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第一章

8 星降る夜に

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 辿り着いたオアシスは、ナツメヤシの木が数本屹立きつりつするだけの、小規模なものだった。しかし、オアシスというものを良く知らないラフィアである。こじんまりとしたその水場にいたく興奮し、砂をさらったり小石を拾ったりして好奇心を満たした。

 しばらく目を細めて妻の様子を見守っていたアースィムだが、細い下草が茂る辺りに天幕を張ると、その手前に絨毯を敷き、仰向けに寝転がるようにとラフィアを促した。

 年季の入った敷物は、ごわごわとしている。後宮ハレム中に敷かれた上質な絨毯とは異なる素朴な感触だ。ラフィアは毛羽けば立つ布地を撫でながら、上空一面の夜空を見上げた。

 小さな光が集まって、乳白色の道を描いている。星にはそれぞれ個性があり、色も大きさも様々である。濃紺の巨大な画布《がふ》の上、赤、青、白、黄色といった光が自然の芸術作品を作り上げていて、月はまだ若く、ナツメヤシの葉影の間から、湾曲した細い光を放っていた。

「オアシスを見るのは初めてですか?」

 隣で仰向けになったアースィムの言葉に、ラフィアは敷物の上で頭を転がすようにして首を振った。

降嫁こうかの旅路でオアシス都市に寄ったから、見たことはあったわ。でも、実際に近づくのは初めてよ」

 ラフィアは夜空に向けて腕を伸ばし、先ほどのやんちゃの末に爪の間に入り込んでしまった泥を眺めた。指の向こう側で煌めく星々が降って来るかのような錯覚を覚え、ラフィアは感嘆の溜息を吐いた。

「砂漠の人々は、星の道を竜の身体、満月を竜の瞳と呼ぶのだそうね」
「帝都ではそう呼びませんか?」
「呼ばないわ。宮殿は夜でも明かりを灯しているから、ここまで見事な星空は見えないし、竜なら水神マージの使徒である天竜てんりゅう様が宮殿の泉にいらっしゃるもの」
「ではこの星空は、砂漠住まいの特権ですね」
「ねえ、砂漠の民はあれを天竜様に見立てているのかしら」

 竜と名の付くもののうち、現存するのは砂竜と天竜である。砂竜の容貌は、有翼の巨大な蜥蜴とかげ。対して天竜は、巨大な蛇のような体躯をしている。今、上空に浮かぶ星々の道はどう見ても後者を彷彿とさせる。

「天竜様は砂漠に雨をもたらして下さる存在ですから、思慕の気持ちはあるでしょう。ですが」

 アースィムは少し思案してから、ふと表情を緩めた。

「案外あれは、空の果てに住む怪物かもしれませんね。世界滅亡の年にこの世を呑み込もうとしているのかも」
「さっきは胡散臭いって言っていたのに!」

 思わず肘を突いて上体を起こす。寝転がったままのアースィムと視線が交わる。いつも通りの柔和な微笑みが、夜空から降り注ぐ淡光たんこうに照らされていた。

 二人はしばらく見つめ合う。沈黙が訪れて、微風が水面を揺らす微かな音が、妙に大きく耳に届いた。周囲には誰もいない。二人切りの野営なのだと、改めて気づかされ、妙に鼓動が速まるのを感じた。

 集落でも同じ天幕で暮らしたが、近くには他の家族の気配があり、砂竜や家畜達の寝言も聞こえたものだから、この世界に二人だけしか存在しないような心地になるのは初めてのことだった。

 しっとりと纏わりつくような、熱を帯びた空気が立ち込めている。アースィムもラフィアも微動だにせず視線を絡ませ合い続ける。

 対外的には夫婦関係にあるとはいえ、夫婦の営みはもちろんのこと、抱擁すら交わしたことがない。これは偽物の結婚なのだ。それでも、今二人の間にある熱は確かな情を孕んでいる。もしかするとアースィムは、とうとうラフィアを妻として受け入れてくれるつもりになったのでは……。

「アースィム、あのね」
「静かに!」

 不意に鋭く言い、アースィムは上体を起こす。穏やかな表情は影を潜め、その眉間には皺が寄っている。

「どうしたの」
「変な音がしませんか」
「え?」

 耳を澄ましてみたが、相変わらず水音と自身の鼓動が騒がしいだけだ。

 アースィムはしばらく周囲の砂丘を見回していたが、腰を上げてラフィアに左腕を伸ばした。意図を察して、素直に手を取ったラフィアを助け起こしながら、彼は言う。

「様子を見て来ます。皇女様は天幕の中に隠れていてください。大丈夫、イバをここに置いて行きます。何かあればイバに乗って逃げてください」

 白き砂竜イバを視線で示し、アースィムは有無を言わさぬ強さでラフィアを天幕に押し込んだ。

「ま、待ってアースィム。砂竜を連れずに夜の砂漠へ出るなんて危険よ」

 アースィムの腕を掴み追いすがるのだが、彼は意外なほどの力でラフィアの指を振りほどき、砂の世界へと向かって行く。

「すぐに戻ります。周囲の安全を確認しないことには落ち着いて野営ができませんからね。念のために様子を確認するだけです。皇女様は絶対にそこから動いてはなりませんよ。約束してください」
「……わかったわ」

 出来ることならば共に行きたかったのだが、万が一の事態が起こり大きな怪我でもしようものならば、白の氏族は皇家から咎めを受けるだろう。アースィムとしても、そのことを理解しているからこそ、血相を変えて一人砂漠へ向かうのだ。

 彼の口から飛び出した「皇女様」という呼びかけが、深く胸に突き刺さる。アースィムは、降嫁から一月ひとつき経っても未だにラフィアを名前で呼ぼうとしない。彼にとってラフィアは妻である前に皇女であり、共に生きる者ではなく、壊れやすい玻璃はり製の装飾品のようなものなのだろう。

 わかっていたはずなのに、不相応の期待を抱いた自分が愚かしく思えてきた。きっと、未知の世界への二人旅で、気分が浮ついていたのだろう。

 ラフィアは唇を噛み、砂丘の間へと進んで行くアースィムの背中をぼんやりと見送った。
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