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n+1周目
05
しおりを挟む大きく荘厳な屋敷、手入れの行き届いた美しい庭、洗練された使用人たち。
よく知っている、ここはレスタリエ家の屋敷だ。
どこもかしこも眩くて、直視しづらいくらいだ。俺は目を細めて、光差す庭を見つめた。
笑い声がする。軽やかで楽しげな子供の笑い声。光の中にティーテーブルが見えた。そのテーブルを取り囲んで座る影がある。父親と母親、そして小さな子供の影が二つ。その二人の子供は兄妹だ。
全員が穏やかに笑っていて、いかにも幸福そうな一場面だった。
思わず俺の口からも笑いが漏れた。だがそれは嘲笑だった。
(こんなものは知らない)
富と権力にしか興味がない父は、一度だってまともに俺を見たことはない。幼い頃に病気で亡くなった母は、死ぬまで不幸な結婚をさせられたことを嘆いていた。気弱な妹は俯いてばかりでろくに喋りもしない。
俺自身、家族の前であんな風に楽しげに笑ったことなんて一度もない。
こんなのは全部幻影だ。それも、もっとも愚かで滑稽な類のものだ。目障りで仕方がない。殺意が込み上げるほどに。
すると、急に目の前の光景にひびが入った。ひび割れた鏡のように景色が歪に壊れていく。やがて全体にひびが行き渡ると、ガシャンッと大きな音を立ててそれは砕け散った。
パラパラと光の残骸が散っていく。それらもすべて消えてなくなると、残されたのはただの暗闇だった。光も音もない、夜よりもずっと深い闇。だが、俺に恐怖はなかった。
ずっとここにいたい。このままこの闇に溶けてしまいたい。
しかし、それは叶わぬ願いだと俺はわかっていた。
目を開けると、手元に広げられた本が視界に入った。本を読んでいる最中にうたた寝をしてしまったらしい。座ったままの姿勢で項垂れていたせいで、首が凝り固まっている。意識を手放す前はまだ明るかったはずの空が、今は夕暮れの名残が夜に入ろうとする空に薄い茜色をかけているだけだった。
この村に来て2週間あまりが過ぎた。
生活は静かで退屈なものだった。家から外に出ることはなく、人と会うことも話すこともない。
寝て、起きて、食事をして、本を読むか、そうでなければただぼんやりして過ごすか――、そんな空虚な日々の繰り返しだ。
ジェイドも俺を襲うこともなく、逃亡する素振りもなく淡々と付き従っている。奴の甘っちょろい性格を考えれば、俺を殺してここから逃げて家族を助け出すよりも、例え家族が解放される保証がなくとも俺に大人しく従うことを選ぶだろうことは見当がついていた。顔を合わせるといつも何か言いたげな、探るような目付きで見てくるのだけが少し鬱陶しい。
何も起きない、何の変化もない日々。繰り返し死が訪れる終わりのない地獄の中で、それは穏やかと表現してもいい時間なのかもしれない。だが、1日も1週間も、おそらく1ヶ月や1年でさえ大した違いがないような停滞した毎日は、真綿で首を絞められるような息苦しさがあった。
座ったまま軽く伸びをして、首周りをほぐすように左右に回す。微かに頭痛がしていたが、ここ最近はいつもだった。ずきずきと頭全体が締め付けられるような痛みに溜息をつく。傷の痛みは感じないのだから、頭痛も感じなければいいのに。
煩わしい痛みに目を閉じると、瞼の奥に微睡の中で見た光景が一瞬ちらついた。馬鹿馬鹿しい。夢は記憶整理だとか願望の現れだとか言うが、あんな記憶は俺の中には存在しないし、望んでもいない――今はもう。
目を開けると先ほどよりも夜の色が濃くなった空が目に入る。夢で見た暗闇には程遠かったが、眺めていると頭痛と胸のむかつきが多少緩和される気がした。
藍から濃紺へと変わりゆく空を無心で眺める。やがて空が完全な夜闇に染まると、星が瞬き出した。
どれくらいそうしていたのだろう、俺を我に返したのはノックの音だった。
「ユージン様、お食事をお持ちしました」
ジェイドだ。逃亡する際にはいつも使っていた偽名だったが、それがジェイドの口から発せられるのには最初違和感があった。とはいえ、さすがにもう慣れたが。
「入れ」と返事をすると、ドアが開きトレーを持ったジェイドが現れた。
部屋の中にはほとんど立ち入らず、ドア付近にあるサイドボードの上にトレーを置くとすぐさま下がった。余計なメニューの説明も配膳も不要だと初日のうちに言い付けてから、これがいつもの流れだ。
サイドボードに置かれたトレーを手に取り、デスクの上に乱雑に積み上げられた本を適当に端に追いやって、できたスペースにそれを置く。
被せられたフードカバーを外すと、中から白い湯気がふわりと溢れた。本来であれば料理のにおいが香るのだろうが、相変わらず俺の鼻は何のにおいも感知しない。
スープやサラダを口にしたが、温度と食感以外はわからず、数口食べただけで食欲が失せた。肉料理に至っては口に入れる気さえ起こらない。味のしない肉というのはただただ気色悪い。それでもなんとか食べようと試みたが、二口が限界だった。込み上げてくる吐き気を堪えるだけで精一杯で、とてもそれ以上は口にできなかった。
しばらく経ったのち、ジェイドが食器を下げに来た。
ほとんど手付かずと言ってもいい食器の上の料理を見て、ジェイドは眉を顰めた。
「最近、お食事の量が随分と減っているようですが」
そんなことはこいつに言われるまでもなくわかっている。答えるのが億劫で無視を決め込んでいると、「お口に合いませんでしたか」と聞いてきた。
もちろん、こんなど田舎の素人が作った料理が俺の口に合うはずはないだろう。だが、問題はそれ以前のものなのだ。その根本的な原因をこいつに説明する気はさらさらないが。
「お前には関係のないことだ」
「ですが、昼食もほとんど召し上がられていませんでした。顔色も優れませんし、お体を悪くされているのではないですか? 医者を呼びましょうか」
「不要だ」
俺はジェイドの言葉を即座に跳ね除けた。
医者など呼んだところで何の解決にもなりはしない。このまま食べることができなくなれば、いずれ死ぬだろう。そうとわかっていても、俺にはどうしようもない。無理に食べれば吐くだけだ。これで死ぬならそれはそれでしょうがない、そんな諦めの感情がすでに胸中にはあった。
まだ何かを言い募ろうとするジェイドが鬱陶しくて、席を立つ。すると、その瞬間視界が揺れた。視界だけじゃない、頭の中がぐわんと揺れているような感覚。視界が明滅して、身体から力が抜ける。
持ち堪えられずに、俺はその場に膝をついた。
「ユーク様!」
すぐにジェイドが体を支えに駆け寄ってくる。肩に触れる奴の手を払い除けようとしたが、弱く押し返すのが精々だった。
せめてこれだけはと思い、「なまえ」と声を絞り出した。本当なら、本名を口に出すなと怒鳴りつけてやりたかった。
「そんなことを言っている場合ですか!」
ジェイドが怒ったように言う。その後も何か言葉を続けているようだったが、耳鳴りがどんどん酷くなって聞き取れなかった。
そのうちに頭が重たくなってきて、視界が狭まり、俺はついには意識を手放した。
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