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忌み言葉

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「お見苦しいところをお見せして、申し訳ありません」
 翌日、雨もカラッと上がった昼下がり。
 ハレスの屋敷で寝込んでいたメアリーは熱も下がり、様子を窺いに来た少女に寝台に上体を起こした格好で頭を下げてくる。
 ぱらり、と長いストロベリーブロンドの髪が肩から彼女の胸元へと流れた。
「すっかり良くなりました」
 ゆっくりと顔を上げたメアリーのエメラルドグリーンの瞳が、少女を映し出す。
 いつもはサッと反らされるその瞳はしかし、今日ばかりは真っすぐに少女へと向けられた。
 今、この場にはメアリーと少女しかいない。
 先ほどまでハレスも居たのだが、メアリーの目が覚めるのを確認した後、彼女に送り出される形で、騎士の職務へと戻ってしまった。
 ふたりきりになり、少女はそれでも気を遣い、メアリーから遠く離れた壁際で仔猫を抱えて立っている。
「あの……。こちらの椅子におかけになっては如何でしょうか?」
 メアリーは寝台の横に置かれていた椅子に座るよう促してくるが、少女は僅かに首を振った。
「でも、話しにくいですし」
「ここからでも聞こえるわ。私の声は、あなたの頭の中にでも直接送りましょうか?」
「いえ、聞こえる聞こえないではなく……」
「私はここで結構よ」
 ふたりの間には、かなりの距離があいている。話しにくい、というのは距離感の問題なのだろうことは少女にだってわかっている。
 だが、少女は彼女に嫌われている自覚があり、何回か怯えた目を向けられたこともある。
 そんな彼女に近づこうとは思わなかった。
「話があるのでしょう?」
 少女はさっさと話せ、とばかりに急かした。
 するとメアリーは曖昧な笑みを浮かべると、諦めたように小さく頷いた。
「殿下はわたくしとデュクス様のことを何か誤解なされていると思うのですが……」
「殿下、というの、やめてくれる?」
「え? でも、殿下にはお名前がありませんので、それではどうお呼びすれば……」
「闇の魔女、とでも呼べば良いじゃない」
「――……」
 少女が闇の魔女であることを、彼女は知っている。
 名前がなく呼びづらいのは事実だが、ならば「闇の魔女」と普通に呼べば良いのだ。
 だが、メアリーは顔を青くすると、また頭を下げてきた。
「その節は、大変失礼致しました」
「それは何に対しての謝罪?」
 眉根を寄せた少女に、メアリーは説明をしてくれた。
 この国では『闇の魔女』という言葉は迂闊に口に出してはいけないのだという。
 そういえば、と少女は思い返してみる。
 この国では、誰もが少女を『闇の魔女』とは呼ばなかった。
 様々な言い換えで少女を示し、決してその言葉を口にしない。
 唯一、その言葉を口にしたのは、メアリーだけだった。
(そこまで嫌われているのね……)
 別段、それについてなんら感慨を抱かないが、それにしては変だとも思った。
 所謂『忌み言葉』であるにも関わらず、出会う者たちの態度が『闇の魔女』に対するものとは、思いの外かけ離れているのだ。
 少女を『闇の魔女』と知らない者たちはともかく、それを知っている者たちから侮蔑の目を向けられたことはない。
 皆親切で、その言葉を口にしないようにしているにしては、真逆の態度を取る。
 実際に闇の魔女を目の前に、あからさまな態度を取れば少女の逆鱗に触れるとでも思われているのか。
「侯爵令嬢としてあるまじき行為でした。お許しください」
 メアリーは毛布の布をギュッと握りしめ、手の甲が見る間に青くなっていっている。
「許すも何も、事実私は『闇の魔女』なのだから、気にもしていなかったわ」
 少女の知らぬ間に、新しい『闇の魔女』についての逸話でもできているのだろうか。
 だが、もしそうだとしたらやはりおかしい。
(だって、それを私が知らないなんて……)
 そう、知らないのはおかしい。
 この世界の『闇の魔女』に対する認識で、少女が知らないことがあるはずがない。
 少女の身に宿る闇の魔力が、それを許すはずがないのだから――。
「この国ではあなた様のことを示す際、別の呼び名でお呼びしております」
 メアリーの言葉で、少女は理解した。
(私を示す言霊が、変わっているのね……)
 この千年もの歳月で『闇の魔女』という言葉を忌み言葉とし、これ以上、闇の魔女の力を増長させないためにも別の言葉を使うようになったのだろう。
 言葉には魔力が宿る。
 この世界から『闇の魔女』という言葉がなくならない限り、闇の魔女は存在し続ける。
 しかし仮に『闇の魔女』、という存在がこの世界からなくなったとしても、少女は『闇の魔女』のままだ。
 少女が生きている限り、『闇の魔女』は存在し続ける。
 少女自身が『それ』を忘れない限り、恐らくその身が朽ちるその日まで、『闇の魔女』は滅びない――。
「それではこの国での呼び方で殿下をお呼びして宜しいでしょうか?」
「――止めて」
 少女はそれを拒否した。
 これ以上、自分に言霊などいらない。
 人々から恐れられ忌み嫌われる『闇の魔女』という事実だけで充分だ。
 それ以外の名を与えられてしまえば、その言葉に宿った魔力までもこの身に宿してしまうかもしれない。
 それは少女には受け入れがたいものだ。
 どんな言葉で、どんな逸話で少女が語り継がれているのか。そんなものは知る必要はない。
 他の名で呼ばれたくはない。
 それを認識したくない。
 人間たちはどこまで少女を苦しめようとするのだろう。
 目の前にいる自分とそう歳の変わらない少女が、憎たらしく思えた。
「もしお許しいただけるのであれば、これからは殿下をそうお呼びしたいのです。この国で殿下は――」
「止めて!!」
 ドンッ、と少女の周囲から黒い焔が吹き出し、メアリーの言葉を遮った。
「私の逆鱗に触れたい、というのであれば、その前に葬ってあげるわ」
 すっ、と少女はメアリーへと手を向ける。
 すると彼女は顔面蒼白になり、その場で平伏した。
「申し訳ございません……!」
 メアリーは、唇を噛みしめ己の愚かさにガタガタと震えだしている。
 だが、ちらりと向けられた瞳が「なぜ」と言っていた。
 彼女には理解できないのだろう。
 『何』が少女の逆鱗に触れたか、が。
「私は『闇の魔女』よ。それ以外の言葉は受け入れない。『闇の魔女』は『闇の魔女』なの。それ以外の何者でもない。それが私の理。それを私の許しなく覆すなど、死を望むのと同等の愚行と知りなさい」
「――……はい」
  メアリーのか細い返事を聞き、少女は自らの力を治めた。
 ふぅ、と息を吐く。
 するとメアリーは、ギュッと下唇を噛みしめ、少女を真っすぐに見つめた。
「非礼をお詫びいたします。どうか、愚かな私をお許しください。ですが――」
 それではなんてお呼びすれば? と彼女は困惑している。
 殿下、という言葉は却下した。
 そうなれば彼女が『少女』を呼ぶとき、彼女が呼ぶに相応しい呼び名がなくなる。
 少女は逡巡し、そして溜息を吐く。
「私のことは――好きに呼びなさい。『闇の魔女』を示す言葉でない限り、何でもいいわ」
「えっと……、例えば……?」
 ニュアンスが難しかったのだろう。
 魔力のない人間に、この微妙なニュアンスを汲み取れ、というのは難しいだろう。
「私はあまり人と接してこなかったから、言葉がうまくないの。そうね――。私の個を固定しない言葉なら良いわ」
 人にはそれぞれ名前がある。
 この世界のモノすべてに、名前がある。
 古の人々が、そうしたからだ。
 だが少女には『名』がない。
 闇の魔女、という言葉は概念である。
 少女の存在は、それが具現化したものに等しい。
 人とは臆病な生き物であり、同時に自らを戒めるために敢えて恐怖を司る存在を作り上げ、それを世界に固定しようとする。
 人の身でありながら『闇の魔女』として生まれた少女は、その象徴だった。
 自分たちに何か不幸があったとき、彼等は少女を貶すことでその心を落ち着かせようとする。
 それが人の身だからこそ、彼等は目に見えない存在に怒りをぶつけるより、その感情を向けやすくなる。
 目の前に憎むべき存在がおり、それが実在するからこそ、忌み嫌い時には傷つけることによって、彼等は恐怖と共に安堵するのだ。
 人間はいつの時代も「生贄」を作り出す。
 世界を滅ぼせる『闇の魔女』がいることに恐怖しながらも、いつか世界を終わらせてくれる『闇の魔女』がいることに安堵する。
 世界が終わることを嘆く者もいれば、それを望む者だっているのだ。
 だからこそ、『闇の魔女』は消えない。
 いつしか『闇の魔女』を代用する言葉が世界に固定され、少女が『闇の魔女』として朽ち果てれば、次の『闇の魔女』は生まれないだろう。
 この国にはもう魔力を持つ者が少ない。
 他の国もそうなのであれば、いずれこの世界から魔力自体、失われる時がやってくるだろう。
(そうやって私が死ねば、少しはあの人も喜んでくれるのかしら……)
 記憶の中の青年は、少女の滅びを望んだ。
 力のない人間一人がそれを望んだところで、少女の存在は変わらないが、魔力が失われつつあるこの世界で、少女はもう世界からも必要とされない存在となりつつあるのだろう。
(私は、世界からも……疎まれつつある……)
 自らの滅びを望む少女は、だから『闇の魔女』としての別の名を受け入れるわけにはいかないのだ。
 いずれ少女の滅びがやってきたその時、次の『闇の魔女』を生み出さないためにも。
「だとすると、やはりわたくしたちのようなお名前を持った方が宜しいと思うのですが……」
「私は闇の魔女以外の何者でもないの。名は必要ないわ」
「何故ですか? あなた様はもう『自由』なのに」
 まただ。
 彼女までも少女を『自由』なのだという。
 一体何を思ってそう口にしているのか、少女は敢えて尋ねなかった。
 それは――今の少女が知ってはいけないことだと、少女の中に宿る何かが、囁いた。

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