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アーネスタ領の片隅に位置する小さな農村ネーザ。中央の腐敗も権威も遠いこの安穏とした村に来てから2か月以上が経った。
『何もかも嫌になった。家を出る。お前もついてこい』
何の変哲もないある日、俺の主であるユーク・レスタリエは言った。あまりに唐突で脈絡のない発言だったので、ユーク様が冗談など言わない性格だと知っていながらそうと疑わずにはいられなかった。侯爵家嫡男として育ち、好きに生きてきたこの男が急に“家が嫌になった”などとのたまうのが冗談以外のなんだというのだろう。中でももっとも不可解だったのは俺を同行させる点だ。しかも、交換条件として提示されたのは俺の家族の解放。何か裏があるのではと疑ったが、まったく意図が見えなかった。
一年間付き合えば家族を解放するというユーク様の言葉はまったく信頼できるものではなかったが、このまま侯爵家に仕えたところでどのみち家族を解放する当てはない。もとより俺に拒否権も決定権もなかったが、俺はわずかでも可能性のあるユーク様の話に乗ることにした。
実のところすべてはユーク様の用意した茶番で、家を出た途端に俺は逃亡の罪で捕らえられ殺されるのではと警戒していたが、そうはならなかった。俺とユーク様は何事もなく粛々と屋敷を発った。夜明け前の薄闇の中、侯爵邸に向けられたユーク様の冷ややかな眼差しを見て、俺はようやく彼が本気なのだと悟ったのだ。
逃亡手段・ルート、資金調達、逃亡先の手配など、ユーク様は驚くほど手際よく物事を進めていた。よほど前から念入りに今回のことを計画していたのだろうか。疑問に感じたが、聞くことはなかった。どうせまともな答えなど返ってこないのだ。そのことだけでなく、ユーク様は何一つまともに説明などしてくれなかった。だから俺も疑問に思うのをやめた。命令通りただ一年間この逃亡劇に付き合う。それで家族が解放されるのなら、そこにどんな思惑があろうとなかろうとどうでもいい。そう割り切ることにした。
だが、どうしても不可解な点はあった。ユーク様自身のことだ。少し前までとどうも雰囲気が違って感じた。元来他者に気を許さず、冷淡でありながら苛烈で暴虐的な人物だったが、屋敷を出てからの彼は打って変わって静かだった。常に淀んだ目をして。ここではないどこかを見つめていた。余計な口を利けば即座に罵声と拳が飛んできたが、それは以前のようななぶるようなものではなく、何の感情も込められていない無機質なものだった。まるで感情が削ぎ落されたみたいに。その変化が俺にとっては気がかりだった。
その俺の懸念と関係があるのかないのか、村に着いてからのユーク様は見る見る食欲が落ちていった。最初の頃は皿の半分程食べていたのが、そのうち四分の一へと減り、やがて口をつけるかつけないかというところまでになった。そして間もなく、ユーク様が倒れた。
倒れてからもユーク様はほとんど何も口にすることはなかった。医者にも診てもらったが、食事を摂らない限りは薬も何も無駄だった。何故食べないのか、食べられないのか本人は決して喋らず、俺は為す術なく日に日に痩せ細っていくユーク様を見ていることしかできなかった。
俺はあの人が心の底から嫌いだ。殺したいと思ったことも一度や二度ではない。だが、目の前でユーク様が死に向かっていくのをただ眺めているのは苦しく、やるせなかった。そんな俺を床に伏したユーク様は嘲るように見てきた。そして、その視線にさらされるたびに俺はあの人に言われた言葉を思い出した。
『善人ぶるなよ、偽善者め』
他人の傷つけ方をよく知っているユーク様らしい言葉だ。思い出すたび心が抉れて、憎しみが頭をもたげる。そんなに言うなら、今すぐ俺の手で殺してやろうかと口に出しそうになった。だが、静かに眠るあの人のこけた頬や土気色の顔を見ると、そんな殺意はあっという間にしぼんで、あとには虚しさと激しい自己嫌悪だけが残るのだ。俺にはもうどうすればユーク様を救えるのかわからなかった。
しかし、その救いはある日突然、意外なところからやってきた。通いのメイドとして働いてくれているアンナの母、テレサが作ったリンゴ煮をユーク様が食べたのだ。まさに青天の霹靂だった。それ以来ユーク様は食事を摂れるようになり、体調も徐々に回復していった。当時の俺の葛藤を思うとやや複雑なものはあったが、快復してくれるに越したことはなかったし、きまり悪そうなユーク様の様子に胸が空いたのでこのことについては自分の中で折り合いをつけた。そして、このまま何事もなく残りの期間を過ごせることを祈った。
しかし、その後も予想外のことが起こった。アンナの妹、イリアがユーク様に接触したのだ。ユーク様は気に障ることがあれば子供相手だろうと容赦なく手を上げる。俺はイリアを守らなければと必死になった。だが、そんな俺の心配をよそに、何がどうしてそうなったのか、ユーク様はイリアから花を受け取る約束を交わすに至った。
あのユーク様が、子供から花を、それもその辺に生えている普通の野花を受け取る約束を……。
ユーク様の行動としてはあまりに信じ難くて、何か企んでいるのではとか混乱する頭で考えた。だが、どれほど頭を捻ろうと、少女から花を受け取る行動に裏は見出せなかった。
何よりユーク様の表情がその行動に悪意がないことを物語っていた。自分自身の行動に驚き困惑するユーク様は無防備で、まるで少し捻くれているだけのただの少年のように見えた。それと同時に、自分が今までこの人を“ただの少年”として見たことがなかったことに気が付いた。
(人の心のない悪魔とでも思っていたのか)
あるいはそれは、“そうであってほしい”という俺の身勝手な願望なのかもしれない。本当は、テレサと言葉を交わすユーク様にも以前までと違うものを感じていたのに、認めたくなくて気付かないフリをしたのだ。
自分の中にあった歪んだ感情を自覚して、俺は愕然とした。例え憎い相手だとしても人を人として見られないのなら、それは俺がもっとも嫌悪する人間と変わらない。
戸惑い狼狽えるユーク様の頬は血が上って赤らんでおり、それが一層彼を血の通う人間だと俺に知らしめた。
(この人と向き合うのは、今からでもまだ間に合うはずだ)
もし何かが変わりつつあるというのなら、俺はそれを見極めたい。
イリアから受け取った一輪の花を握り締めるユーク様を見つめながら、俺は微かな希望を胸に抱いた。
アーネスタ領の片隅に位置する小さな農村ネーザ。中央の腐敗も権威も遠いこの安穏とした村に来てから2か月以上が経った。
『何もかも嫌になった。家を出る。お前もついてこい』
何の変哲もないある日、俺の主であるユーク・レスタリエは言った。あまりに唐突で脈絡のない発言だったので、ユーク様が冗談など言わない性格だと知っていながらそうと疑わずにはいられなかった。侯爵家嫡男として育ち、好きに生きてきたこの男が急に“家が嫌になった”などとのたまうのが冗談以外のなんだというのだろう。中でももっとも不可解だったのは俺を同行させる点だ。しかも、交換条件として提示されたのは俺の家族の解放。何か裏があるのではと疑ったが、まったく意図が見えなかった。
一年間付き合えば家族を解放するというユーク様の言葉はまったく信頼できるものではなかったが、このまま侯爵家に仕えたところでどのみち家族を解放する当てはない。もとより俺に拒否権も決定権もなかったが、俺はわずかでも可能性のあるユーク様の話に乗ることにした。
実のところすべてはユーク様の用意した茶番で、家を出た途端に俺は逃亡の罪で捕らえられ殺されるのではと警戒していたが、そうはならなかった。俺とユーク様は何事もなく粛々と屋敷を発った。夜明け前の薄闇の中、侯爵邸に向けられたユーク様の冷ややかな眼差しを見て、俺はようやく彼が本気なのだと悟ったのだ。
逃亡手段・ルート、資金調達、逃亡先の手配など、ユーク様は驚くほど手際よく物事を進めていた。よほど前から念入りに今回のことを計画していたのだろうか。疑問に感じたが、聞くことはなかった。どうせまともな答えなど返ってこないのだ。そのことだけでなく、ユーク様は何一つまともに説明などしてくれなかった。だから俺も疑問に思うのをやめた。命令通りただ一年間この逃亡劇に付き合う。それで家族が解放されるのなら、そこにどんな思惑があろうとなかろうとどうでもいい。そう割り切ることにした。
だが、どうしても不可解な点はあった。ユーク様自身のことだ。少し前までとどうも雰囲気が違って感じた。元来他者に気を許さず、冷淡でありながら苛烈で暴虐的な人物だったが、屋敷を出てからの彼は打って変わって静かだった。常に淀んだ目をして。ここではないどこかを見つめていた。余計な口を利けば即座に罵声と拳が飛んできたが、それは以前のようななぶるようなものではなく、何の感情も込められていない無機質なものだった。まるで感情が削ぎ落されたみたいに。その変化が俺にとっては気がかりだった。
その俺の懸念と関係があるのかないのか、村に着いてからのユーク様は見る見る食欲が落ちていった。最初の頃は皿の半分程食べていたのが、そのうち四分の一へと減り、やがて口をつけるかつけないかというところまでになった。そして間もなく、ユーク様が倒れた。
倒れてからもユーク様はほとんど何も口にすることはなかった。医者にも診てもらったが、食事を摂らない限りは薬も何も無駄だった。何故食べないのか、食べられないのか本人は決して喋らず、俺は為す術なく日に日に痩せ細っていくユーク様を見ていることしかできなかった。
俺はあの人が心の底から嫌いだ。殺したいと思ったことも一度や二度ではない。だが、目の前でユーク様が死に向かっていくのをただ眺めているのは苦しく、やるせなかった。そんな俺を床に伏したユーク様は嘲るように見てきた。そして、その視線にさらされるたびに俺はあの人に言われた言葉を思い出した。
『善人ぶるなよ、偽善者め』
他人の傷つけ方をよく知っているユーク様らしい言葉だ。思い出すたび心が抉れて、憎しみが頭をもたげる。そんなに言うなら、今すぐ俺の手で殺してやろうかと口に出しそうになった。だが、静かに眠るあの人のこけた頬や土気色の顔を見ると、そんな殺意はあっという間にしぼんで、あとには虚しさと激しい自己嫌悪だけが残るのだ。俺にはもうどうすればユーク様を救えるのかわからなかった。
しかし、その救いはある日突然、意外なところからやってきた。通いのメイドとして働いてくれているアンナの母、テレサが作ったリンゴ煮をユーク様が食べたのだ。まさに青天の霹靂だった。それ以来ユーク様は食事を摂れるようになり、体調も徐々に回復していった。当時の俺の葛藤を思うとやや複雑なものはあったが、快復してくれるに越したことはなかったし、きまり悪そうなユーク様の様子に胸が空いたのでこのことについては自分の中で折り合いをつけた。そして、このまま何事もなく残りの期間を過ごせることを祈った。
しかし、その後も予想外のことが起こった。アンナの妹、イリアがユーク様に接触したのだ。ユーク様は気に障ることがあれば子供相手だろうと容赦なく手を上げる。俺はイリアを守らなければと必死になった。だが、そんな俺の心配をよそに、何がどうしてそうなったのか、ユーク様はイリアから花を受け取る約束を交わすに至った。
あのユーク様が、子供から花を、それもその辺に生えている普通の野花を受け取る約束を……。
ユーク様の行動としてはあまりに信じ難くて、何か企んでいるのではとか混乱する頭で考えた。だが、どれほど頭を捻ろうと、少女から花を受け取る行動に裏は見出せなかった。
何よりユーク様の表情がその行動に悪意がないことを物語っていた。自分自身の行動に驚き困惑するユーク様は無防備で、まるで少し捻くれているだけのただの少年のように見えた。それと同時に、自分が今までこの人を“ただの少年”として見たことがなかったことに気が付いた。
(人の心のない悪魔とでも思っていたのか)
あるいはそれは、“そうであってほしい”という俺の身勝手な願望なのかもしれない。本当は、テレサと言葉を交わすユーク様にも以前までと違うものを感じていたのに、認めたくなくて気付かないフリをしたのだ。
自分の中にあった歪んだ感情を自覚して、俺は愕然とした。例え憎い相手だとしても人を人として見られないのなら、それは俺がもっとも嫌悪する人間と変わらない。
戸惑い狼狽えるユーク様の頬は血が上って赤らんでおり、それが一層彼を血の通う人間だと俺に知らしめた。
(この人と向き合うのは、今からでもまだ間に合うはずだ)
もし何かが変わりつつあるというのなら、俺はそれを見極めたい。
イリアから受け取った一輪の花を握り締めるユーク様を見つめながら、俺は微かな希望を胸に抱いた。
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