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過去の傷

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「ふざけるな!!」
突然聞こえてきた怒声に、氷見華月ひみかづきは目を覚ました。
ていちゃん……?」
その声は明らかに同居人であり幼馴染みの如月帝一きさらぎていいちのものだ。ベッドから起き上がり暗がりの中、声がするリビングへと目をこすりながら向かう。
薄手のパジャマだけでは肌寒い季節だ。素足に伝わるフローリングの冷たさにゾクッと身体が弛緩する。
リビングのドアを開け壁掛け時計へと目をやると、まだ深夜の四時だ。
こんな時間に大声を出すなんて彼らしくない。
高級マンションの高層階にあるこの部屋の防音設備は、アクション映画をステレオスピーカーで大音量にして流していたとしても隣には響かないそうだが、それでも隣近所に聞こえそうなくらい、彼の声は大きかった。
「とにかく、俺も華月もそっちには戻らない!」
帝一は一喝すると同時にスマホを投げ捨てた。
それは綺麗に滑空しガシャンッ、とけたたましい音を立てて床へと叩きつけられる。
大きな音に思わずビクッと肩を竦ませると、リビングのドアの前にいた華月の存在に気づいたのか、帝一はハッとした様子で駆け寄ってきた。
「ごめん。うるさかったな。起こしたか?」
シャツにスラックスという服装なのに、顔が整っているせいか帝一は焦った顔も様になっている。
本当にきれいな顔だなぁ、なんて感心しながらも、華月はにっこりと微笑んだ。
「どうかしたの? さっきの電話」
部屋の隅で無残にも画面が粉々になったスマホを指で差し、状況を尋ねてみる。すると彼は苦虫を噛み潰したような顔で、怒りを散らすかのように長く息を吐いた。
「――実家からだよ。帰ってこいだと」
彼がここまで荒れる電話の相手は予想がついていたが、それは見事的中したようだ。だが、珍しいこともあるものだ。彼が実家の如月家と疎遠になって三年、これが初めての連絡ではないだろうか。
しかし、詳細を知りたいとは一切思わなかった。
「ふぅん……」
 興味なさげに相槌を打つと、帝一はそれ以上追求しようとしない華月にそっと尋ねてくる。
「それだけか?」
「え? だって、帰らないでしょ?」
先ほどの電話の会話を聞く限り、「帰る」という選択肢はなかった。だからこそ、華月は平然としていられるのだ。
あの家をふたりで出ようと決めたとき、二度と戻らないとお互いに誓い合った。帝一は自分の夢を叶えるため、華月は辛い現実から逃れるため、ふたりの目的は違えど、やるべき行動は同じだった。
「帰らないんなら、ほかに聞くことはないよ」
華月はリビングの大きなソファへ帝一を促し、キッチンで手際よくコーヒーをふたつ入れて彼へと差し出した。
「豆切らしちゃってて、インスタントでごめんね」
「いや、そういう味の違いとかわからないから。ありがとう」
「そっか、気にしないなら良かった」
くすくすと笑いながら、華月は帝一の隣へと腰を下ろす。
インスタントでも水で豆を溶かしてからお湯を入れると美味しくなる。だが、その微妙な味の違いに気づいてくれないとは、張り合いがない同居人である。
そんなこと、口が裂けても本人には言わないけれど。
「明日は? 朝早いの?」
「あぁ。もうすぐショーだからな。朝から打合せだよ」
「売れっ子デザイナーさんは大変そうだねぇ」
家族に黙って勝手に大学を辞め、服飾系の専門学校に通い直した帝一は、そこで有名デザイナーに才能を込まれ、独自ブランドを立ち上げてデザイナー兼アパレル会社の社長をしている。さすがはアルファとでも言うべきか、経営も順調のようだ。
「お前こそ、大学は? ちゃんと行ってるのか?」
「当たり前でしょう? 帝ちゃんが学費払ってくれてるんだから真面目に行ってるよ。これでも成績は良いんだよ?」
「華月は昔から勉強好きだもんな」
「ガリ勉で悪かったね」
「そんなこと言ってないだろう」
いつもの軽口を言い合う、早朝のコーヒータイム。
だが、こうやって会話をすることは滅多にない。
帝一は仕事が忙しく、大学生である華月との生活リズムが合わないのだ。だからこうして彼と会話をしたのは実に一か月ぶりであった。
「薬は? 発情期、もうすぐだろう」
「大丈夫。ちゃんと飲んでるよ」
ほら、とテーブルの上に置いてあった薬を指さす。そこには行きつけの病院名と共に、錠剤の入った処方箋の袋が置かれている。
オメガである華月は、定期的に抑制剤を飲まないと発情期で苦しむことになる。一方、アルファである帝一は万が一に備えて、忙しい中こうして様子を見に戻ってくれていた。
ヒート状態になってしまえば、それを治めるためにはアルファの性を受けなければならない。
華月と帝一はいわゆる『そういう関係』ではないが、誰かわからない人間に犯されるくらいならば、とお互いに了承している仲ではあった。
『いっそ、俺のつがいになるか?』
そう、尋ねられたこともある。
彼にそんなことを言わせてしまったことを、それほどまで彼に負担をかけてしまったことを、本当に申し訳ないと思っている。もしも自分がオメガではなく、ベータであったならば、と。
この世界には、二種類の性の分類がある。
男女の他に、オメガ・ベータ・アルファという分類だ。
アルファはすべてのことに優れている謂わば支配者。
ベータというのはいわゆる一般人。
そしてオメガは――アルファのために子を成す存在。
男でも女でも、オメガはアルファの子を宿せる。
故に、華月と帝一は、周囲からは『そういう仲』であると思われているし、ふたりともそれを否定しようとはしない。いずれ、本当にそうなるかもしれないからだ。
だからといって、お互いを慰めたことは一度としてなかった。
キスのひとつですら……である。
「そろそろ寝ようか。コーヒーを飲んで二時間以内に寝ると、寝つきが良くなるっていうし」
空になったカップを手に立ち上がると、腕を掴まれた。
「……俺が聞くのは変だけどさ……、本当にあの家に帰らなくて良いのか?」
「それ、帝ちゃんが言う?」
「いや……だって」
「もう聞き飽きたよ。でも、も、だって、も」
にっこりとほほ笑み、華月はその手をすり抜けてキッチンへと向かう。二人分のカップを流しに置き、ソファで俯く帝一へ視線を流した。
「言ったでしょ。どんなに辛くても、僕は二度と戻らない」
「…そう、だよな……」
こうちゃんだって、僕の顔なんて見たくないはずだよ」
如月皇司こうじ。帝一の八つ年下の弟で、如月家の次期当主となる男。
そして――華月の魂の番。
けれどこの運命は、あまりにも残酷な『運命』であることを、華月も帝一も知っている。
「僕は二度と皇ちゃんには会わないよ。そういう約束でしょう?」
二度と皇司と会わない。会わせない。そういう約束で、華月は帝一に着いて来たのだ。
苦しくて辛くて、悲しい思いはもうしたくない。
如月家は旧くから続く茶道の名家であり、とある地方都市で権力をもつ地主だ。一方の氷見家も同じくらい長い歴史のある華道の名家。如月家と氷見家は昔から仲が良く、帝一と華月は歳が近かったこともあり、産まれてきたときからずっと一緒にいる。
だからすべて知っているのだ。
各々が抱えているものも、すべてを……。




朝、自室で目を覚ますと、帝一はもう部屋にはいなかった。朝早いと言っていたから、もう出勤したのだろう。
華月も今日は一限目から講義がある。
朝食替わりに紅茶を飲んでから、バスで三十分ほどの住宅街の中にある大学に着くと、出入り口付近に不釣り合いな黒塗りのベンツが停車してあることに気が付いた。
「…………」
じっとそれを睨みつけると、運転席から見知った顔が現れた。
「高崎(たかさき)……」
「お久しぶりでございます。華月様」
上背がある逞しい体躯でダークスーツをビシッと着こなし、髪はオールバック。強面と称されることが多い鋭い眼光を隠すように、サングラスをしている。
まるでインテリヤクザ風のこの高崎という男は、華道の名家である氷見家の秘書だ。
「本当に、久しぶりだね、元気だった?」
「はい。華月様もお元気そうでなによりです」
サングラス越しに見える鋭い眼光が、幾分か穏やかに細められる。
「それで、何をしに来たのかな?」
「申し訳ございません。もう二度と、お会いしないつもりでいたのですが」
心から申し訳なさそうに響く低音の声に、華月は苦笑いで返す。
「お前の意思じゃないんでしょ?」
それで? と先を促すと、高崎は言いにくそうに、だがはっきりとこう言った。
「皇司様が、ご婚約なさいます」
「…………そっか」
「氷見家として、ご婚約パーティーに華月様をどうしても出席させたいと。旦那様のご意向でございます」
「勘当した僕を? 都合の良い話だね」
はっ、と鼻で笑った。アルファ一族である氷見に生まれたにも関わらず、オメガとして生まれてしまった華月を虐げ、家を出ると言ったとき勘当を言い渡しておいて、どういう風の吹きまわしなのか。
「ご婚約パーティーには多くの資産家の方々がお見えになります。見目麗しい華月様に、一目お会いしたいという方々も多く……」
「良いよ。父さんの魂胆は見え見えだから。どうせ、僕を勘当したこと周囲には言ってないんでしょ? 留学していることにでもしていたのかな」
オメガという性の人間は、必ずと言って良いほど容姿端麗で生まれてくる。
華月はその名前の通り、華のように美しく、月のように儚い雰囲気があり、華道の名家である氷見家の看板にうってつけなのだろう。オメガということで、いつ発情期が来るとも知れないため、公の場に顔を出すことは滅多になかったが、美しすぎる少年華道家として子どもの頃に一時期メディアを賑わせていたことはあった。
恐らくその評判を聞きつけた誰かが、父に会わせろとでも言ったのだろう。
何よりも世間体と権力関係を気にする父のことだ、注文を付けてきたのは政治家か、それに匹敵する権力を持つ人物なのだろう。
「旦那様ももうお歳でございます。このご婚約パーティーの後、家督は長男の陽一様に譲られるとのこと。これを最後の親孝行として、どうかご検討を」
頭を下げる高崎には悪いけれど、華月が行く理由が思い当たらなかった。
もう二度と、氷見家の敷居を跨ぐつもりはない。頑ななこの思いが、今でも信頼を置いている高崎の願いに拒否反応を示す。
「嫌だよ。兄さんだけで何とかすれば良い。姉さんたちも顔を出すんでしょう?」
容姿端麗であることがオメガであるから、という理由だけでは納得できないくらい、氷見家もそこそこ顔立ちが良い者が揃っている。兄も姉も結婚しているため、出たところで目の保養くらいにしかならないだろうが。
「……まさか、僕の婚約者候補でも呼んでるの?」
「………お察しの通りでございます」
彼のこういう隠さず素直にすべて話してくれるところが好きだ。だが――。
「僕はもう氷見の家は捨てたんだ」
「華月様……」
「ごめん。高崎。でも、ダメなんだ」
ギュッと拳を握りしめる。
「そろそろ一限がはじまるから、行くね」
「どうか、寛大なお心でご検討を」
「…………もう、ここへは来ないで」
それだけ言い残し、華月は大学の中へと逃げるように駆け込んだ。
「帝ちゃんの電話も、この話だったのかなぁ……」
ぽつりとこぼした独り言に応えてくれる声は、当然の如くなかった。



講義を終えてから真っすぐ家に戻ってから、華月は迷った末に帝一へ連絡を入れることにした。
アプリを開いて短く『大学に高崎がきた』とだけ入力して送信すると、すぐさま電話がかかってくる。
『今、ひとりか?』
苛立ちを隠せない声音で、帝一が低音で開口一番に尋ねてきた。
「うん。家だよ」
『高崎、なんだって?』
「――父さんが、皇ちゃんの婚約パーティーに顔を見せろって言ってるって」
『……明日、大学は?』
「え? 明日は二限からだけど……」
『わかった。明日の送り迎えは俺がする。絶対にひとりで外に出るな』
帝一は吐き捨てるようにそう言うと、通話は一方的に切られてしまった。
「……相変わらず、過保護だなぁ」
スマートフォンをテーブルの上に置き、ソファに腰掛けながら、帰りに買ってきた雑誌を広げる。
そこには『若干十八歳、イケメン茶道家・如月皇司』の文字が躍っていた。贅沢な見開きカラーのページには、成長して大人の顔になった皇司が、真剣な眼差しで茶を点てている姿が幾枚も掲載されている。
そしてその隣には、婚約者であるアルファの女性も共に映っていた。
「……そっか、皇ちゃん、あの子と結婚しちゃうんだ」
とても美しい女性だ。実際に彼女を目にしたことはあったが、三年の歳月を経て更に綺麗になっていた。
「……似合ってない」
茶道家にしては体格が良すぎる皇司の隣に華奢な女性が並んでいると、まるで美女と野獣のようで面白いはずなのに、全然笑えなかった。声だけでもと笑ってみたが、無理だった。
胸が痛くて、息苦しくなってくる。
彼の隣は常に華月の定位置だった。それをあっけなく他の人に奪われ、そして――。
『俺に近づくな! お前が俺の魂の番なわけがない! 俺の前に二度と現れるな!』
 脳裏に蘇る少年の怒声に、びくりと身体が竦み上がる。
「ッ……!」
ギュッと雑誌を握りしめたところで、バンッ! とリビングのドアが開いた。驚いて振り返ると、汗だくで険しい顔をした帝一がそこに立っている。
「帝……ちゃん……」
彼の名を呼んだ瞬間、ポロリと大粒の涙が零れ落ちる。
「帝ちゃん、帝ちゃ……ッ!」
溢れ出る涙をどうすることも出来ず、ただただ帝一の名を呼び続ける。すると彼は物も言わず、大きな腕で華月をきつく抱きしめた。



夢に見る光景は、いつも真っ赤に染まっている。
聳え立つ崖の下で、血だらけになっている岩々。
横を向くと、何よりも大切な少年が真っ赤な血の池の中、横たわっている。
全身が痛くて、呼吸が出来ず苦しくて、それでも手を伸ばした。
(皇ちゃん……!)
 愛しい少年の名前を何度も呼ぶ。
 だが――。
『俺に触るな! 汚らわしいオメガが!!』
拒絶の言葉と共に、忌々しげな者を見るかのような、冷たい眼差し。
そこには、不器用だけど優しかった、あの時の彼はもういなかった。



ハッと目を覚ますと、見慣れた天井があった。部屋の中は真っ暗で、夜だとすぐにわかった。きっと泣き疲れて眠ってしまったのだろう。帝一がベッドまで運んでくれたようだ。
「……汗、かいたな……」
思い返したくもない悪夢を見て、寝覚めは最悪だ。
「起きたのか?」
ガチャリ、とドアが開くと、お茶が入ったペットボトルを片手に帝一が顔をのぞかせる。
「うん……ごめんね」
「良いんだよ。喉、乾いてないか?」
「ありがとう」
両手でそれを受け取るが、手が震えて取り落としてしまう。
「あ……」
鈍い音を立ててベッドの下へと転がるペットボトルを、帝一は眉根を寄せながら拾い上げる。
「どうした? やっぱり具合が悪いのか?」
「ううん。夢見が悪くて……」
「あいつの夢か?」
「――うん」
あれはただの夢ではない。昔の夢だった。
そして、華月が家を出るきっかけにもなった出来事でもある。
「あんな雑誌、買うからだぞ」
「そうだね。でも、気になっちゃって」
あの雑誌を買ったのは、無意識だった。
大学の帰りにコンビニに寄って、偶然雑誌コーナーの前を通ったとき、表紙に書かれた皇司の名前が目に飛び込んできた瞬間、気付いたら買っていた。
これが、つがいの繋がりというものなのだろう。
心が、魂が、彼が欲しいと、知りたいと、そう叫ぶ。
物理的に距離が離れていても、結局は彼を求めてしまっている。
「腹、減ってるか? 簡単なの作ったけど」
「ありがとう。帝ちゃんの手料理、美味しいから好き」
華月の内心を見透かしているのだろう、帝一はにっこりと笑って、わざと話題を変えてくれる。その優しさが今はとても有難かった。
抱き起こされる形でベッドを抜け出し、ふたりでリビングのテーブルで軽い夕食を摂る。食事を終えると帝一は仕事がある、と自室からノートPCを持ち出し、ソファで作業を始めた。そして華月も部屋に戻ることなく、リビングに置きっぱなしになっていたショルダーバッグの中から、読みかけの文庫本を出し、隣で読み始める。
今はまだ、ひとりになりたくない、という華月の気持ちが伝わっていたのだろう、まるで当たり前のように帝一は同じ空間で一言も喋らずただ傍に居ることを許してくれる。
こういうとき思うのだ。
お互いに、お互いを好きになれたらどんなに良いのだろうかと。
華月はこっそりと帝一の横顔を見つめ、そして窓際の出窓へと視線を移す。そこにはたくさんの写真立てが飾られている。帝一と、かつての恋人である少年との笑顔の写真だ。
「…………」
帝一の恋人だった少年は、もういない。数年前、交通事故で亡くなってしまったのだ。その少年は、帝一の魂の番だった。華月は帝一の魂の番と同級生であり、高校生のとき同じクラスだったからよく知っている。彼もまた、帝一同様、デザイナーを目指していた。
笑顔が眩しい、素直で夢に一直線の情熱溢れる少年だった。オメガ同士だから、というのもあったのだろう。華月とその少年はとても仲が良かった。帝一が彼を番にしたときも、心から嬉しかったし、何かあれば自分にできることなら何でもしようと思えたくらいだ。
(――結局、何もできなかったけど)
開いただけの文庫を眺めながら、心の中で小さくつぶやく。
帝一と華月との間に恋愛感情が生まれないのは、このためだ。
アルファとオメガというだけでは越えられない、魂の番を失ったという事実。否、本当の意味で失ったのは帝一だけなのだが、華月にとって、皇司はすでに失ったも同然だった。
「…………」
読むでもなく、文庫に書かれた文字をしばらく見つめた。
『記憶喪失』という、その言葉を。



翌日、本来であればそんな時間があるわけがないのに、帝一の車で大学へと送ってもらっていた。もしかしたら氷見家の関係者が大学で待ち伏せしているかもしれない、という懸念があるからである。わざわざ高崎を送ってきたのだ。誘拐まがいなこともしでかすかもしれない。
常識人である高崎がそのような行動を起こすとは思えなかったが、ほかの人間を寄越す可能性がないとは言い切れない。氷見家当主である華月の父は……氷見とは、そういう家なのだ。
「今日は大学、何時までだ?」
「午後の講義のあとゼミもあるから、九時くらいかな」
「わかった。その時間に迎えに行く」
もし早く終わるようであれば、必ず連絡するように、と念を押され、帝一は颯爽と車で去っていく。彼の車が見えなくなるまで見送って講義室に入ると、窓から見ていたのだろう「送迎付きか? アルファが彼氏だと違うな」と学友たちに揶揄されてしまう。だが、そんな揶揄が、平和な日常を噛み締めさせてくれた。
そして夜までは何事もなく過ぎ去っていった。予定より早い時間にゼミが終わってしまい、スマートフォン片手に帝一の電話番号を呼び出しながら建物を出ると、出入り口付近に見慣れた車が停まっていることに気づく。
「あれ? もう来てる……」
予定より三十分も早くに出てきたというのに、彼は一体何時から待っていたのだろうか。
待たせてはいけないと、足早に彼の元へ駆け出した。大学出入り口の傍、敷地を仕切る塀の前に車を停めている彼は、助手席のドアの前で珍しくタバコを吹かしている。そしてその視線は、塀に向けられており、誰かと話しているようだ。その相手の姿が、華月の位置からもちらりとだけ見える。
「……高崎?」
昨日、もう来るなと言っておいたのに、ダークスーツで長身の男は彼以外思い当たらない。
帝一も高崎も、目立つ容貌をしているせいか、下校途中の大学生たちの視線はすべて彼らに向けられている。ここで華月まで加わろうものなら、明日は変な噂で面倒なことになりそうだ。
出ていくにしても、もう少し人通りが少なくなってからの方がいいだろう。華月は物陰に隠れて彼らの様子を伺うことにした。
「何度言われても、俺は華月をあの家に連れて帰るつもりはない」
少し距離はあるものの、帝一の声ははっきりと聞こえてくる。華月同様、子どもの頃から高崎を知っているからか、帝一は苛立ちを隠そうとはしておらず、イライラしているのがこちらまで伝わってきた。
「氷見の中で、お前だけは俺たちの味方だと思っていた」
「もちろん、私は今でも華月様と帝一様の理解者でいるつもりでいます。帝一様の、皇司様への憎悪も、理解しております」
「理解している、か……。そう言っておきながら、なぜ華月を連れ戻したがる?」
やはりその話か、と内心溜息を吐いた。
氷見家は、帝一を説得してでも皇司の婚約パーティーに華月を引きずり出したいらしい。
今までここまで執着された記憶などない。婚約候補者が来るらしいが、それほどまでに権力のある家柄からの要望だったのだろうか。
「この俺が、華月をどこの誰ともわからないヤツの番にさせると思うのか?」
ふぅ、と紫煙をくゆらせ、忌々し気に睨みつける帝一の人を殺せそうな眼光を浴びても、高崎はまったく怯む様子はなかった。
「いえ、帝一様は今では誰よりも華月様のことを想ってくださっていらっしゃいます。旦那様の企みなど、あなた様であればどうにでもなることでしょう」
「――お前、何を考えている? まさか、俺に華月と番え、と言ってるわけじゃないだろうな」
華月が帝一と番ってしまえば、婚約候補者も諦めるだろう。オメガとアルファが一度番えば、その関係は永遠に続くことになる。仮に、憎み合っていたとしても、だ。だからこそ、オメガには簡単に番えないよう、首輪をすることが義務付けられているのである。
「華月様と帝一様があの地を出て行かれた時、一度はそう思いました。私は華月様がお可哀想でならないのです。オメガというだけで虐げられてきたあの方の心を癒してくださったのは、あなた方ご兄弟だけでしたから」
「…………お前の目的はなんだ?」
帝一は困惑していた。
高崎の目的がまるで見えてこない。もちろん、それは隠れて聞いている華月も同様である。
「私は……旦那様に仕える身ではありますが、華月様の幸せを誰よりも願っているのです」
低く響く声は、慈愛に満ちていた。心から華月を想っていることが、声だけでも伝わってくるほどに。
「魂の番に出会えたにも関わらず、華月様の運命はあまりにも残酷です。そしてこのままでは、本当に後戻りができなくなってしまいます」
それは皇司の婚約のことを言っているのだろう。魂の番である皇司の婚姻が成立してしまうと、華月はオメガとしての役割を失ってしまう。オメガにとって何が一番苦しいのか。それは番うべきアルファから「必要ない」という烙印を押されることだ。魂の番だと認識してしまっている華月にとって、それは存在価値の否定――死を意味していると言っても過言ではない。
「私はお二人が仲睦まじかった頃を――華月様の幸せそうな笑顔を取り戻したい。帝一様にこれを言うのは大変失礼ではありますが、私は華月様にあなた様のようになっていただきたくないのです」
「…………」
帝一は、何も言い返さなかった。否、言い返せなかったのだろう。
魂の番を失うこと、それはアルファにとっても、苦痛なことには変わりない。ただし、アルファは自分の子孫を残すために、仮に魂の番であっても、その相手の存在がなくなった場合、他の番を選ぶことができる。
だがそれは選ぶことができる、というだけだ。
魂の番と死に別れとなった帝一には、二度と心から誰かを欲しいと、そう思えるような恋愛をすることができない。それはつまり、形だけの番しか選べないということだ。
「帝一様と華月様が番ったところで、結局お二人とも苦しまれるのでしょう。ならば、これが最後のチャンスなのです」
魂の番を失った者同士であり、恋慕の情はなくともお互いを家族同然に想い合っている帝一と華月が番っても、お互いに満たされることは決してあり得ない。帝一は一生、番であった少年を想い続けるだろう。華月もまた、皇司の影だけをひたすらに追いかけることになる。
そうしていつしか心はあやふやになって、きっと最後に感じるのは――『無』。
「それを決めるのはお前じゃないでしょ」
これ以上聞いていられない。帝一に責を負わせたくなくて、華月は彼らの前に飛び出していた。
「華月様……」
「高崎の気持ちは嬉しいけど、これは僕が決めたことだ。僕の名を借りてこれ以上、帝ちゃんを傷付けることは許さないよ」
帝一を背に庇うように両手を広げ、高い位置にある高崎のサングラス越しの双眸を睨みつけた。
「僕たちのことは放っておいて……!」
「しかし……」
「高崎。たとえ皇ちゃんの記憶から僕が消えてしまったせいだとしても、僕は皇ちゃんに拒絶されたんだ。要らないって……必要ないって、もう言われたんだ……! 帝ちゃんは優しいから……、要らないって言われた僕を拾ってくれた。こんな僕でも傍に置いてくれる、唯一の存在なんだ……!」
お願い、と、泣きそうになるのを堪えて懇願する。溢れそうになる涙を喉の奥に押し込め、無理やり笑顔を作ろうと心掛けた。
「華月、帰るぞ」
不意に、背後から腰に長い腕が回り、半ば強引に助手席へと押し込まれる。
「帝ちゃん……?」
バタン、と閉まったドアのせいで、最後に二人が何か話していたようだが、何も聞こえなかった。運転席に滑り込んできた帝一は、何も言わず少々手荒らに車を発進させる。
その横顔に、声をかけることはできなかった。
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