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第二章

8 近づく心

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 辺りに闇が満ちる時分、煌々と灯された焚火を囲み、ラフィアとアースィムはご馳走でもてなしを受けていた。 

 砂から掘り出したばかりの平パンは香ばしい香りと美味しそうな湯気を放つ。器にたっぷり注がれた駱駝ミルクは未だ温かく、もこもこと泡立っている。乾燥ナツメヤシやブドウにイチジク、山羊のチーズが並ぶ平皿は、見ているだけでも胃が熱くなり唾液が溢れそうになる。 

 さらに、日中にディルガムが狩って来た兎や野鳥はもちろんのこと、仔羊も潰したらしく、肉類も豊富だ。ここまで盛大にもてなしてもらえると、むしろ恐縮してしまうのだが、赤の氏族の面々は誰一人として気にした様子がなく、族長ディルガムも「砂竜さりゅう三頭を保護してくれたんだから、足りないくらいだ」と豪快に笑うので、ありがたくいただくことにした。 

 このように大らかさの塊のような集落だが、氏族を束ねるディルガムの豪快さは、いささか度を越しており、アースィムを大いに困惑させることとなる。 

「いやあ、それにしても本当に久しぶりだなアースィム。結局おまえが族長になったんだな」 

 その言葉に秘められた複雑な糸の気配を察し、ラフィアは夫の表情を窺う。アースィムは表情を変えずにパンを咀嚼して頷いた。 

「ええ、まあ」 
「弟のシハーブはまだ街で療養中か」 
「快方には向かっているのですが、体力の衰えが酷く、砂漠の暮らしはまだできない状況だと聞いています」 
「そうか」 

 焚火が踊らせる影の加減か、それとも別の要因か。ディルガムの瞳が微かに煌めいた。 

「早く戻ってくると良いなぁ」 

 微笑みを浮かべて顎を引いたアースィムの頬に浮かぶ陰りを横目に、ラフィアは駱駝ミルクを嚥下した。たとえ楽観的なラフィアとて、愛する人の、複雑な心の内を察することくらいは可能である。 

 カリーマは、アースィムと弟シハーブが不仲であることを匂わせていた。兄弟の間には何か確執があるのだろう。気になりだすと自制が利かぬラフィアだが、いたずらにアースィムを苦しませるのは本意ではない。 

 ラフィアは鬱屈とした気分を抱えつつも、何も言わずにただ、豪勢な夕食を味わった。 

 やがて、腹がはち切れんばかりに膨れた頃、宴はお開きとなる。 

 ラフィアとアースィムは天幕に入り、就寝の準備を始めた。長旅の疲労と、目的地に到達した安堵と、満腹と。常であればぐっすり眠れそうな晩であるのだが、ディルガムとのやり取りが耳にこびりついて離れぬラフィアは、横になってもいっこうに微睡の入り口すら見えない。 

 アースィムの眠りを妨げてはならぬと考え、寝たふりをしていたのだが、どうにも目が冴えてしまう。とうとう、ハイラリーフに頼み物語でも語ってもらおうかと思った時、背中越しに、アースィムが上体を起こす気配がした。 

「気になりますか」 

 突然の言葉に意図が読めず、ラフィアは健やかな眠りを装ったまま石のように硬直する。 

「眠れないようですね。弟のことが気になりますか」 

 まさか、起きていることに気づかれていると思わなかった。アースィムには全てお見通しらしい。ラフィアは、肘を突き起き上がると、ぱっちりと覚めた目で、薄闇に浮かぶ夫の瞳を見つめた。 

「でも、あまり口にしたくなさそうだわ」 
「そう見えますか」 

 ラフィアは、大きく頷いた。アースィムは困ったように眉尻を下げる。 

「確かに愉快な話ではありませんが、こういう機会でもないと話す場もありませんし」 
「アースィムの心の準備ができてからで良いのよ」 

 アースィムはふと、強張っていたものが緩むような笑みを浮かべた。 

「そんなに、もったいつけるような話ではないですよ、そもそも、家族の話をほとんどしたことがないというのが不自然です。ラフィアだって家族の一員なのに」 

 ラフィアはアースィムの瞳を窺う。闇に浮かぶ飴色が、全てを受け入れるように柔らかな光を帯びていた。ラフィアは言葉を選ぼうと思案して視線を彷徨わせたが、結局飛び出したのは真っ直ぐな言葉であった。 

「じゃあ教えて。弟さんとは、あまり仲が良くないの?」 
「模範的な兄弟でした。三年前までは」 

 三年前。ラフィアはその数字に思いを馳せる。 

 三年前のこと、と耳にして、マルシブ帝国民が思い浮かべる事件は一つ。砂漠のさらに西方に位置する草原に住まう民、西方蛮族と呼ばれる騎馬民族との大規模な戦いだ。特に、この砂漠のように帝国版図の西方に位置する土地で暮らす者らの心には強烈な心的外傷が残されている。実際、その戦いでアースィムは右腕を失った。胸が締め付けられたようになり、ラフィアは無意識にアースィムの上腕を撫でる。 

「戦いの年ね」 

 弟との確執の原因は、戦だったのだろうか。確かめるように問うたラフィアに、アースィムは頷く。 

「ええ、その年です。実は三年前、父が嫡子の変更を言い渡しました。次期白の氏族長は長子である俺ではなく、弟シハーブになったのです」 

 ラフィアは鋭く息を吞んだ。アースィムの父親である前白の氏族長とは言葉を交わしたことがある。降嫁の数か月前、氏族に迎え入れることになる皇女へ挨拶をしたいとの申し出があったのだ。 

 父皇帝への謁見直後、やや緊張した面持ちで面会の場である中庭にやって来た彼は、どこか剽悍な印象を纏っており、アースィムとはあまり似ていなかった。 

 彼はその時、自分と妻は近々隠居する予定であり集落を離れるが、息子を頼む、という旨を真摯な眼差しで述べていた。同時に、三年前の戦にも話題が及んだことを思い出す。 

「確かお父上も弟さんも戦場には行かなかったのよね」 
「はい。父は老いていましたし、弟はまだ十五でしたから」 
「でもどうしてお父上は未来の族長を弟さんに?」 
「父は、俺のことを砂竜族の男として相応しくないと思っていたんですよ」 
「どうして! アースィムはとても立派な族長じゃない」 

 思わず声が高くなり、口元を手で覆い反省を示す。 

「ごめんなさい」 
「いいえ。正直、俺には至らない点が多くあります。それでも、あなたにそう言ってもらえて嬉しく思います」 
「族長になってまだ数年でしょう? 経験を積めばきっと、過去の誰よりも素晴らしい族長になるわ。前回の新婚旅行の途中、アースィムの夢を訊いたこと、覚えている? あなたは自分の夢を『氏族の繁栄だ』と躊躇いもなく言ったのよ。そんな献身的な人が、良い族長にならないはずがないもの」 
「あなたは、宵闇に染まる砂漠を照らす満月のような方ですね。もちろん、俺は夢を諦めません。幼い頃から、族長になるために努力してきたんです。それに」 

 アースィムの瞳が熱を帯びる。 

「族長家の血筋でなければあなたを妻とすることはできませんでした。三年前に起こったことも含めて、全ては水神の導きです」 

 ラフィアが白の氏族に降嫁したのは、三年前の戦いでアースィムが身を挺して皇子の命を救ったからである。しかしもし、その活躍をしたのが一介の砂竜族であったならば、褒美は皇女ではなく、物品や高官としての役職だったはずだ。 

 戦いの最中、アースィムは右腕を失った。それすらも、必然と捉え、ラフィアを迎えるために水神が課した試練であったのだと口にするアースィムの姿に、胸が強く揺さぶられる。 

 仄暗い闇に浮かぶ愛おしい輪郭を視線でなぞり、ラフィアは改めて心に決めた。この先何があったとしても、彼と共に過ごし一生側で支えていく。アースィムの妻として恥じぬように、常に氏族の繁栄を願い、皆の幸福のために己を律して尽くすのだ。 

 ラフィアはアースィムの左手を取る。柔らかく握り返されて、身体の芯に温かな火が灯った心地がした。 

「ラフィアの伴侶であることも、族長であることも、手放すつもりは絶対にありません。ですが過去、父から廃嫡を言い渡されたのは確かです」 
「どうしてなの」 
「それは」 

『ああっ! ご主人様、大変よ。砂竜の群れが騒めいている。また脱走が起こるかも』 

 突如として耳元で響いた大声に、思わず両耳を押さえる。 

「ラフィア?」 
「ごめんなさい。ちょっと……砂竜が」 

 アースィムは驚きに目を丸くした後、全てを察した様子で言った。 

「何かを感じるのですね」 
「ええ、でも」 

 せっかくアースィムが、自らの心の底に秘めた苦悩を打ち明けようとしてくれていたというのに、なんと間の悪いことか。ラフィアの躊躇いを断ち切るように、アースィムがおもむろに腰を上げる。座したまま見上げれば、彼は垂れ幕の端を持ち上げて、肩越しに振り向いた。 

「様子を見に行きましょう。俺も行きます」 

 ラフィアは束の間言葉を失った。 

 常人には理解できぬであろうラフィアの異能を知れど、怯えも軽蔑もなく、当然のように受け入れてくれるアースィム。彼がいれば、ラフィアはもう孤独ではないし、何かを隠す必要もない。 

 常夜焚かれる篝火が発する仄かな朱色に揺られ、アースィムの姿が闇夜に浮かび上がる。オアシスに滾々こんこんと湧く清水のように胸を満たす充足感を抱き締めて、ラフィアは大きく頷いた。 
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