上 下
17 / 52
第二章

2 赤き来訪者

しおりを挟む
 ※

 このような朝と夜がもう数回続いた後、ラフィアは医術師カリーマの天幕を訪れていた。灰色幾何学模様の絨毯の上に這いつくばるような姿勢になり、怪しげな挿絵が所狭しと描かれた書物を、舐めるように読み進めている。隣では、床に零れ落ちた淡い乳茶色の髪の束を、幼竜ようりゅうが食んでいる。 

「やっぱり過去に似たような現象はなかったようね」 
『そもそも、砂竜さりゅう天竜てんりゅうの泉から生まれるようになってそれほど時が経っていないもの。マルシブ帝国の年表と同じだけしか過去のない生物の生態なんて、調べても大した情報はないでしょうよ』 
「でも、あなた達精霊ジンも水の騒めきを感じるのでしょう? 精霊は砂竜よりもずっと昔から存在する水神の眷属だもの。どこかに参考になる記述があるかもしれないわ」 
『とは言っても、精霊は人間に正体を明かすことは少ないから、人の記録には残り辛いし、そもそもあたし達は長命だから、自分達のことを文字にして書き残すこともないからね』 
「ハイラリーフは何歳なの?」 

 話の流れで何気なく問うてみると、束の間の沈黙の後、青玉の耳飾りから、実体があれば唾を飛ばさんばかりの勢いで罵り声が返って来た。 

『信じらんない! 乙女に年齢を聞くなんて!』 
「まあ、ごめんなさい。とにかく、あなたの記憶にある限り、今回と同じような事象はなかったのね」 
『当たり前でしょ。知っていたらこんな回りくどい調べ物はしないわ』 
「じゃあ他の年長の精霊なら、知っている人もいるかしら」 
『あり得なくはないわね。でも、天竜が来てからこの辺の精霊はほとんど引っ越しちゃったのよ。一番近いお隣さんは、帝都かしら』 
「それって、後宮ハレムの泉に住むおじいさん?」 
『そうそう。まあ、老人の姿をしているのはただの趣味でしょうけど。とにかく、あんまり砂漠から離れた場所にいる精霊に聞き込みをしたところで、砂漠で起きる異変の手がかりは望めないわ』 

 それもそうだろう。ラフィアは溜息を吐き、隣の書物を開いてみる。 

 人間が記した、精霊についての数少ない記述である。肉体を持たない精霊が人や獣に化け、伴侶を得て子孫を残した逸話が物語調の文体で綴られていた。興味はあるが、調べ物とは関係ない。 

 万事休すだ。一休みしようと上体を起こす。その拍子に、髪を甘噛みをしていたバラーが釣れて、慌てて抱き留めた。

『その幼竜、したたかよね。いつになったら乗り手とやらは帰ってくるのかしら……』 
「あれ、皇女様。いつの間にバラーを連れ込んだんですか」 

 呆れ声と共に、細身の女が帰って来た。カリーマである。 

 ラフィアは行儀良く姿勢を正し、家主を出迎えた。 

「お帰りなさい、カリーマ」 
「はい、戻りましたよ。……何さバラー。邪魔者がやって来たぞ、みたいな目をしちゃってさ。ここは私の家だよ」 

 カリーマは遠慮なく顔を顰め、部屋の隅に積み上げられた荷物の山に、革袋を投げる。ラフィアの横にどかりと腰を下ろし、白銀の幼竜の頭を半ば叩くように撫でた。 

「アースィムのイバも皇女様への態度は大概ですが、バラーの方も負けてませんよね」 
「イバの態度?」 
「呆れた。気づいてないんですか。イバもバラーもたいそうな悋気持ちですよ。竜卵を孵した乗り手が似たような二人だから、それも関係しているんですかねえ」 

 確かにイバは時々冷たいし、バラーもよくアースィムやカリーマにつんと澄ました顔を向けている。だがしかし、後宮で遠巻きにされていたラフィアから見れば、このような可愛らしい拒絶、わざわざ気にするほどでもないと思えた。 

 それよりも聞いてみたいことがある。 

「孵した乗り手? そういえば、バラーの乗り手はどんな人なの」 
「あれ、聞いてませんか、弟ですよ」 
「カリーマに弟がいたの?」 
「違いますって。アースィムの弟のシハーブです。四つ下の」 

 ラフィアは思わず口を閉ざす。アースィムに弟がいるなど、初耳だった。 

 そういえばアースィムは、家族の話題を極端に嫌う節がある。ゆえに、弟のことを語らなかったと言えばそれまでなのであろう。しかし、ラフィアはバラーの世話係なのだ。にもかかわらず、本来の乗り手のことを語る時にもそれが血を分けた弟だと告げなかったのは、どうしても意図的なものを感じてしまう。 

「アースィムと彼の弟は、不仲なの?」 

 カリーマは僅かに眉を上げ、それから視線を逸らせて頭髪を搔き乱す。 

「ああ、いや、しまった失言だったか。すみませんがその辺りのことは、アースィム本人に」 

 その時、不意に砂竜の囲いから警戒を孕んだ唸り声が立ち上がった。続いて、集落の住人らが騒めく声が伝染して、カリーマの天幕にも入り込む。 

 ラフィアはカリーマと顔を見合わせてから腰を上げ、強烈な陽光の下に飛び出した。 

「いったい何ごと」 

 近くに立っていた少年の腕を掴み、カリーマが訊く。彼は、わからぬと首を振り、集落の南側を指差した。 

「事情はわからないんですが、ほらあそこ」 

 少年の指先が示す先には、流麗な風紋が残る、人気のない橙色の砂丘。その中に、ぽつりと赤く光るものがある。 

 ラフィアは目を細め、その姿を捉えようとした。そして、その正体に気づいたと同時、カリーマが驚愕の声を上げた。 

「な……あれは赤き砂竜? でもどうして」 

 砂丘の頂上から、さらにもう一頭、赤銀が姿を現わした。 

 砂漠内、砂竜は四種類存在する。西に白、北に紫、東に青で、南は赤。それぞれの氏族に固有の体色を持つ砂竜が暮らすのだ。 

 灼熱の陽光に熱されて、揺らめく赤銀の光を放つ彼らは南方赤の氏族と共に暮らす砂竜だろう。どちらにしても、同族の砂竜であり、敵ではないのだから恐れる必要はないはずだ。 

 それなのに、集落には激しい動揺と怯えが砂嵐のように吹き荒れた。ラフィアは腹の底に重たい石が沈んだような不安を覚え、カリーマに問うた。 

「赤き砂竜は遊びに来たの?」 

 カリーマはちらりとこちらを一瞥する。お気楽な言葉を耳にしても、呆れも嫌味も出ぬ様子で、彼女は再び視線を南の砂丘へと戻す。それから言った。 

「同じ砂竜族ですがね、四氏族は隙さえあれば潰し合おうとしているんですよ。我々にはそれぞれ縄張りがあり、許可なくそれを侵すことはない。あるとすればそれは、宣戦布告の時……かもしれません」 

 不穏な言葉は砂塵と共に風に煽られて、砂漠の熱気に溶けて消えた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

若妻の穴を堪能する夫の話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

【R18】もう一度セックスに溺れて

ちゅー
恋愛
-------------------------------------- 「んっ…くっ…♡前よりずっと…ふか、い…」 過分な潤滑液にヌラヌラと光る間口に亀頭が抵抗なく吸い込まれていく。久しぶりに男を受け入れる肉道は最初こそ僅かな狭さを示したものの、愛液にコーティングされ膨張した陰茎を容易く受け入れ、すぐに柔らかな圧力で応えた。 -------------------------------------- 結婚して五年目。互いにまだ若い夫婦は、愛情も、情熱も、熱欲も多分に持ち合わせているはずだった。仕事と家事に忙殺され、いつの間にかお互いが生活要員に成り果ててしまった二人の元へ”夫婦性活を豹変させる”と銘打たれた宝石が届く。

甘い誘惑

さつらぎ結雛
恋愛
幼馴染だった3人がある日突然イケナイ関係に… どんどん深まっていく。 こんなにも身近に甘い罠があったなんて あの日まで思いもしなかった。 3人の関係にライバルも続出。 どんどん甘い誘惑の罠にハマっていく胡桃。 一体この罠から抜け出せる事は出来るのか。 ※だいぶ性描写、R18、R15要素入ります。 自己責任でお願い致します。

勝負に勝ったので委員長におっぱいを見せてもらった

矢木羽研
青春
優等生の委員長と「勝ったほうが言うことを聞く」という賭けをしたので、「おっぱい見せて」と頼んでみたら……青春寸止めストーリー。

隣の人妻としているいけないこと

ヘロディア
恋愛
主人公は、隣人である人妻と浮気している。単なる隣人に過ぎなかったのが、いつからか惹かれ、見事に関係を築いてしまったのだ。 そして、人妻と付き合うスリル、その妖艶な容姿を自分のものにした優越感を得て、彼が自惚れるには十分だった。 しかし、そんな日々もいつかは終わる。ある日、ホテルで彼女と二人きりで行為を進める中、主人公は彼女の着物にGPSを発見する。 彼女の夫がしかけたものと思われ…

処理中です...