愛されない寵愛メイドの逃避行~捨てられたオメガの辿り着く場所~

潮 雨花

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オメガの青年・ノア

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「散りなさい。お客様に失礼ですよ」

薄汚れた青年オメガの目の前に綺麗に着地したリラは、番犬たちをその薄紫色の瞳で射抜いた。
リラに叱られ、犬たち途端に大人しくなり「くーん」と鳴くと、身体を低くして忠誠のポーズを取る。

「大丈夫ですか?」

静かになった犬たちに背中を向け、リラは地面に座り込んでいる青年オメガへと手を差し伸べた。
薄汚れてはいるが、オメガ特有の美しい容貌に綺麗な金色の髪と瞳の青年だ。身体付きはやや細いが、背丈はリラよりも高いだろう。

「あの……、あなたは……?」
「私はこの屋敷のメイドで、名をリラと申します」
「ぼ、僕はノアです……」

怯えている人間に対して、無表情を貫くほど無情ではない。
リラは小さく微笑み、青年の手を取ろうとした。

「ノア様。お手をどうぞ」
「いえ、あの……汚れてしまうので、大丈夫です……」

汚れてしまう。
それは物理的なことを意味していたのだろうが、その言葉にリラの胸がチクリと痛んだ。

「汚れなんて、洗えばいいのです。さぁ、手を取って」
「…………でも」
「私も、あなたと同じ『オメガ』ですよ」

ふっ、と瞼を落として口元に笑みを作れば、彼もその意味を察したのだろう。
きゅっと下唇を噛みしめると、恐る恐るリラの手に自分のソレを重ね合わせた。
ぐっと力を入れて引き立たせると、予想通り、青年はリラより頭一つ分背が高かった。

「ドレイク様のお連れ様ですよね? すぐご案内いたします」
「いえ、僕はここで待つように言われていて……」

何故? という疑問が頭を横切ったが、ドレイクのことだ。屋敷に上げるには彼の装いが不適切だと判断したのだろう。

(でもこんなところにひとり残すだなんて……。公爵家の敷地内とはいえ、やはりドレイク様は冷酷なお方なのね……。でも……)

彼からはドレイクの匂いが濃く漂ってくる。アルファと身体を重ねた後のオメガには、そのアルファの匂いが色濃く残る。
彼は噎せ返るようなアルファの香りを纏っていた。

(――いいなぁ)

ドレイクは非情で冷酷な人間だと聞いているが、それでも彼のようなオメガでも抱くようだ。
一方、リラは……。

「リラ!」

名を呼ばれ、ハッとして声の方へと顔を向けると、いきなり腕を掴まれ、ディランに引き寄せられた。
広い胸板に抱きこまれ、その苦しさに思わず声が漏れる。

「ここで何をしているんだ! 絶対に部屋から出るなと言っておいただろう!!」

ここで初めて、彼の言いつけを破ってしまったことを思い出した。

「申し訳ございません。でも……」
「あとでお仕置きだ。ここはもういいから、僕の部屋に行っていなさい」

お仕置き、という言葉に、リラは何故? と首を傾げた。
彼のいうお仕置き、というのはこんこんと小言を言われる程度のことだが、罰であることに変わりはない。
言いつけは破ってしまったが、不可抗力である。
しかしリラは口を噤んだ。
はっきりとディランが怒っている、ということがわかったからだ。
反論は怒りを増長させてしまう。
ならば口を噤むしかない。

「いい子で待っていなさい」

離れていく彼の体温を名残惜しく思いながらも、リラは言われた通りその足で彼の部屋へと戻ることにしたのだった。




あれからあのオメガがどうなったのか、リラは知らない。だが、屋敷の中に彼の匂いも、ドレイクの匂いもしないことから、恐らくふたりは帰ったのだろう。
ディランのベッドに正座させられ、言うことを聞かない犬のしつけのように二時間小言を言われ続けたその後、リラは自分の部屋へ戻り、抑制剤を口にした。

「どうしよう……、もう薬がない……」

今飲んだのが、最後の一包だ。
薬は絶やさないようにしていたが、たまにこういうこともある。

「買いに行かないと……」

特に制限を受けているわけではないが、普段であればディランに外出の許可を貰いに行くのだが、今日の彼は機嫌が悪そうだった。
今、そんな相談をすれば火に油を注いでしまうかもしれない。
果たしてドレイクとどんな話をしていたのだろうか。
あの初めて見るオメガ関連なのか……。

(いけない……。ご主人様のことを詮索したって、いいことなんてないのに……)

頭を振って頭の中にあった思考を追い払い、リラはそっと部屋の扉を開けた。使用人の部屋がずらりと並ぶこの一角も、夕食時の今の時間は人気がほとんどない。

(急げば夕餉の時間までには帰れるはず……)

制限を受けていない、とはいえ、今は勤務中だ。
メイドが勝手に屋敷を出ることは職務違反である。だが夜になってしまえば、薬屋が閉まってしまう。

(それにさっきあの仔たちを怒ってしまったから、何かおやつでも用意してあげないと)

昼間、青年オメガを吠えていたあの番犬たちはただ自分たちが課せられた役目を果たしただけだ。
侵入者が来たら吠える、という教育をしたのはリラであり、そのリラ自身が彼らの行動を否定してしまった。
賢い犬たちだ。わけもわからず大好きなリラに怒られてしょぼくれているはずである。

(薬と、あの仔たちのおやつを五つ。お金は足りるかしら……)

ディランから十分な給金を貰ってはいるが、それ以上に薬は高いのだ。
抑制剤はディランから買い与えられている分もあるが、もうあれだけでは足りなくなっている。
それを、リラはずっと言い出せずにいた。
彼女は無理やり発情期を遅らせるため、ディランから貰っている以上の薬を服用しているのだ。
少しでも長く、彼の傍に居るために……。

(早く、行かないと……)

こうと決めたら、リラの行動は早かった。
人目につかないよう素早く移動し、正門ではなく裏口へ周り、使用人用の裏門から街へと急ぐ。
行きつけの薬屋で抑制剤と鎮静剤を買い、その足で犬たちのおやつも購入した。
早く屋敷に帰ろうと足早に広場を通りすぎようとしたとき、目の前に綺麗な容姿のオメガを連れたアルファが通り過ぎていく。

「…………」

幸せそうに笑う彼らを我知らずじっと見つめてしまった。
ディランは絶対にリラを連れて街を歩きたがらない。
たまに開かれる王宮の舞踏会や夜会も、リラはいつも留守番だ。
寵愛を受けていると言われていても、使用人であるリラを連れて歩くのはやはり恥なのだろう。
使用人のオメガ、ということは大抵の場合、性奴隷であることを意味している。
公式の場でダッチワイフを持ち出してパートナーだ、と主張すれば奇異の目で見られるだろう。
所詮はメイド。しかも性的に主を満足させられない役立たずの人形如きが、多くを望んではならない。
だがリラとてひとりのオメガだ。知らない誰かの匂い纏って帰ってくる彼に対して、何も思わないわけではなかった。

「私の容姿はディラン様のお好みではないのよね……」

不意に、仕立て屋のショウウィンドウが視界に入った。
綺麗なドレスが飾られている。
リラは一着も、公式な場で着られるようなドレスを持っていない。
必要ないと思っているし、外出用の洋服あるだけで満足はしている。
だが一度でいいから、こんな素敵なドレスを着てみたい、という願望がないかと言われれば、それは否だった。
もしかしたらディランに強請れば買ってもらえるかもしれない。
だが一度贅沢を覚えてしまえば、そこから抜けられなくなってしまう。
それは生家に居た頃、嫌という程、思い知らされたことだ。
リラのオメガとしての教育として、多くの男たちに奉仕してきた。
リラのような特別美しいオメガの性教育の相手は、間違っても番契約を結ばないために、ベータがあてがわれることが多い。そして不思議なことに、そのベータたちは大金をはたいてでもその役目に自ら手を上げるという。
奉仕の指南役として、多くのベータたちは金を払い、その役を文字通り「買って出た」。
大した領地も資産もない男爵家に降り注いだその金は、両親や兄弟たちに湯水のように使われ、リラのために使われることは一度としてなかった。
そしてディランは、彼らが使いきれないほどの大金でリラを買ったのだ。

(どうしてあの方は、私を買ったのかしら……)

欲望を押し付けるでもなく、メイドとして傍に置く見目が良いオメガが欲しいのなら、リラでなくてもよかったはずだ。

(いけない……、また余計なことを考えてる……)

何も感じないようにしようと常に努力しているのに、一度「何故」と思うと止められない。
この疑問を口にしないようにしなければ問題ないが、いつかこの数多の思いが堰を切って溢れ出さないか、不安になるのだ。

(結局私はオメガなんだから、考えたところで、向かう先は同じよ……)

いつかディランが連れてくるアルファと番う、という未来は恐らく変わらない。
リラがどんなに傍に置いてほしいと望んでも、主である彼の決定には逆らえない。
だから決して、無理やり発情期を遅らせようとしていることを、ディランに悟られてはいけないのだ。
むしろ、発情期の来ない欠陥品のオメガだ、とでも思ってもらえれば、優しい彼のことだ。一生傍に置いてくれるかもしれない。

(いいえ、それはないか……)

もしリラが欠陥品なのであれば、オメガとしての価値はない。
オメガとしての価値がなくなれば、ディランの心も当然離れるだろう。
結論、リラがずっと彼の元に居るための道など存在しないのだ。
ただ先延ばしにすることが精いっぱいで、いつかは別れがやってくる。

(オメガの性とはいえ、本当に、嫌になる……)

オメガはどうしても、アルファに惹かれてしまう。ディランというひとりのアルファに執着してしまう。
アルファに気に入られるために美しい見目と感度で生まれてくる、と揶揄されるほどに。
ぼんやりとショウウィンドウを見るでもなく眺めていると、急に聞こえてきたボーンボーン、という大きな鐘の音にハッとして我に返った。

(いけない! 早く帰らないと)

夜の訪れを知らせる教会の鐘の音に、足早に屋敷に帰ると、まず先にお仕着せに着替えてから、犬たちにおやつを与えに向かった。
予想通り、犬たちはしょぼくれており、リラから手渡しでおやつを与えられ、頭を撫でられると昼間のことを忘れてしまったかのように嬉しそうに尻尾を振り、まとわりついてきた。

「よしよし、昼はごめんね。許してくれたかしら?」

一頭ずつ首回りを念入りに掻き回し、チュッとキスをしていくと、尻尾がさらに激しくブンブンと左右に揺れた。

「リラ! リラ、そこにいるのか!」

犬たちと戯れていると、ディランの声が中庭に響き渡った。
声を聞き、サッと立ち上がると犬たちに「ハウス!」と命じ、ディランの元へと駆け寄った。

「はい。ここにおります」
「どこに行っていた」

ディランはやはり、どこか不機嫌そうだ。

「犬たちにおやつをあげていました」
「ずっと外に居たの?」
「はい」

嘘は言っていない。
「外」にはいたのだから。

「…………そう」

じっとディランに見降ろされ、その双眸の光りについたじろぎそうになってしまう。
何かを見透かしたような彼の瞳は、時に心地いいが、こういう時は後ろめたくなってしまう。

「もうすぐディナーの時間だ。一緒に行こう」
「はい」

彼の給仕もリラの役目だ。
リラはディランに促されるまま、屋敷へと戻ったのだった。
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