり荒れていたと言っていた。
 一般的には番を失ったとき、オメガの方が精神的に参ってしまう人間が多いと言われている。だが目の前にいる帝一はそれには当てはまっていないように感じた。
 帝一は魂の番だからという理由だけではなく、心から悠を愛していたのだろう。だから、苦しんでいるのだ。
 今の帝一には支えが必要なのだ。気兼ねなく心の内を話せる人間として、帝一は華月を選んだのだろう。幼馴染みであり、兄弟のように育ったのだ。本当の家族よりも強い繋がりが、二人にはある。
 それを華月は一方的に切ろうとしていたのだと、ようやく気が付いた。
「ごめんね、帝ちゃん。僕、帝ちゃんが嫌いになったとか、そういう理由で何も言わずに出て行こうとしたわけじゃないんだ。ただ……」
「わかってる。俺に気を遣ってくれたんだろう? お前と悠は親友だったからな……」
 華月と一緒にいれば、帝一はおのずと悠と過ごした時間を思い出してしまうだろう。悠が亡くなる前までの数カ月間は、ほとんどの時間を三人で過ごしていたのだから。
「でも俺は――悠を亡くしたからこそ、お前まで失いたくなかったんだ。だから、ここ最近はお前とふたりであの街から出る準備をしてた」
「え……?」
 悠が亡くなってまだ三か月しか経っていない。
 まだ心の傷だって深いだろうに、帝一がそれでも華月との約束を守ろうとしていたことに、胸が締め付けられた。
「なぁ華月、俺と一緒に行こう。皇のことなんか忘れて、俺と一緒に来てくれ」
「…………それ、は……」
 皇司のことを忘れる、なんてことできるのだろうか。過ごした時間は帝一よりも短いが、それでも数年の違いしかない。
 そんな皇司のことを、遠くに行ったからと忘れられるものなのだろうか。今でも、あんなに酷い言い方をされても、まだ好きなのに――。
「俺は――……、お前が俺と一緒に来るというなら、二度と皇には会わせないつもりだ」
「…………」
「そうでもしないと、無意識に会いに行こうとするだろ。その度に、華月が傷つくなら、俺は見て見ぬふりはできない」
 大きな手のひらが、膝の上で握られていた華月の手を包み込む。
「みっともないけど、俺は――、悠が居なくなって、とてもじゃないがひとりで生きていける自信がない。この三カ月、本当に苦しかった。でも、まだお前がいると思えたから何とかなった」
 それなのに俺を捨てるのか、と、言外に尋ねられる。
 本当に大切なものを失って、彼の頑丈だった鋼の翼が折れてしまったのだろう。いつもはその翼で、どこへでも飛び立っていた彼は、もうひとりでは飛び立てないのだ。
 弱虫で人一倍怖がりな華月は、両翼があっても鳥かごの中で蹲っていた。今までは帝一が手を貸してくれたから困難にも立ち向かえた。それなのに、華月を捕らえていた鎖が外れた途端に自分の翼を広げ、支えてきてくれた彼を置いて遠くへ羽ばたこうとするなんて、非情としか言いようがない。
「僕……、帝ちゃんと一緒に、行っても……、良いのかな……?」
「なんで駄目だって思うんだ」
 くすりと笑われた。
 不安そうな顔をしていたのだろう。手を包んでくれていた彼のそれが、華月の頭をそっと撫でていく。
「ずっとそうだっただろ。今更、何言ってんだ」
 番である悠と出会っても、帝一は変わらず華月を支えてくれた。いつだって助けてくれた。
 幼馴染というだけではない、見えない絆が二人にはある。
 真っすぐに真摯な瞳で見つめた後、帝一が静かに尋ねてくる。
「俺と一緒に、来るよな?」
「……うん」
 小さく頷くと、ぐしゃりと髪を掻き回された。



 帝一は、悠を失った心の穴を、華月で埋めようとしたのだろう。けれど恋人として華月に何かを望むわけではない。ただ、庇護する対象として、華月を囲っておきたかったのだ。
 現に、故郷から遠く離れた東京に移り住むと、帝一は今まで以上に過保護になり、華月の将来のために色々と手を尽くしてくれた。
 その一つが、華月の高校卒業証明についてだ。大怪我を負って入院した華月は、卒業するための単位が足りず退学ということになったのだが、帝一はどんなコネを使ったのか、学校側から華月の卒業証書を勝ち取ってきたのである。
「オメガとはいえ、学は必要だからな。大学、受験してみないか」
「大学……? でも……」
「専門学校でも良い。やってみたいこと、ないのか」
 広いリビングにあるアイランドキッチンに備え付けられた二人掛けのテーブルで夕飯を摂っていたとき、不意に尋ねられて華月は考えた。
 このまま帝一の庇護下で一生世話になるつもりは毛頭なかったが、突然問われても何も出てこないし、問題もあった。
「でも……受かったとしても、学費なんか……」
 ほぼ無一文の華月には、先立つものがない。
 オメガというだけで、アルバイトだとしても書類選考で落とされる。三カ月に一回の発情期が、仕事に支障をきたすからだ。
そうした理由でオメガは劣等種だと言われるものの、顔が整っている者が多く、大抵のオメガは水商売の道に進むことが多い。だが帝一はそれを許さなかった。
「金の心配はしなくて良い。でっかい子ども一人、養うと思えば良いだけの話だろ」
「そんなわけには……」
「一応仕事だってしてる。それなりに稼いでるから、俺の懐を心配する必要はないぞ」
 言われて、今住んでいるマンションの一室を見回した。
 ここは都内でも高級住宅街に聳えるタワーマンションの上層階だ。壁は厚いし、部屋も無駄に多い。家具も拘りがあるのか、アンティーク調のもので揃えられている。玄関にはコンシェルジュも二十四時間体制で控えており、敷地内には住居者用のジムやプール、エステサロンまであるという。
 さすがはアルファ、と言いたくなるくらい、贅沢な住まいだ。そんな場所に住める彼にとって、大学の費用など、はした金に過ぎないのかもしれない。
「なんだか、嫌味だよね」
 華月が一生かけても稼げないような額を、彼は簡単とは言わないが稼げてしまうのだ。帝一は勘が鋭く頭も良いから、株もやっているのかもしれないが、羨ましい限りである。
「今まで窮屈な生活をしてたんだ。羽を伸ばしたって罰は当たらないだろ」
 それが彼の言い分だ。
「帝ちゃんは僕のこと、甘やかしすぎじゃない?」
「大人が子どもをある程度甘やかすのは当然だろ。お前は、今まで甘えが許されなかったんだし、今までの分だと思って、俺に甘えておけばいいんだよ」
 きっと、悠にそうしたかったのだろう。とぼんやりと思った。
 身代わりというわけではないが、悠を失ってからまだ日が浅い。受験や学費で払ってもらった分は、いずれ働けるようになったら返せば良い、と楽しそうな帝一を見つめながら思った。
「――考えておくよ」



 アルファとオメガが一つ屋根の下で暮らす、というのは、本来であれば何ら問題はないのだが、ふたりにとってはそうではなかった。
 やはり、発情期が問題だったのだ。
 普段は抑制剤を事前に服用しておくのだが、一緒に住み始めて一年後、不運にもひとりで留守番をしているとき、華月はヒートを起こしてしまった。
「あ、あぁ……う……ッ!」
 脳が溶けそうなほど熱い火照りの中、瞼を閉じて愛しい少年の姿を、その大きな手のぬくもりを思い出し、自分の身体を慰める。
 だがそれだけでは全然足りない。
 ひとり寝室のベッドの中で何度も精を吐き出しながら、鎮静剤や抑制剤を多量摂取して治めようとしたが、全く効果はなかった。
「華月!? どうした!」
 帝一が仕事から帰宅し、部屋に明かりが灯っていないことを不思議に思って、寝室に入ってくる。
「やだ! いやだぁあああああ!!」
「おい、どうした?」
 血相を変えてベッドに駆け寄ってきた帝一の手を、思わず叩き落としてしまう。
「苦し……、やだ、いやだ……ッ!!!」
「まさか……」
 未だに皇司との番契約の証が首筋に残っている華月のオメガフェロモンは、皇司以外のアルファには影響することがない。それがいけなかった。
 帝一はフェロモンに気づかず、華月をひとりにしてしまったのだ。
「熱い……、熱い……ッ!」
 前と後ろを自分で慰めている華月を前に、帝一は成す術がない。ヒートになったとき、治めるためにはアルファの精を受けなければならないのだが、帝一は今の華月を抱くことができなかった。
 どんなに精を吐き出しても、身体の奥で渦巻く熱は治まるどころか酷くなっていく。
「……医者を呼ぶから、もう少し耐えてくれ」
 泣きながら顔も下半身もぐちゃぐちゃになった華月にかける言葉はそれしかない。
 そうして帝一によって呼ばれた、オメガフェロモンに学のある医師がやってきた頃には、華月は自慰しすぎて下半身が血まみれになっていた。
 強力な薬を処方され、やっと落ち着いた華月は、もう指一本すら動かせない程、体力を消耗し、顔も青白くなり生気がなくなっていた。
 それでも意識は鮮明にあり、ベッドの上で横になっている。ベッドを背もたれにして床に座りながら黙り込んでいた帝一は、そのとき言ったのだ。
「いっそ、俺の番になるか?」
 耳に飛び込んできた言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「お前が苦しんでるのに、今の俺じゃ、何もしてやれない。でも――番になれば……」
「…………」
 こちらに背中を向けている帝一の頭を、じっと見つめた。すると、彼が顔だけで振り返る。
「お前の首のソレがなくなれば、俺とも番になれるはずだ。こんな風に傷つくより、何倍もマシだろ」
「…………」
 黙り込む華月を、今度は身体ごと振り返り、彼はベッドの端に手をついて腰を上げた。帝一の真摯な瞳が見下ろしてくる。
「――どうする」
 彼の声は帝一らしくなく震えている。
 その眼差しは、ひどく傷ついたように濁っていた。
 華月を助けられなかったこと。見ていることしかできなかったことへの、後悔と恐怖が彼の中に渦巻いているに違いなかった。
 たとえ、ふたりが番になったとしても、そこに恋人同士としての愛情が生まれることはないだろう。ただ、傷ついた翼を舐め合う鳥たちのように、互いを支え合おうとする絆が生まれようとも、決して、ふたりがそれぞれ経験した、胸が焦がれるほどの激しい感情が芽生えることはない。
 だからこそ、華月は小さく頷いた。
「……うん」
 華月は、未来永劫、皇司を忘れられないだろう。
 帝一もまた、悠を忘れることなどできるはずがない。
「今じゃなくていい……」
「うん……わかってる」
 その日、ふたりは静かに暗闇の中で泣いた。
 いつか、番になる。
 けれど、今ではない。
 まだ、触れようとしても、触れられない。
 今はまだ、傷が深すぎて――。
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