あした僕は鬼になる

高谷 ゆうと

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調査

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 僕のような人は、きっとタイスケみたいに積極的に相手に攻めていく事は出来ないんだと思う。
 いきなり何を言っているんだと思われるかもしれないけれど、朝起きて、ぎしぎしと痛む体で歯磨きをしながら、突然そう思ったのだ。回りくどい方法で徐々に相手を追い詰めていくほうが、性に合っている気がする。急がば回れというわけじゃないけれど、まあ、とにかくそうなんだ。
 だから僕は、僕なりのやり方で、犯人に近付いていくんだと、歯磨き粉が溶けた泡を吐き出しながら、決意した。
 リビングに入ると、台所にいる母さんと目が合った。
「おはよう」
 何となく、そう言っておかなければならないような気がして、僕は呟いた。
「おはよう康介」
 思いの外、母さんは普通だった。
「あんた、大丈夫なの!?」とか、「体痛くない?」などと血相を変えて聞いてくると思ったのに。
「お腹すいた。昨日、よく考えたら晩御飯食べてないんだもん」
「そう言うと思って、いつもより多めに作ってあるから、早く食べなさい」
 母さんが指差した方向を見ると、湯気のたった和食の朝食が食卓に並んでいた。
 母さんには全てお見通しなのだろうか。全てを知っているうえで、あえて何も言ってこないんじゃないだろうか。
 そんな気がして、僕はおそるおそる食卓について、箸を手に取った。いつもより美味しい気がしたのは、やっぱりお腹が空いていたからだろうか。
 僕は、ゆっくりと母さんの手料理を味わった後、食べ終わった食器を流し台に置き、部屋を出ようとした。
「康介」
 母さんに、やけに真剣な声で呼び止められたのは、その時だった。
「はい」
 思わず、丁寧な返事をしてしまう。その場で気をつけの姿勢をとり、母さんの方を向く。
「何をしているのかは聞かない。聞いたら、母さん絶対力ずくでもあんたを止めてしまうから。せめて母さんの思い違いだって思っていたいの。……だけど康介、あんたの体は、ひとつしかないんだから、大事にしなさいね」
 やっぱり、母さんは僕が何をしているか、薄々気付いているようだ。それでいて、自分の勘を認めたくないのだろう。
 僕は母さんの忠告を聞いて、心がきゅんとなって、鼻が痛くなった。
 ダメだ。ここで泣いてしまったら、僕が何をしているか、余計にばれてしまうじゃないか。
 「……僕は、大丈夫だから……」
 ひきつった笑みを浮かべてそう言いながら、僕はリビングを後にした。
 母さんが追いかけてくることはなかったから良かったはずなのに、なぜか妙に寂しい気持ちになった。
 ごめん、母さん……。
 ずっと心配ばかりかけてきた。母さんの想いなんて、僕には到底理解出来ないけれど、自分のせいで母さんを悲しませたくない。だけど僕は、逃げ出すわけにはいかない。
 全てが終わったら、母さんに話そうと思った。
 死なない覚悟は出来ている。大袈裟かもしれないが、相手は殺人犯なのだ。何もかもが無事に終わってから、母さんに怒られるのも遅くないはずだ。
 家を出なきゃ何も始まらないのに、僕はずっと躊躇っていた。また昨日みたいに、何者かに襲われたらどうしよう。 
 今度こそ、命が危ないかもしれない。大袈裟かもしれないし、情けないと分かっているのに、そんなことをいちいち考えてしまう。
 でも、こうして玄関に突っ立っている場合じゃないんだ。
 僕はしばらく考えて、タイスケを呼ぶことにした。
 颯太は部活かもしれないし、もし僕が襲われても、喧嘩が強いらしいタイスケと一緒なら大丈夫だと考えたのだ。
 電話であからさまに、「僕の身が危険だから」云々と言えば母さんに聞こえてしまうだろうから、メッセージを送った。
 送信完了の画面を見ながら、電話をするなら僕の部屋に行けばよかったんだと気付き、自分の頭の悪さというか、要領の悪さに唖然とした。
 一分も経たないうちに、返事が来た。 
「任せとけ、すぐ行ってやるから」 
 ただの文字の羅列なのに、すごく頼もしく感じる。タイスケに、昨日の事を話せばどうなるだろうか。 
 笑われるかもしれないけど、それでもなんとかして助けてくれるかもしれない。だけど、僕は別に見返りを求めているわけじゃない。 
 僕だって、昨日の人達に対抗出来るのなら、そうしたいと思うし、やられっぱなしは嫌だ。 
 彼らに太刀打ち出来る強さを持っていない僕が言っても、どうせ全部負け惜しみにしか聞こえないのだろうけど。 
 靴を履いた時、電話が鳴った。やけに大きく響いた着信音に驚いて、慌てて通話ボタンを押す。 
「……もしもし」
「おー!コースケ、こんちはーっす!!」 
 音が割れてしまうほどに大きな声の相手は、タイスケだった。そういえば慌てて電話に出たからちゃんと見ていないけれど、ディスプレイに「タ」の文字が浮かんでいた気がする。 
「こんにちは……ごめんね、急に」 
「それは全然いいんだけどよー、オレ、コースケの家知らねーよ。どこにあんの?」 
 そうだった、と気付く。まだ一度もタイスケに家を教えたことがない。出会ってから日も浅いし、しかたないかと考えながら、僕は自分の家の周りの様子を教えた。 
「あー、たぶん、そこ知ってる。何回か行ったことあるぞ」 
 タイスケから返ってきた言葉は、なぜか不思議と意外には感じなかった。僕の先入観でしかないけど、紅蓮の一員である彼ならば、きっとその行動範囲も広いんじゃないかと思ったからだろう。 
「じゃー、近くまで来たらオレから電話すっから。ちゃんと、家の中で待ってろよ」 
 タイスケがそう言った後、ブツリという音がして、通話は途切れた。待受に戻った端末の画面を見ながら、僕はひとり、苦笑する。 
 一体どっちが年上なんだと。
 今の会話を、どこかの知らない誰かが聞いていたとしたら、僕はただのマヌケな後輩にしか見られないだろう。 
 だけど、タイスケがもし本当に僕の先輩だったら、何のためらいもなく頼りきっているかもしれないなんて想像してしまう僕は、考え方がちょっとおかしいのかもしれない。 
 現実は、僕の方が年上なんだし、その事実は変えようがないのだから。

 再び電話が鳴ったのは、それから大体十五分くらいが経った頃だった。今度は、一瞬だけど画面を見て、着信相手がタイスケだと確認した。 
「はい」 
「おーコースケ!着いたぞ、多分。ドアを開けてみてくれよ!」 
 苦笑する。別に玄関の扉を開けなくても、タイスケの声は充分に聞こえた。 
「大丈夫……ちゃんと声が聞こえるから」 
「えっ?マジか?オマエ、耳いーなー」 
「普通だよ。すぐ出るから」 
 僕はそう言って電話を切り、スニーカーを履いて家を出た。ちょうど門柱にもたれかかるようにして立っていたタイスケの後ろ頭が目に入る。 
 忍び寄って脅かそうと思ったのに、寸でのところでサッと振り向かれてしまった。 
 まるで後ろに目がついていて、僕が近付いてくるのをずっと見ていたかのような動きだったので、僕の方が驚いてしまった。
「ヘヘッ、まだまだだなコースケ」 
 タイスケはそう言って、僕の目の前までパンチをとばしてきた。思わず目をつぶってしまい、タイスケに鼻で笑われる。 
 いきなりパンチをされかけて、目を見開いたままでいられるほうが稀だよと言いたかったが、口を開く前にタイスケに話題を変えられた。 
「ところでいきなりオレを呼び出して、どーしたんだ?」 
「ちょっと昨日、怖いことがあって一人で外を歩くのは嫌だったんだけど、外に出なきゃいけなかったから、タイスケなら暇かなって呼び出したんだ」 
「オレ、めちゃめちゃ暇人だと思われてんだな!」 
 タイスケがちょっと拗ねたように呟いたが、その後すぐに微笑んでくれたので、僕は安心した。 
「怖いことって、何だよ」 
 だけどそれを聞かれた途端、さあっと心に北風が吹いた。
 話すべきかどうか、僕は迷った。話せば、タイスケに鼻で笑われるかもしれない。 
 タイスケだったらいいかな。 
 そう思ったりもした。 
「笑わないで聞いてくれる?」 
「笑うようなことなのか?」 
「いや……個人的には、違います」 
 なぜか、敬語になってしまった僕の顔を、タイスケはギロリと見てきた。 
「笑わないから、話してみろよ」 
 睨みつけられたような気がして怖気づいたのに、優しくそう言われて、僕はようやく話す気になった。 
「昨日……変な人達に絡まれて、暴力をふるわれたんだ」 
「……詳しく聞かせろよ」 
 タイスケがさらに真剣な表情になる。そんな彼を見るのは、初めてだ。
 タイスケにはこんな一面もあるのだと関心しつつ、僕は話を聞いてもらう事にした。 
 僕がそう決めたのは、タイスケが真剣に話を聞いてくれるという態度を見せてくれた事によって、彼は決して困っている人を本気で馬鹿にするような人なんかじゃないと分かったからだ。 
「昨日、紅蓮のビルから出た後、帰り道で急に誰かに引っ張られたんだ……。それで、変なスプレーみたいなの……催涙スプレーっていうのかな……とにかくスプレーを目にかけられて、そこからしばらく、殴られたり蹴ったりされた……」 
「誰に?」 
 言葉短くタイスケが尋ねてくる。しかしすぐその後、僕が答える前に、彼は言葉を続けた。 
「っても、分からないか。そいつらなんか言ってなかったか?」 
「僕が出てきた建物は、紅蓮のビルだって知ってた。だから、紅蓮の事も知ってる人達だと思う」 
「……あと……」 
 そう言ってから僕は一瞬躊躇ったが、タイスケに隠し事をすれば後々面倒なことに成りかねないし(具体的に面倒なこととは何だと聞かれたら困るけど)、彼なら口外することもないような気がしたので、続きを話すことにした。 
「これ以上変な行動をすると、イソが黙っていないみたいな感じの事を言われた」 
 言い終えた後、少しの間、沈黙が流れた。僕は歩きながら、タイスケの横顔をチラチラ見て、彼の返答を待っていた。 
 そんな僕の視線に気付いたかのようにタイスケが話し始めたのは、それからすぐ後の事、時間にしてみれば一分ほどが経った時だった。 
「コースケ、オレ、馬鹿だから間違ってるかもしれねーけど、遼一さんを殺したヤツは、そのイソって奴じゃないのか?で、色々と嗅ぎ回ってるコースケがうざくなって、脅してきたとしか思えねーんだけど」
「僕もそうだと思う。僕達はホームズとワトソンじゃないから込み入った捜査なんてのはできないけど、この事件が難事件ってわけでもなさそうだし」 
 そう言って僕は一人で笑った。タイスケは、そんな僕にどう接すればいいのか困ったような顔をする。 
 笑わないでと言った張本人が笑っているのだから、無理もない。 
「……なんで言ってくれなかったんだよ」 
 僕の笑いがおさまった時、タイスケがボソリと聞いてきた。 
「オレ、コースケを守ってやるって言ったよな?オレの言う事、もしかして嘘だって思ったのか?」 
「違うよ。タイスケはちゃんと守ってくれるって思ってる。だけど……」 
 プライドか邪魔した、なんて、とてもじゃないけど言える状況じゃない。言葉に詰まる僕を見て、タイスケは、はあっと大きなため息をついた。 
「わかったよ、何か言いづらい理由があったんだろ?オレ、もう何も聞かないから。でも次は、ちゃんとオレを呼べよ」
「……うん」 
 頷いて初めて、あ、悪い事をしてしまったなと思った。せっかくの相手の申し出を踏みにじり、他の人にその役割を任せるような行動に出てしまったのだ。 
 みなまで聞けば、タイスケ自身が憤慨してしまう予感がして、何も聞かないでいてくれたのだろうか。 
 または、ただ単に僕が困っているのを不憫に思ったのかもしれない。 
 器の大きな少年だなと思った時、バーンという音がして、僕の背中がじんじん痛みだした。 
「何しょんぼりしてんだよ、コースケ!お前を殴った奴らはどうせ紅蓮の中にいるだろうからさ、今から行くぞ。オレがぶっとばしてやる」 
「ええ!?」 
「どうせ行くとこないんだろ?考え事するんならどこでも行けるし、相手からイソって奴の事も聞き出せるかもしれねーじゃん」
 僕が何を言っても、きっとタイスケは昨日の人達を探し出すだろうから、僕はそれ以上何も言わずに彼の後についていった。 
 自分に暴力を振るった憎い人達を、タイスケがぶちのめしてくれるのを見てみたい気もしたから、僕は何も言わなかったのかもしれない。 
「ごめんね」 
「はー?何で謝られてんのか、さっぱりわかんねえよ」 
 そう言ってタイスケはケラケラと笑った。僕もつられて笑う。ケラケラとまでは笑えなかったけど、クスリと、少しだけ笑えた。 
「コースケ、オレがそいつらに勝ったら、コーラ奢れよ」 
「うん、わかった」 
 コーラでもシャンパンでもドンペリでも、何でも奢ってやろうと思ったけれど、ドンペリは金銭的にも年齢的にもまずいなと考え直した。 
 今度は本物の北風が吹く。タイスケの革ジャンが、陽の光に照らされて黒く輝いた。
「タイスケ、ホントに大丈夫?……僕、何にも力になれないよ」 
「あーもう、コースケしつけーなー、大丈夫だから心配すんな!オマエは心配性かよ」 
 再三の僕の言葉にほとほと呆れたのか、タイスケは言葉の始めと終わりにため息をくっつけて、そう言った。 
「これだけ守ってやるって言った奴が、たかが数人の奴らに負けてたら、馬鹿以外の何者でもないぞ」 
「……それはそうだけど」 
 何が起こるか分からないし、あの人達が正攻法で立ち向かってくるとは思えない。それにお互い知り合いなのだとしたら、尚更だ。 
 タイスケの頭は、そこまでちゃんと考えているのだろうか。僕の心配をよそに、タイスケはずかずかと歩いて、到着したばかりの紅蓮のビルの中へと入っていった。
 階段を昇り、いつもの部屋に行くと、タイスケは一瞬中を見渡した後、躊躇いもなく、部屋の中央に陣取っているグループに近付いていった。 
 僕も後を追う。 
 時間のせいか、部屋にいるグループは、タイスケが近付いていくグループ以外にはあとひとつしかなく、部屋の奥に柏原さんの姿はなかった。 
「オマエら、顔貸せ」 
 タイスケは、床に座り込んでいる五人の少年達に向かって、そう言い放った。 
「あ?」 
 そのうちの一人、タイスケや僕よりも大柄の少年が、苛立ったような声を出した。 
「オマエら昨日、コースケをリンチしただろ」 
 タイスケの言葉に驚いたのは、大柄くん(なんか名前っぽいな)でもなく、その他の四人でもなく、僕だった。 
 思わず「え?」と言ってしまったくらいだ。だが、タイスケは僕に構うことなく、少年達に「どうなんだよ」と尋ねた。
「お前さあ、ちょっとリーダーに気に入られてるからって、調子乗りすぎなんじゃねえの?中坊が、ナメた口利くな」 
「オレの質問に答えろよ」 
 タイスケは、チッと舌打ちをした。多分、少年達はタイスケよりも年上なんだろう。そんな彼らに怖気づくことなく自分の考えを言い放つタイスケは、凄いなと思った。 
「コースケって、お前の横にいる奴だろ?最近ここを出入りしてるって奴。なんか、探偵気取りらしいけどさ、どうして俺らがそいつをリンチしなきゃいけねえんだよ」 
 茶色の髪を短く刈り上げた少年がそう言った時、ちょうど「コースケ」の「ケ」のあたりで、彼の声色が、昨日聞いた甲高い少年の声と同じだと気付いた。
「タイスケ……昨日、今喋った人と、同じ声を聞いた」 
 どうか自分の聞き違いじゃありませんようにと思う傍らで、絶対にこいつだという自信もあった。 
 僕はちらりと、彼らの顔を見る。甲高い声の少年は、バツが悪そうな顔をしていた。 
 きっと、声を出すんじゃなかったとか、思っているのだろう。 
「ほら見ろ。リンチされた張本人が言ってるんだから、間違いねえだろ」 
 タイスケが不敵に笑う。ぞくりとした。 
「だったら何だってんだよ。お前らが俺らに仕返しでもするってんのか?」 
「わかってんじゃん。オマエ、頭いーな。だけど、やるのはオレだけ。コースケに手を出したら、許さねえからな」 
 タイスケが、まるで準備運動をするかのように腕をぶんぶん振り回すと、大柄くんが声をあげて笑い出した。
「お前、一人が?俺達と?笑わせんじゃねえよ。お前、一体何様のつもりなんだ?」 
 大柄くんの発言に、僕は違和感を抱いたが、それがどうしてなのかは分からなかった。 
「つべこべ言わずに、早く来いよ」 
 タイスケはそう言って彼らに背を向けると、「コースケは一番最後な!」と笑顔で言ってから、五人が立ち上がり、肩をいからせながら部屋を出ていくのを見送った。 
 その後に彼自身も、後について行ったので、僕は慌てて最後に部屋を出た。 
「二階に行け」 
 タイスケは、階段を降りながら、僕に話しかける時とは全く違う低い声で、前を歩く少年達に言っていた。 
 誰かが聞こえよがしに舌打ちをする。 
 タイスケがそれに反応して壁を殴ったのがなんだか面白くて、僕は少し噴き出してしまった。
「ちぇっ、コースケ、いきなり笑うなんてひどいヤツ」 
 タイスケが唇をとんがらせながら言ってきたので、僕は顔まで真っ赤になって何も言い返せなかった。
 僕達は下に降りると、階段の踊り場から続いている廊下を歩き、タイスケが開けた部屋に入った。 
「こんな真昼間から、外でやるわけにもいかねーだろ。だから、空いてる部屋でいいかなって思った」 
「うん、そうだね」 
 こちらに鋭い視線を投げつけてくる少年達とは目を合わせないようにしながら、僕は答えた。 
 彼らはすでに部屋の真ん中に立っていて、準備万端というように、指をポキポキ鳴らしている。 
 あーあ、あんなことしたら、指が太くなるらしいのになと思っていたら、いきなりタイスケが革ジャンとその下に来ていたトレーナーを脱いで僕に投げてきた。 
「それ、重いからさ、ちょっと持っててくれな!」 
 半袖のTシャツ一枚になったタイスケを見て身震いしながら、僕は無言で頷いた。
「さてと……誰から来るんだ?」 
 タイスケはそう言うと、五人に近付いていって、ボクシング選手がするようなファイティングポーズをとった。 
 タイスケとボクシングって、似合ってるな、かっこいいな、などと思いながら、僕は部屋の扉に張り付くようにして立って、彼らの様子を見ていた。 
「何なら、五人一気に来いよ。その方が、おもしれーし」 
 タイスケがちょいちょいと挑発したのを皮切りに、五人が一斉にタイスケに向かって殴り掛かっていった。 
 大柄くんも意外と素早くて、僕だったら足がすくんで動けないだろうその状況で、タイスケは笑みさえも浮かべながら「おせーおせー(多分、遅いと言いたいんだろう)」と言って全ての攻撃をかわしていた。
 それだけじゃなかったと気付いたのは、五人が「ううっ」と呻いたり、大きく咳込んだりして倒れ込んだ時だった。 
 タイスケは、あの短い間に、五人全員に最初の一撃を放っていたのだ。 
 僕はただ驚いて、感嘆のため息をもらすことしか出来ず、タイスケは、そこらへんにいるような口だけ達者な奴じゃないんだと知った。 
 五人も、たった一撃で倒れるような人達ではなかったらしく、立ち上がると再びタイスケを倒そうと、立ち向かっていった。 
 無言の格闘は、部屋に靴や服が擦れ合う音を響かせ、五人の体力を徐々に奪っていく。 
 タイスケを心配する必要はもうなさそうだけど、一度、大柄くんのパンチが頬にヒットしたときはひやりとした。 
 そんな僕の驚きをよそに、最終的には顔を腫らした五人が床に倒れ込んでいる結果となり、僕の方に戻ってきたタイスケは、冬だというのにじんわりと汗をかいていた。
「ほら、コースケ、あとはオマエの好きにしていいぞ。あいつらの腹に、メディシンボールでも落としてみるか?」 
「メディシンボールってなに?」 
 シャツの裾で額の汗を拭いながら座り込んだタイスケを見る。 
「腹筋を鍛えるのに使うボールだよ。腹に向かって、ニキロとか五キロのボールを落とすんだ。隣の部屋にあるから、取ってこようか?」 
「……い、いいよ」 
 想像しただけで、苦しくなった。でもその直後、タイスケの申し出を断ったことを少し後悔した。 
 こんな時に偽善者みたいな態度を取った自分に、腹が立つ。 
 もっと自分に正直になれよ。ホントはあいつらを再起不能にしてやりたいぐらいなんだろ。 
 僕は、僕自身にそう言い聞かせた。 
 そうだ。その通りだ。僕は目の前にいる五人を、完膚なきまでに叩きのめしてやりたいのだ。それが出来るかどうかは、また別の話だけど。
「ちょっと待ってろ、三秒で戻ってくるから」と言って、結局タイスケは、隣の部屋に三十秒ほどかけてメディシンボールとやらを取りに行った。 
 その間に五人が僕に襲い掛かってきたらどうしようなどと考えたけれど、タイスケが「コースケに何かしたら、オマエら後でボコボコにしてやるからな」と言い残して行ったせいか、その思いは杞憂だった。 
 五人は完全に、戦意を喪失しているようだ。 
「ほら、コースケ、持ってみろよ。五キロのやつ、持ってきてやったから」 
 勢いよく扉を開けて戻ってきたタイスケに、いきなりボールを渡される。バスケットボールを小さくしてすごく重くした感じだなと、ずっしりした黒い球体を受け取りながら、僕は思った。 
「これを、あの人達に落とすの?」 
「コースケの好きにしろ」 
 タイスケの顔には、「落とせばいいぞ」と思いきり書いてあるようで、僕は噴き出しそうになるのをこらえるのに必死だった。
「僕、この人達に色々聞きたいことがあるから、質問してみて、もし答えてくれなかったら落としてみようかな」 
「おー、そうしろそうしろ」 
 そう言ったタイスケの顔が残念そうな表情になったのを、僕はしっかりと見た。 
「だけどよ、あんまり上から落としたら、血吐くかもしんねーぞ。オレ、柏原さんに上から落とされた時、血とゲロみたいなの吐いたからさ。服着てなかったから、まだ良かったけど、あの人加減知らねーんだもん。おっかねぇよ」 
「……そ、そうなんだ」 
 さっきチラッとタイスケの体を見た僕は、あんなに筋肉がついていてもそんなことがあるんだと驚いて、やっぱり落とすのは怖いなと思い直す。 
 でもそれよりも、五人の反応の方が、恐怖感が顕著に表れていて、あ、きっと彼らはちゃんと喋ってくれるなと感じた。 
「コースケ優しいから、やっぱりオレがボールかまえてる。おい!オマエら、逃げんなよ、動くなよ!」 
 僕の手からボールを奪って、五人に近付いていったタイスケの背中を見ながら、結局君がやりたかっただけだろという言葉を飲み下した。
「あの……どうして昨日は、あんな事したの?」 
 タイスケが大柄くんの腹の上でボールを構えたのを確認した後で、彼らに近付いていって尋ねた。 
「……い、言っただろ、イソってやつが、俺らに頼んできたんだよ」 
 大柄くんが、恐れを必死で隠すような喋り方で、しかし、精一杯強がった口調で答えてくれた。 
「うん。じゃあ、イソって人は誰?」 
 ちょっと苛立ったふりをして、聞いてみる。 
「さっさと言えや、コラ」 
 タイスケが僕の声色に反応して、大柄くんの脇腹を蹴った。 
「お、俺達もよく知らないんだ……初めて見るような男から金を渡されて、『最近、紅蓮を出入りしている、後藤康介という少年に、これ以上事件を嗅ぎ回らないようにと脅してこい』って言われたんだ」 
「へー、じゃー、オマエら、知らない奴に飴もらってひょこひょこついていくような奴らなんだな、うぜー」 
 タイスケはそうぼやいたかと思うと、僕が止める間もなくボールを大柄くんの腹に落とした。
「げえっ」と呻いて体をくねらせる大柄くんに、タイスケはなおもボールを落とそうとしていたので、さすがにそれはやり過ぎだと思った。 
「タイスケ、話が聞けなくなるから、やめて」 
 僕の声を聞いたタイスケは、いたずらっぽい笑みを引っ込めてこちらを見ると、「ご、ごめん、コースケ」と、やけにしょんぼりした声で言った。そして五人から離れたかと思うと、僕の後ろにしゃがみ込んで、つまらなさそうにボールを弄びはじめた。 
「ごめんね、もう苦しませないから、もうちょっとだけ質問に答えてくれるかな」 
 年齢も対して変わらない大柄くんに、僕は小さい子供に話しかけるような口調で喋ってしまった。 
 しまった、とは思ったけれど、彼はこくんと頷くと、「ちゃんと……知ってることは話し……ます」と答えてくれた。
「うん、分かった。じゃあ、その君達にお金をくれた人が、イソって人なのかな」 
「……サングラスかけてて、キャップで顔を隠してたから、誰かは分からなかった……です。ただ、その人は……」 
 大柄くんはそこで言葉を切って、タイスケの方をチラリと見た。僕もつられてその方向を見ると、タイスケはもうこちらには興味がなさそうに背を向けて、ボールを転がして壁にぶつけて遊んでいるところだった。 
「その人は、か、柏原さんに雰囲気が似てい」 
「はー!?」 
 大柄くんが言い終える前に、タイスケが大声を出した。ちゃんと話は聞いていたんだと思う。 
「じゃー、オマエらはそのイソって奴が柏原さんだとでも言うのかよ?ふざけんじゃねえぞ。あの人は人殺しなんかするような人じゃねえ!オマエら、もう一回殴られてーのか!?」 
 怒鳴るタイスケを、「まあまあ」と言って宥める。 タイスケは柏原さんの事を、すごく信頼しているのだなと思った。
 だけど、僕からしてみれば、柏原さんだって犯人かもしれないのだ。自分以外の、遼一を知っている人は全員怪しいと言っても、過言ではない。 
 そういう意味では、タイスケも、目の前にいる五人の少年達も、怪しい。 
 少年達が遼一を殺した。だから犯人探しをしている僕を疎ましく思って脅してきた。だけど失敗したので、お金をもらって人から頼まれた、それは柏原さんに雰囲気が似た人で顔は知らない、なんて言い訳をしているともとれるのだ。 
 ただ、それは単なる僕の憶測でしかないので、少年達が犯人だと決めつける事は出来ない。 
「あの……後藤さん」 
 甲高い声の少年だ。「後藤」は、僕の名字だけど、後藤さんと呼ばれるのには慣れていなくて、返事が少し遅れてしまった。
「探し物?」 
 すっかり僕に向かって敬語を使うようになった少年を見て、僕は尋ねた。 
「はい……クマのキーホルダーらしいんですけど、めちゃくちゃ大事なものだと言ってました。後藤さんが持ってるかもしれないって言ってたんすけど、持ってるわけないですよね」 
「う……あ!ちょっと待って、クマのキーホルダーなら、事件現場で拾った」 
 うん、持ってるわけないよと言いかけた僕の脳裏に浮かんだのは、遼一の事件現場を初めて訪れた時に、茂みに落ちていたクマのキーホルダーだった。 
 それをイソという人は探しているというのか。じゃあ、あれは犯人のもので、犯人はやっぱりイソという人なんだ。 
 頭の中で、絡まった糸が少しほどけてきたような感覚がはしる。 
「俺達、その人から、探し物をするようにって頼まれてたんです」
「お節介かもしれないっすけど、そのキーホルダー、早く手放した方がいいかもしれないですよ。また別の奴らに、狙われる可能性もあるし……」 
「そん時は、オレがオマエらみたいにやってやるから大丈夫だよ」 
 僕が答えるより先に、タイスケが口を挟んできたが、それに対してなぜか妙に納得してしまう自分がいた。 
「忠告してくれてありがとう。……でも、タイスケもああ言ってくれてるし、そんなに返してほしいなら、そのイソっていう人が直接取りにこいって感じだから、返さないよ」 
「……そう、ですか。後藤さんって、意外と度胸あるんですね」 
「オマエら今頃気付いたのかよ。ばかだなー。コースケは強いぞ。オマエらなんかより百倍強いかもしんねーな。リンチ受けた次の日に、リンチやった本人達に会いに来るような度胸もあるし、柏原さんの次にオレが認めたヤツだし」 
 タイスケの言葉を聞いた僕は、恥ずかしくなって、赤らめた顔を伏せて「そんなことないよ」とゴニョゴニョ呟いた。
「でもよー、もしマジでイソがコースケのところに来たら、どーすんだよ。タイホすんのか?」 
「僕達は、逮捕なんか出来ないからね。ちゃんと警察呼ばなきゃ」 
 苦笑する。多分タイスケも分かってるとは思うけど、一応そう言っておいた。 
「じゃ、オレがボコボコにして動けなくしてから、ポリに突き出せばいいんだな」 
「……う、うん。まあ、そういう方法もあるかな。それと……」 
 僕が言葉を切ってタイスケを見ると、彼もこちらを見てきた。目が合って、見つめ合っているわけにもいかないから、すぐに視線をそらす。 
「僕がイソって人の正体を突き止めて、誰よりも早く自分から会いに行く」 
 そうすることで、遼一への弔いになれば、遼一も笑ってくれるかもしれない。 
「さすがだな、康介」なんて言ってくれるような気がした。
「やっべー!柏原さんに返信すんの忘れてた!コースケ、革ジャンからケータイ取ってくれ」 
 タイスケの大声で、僕はハッと我にかえった。 
 根拠のない妄想から引きはがされたような感覚のまま、手に持っていたタイスケの革ジャンのポケットの中から、彼の携帯電話を取り出した。 
 そして僕は、端末本体より、それにつけてあるストラップに目がいった。この間はついていなかったような気がしたけど。 
「タイスケがこんなのつけてるなんて、めちゃくちゃ意外」 
「バカ、見んじゃねー」 
 タイスケは慌てたように、僕の手から端末を引ったくった。 
 見んじゃねーと言われても、端末と同じくらいの大きさのぬいぐるみのようなストラップだから、視界に入らない方がおかしい。 
 今やっている子供向けのテレビ番組に登場するキャラクターが、中学生が持っているケータイにぶら下がって揺れているのだから、余計に見てしまうのだ。 
「弟がコイツ好きなんだよ。オレがかわいいストラップつけてたら悪いかよ」 
 必死で弁解をするタイスケがおかしかったけれど、笑うのも可哀相なので、僕は込み上げてくる笑いを必死でかみ殺した。
「おい、オマエら、うっとうしいから、もう行っていいぞ。コースケには今後一切手を出すなよ」 
 タイスケは、端末を操作しながら、少年達には目もくれずに言った。どうやら彼は、喧嘩に勝った相手には、横暴な態度になるようだ。 
「あの、後藤さん……本当にすみませんでした。……あの……」 
 少年達は、タイスケを恐れてすぐに立ち去るのかと思ったら、タイスケの言葉を聞いていなかったかのような態度で、僕に謝ってきた。 
 そして謝るだけでは物足りないらしく、まだ何かを言いたそうにしている。 
「どうしたの?」 
 僕が促してあげなければ、モジモジしていつまでも口を開きそうにないので、そう言ってやった。 
「お、俺達にも、何か手伝える事はありませんか?……その、お詫びというか……」
「はー?オマエら、やっぱ頭おかしーな。オレの事シカトしてなんか言うと思ったら、コースケのご機嫌取りかよ」 
 僕は、今日、一体何回タイスケは「はー?」と言ったのだろうかと思いながら、突然の少年の申し出に少し戸惑っていた。 
 彼らは本当に誠意を見せてくれようとして、言ってくれたのかもしれない。だけど、タイスケの言った通り、その場しのぎのご機嫌取りのための言葉の可能性だってある。 
 多分無いと思うけれど、また僕をはめようと企んでいるとも、考えようによっては思えてしまう。 
 第一、お互いの事などよく知らない、ましてや、つい十数分前までは僕達を倒そうとしていた五人が、態度を翻してくる事自体が怪しい気もするのだ。 
 彼らの表情を見れば、僕を陥れようという気はないように見える。だけど、それは所詮表情だ。演技が上手い人ならば、心情とは全く逆の顔をすることも出来るだろう。
 柏原さんやタイスケ、それに颯太は、遼一と面識があったから、僕に協力したいと申し出た時は納得出来た。 
 萩野さんだって、最初は不審者とあまり変わらない存在だったけど、タイスケが彼は警察だと暴露したから、今となっては彼の行動が理解出来る。 
 だけど、今回ばかりは、どう彼らに譲歩しても、僕に協力する動機だとか、彼らを信頼出来るきっかけだとかが見えてこないのだ。 
「気持ちは嬉しいけど……」 
 僕は、そう呟くしかなかった。 
 明らかに肩を落とす五人を見て、自分で彼らを疑った上に、申し出を断ったくせに、哀れな気持ちになる。 
 タイスケはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていたけれど、僕が見ているのに気付くと、一瞬にして真顔に戻り、何事もなかったかのようにそっぽを向いた。どうやらタイスケは、五人が困っているのを見るのが大好きなようだ。でも、ちょっとやりすぎたような気もするから、僕は複雑な気分だった。
「……そう、ですか」 
 しばらくした後、大柄くんが気落ちした声で呟いた。 
「ホントに、ごめんね」 
「いえ、俺達こそ、酷いことしたうえに、差し出がましい発言までして、すみませんでした」 
 五人は、そろそろと僕の脇を歩いていって、力無く扉を開けて立ち去っていった。その後ろ姿を睨みつけるように見ていたタイスケが、声に出さず「バーカ」と口を動かしていた。 
「タイスケ、助かった。ありがと」 
 だけど、僕がタイスケを咎めるような立場じゃないような気がしたので、それには気付かなかったふりをしてお礼を言うと、まんざらでもない笑みを浮かべたタイスケに「オレはいいストレス解消になったけどな!」と言われた。 
 その後、「オレ達もいこーぜ」と急かされて扉を開けると、タイスケは物凄い速さで部屋を出た……と思ったけれど、僕が敷居をまたごうとした時に、タイスケはまだそこにいた。
「か、柏原さん……」 
 明らかにさっきとは違うタイスケの声に、僕は思わず吹き出してしまった。 
「なんだタイスケ、お前だけだと思ってたら、康介君もいたのか。命拾いしたな」 
 柏原さんがこちらを覗き込む。 
「コースケ、聞いてくれよお。コースケがいなかったら、オレ、柏原さんにボコボコにされてたかもしんねーよ」 
「人聞きの悪い事を言うな。スパーリングだ。もしかして康介君もボクシングに興味があったのか?そうだとしたら、意外だな」 
「いえ、違います。僕は、ただ」 
「柏原さん、相変わらずずるいなあ。どーせ、聞いてたんでしょ、さっきの」 
 タイスケが口を挟んできた。そうだったのかと思って、ギョッとした顔で柏原さんを見たら、彼は「相変わらずお前は勘が鋭いな」と苦笑していた。
「それにしてもタイスケ、なかなかかっこいいじゃねえか。友達のためにあんなこと出来るなんてよ」 

「コースケは友達じゃない」 
「え?」 
 ちょっとびっくりした。タイスケは僕の事を友達だと思っているから、こんなにもしきりに関わってくるものだと思っていたからだ。 
「親友だよ、コースケは」 
 また顔が赤らむのを感じた。そんな言葉、言われた事もない。遼一にさえも、だ。 
「……ありがと」 
 相手に聞こえるかも分からないようなくぐもった声で、僕は言った。 
 タイスケは、見かけによらず純粋な奴なんだと思った。そうでなければ「親友」だなんて口に出来ない。少なくとも、僕は。
「お前、よくそんな恥ずかしい事が言えるな。もし康介君がお前の事をただのボディーガードだとしか思ってなかったら、気まずかったぞ~」
 柏原さんは、どうやらタイスケをからかうのが好きなようだ。タイスケが強く言い返せないのを知っているから、それを楽しんでいるのかもしれない。
「コ、コースケはそんな事思う奴じゃない。柏原さん、変な事言いすぎです」
 ハハハッと、柏原さんは軽やかに笑った。
「あの五人、康介君を困らせたみたいだから、お前がボコッたのは仕方ないけど、もうこれ以上、手あげるな。あんな奴らでも仲間なんだ。仲間割れは、許さねえぞ」
「で、でも、コースケ、ホントにやばかったらしくて……オレ、アイツら許したくない」
 慌てたようにそう言ったタイスケの胸倉を、柏原さんが突然掴んだ。あまりにも素早かったその行動に、僕はとっさに反応することが出来なかった。
「ご、ごめ、ごめんなさい、分かりました、仲間割れは、しない……です」
 あのタイスケが、柏原さんに胸倉をつかまれただけで、大慌てで謝っている。一体柏原さんはどれだけ恐ろしい人なのだろうと、僕は背中に冷や汗をかいた。
 柏原さんが本気になれば、僕なんか指一本でぶっ飛ばされそうだなと思い、自分がそんな目に合っている様を想像して怖くなった。
「分かればいいんだ」
 柏原さんはそう言って、タイスケから手を離した。もしも僕がこの場にいなかったら、もしかしたらタイスケは血を流していたのかもしれない。
「康介君、そういうわけだから、勘弁な。君がどんな目に合ったかは、君を見たら何となく想像出来るけど、どうかこれ以上、あいつらをせめないでやってくれないか」
 柏原さんの言い分に、僕がたとえ心の中で反発していたとしても、こんな状況でそれを口にする度胸なんてない。あいつらをけしかけたのは貴方だからですかと、聞いてみたい気持ちもあるのに。
 柏原さんはそれを知っていて、あえてタイスケにすごんでから、僕に言ったのだろうか。
「わ、わかりました」
 柏原さんの行動の真意がどうであれ、僕はそう言うしかないじゃないか。今は、別にあの五人をこれ以上どうこうしたいという気持ちはないけれど、結局は、いずれ自分の身可愛さに、僕は柏原さんに媚びへつらうしかないのだ。
 柏原さんとタイスケの後について、部屋を後にする。誰も、何も話さない。
 タイスケはすっかり落ち込んで、時折顔を上げては柏原さんの背中を見ているようだった。
 この薄暗いビルの中で、二人の後を着いて行くだけじゃ、僕は遼一の事件の真相には近付けない。
 だからといって、やりたいことや、やらなければいけないことなんて思い付かない。
 警察に、先を越されてしまう。
 それだけは、なぜかどうしても嫌だった。本来なら、その組織に任せるのが普通なのに、やっぱり僕は変わり者なのだろうか。
 「柏原さん」
 僕の呼びかけに、柏原さんはぴたりと歩みを止めて、こちらに振り返った。
 「僕、今日は帰ります。家に帰って、やりたい事があるんです」
 驚いた顔をしたのは、タイスケだった。柏原さんは身じろぎ一つせずに、「そうか」と呟いただけだ。
 「コースケ、オレ……」
 何か言いたそうに僕に駆け寄ろうとしたタイスケを、柏原さんは左手を伸ばして制止した。
 げふっと、タイスケが咳き込んで、元の位置で踏み止まった時、僕は会釈をして彼らの脇を通り抜けた。
 「コースケ、じゃーなー!!」
 この時、僕は嫌な予感がした。柏原さんに止められつつも、最後まで声をかけてきてくれたタイスケの身に、何かが起こりそうな気がしたのだ。
 とはいえ、それはただの憶測だ。
 いつもの事だから、そんなに気にしなくていいんだという可能性もある。何にせよ僕は、今出来る事をやるしかないのだ。

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