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第四章
1 ここからが本番だ
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空が白み始める気配もない深夜。
私はでき立てほやほやの刺繍入りハンカチを目の前でぴんと広げ、及第点を与える。少し縫い目が乱れているけれど仕方がない。短時間かつ見様見真似で作ったにしては上出来だ。
いける。きっと大丈夫。私は何度も自分に言い聞かせながら、ハンカチと二通の便箋、そして小瓶をコートの内ポケットにねじ込んで、再び城下へと向かった。
街は夜の静けさに沈んでいる。けれど時間は着実に進み、朝の気配も近づいているらしい。
早起きなパン屋の窓から微かに明かりが漏れ出している。朝の仕込みだろうか。
反対に、酒場など夜のお店からは、終業後特有の気怠さと浮足立つような高揚感が同時に発せられている。
私はそれらを横目に見ながら、ひたすら走る。
ウィオラは、リザエラの死に関わるだろう便箋に描かれていたのと同じ花の刺繍を、何かの証のように示して地下へと下って行った。「混沌に下れ」の一文が脳裏を過る。ウィオラの行動はきっと、禁じられた混沌術と関係がある。
消えたデュヘル、忍んで夜にお城を抜け出すウィオラ。二人があの地下で密会し、混沌術を使って共謀しているのでは。
そう、何か悪事を。たとえば、二人の関係の邪魔になる聖女リザエラの命を奪うこと……。
そこまで考えて、悪意のあまりの大きさに、全身がぶるりと震えた。
もしかすると、デュヘルの執拗なまでの愛情表現は全てカモフラージュで、実は彼の心はウィオラにあって、リザエラを自死に見せかけて殺害した?
いやいや、それはおかしい。リザエラの精神はどこかへ行ってしまったが、結局はリサがやって来てリザエラとして生きている。それは彼らにとって不都合だ。
それではもしかすると、リサの登場は彼らにとって予想外の事態であって、私が転生したのは、自分の命を狙う魔王と乳母の策略に気づいたリザエラが、ただではやられまいと対策をした結果だろうか。
そうか、だからデュヘル達は、想定外に生き返ってしまったリザエラを貶めるため、次の策を練っているのだ。そこでエナの事件。あの件でスケープゴートにされようとしていたのは山羊角リーチ侯爵などではなく、リザエラだったのでは。
冷たい夜気に打たれながらも、頬に一筋汗が伝う。
そうだ。エナの事件について、リザエラには動機がある。
エナはナーリスを害そうとした。母であるリザエラは、エナを憎んでもおかしくない。リザエラは自死を試みるような、精神的に不安定な女性なのだから、恐れが高じた末の短絡的犯行とされれば、誰もが納得するだろう。リーチ侯爵の濡れ衣が晴らされた後、糾弾を受けるのはこの私。
私は息を切らせながら最後の角を曲がり、秘密の通路を開く。首を振って、最悪の思考を打ち消した。
きっと考え過ぎだ。どちらにしても真相は、自分の目と耳で確かめる。この頃にはもう、確信していた。私がリザエラの身体に転生したのは、ただの偶然ではない。私にはきっと、ここでやるべきことがある。
最後の角が見えて来た。一度足を止め、肩で荒い息を繰り返す。全力疾走の末、ぜえぜえと苦し気な様子で見張りの狼さんの前に立つのは不審過ぎるので、平静を装うために息を整えた。
軽く汗を拭い、髪を撫でつけてから、背筋を伸ばして灰色の狼さんへと歩み寄る。
威圧的で大きな身体。だいぶ高い位置にある金色の瞳が、値踏みするような視線を向けてくる。ぎろりと光る鋭い目に怖気づきそうになりながら、私は例のハンカチを取り出し、狼さんの目の前に突きつけた。
金色の瞳が動き、刺繍をじっと見つめる。ほんの少し、眉が上がったように見えるが、それも一瞬のこと。彼は全く頬を動かさずに半身をずらす。
私は何食わぬ顔で階段へと足を進め、薄暗い地下へと下って行った。
背中に、金色の視線が注がれているような心地がしたが、振り返ることはしない。しばらく進むと踊り場が見える。折り返した辺りで肩越しに振り返り、背後に誰もいないことを確認してからやっと、詰めていた息を吐いた。
耳にばくばくと鼓動が響く。吐く息が少し震えている。ひとまず、ことは上手く運んだようだ。
あの刺繍が地下への鍵であるのかどうか半信半疑だったし、突貫工事の賜物である小花が偽物であると見抜かれてしまうのではないか不安もあった。けれど、全ての懸念に蓋をして、ここまで一直線に走り抜けたのだ。
少し気を抜けば、もう立ち上がれなくなってしまいそうな気がする。私は気持ちを奮い立たせて、深呼吸をした。
耳を澄ませばさらに地下深くから、微かな喧噪が這い上がって来る。間違いない。何人もの人間が階下にいる。
さあ、ここからが本番だ。
私は呼吸を整えて一段一段足を進め、やがて、光度の低い照明に照らされたその部屋へと辿りついた。
私はでき立てほやほやの刺繍入りハンカチを目の前でぴんと広げ、及第点を与える。少し縫い目が乱れているけれど仕方がない。短時間かつ見様見真似で作ったにしては上出来だ。
いける。きっと大丈夫。私は何度も自分に言い聞かせながら、ハンカチと二通の便箋、そして小瓶をコートの内ポケットにねじ込んで、再び城下へと向かった。
街は夜の静けさに沈んでいる。けれど時間は着実に進み、朝の気配も近づいているらしい。
早起きなパン屋の窓から微かに明かりが漏れ出している。朝の仕込みだろうか。
反対に、酒場など夜のお店からは、終業後特有の気怠さと浮足立つような高揚感が同時に発せられている。
私はそれらを横目に見ながら、ひたすら走る。
ウィオラは、リザエラの死に関わるだろう便箋に描かれていたのと同じ花の刺繍を、何かの証のように示して地下へと下って行った。「混沌に下れ」の一文が脳裏を過る。ウィオラの行動はきっと、禁じられた混沌術と関係がある。
消えたデュヘル、忍んで夜にお城を抜け出すウィオラ。二人があの地下で密会し、混沌術を使って共謀しているのでは。
そう、何か悪事を。たとえば、二人の関係の邪魔になる聖女リザエラの命を奪うこと……。
そこまで考えて、悪意のあまりの大きさに、全身がぶるりと震えた。
もしかすると、デュヘルの執拗なまでの愛情表現は全てカモフラージュで、実は彼の心はウィオラにあって、リザエラを自死に見せかけて殺害した?
いやいや、それはおかしい。リザエラの精神はどこかへ行ってしまったが、結局はリサがやって来てリザエラとして生きている。それは彼らにとって不都合だ。
それではもしかすると、リサの登場は彼らにとって予想外の事態であって、私が転生したのは、自分の命を狙う魔王と乳母の策略に気づいたリザエラが、ただではやられまいと対策をした結果だろうか。
そうか、だからデュヘル達は、想定外に生き返ってしまったリザエラを貶めるため、次の策を練っているのだ。そこでエナの事件。あの件でスケープゴートにされようとしていたのは山羊角リーチ侯爵などではなく、リザエラだったのでは。
冷たい夜気に打たれながらも、頬に一筋汗が伝う。
そうだ。エナの事件について、リザエラには動機がある。
エナはナーリスを害そうとした。母であるリザエラは、エナを憎んでもおかしくない。リザエラは自死を試みるような、精神的に不安定な女性なのだから、恐れが高じた末の短絡的犯行とされれば、誰もが納得するだろう。リーチ侯爵の濡れ衣が晴らされた後、糾弾を受けるのはこの私。
私は息を切らせながら最後の角を曲がり、秘密の通路を開く。首を振って、最悪の思考を打ち消した。
きっと考え過ぎだ。どちらにしても真相は、自分の目と耳で確かめる。この頃にはもう、確信していた。私がリザエラの身体に転生したのは、ただの偶然ではない。私にはきっと、ここでやるべきことがある。
最後の角が見えて来た。一度足を止め、肩で荒い息を繰り返す。全力疾走の末、ぜえぜえと苦し気な様子で見張りの狼さんの前に立つのは不審過ぎるので、平静を装うために息を整えた。
軽く汗を拭い、髪を撫でつけてから、背筋を伸ばして灰色の狼さんへと歩み寄る。
威圧的で大きな身体。だいぶ高い位置にある金色の瞳が、値踏みするような視線を向けてくる。ぎろりと光る鋭い目に怖気づきそうになりながら、私は例のハンカチを取り出し、狼さんの目の前に突きつけた。
金色の瞳が動き、刺繍をじっと見つめる。ほんの少し、眉が上がったように見えるが、それも一瞬のこと。彼は全く頬を動かさずに半身をずらす。
私は何食わぬ顔で階段へと足を進め、薄暗い地下へと下って行った。
背中に、金色の視線が注がれているような心地がしたが、振り返ることはしない。しばらく進むと踊り場が見える。折り返した辺りで肩越しに振り返り、背後に誰もいないことを確認してからやっと、詰めていた息を吐いた。
耳にばくばくと鼓動が響く。吐く息が少し震えている。ひとまず、ことは上手く運んだようだ。
あの刺繍が地下への鍵であるのかどうか半信半疑だったし、突貫工事の賜物である小花が偽物であると見抜かれてしまうのではないか不安もあった。けれど、全ての懸念に蓋をして、ここまで一直線に走り抜けたのだ。
少し気を抜けば、もう立ち上がれなくなってしまいそうな気がする。私は気持ちを奮い立たせて、深呼吸をした。
耳を澄ませばさらに地下深くから、微かな喧噪が這い上がって来る。間違いない。何人もの人間が階下にいる。
さあ、ここからが本番だ。
私は呼吸を整えて一段一段足を進め、やがて、光度の低い照明に照らされたその部屋へと辿りついた。
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