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第二章

9 蚯蚓になって

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※ 

 砂竜さりゅうの囲いの中は、一見常と変わりない。しかしハイラリーフに促されて注意深く観察すれば、赤銀の群れの中の数頭が、そわそわと落ち着きなく身じろぎを繰り返していることに気づく。 

 ラフィアは、最も繊細そうな小柄な砂竜の側に寄り、声を掛けた。 

「どうしたの。何か嫌なことでもあるの」 

 砂竜は低く唸り、柵の側を行ったり来たりしている。その横に並ぶようにして赤銀の鱗に手を伸ばすが、身震いするような仕草で拒絶されて、指先は夜気を掴んだ。 

『んまあ! 可愛げがないわね。イバの方がましだわ』 

 ハイラリーフの小言を聞き流しつつ、めげるという言葉を知らぬラフィアはひたすら砂竜の尻を追う。さらにその後ろをアースィムが歩むので、側から見れば妙な行列だろう。 

 根気強く付き纏い、やっとのことで鱗に触れることができた時には、指先が冷え切っていた。日中の灼熱は肌を焦がすにもかかわらず、夜更けの涼風は全身から体温を奪うのだ。

「どうですか、ラフィア」 

 ようやく大人しくなった砂竜の首を撫でるラフィアに向けて、アースィムが問う。 

 ラフィアは落胆を隠せずに首を横に振る。 

「だめみたい。この子からは何も」 

 言いかけたその時だ。 

 不意にびくり、と全身を震わせた砂竜から、強烈な水の揺らぎが流れ込んで来た。前後左右、時に上下にも感じられる波に吐き気が込み上げて、片手で口元を覆い上体を軽く折り曲げる。 

「ラフィア⁉︎」 
『ちょっと、戻さないで。とりあえず落ち着いて手を離しなさいよ!』 

 ハイラリーフに叱責されて、砂竜から身体を離す。揺れ自体は収まったものの、まるで激しく振動する駱駝の鞍上から砂地に下りた時のように、喉元まで迫る胃液はすぐに戻ってはくれない。 

「どうしたんです。まずは座って」 
「揺れているの。世界中が」 
「地震ですか?」 
「いいえ、もっと小刻みで、沸々とした」 

 アースィムに縋りつくようにして、呼吸を整える。浅く繰り返される呼吸音と砂竜の微かな唸り声だけが夜の帳を揺らしていた。 

「もしかして、地下水が熱されているからでしょうか」 

 意図を目で問えば、アースィムを顎先で指し示す。 

「この辺りは間歇泉が近いので」 

 ラフィアは間歇泉という物を間近にしたことはない。だが例のごとく耳学問にて基本的な特徴は知っている。下草一つ生えぬ荒涼とした大地に穴が空いていて、周期的に温水が噴き上がる。無論、やや白濁したその湯は飲用できず、砂漠の民を嘆かせる。そればかりか、独特な臭気を近隣に撒き散らすのだ。最後の一つはちょうど本日、身を以って学んだことでもある。 

「でも、おかしいわ。間歇泉が原因なら、ずっと前から同じような現象が起きていたはず。だって、間歇泉は赤の氏族の聖地だから集落を移動したとしても近くにあるでしょう」 
「となれば変化が起きたのは間歇泉の方でしょうか」 

 それならば、筋は通る。耳元で、ハイラリーフが囁いた。  

『仮説の正誤を確かめたいのなら、水脈を辿ってみたら?』 
精霊せいれいと同じように?」 
『厳密には少し違うわ。あたし達精霊の本質は水蒸気だから、自在に水と一体になり、水脈を移動することができる。でも人間には肉体があるから行くなら泳ぐしかない』 
「じゃあだめじゃない」 
『最後まで聞きなさいよ。肉体が邪魔っちいから、精神だけ離脱して、水と同化するのよ』 

 そのような常識離れしたこと、できるはずがない。肉体を脱ぎ捨てて広大な世界を旅することが可能ならば、退屈な後宮暮らしに辟易していた幼少期、とうに試みて精神の旅人となっていたことだろう。 

 だが、この状況を打破するために、試してみる価値はある。

「ラフィア?」 

 ぶつぶつと独り言を言いだしたと思いきや一転、険しい顔で黙り込んだラフィアは、傍から見れば異様な様子であろう。真っすぐ注がれた心配げな眼差しに微笑みを返して追及を躱し、軽く顎を引いてハイラリーフを促す。 

『じゃ、両手を砂に突いて』 

 耳元から発せられる指示に従い、地面に膝を突く。そのまま四つ這いを取り、指先に意識を集中させた。 

『深く深く、深層へと向かって』 

 微細な砂に覆われた地表。指を蠢かせれば、表層から内層へと潜り込む。日中の灼熱からは想像もつかぬほど冷えた砂のざらつきに包まれる。 

『目を閉じて、指先の延長線上に意識を移動させて……ほら、地下水のせせらぎを感じるでしょ?』 

 ラフィアは瞼を伏せたまま、試行錯誤を繰り返す。その眉間には苦慮の印に皺が刻まれている。 

「何も聞こえないわ」 
『誰が聞けって言ったのよ。感じれば良いの。できるわ、あんたなら。だってあんたは』 
「あっ!」 

 気づいた時には、隘路あいろを押し広げるようにして地下を進んでいた。身体は確かに砂上にあるのだが、薄い瞼を透かして眼前に浮かぶのは、こちらを押しつぶさんとするような地底の砂礫と岩石。本来ならば闇に沈んでいるはずのそれらは、月を閉じ込めたかのように皓々と発光している。ラフィアの世界は淡白い光に満ちていた。 

 見る者が見れば幻想的な光景だが、ラフィアの脳裏に浮かんだのは、まるで後宮の中庭の土を掘り返した時に踊りくねっていた蚯蚓みみずにでもなった気分だ、ということだった。 

『ほら、何ぼんやりしてんのよ。仕方ないわね。先導してあげる。ただし、間歇泉の近くとか、地表に水蒸気が上がっている場所までは行かないからね』 

 聞き慣れた悪態が、意識に直接届く。不意に砂礫の抵抗が軽減され、ハイラリーフに導かれるようにしてさらに地下深くまで潜り込んだ。 

 ぐつぐつと、何かが煮えたぎるような音がする。肉体的な熱さは感じないものの、周囲が高温であることが、感覚で理解できた。 

『普段よりも不穏な様子ね。南に行くほど変』 

 言うなりずんずんと南下していく。やがて、ラフィアの精神を咆哮のような地鳴りと微細動が襲う。ここまで来ると、あまりの不快感に吐き気を覚えた。 

 思わずで口元を押さえ、そして。 

 世界が夜の闇に落ちた。ラフィアはえずきながら背中を丸め、涙に濡れた視界に映るのが自分の両膝だと知り、肉体に戻って来たのだと気づく。 

「ラフィア、大丈夫ですか」 

 アースィムが背中を撫でてくれている。ラフィアは首を持ち上げて飴色の瞳と視線を合わせた。 

「大丈夫。少し音と揺れに酔ってしまったみたい」 
「音と揺れ?」 

 アースィムは怪訝そうに首を傾けた。その頬には、微かに警戒すら見て取れた。 

「いったい何があったんですか。声を掛けても急に反応しなくなったと思ったら、白く光る水蒸気のようなものがあなたの全身から溢れて……まるで精霊にでもなってしまったのかと思った」 

 ラフィアはぴたりと動きを止める。肉体から精神だけ飛び出して蚯蚓のように地底を掘り進んでいる間、己の身体がどのような状態になるのかということにまで意識が及ばなかった。 

 水蒸気。おそらく、精霊であるハイラリーフの助力を得ていた影響だろうか。

 ハイラリーフのことを話すべきだろうか。いや、しかし。 

 精霊憑きは狂気的な人間になると考えられている。無論、ハイラリーフはラフィアではなく耳飾りに憑いているのだから、厳密にはラフィアが精霊憑きという訳ではない。だが、そのような違いは、外から見れば些細な差異である。 

 アースィムならば理解してくれるかもしれない。しかし今、夫の顔に浮かぶのは不審と疑念。もし、彼にすら拒絶をされてしまったら……。 

 ラフィアは意識して常と変わらぬ笑みを浮かべ、首を振った。 

「何言っているのアースィム。見間違いよ。ああ、でも本当に私が水蒸気を生み出せたら良いのに。水さえあれば砂漠の長旅も快適でしょう?」 

 胃液を飲み込んだラフィアは腰を上げて膝を叩き砂を落としてから、まだ何か言いたげな夫に背を向けて、努めて明るい声音で言った。 

「それとね、砂竜が逃げ出す理由がわかったかもしれないの。夜が明けたら、ディルガムさんとお話するわ」 

 紫紺の布地に宝石を散らばしたかのような夜空が集落を包み込んでいる。何度夜を迎えても見惚れたはずの星空はこの日、なぜか少し翳って見えた。
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