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第三章

3 シハーブとラフィア①

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「ええと、だから、次期族長に指名されていたのは、シハーブなんですよ。でも未成年は族長になれませんから、弟が十八になるまでということで、アースィムがしばらく族長代理を務めていたんです。その間、手柄を上げれば正式に族長になるかもしれなくて」

 帰還の日、アースィムとシハーブの間に漂うひりつくような空気を感じたラフィアは、一晩明けた今日、カリーマに詰め寄っていた。その気迫に珍しく押された様子のカリーマは、今にも天幕に逃げ帰りそうな表情で頭を掻いている。

「弟さんが次期族長に指名されていたのは、この前本人から聞いたわ。でもアースィムは子供の頃から族長になるために努力したって言っていたのよ。どうしてそれが族長代理になってしまったの」
「それはアースィムが……いや、詳細は本人から聞いてください」
「お願い、教えて!」

 ラフィアはカリーマの腕に、半ば縋り付く。

 赤の集落にて、アースィムが廃嫡された話は聞いていたものの、何ゆえのことなのか聞きそびれた。カリーマの言う通り、アースィム本人に聞けば良いのだが、昨日の彼は溜まりに溜まった仕事に忙殺されており、腰を据えて話す時間がなかったのだ。それならば日が明けた本日に、と思っていたのだが、なんと夫は弟に誘われ、夜が明けぬうちからやや離れた聖地へと向かってしまった。

 シハーブはほんの一欠片の迷いもなく、兄を「族長代理」と呼んだ。アースィムも否定しなかった。ということはつまり本当に、アースィムは弟が療養から帰って来るまで一時的に集落を預かっていたに過ぎぬのか。

「あ、皇女様。バラーですよ。ほら、物欲しそうにこっちを見ている」

 あからさまに話を逸らされた。その手には乗るまいと思いつつも、カリーマが指差す方へと目を向ける。

 いつの間に囲いを抜け出したのか、天幕の陰から鼻先を覗かせて、こちらを窺う幼竜ようりゅうの姿があった。つぶらな瞳に、少し拗ねたような色を宿すいじらしいバラーを見て、ラフィアの心は呆気なく陥落する。

「バラー! 会いたかったわ。昨日はどこへ行っていたの。帰ってすぐに会いに行ったのに、どこにもいないんだから」

 小さな身体を抱き締めようと伸ばした手は、白銀に触れる寸前で空気を掴む。バラーが身を翻して逃げたのだ。

 きっと、拗ねているのだろう。無理もない。赤の集落へ旅立つ際、追い縋るバラーを無理矢理振り切ったのだから。

 短いながら、幼竜の足は案外速い。バラーの姿を見失ってしまったものの、点々と続く小さな足跡を辿れば、追うのは容易である。いくつかの天幕をぐるりと回り、バラーの尻を見つけたラフィアは再度腕を伸ばした。

「バラー、仲直りしましょう。こっちを向いて……」

 しかし、またもやバラーは腕をすり抜けた。代わりに前方から別の腕が伸びて来て、幼竜を抱き上げる。

「皇女様、こちらにおられましたか」

 顔を上げると、飴色の瞳と視線が重なった。

 アースィム。

 一瞬、夫の名が飛び出しかけて、すんでのところで止まる。目鼻立ちや、髪や目の色合いはそっくりだが、彼は両方の腕でバラーをしっかりと抱いている。

「シハーブ」

 呼びかければ、彼は目元を和ませて目礼をした。

 初対面時には、線が細いながらも快活な印象を覚えたはずだが、今日のシハーブの表情にはどこか陰がある。そのためいっそう、アースィムと似ているように見えたのだろう。

「僕が不在の折、バラーの世話をしてくれていたと聞きました。お礼が遅れ申し訳ございません。本当にありがとうございます」

 ラフィアは頷く。そういえばバラーは、アースィムの弟の砂竜だと聞いていた。シハーブの腕の中で睨むような視線を寄越すバラーに、胸に穴が空いたかのような寂しさを覚える。

「バラー、シハーブが帰って来て良かったわね」

 角の間を撫でてやると、バラーは一瞬だけ親愛の情を浮かべたが、すぐにぷいと顔を背けてしまう。どうやら心と心の間に生まれた亀裂は、かなり深いようだ。

 ラフィアは痛む胸を押さえ一呼吸してから、首を巡らせ周囲を見回した。

「そういえば、アースィムは? 一緒に聖地へ行っていたのでしょう」

 途端に、シハーブの頬が色を失い硬直した。怪訝に思い首を傾ければ、シハーブは苦し気に口を開く。

「兄は……自害なさりました」
「え?」

 耳に飛び込んだ言葉は頭部を殴打しただけで、脳内で意味を形取らない。

 シハーブは蒼白な顔で唇を噛み、手にしていた、引きちぎられたような白い布切れを差し出した。

「落下する兄を止めようとして掴んだ瞬間、千切れた兄の衣服の断片です」

 ラフィアはそれを凝視する。確かにアースィムが身に纏っていた衣服の布地と同質であるのだが、彼のものだと確証するには至らない。無地の、ありふれた布だった。

「僕が帰って来たからには、父の言葉に基づき、兄は族長補佐となるはずでした。しかし兄は、自分は族長を務め上げることができると主張し、僕が言葉を返すより前に、聖地の崖から飛び下りたのです」
「そんな、まさか」
「兄の言葉は、ただの虚勢だったのでしょう。本当に族長として氏族を導くことができると思っているのならば、自害する必要はありません。やはり隻腕では族長は無理であるとわかっていたのでしょう」
「隻腕。……アースィムが族長ではなく族長代理になったのは、それが原因なのね? そんなもの、どうとでもなるじゃない」
「砂漠は過酷な環境です。いざという時、氏族を守るには、片腕というのは大きな障害となります」
「でも、だからって、アースィムが飛び下りるだなんて」

 あり得ない。族長であることもラフィアの伴侶であることも絶対に手放すつもりはないのだと、アースィムは以前、断言したではないか。

 脳内が混乱で満たされていても、はっきりと理解できる。アースィムの言動が一致しない。彼は、衝動的に自死を選ぶほど短慮でもない。

「僕もまだ受け止め切れていないのです」

 絞り出すように心情を吐露するシハーブ。

 複雑な関係性だとはいえ、実兄の自死は衝撃的な出来事だろう。痛みを堪えるシハーブの表情に偽りはないものの、到底信じられる話ではない。

「かなりの高度がありましたから、遺体が出るかはわかりませんが、現在捜索に人を遣っています」
「嘘よ」
「できることならば、僕もそう思いたい。けれどこれは事実です」

 意図せず込み上げた涙のせいで、世界が大きく歪んで見えた。蜃気楼のように揺らめく視界の中、シハーブが腕を伸ばすのが見えた。

「心細いでしょうが、心配ありません。僕があなたを庇護します」

 大きな手のひらに両手を包まれる。左右から、両手でしっかりと。悄然としたまま顔を上げ、シハーブの瞳を見つめる。悪意のない、純粋な色。しかしその口から飛び出したのは、耳を疑うような言葉である。

「慣例に基づき、僕があなたの夫になりますから、何も不安がることはありません」
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