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第一章
14 夢、そうよこれは夢
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「ナーリス様あっ!」
控室に戻るなり、アリスが突進してきた。ショールに包まれてウィオラに抱かれているナーリスに縋り付き、おいおい泣いている。
「ああ、ナーリス様。何てご立派なお姿でしょう。すべすべのお肌、柔らかいお髪、小さくてぷくぷくした手のひら! 私、感無量です。一生分の幸せを噛み締めました」
ナーリスは薄紫色の布でぐるぐる巻きになったまま、紅玉のような瞳だけを覗かせている。遊び相手兼母のメイドであるアリスの大号泣に、ナーリスは照れ臭そうで、しかしどこか誇らしげな様子だ。
「アリス、ありがとう。だけどそんなに泣かなくても」
「だって、だってえ。ナーリス様、もっとお姿を見せてください」
「え、今はだめだよ。だって服着てないし」
「気にしません!」
長い兎耳が、嗚咽に合わせてひくひく動いている。私は貰い泣きしつつ歩み寄り、アリスの背中を撫でた。
「アリスったら、落ち着いて。だってこれからはいつでもナーリスは人型になれるのよ。後でゆっくりと椅子に座ってお話しましょう」
「ううっ、リザエラ様」
私が宥めると、アリスはぐっと唇を噛み締めて、涙を吞み込み拳で目元を拭った。
「はい、そうですね。お見苦しいところをお見せし」
「ふふふふふふ」
不意に、低い笑い声が控室内に響き、私は肩を震わせて声の出どころへと目を向ける。
重厚な扉が開き、悪役のような顔をしたデュヘルが、敵の親玉みたいな笑いを漏らしている。
普段の、お砂糖を吐き散らかすデュヘルからは想像もつかないほどの悪人面に、私は大いに引いた。
「デュヘル様、いったい何が」
とりあえず訊ねてみれば、彼は小刻みに身体を揺らし、やがてそれは高笑いへと変貌する。
「どうしたんですか」
「ああ、リザエラ。嬉しくて仕方がないんだ。ナーリスが無事人型になれたこと。これからは遠慮することもなく、皇として、いや、何よりも年相応の子供として、無邪気に暮らすことができること」
「そうですね」
完全に同意だが、あの悪役笑いの理由はきっとそれだけではない。案の定、デュヘルは悪い顔で言葉の毒霧を撒き散らした。
「そしてあの山羊侯爵! これまで、愛しいリザエラとナーリスに投げつけてきた数々の無礼への落とし前を付けてやったぞ」
「落とし前、ですか」
「そう。誕生祭でのあやつの言動を記事に書くようにと、新聞社に原稿を送りつけてやったのだ。併せて、奴の恥ずかしい過去も曝露してやった!」
「恥ずかしい過去」
「そう、あいつはな」
デュヘルは声を潜める。
「十歳まで指しゃぶりがやめられなかったのだ」
「それは」
あまりに恥ずかしい。だがそれを大衆の目に晒すことを命じるなど、なんて大人気ないのだろうか。
私は冷ややかな目でデュヘルを眺める。仄かに感じていたときめきの熱が冷え込むのを感じる。あの胸の高鳴りはきっと、幻覚だった。そう、俗に言う吊り橋効果というやつだったのだろう。危機的状況に晒されて、唯一の仲間であるデュヘルを頼りにしただけ。
やっぱり私はこの人を愛すことなどできないのでは。
「あ」
不意に、ウィオラが声を漏らす。
目を遣れば、薄紫色のショールが淡く発光している。中にいるナーリスの身体に異変が起きているようだ。
「あああ……」
アリスが呻く。無理もない。ナーリスのすべすべお肌にびっしりと茶色い毛が生え、側頭の耳が消えて代わりに三角形のケモ耳が現われる。腰が曲がり四つ這いになり、ナーリスの姿は子犬型に戻っていた。
しん、と重苦しい沈黙がこの場を支配する。
驚きに目を瞠るナーリスの様子を見る限り、彼が意図して獣型になった訳ではなさそうだ。つまりナーリスは、早くも人型を保つことができなくなったのか。その原因は。
「もしかして、私がデュヘル様に幻滅したから?」
「何だって?」
デュヘルが裏返った声を上げる。傍で見ていたウィオラが思案気に顎を撫でた。
「ああ、そういうことなのですね」
「ウィオラ、そういうことって」
「ナーリス様のお姿の件です。皇はお二人の愛の結晶。ですから、その愛が大きければ大きいほど、ナーリス様の魔力と聖力が強まります。一方、畏れながら思いが冷めてしまうと……」
「思いが冷めるだって? 私は一度たりともリザエラへの気持ちが揺らいだことなどない」
断言するデュヘル。自信満々なその様子に、一同の顔に引き攣った笑みが浮かんだ。
デュヘルの愛は十分でも、リザエラの愛が消失してしまったのだ。これは誰の目にも明らかなこと。
とすればそもそも、ナーリスを苦しめていた元凶はこの私。ことの真相は単純で、リザエラがデュヘルを愛せなかったがために、ナーリスの力が安定しなかったということなのだろう。
チェストの中、ぽつんと隠されたリザエラの直筆を思い出す。『あなたのことを愛せない』という言葉は、ナーリスだけではなく、デュヘルのことも指していたのだろうか。
罪悪感が芽生え、言葉を失う私の横から、空気を読めない声が響いた。
「やめてくださいデュヘル様! リザエラ様を幻滅させることしないでくださいいいい」
「な、幻滅……」
私は慌ててアリスの腕を引く。
「アリス、落ち着いて。大丈夫よ、この話は後で」
「だめです! せっかくナーリス様の……いいえ、全国民の夢が叶ったんですから。そうよ、そうです。お二人にはこれからいっそう愛を深めてもらわないといけません!」
絶句する私をよそに、デュヘルはいくらか機嫌を直し、うむと頷く。
「そうだな、無論、我々の間にある愛はすでに巨大だが、悲しいかな飽和状態というほどでもないのだろうね」
デュヘルは悪人面を引っ込めて、偏愛気質の夫の顔になる。それから臆面もなく私の前に膝を突き、おもむろに手を取り指先に口付けた。
「リザエラ、私達は物心ついた頃からの許婚であった。時が満ち、当然のように神樹に祈り、ナーリスという宝物を得て、共に暮らすようになった。それに甘んじた私は、きちんと君に求婚したことがなかったね」
デュヘルの赤みを帯びた紫色の瞳に、情熱の火が灯る。魔力でも滲み出ているのだろうか、目が離せない。デュヘルは私を見上げ、極上に甘い笑みを浮かべて言った。
「改めて愛を深めよう、リザエラ。聖女と魔王としてではなく、君と私の意思で、普通の男女として。気持ちが追い付いた時にもう一度結婚しよう」
周囲から歓声が上がる。アリスがまた泣き始め、どこからか現れた猫耳のフェールスが不愛想顔で、けれど少し嬉しそうにこちらを眺めている。
それら全てが他人事のよう。私は、クラクラする頭を片手で押さえた。
彼氏なし歴=社会人歴の蒲原リサ、三十歳。トラックに撥ねられ、モフモフに囲まれた素敵ファンタジーな世界へと転生。そして今、超絶イケメンに求婚された。
頭が沸騰しそうだ。夢、そうだこれは夢。
私は意識を手放して、ぐるぐると回る思考から解放された。
次に目覚めた時にはけたたましいアラーム音が鳴り、いつも通り会社へ向かう。そんな明日が待っているかもしれないし、待っていないかもしれない。
第一章 終
「ナーリス様あっ!」
控室に戻るなり、アリスが突進してきた。ショールに包まれてウィオラに抱かれているナーリスに縋り付き、おいおい泣いている。
「ああ、ナーリス様。何てご立派なお姿でしょう。すべすべのお肌、柔らかいお髪、小さくてぷくぷくした手のひら! 私、感無量です。一生分の幸せを噛み締めました」
ナーリスは薄紫色の布でぐるぐる巻きになったまま、紅玉のような瞳だけを覗かせている。遊び相手兼母のメイドであるアリスの大号泣に、ナーリスは照れ臭そうで、しかしどこか誇らしげな様子だ。
「アリス、ありがとう。だけどそんなに泣かなくても」
「だって、だってえ。ナーリス様、もっとお姿を見せてください」
「え、今はだめだよ。だって服着てないし」
「気にしません!」
長い兎耳が、嗚咽に合わせてひくひく動いている。私は貰い泣きしつつ歩み寄り、アリスの背中を撫でた。
「アリスったら、落ち着いて。だってこれからはいつでもナーリスは人型になれるのよ。後でゆっくりと椅子に座ってお話しましょう」
「ううっ、リザエラ様」
私が宥めると、アリスはぐっと唇を噛み締めて、涙を吞み込み拳で目元を拭った。
「はい、そうですね。お見苦しいところをお見せし」
「ふふふふふふ」
不意に、低い笑い声が控室内に響き、私は肩を震わせて声の出どころへと目を向ける。
重厚な扉が開き、悪役のような顔をしたデュヘルが、敵の親玉みたいな笑いを漏らしている。
普段の、お砂糖を吐き散らかすデュヘルからは想像もつかないほどの悪人面に、私は大いに引いた。
「デュヘル様、いったい何が」
とりあえず訊ねてみれば、彼は小刻みに身体を揺らし、やがてそれは高笑いへと変貌する。
「どうしたんですか」
「ああ、リザエラ。嬉しくて仕方がないんだ。ナーリスが無事人型になれたこと。これからは遠慮することもなく、皇として、いや、何よりも年相応の子供として、無邪気に暮らすことができること」
「そうですね」
完全に同意だが、あの悪役笑いの理由はきっとそれだけではない。案の定、デュヘルは悪い顔で言葉の毒霧を撒き散らした。
「そしてあの山羊侯爵! これまで、愛しいリザエラとナーリスに投げつけてきた数々の無礼への落とし前を付けてやったぞ」
「落とし前、ですか」
「そう。誕生祭でのあやつの言動を記事に書くようにと、新聞社に原稿を送りつけてやったのだ。併せて、奴の恥ずかしい過去も曝露してやった!」
「恥ずかしい過去」
「そう、あいつはな」
デュヘルは声を潜める。
「十歳まで指しゃぶりがやめられなかったのだ」
「それは」
あまりに恥ずかしい。だがそれを大衆の目に晒すことを命じるなど、なんて大人気ないのだろうか。
私は冷ややかな目でデュヘルを眺める。仄かに感じていたときめきの熱が冷え込むのを感じる。あの胸の高鳴りはきっと、幻覚だった。そう、俗に言う吊り橋効果というやつだったのだろう。危機的状況に晒されて、唯一の仲間であるデュヘルを頼りにしただけ。
やっぱり私はこの人を愛すことなどできないのでは。
「あ」
不意に、ウィオラが声を漏らす。
目を遣れば、薄紫色のショールが淡く発光している。中にいるナーリスの身体に異変が起きているようだ。
「あああ……」
アリスが呻く。無理もない。ナーリスのすべすべお肌にびっしりと茶色い毛が生え、側頭の耳が消えて代わりに三角形のケモ耳が現われる。腰が曲がり四つ這いになり、ナーリスの姿は子犬型に戻っていた。
しん、と重苦しい沈黙がこの場を支配する。
驚きに目を瞠るナーリスの様子を見る限り、彼が意図して獣型になった訳ではなさそうだ。つまりナーリスは、早くも人型を保つことができなくなったのか。その原因は。
「もしかして、私がデュヘル様に幻滅したから?」
「何だって?」
デュヘルが裏返った声を上げる。傍で見ていたウィオラが思案気に顎を撫でた。
「ああ、そういうことなのですね」
「ウィオラ、そういうことって」
「ナーリス様のお姿の件です。皇はお二人の愛の結晶。ですから、その愛が大きければ大きいほど、ナーリス様の魔力と聖力が強まります。一方、畏れながら思いが冷めてしまうと……」
「思いが冷めるだって? 私は一度たりともリザエラへの気持ちが揺らいだことなどない」
断言するデュヘル。自信満々なその様子に、一同の顔に引き攣った笑みが浮かんだ。
デュヘルの愛は十分でも、リザエラの愛が消失してしまったのだ。これは誰の目にも明らかなこと。
とすればそもそも、ナーリスを苦しめていた元凶はこの私。ことの真相は単純で、リザエラがデュヘルを愛せなかったがために、ナーリスの力が安定しなかったということなのだろう。
チェストの中、ぽつんと隠されたリザエラの直筆を思い出す。『あなたのことを愛せない』という言葉は、ナーリスだけではなく、デュヘルのことも指していたのだろうか。
罪悪感が芽生え、言葉を失う私の横から、空気を読めない声が響いた。
「やめてくださいデュヘル様! リザエラ様を幻滅させることしないでくださいいいい」
「な、幻滅……」
私は慌ててアリスの腕を引く。
「アリス、落ち着いて。大丈夫よ、この話は後で」
「だめです! せっかくナーリス様の……いいえ、全国民の夢が叶ったんですから。そうよ、そうです。お二人にはこれからいっそう愛を深めてもらわないといけません!」
絶句する私をよそに、デュヘルはいくらか機嫌を直し、うむと頷く。
「そうだな、無論、我々の間にある愛はすでに巨大だが、悲しいかな飽和状態というほどでもないのだろうね」
デュヘルは悪人面を引っ込めて、偏愛気質の夫の顔になる。それから臆面もなく私の前に膝を突き、おもむろに手を取り指先に口付けた。
「リザエラ、私達は物心ついた頃からの許婚であった。時が満ち、当然のように神樹に祈り、ナーリスという宝物を得て、共に暮らすようになった。それに甘んじた私は、きちんと君に求婚したことがなかったね」
デュヘルの赤みを帯びた紫色の瞳に、情熱の火が灯る。魔力でも滲み出ているのだろうか、目が離せない。デュヘルは私を見上げ、極上に甘い笑みを浮かべて言った。
「改めて愛を深めよう、リザエラ。聖女と魔王としてではなく、君と私の意思で、普通の男女として。気持ちが追い付いた時にもう一度結婚しよう」
周囲から歓声が上がる。アリスがまた泣き始め、どこからか現れた猫耳のフェールスが不愛想顔で、けれど少し嬉しそうにこちらを眺めている。
それら全てが他人事のよう。私は、クラクラする頭を片手で押さえた。
彼氏なし歴=社会人歴の蒲原リサ、三十歳。トラックに撥ねられ、モフモフに囲まれた素敵ファンタジーな世界へと転生。そして今、超絶イケメンに求婚された。
頭が沸騰しそうだ。夢、そうだこれは夢。
私は意識を手放して、ぐるぐると回る思考から解放された。
次に目覚めた時にはけたたましいアラーム音が鳴り、いつも通り会社へ向かう。そんな明日が待っているかもしれないし、待っていないかもしれない。
第一章 終
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