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プロローグ:0〜1周目

01

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 ふわりと意識が浮上する感覚がして、俺はゆっくりと目蓋を開いた。
 見慣れた天井と内装。俺の自室だとすぐにわかる。ぼうっとしたのはほんの一瞬のことで、俺の思考はすぐに混乱に呑まれた。
 何故? と疑問が瞬時に脳内を埋め尽くす。俺は死んだのではなかったか。剣に貫かれ、地べたに這いつくばった記憶が蘇る。意識も感覚も遠のいて、虚無という名の暗闇に溶けていくのを確かに感じた。まさか、あそこから助かったのか。
 混乱しながらも寝台から身を起こして、気がつく。痛みがない。腹を服の上から触れど、痛みの感覚な全くなかった。まさかと思って服を捲り上げると、そこには傷どころか、痕のひとつもなかった。
 まっさらな腹を目にした瞬間、恐怖が這い上がってくるのを感じた。何か得体の知れないものに纏わりつかれているような心地にぞわりと背筋が粟立つ。
 あれが全部夢だったというのか。どす黒い血の色も、錆び臭いにおいも、燃えるような痛みも、俺を見下ろす無情な碧眼も、すべてが夢?

(あり得ない)

 俺はすぐさま否定した。今なお鮮明すぎるほどに蘇るそれらの記憶はとても夢と呼べるようなものではなかった。
 それならば、今この瞬間こそが夢なのかもしれない。死ぬ間際に見る走馬灯のような。
 混乱のあまり目が眩む。頭痛と吐き気にも襲われ、足元がふらついた。しかし、なんとか踏み止まり体を引き摺るようにして窓辺に寄る。締め切られたカーテンを開けると、暗く重たげな雲が空を埋め尽くし、そこから降り注ぐか細い雨が庭の草木を湿らせていた。窓から伝わる冷気にふるりと身が震えた。
 暗い目をした男が窓に映る。俺だ。重たげな黒髪に光の差さない濃紺の瞳。顔は青白く、まるで幽霊のようだった。
 いや、あるいは本当に幽霊なのか……。
 散漫になる思考で呆然と外を眺めている俺を引き戻したのは、ノックの音だった。

「ユーク様、よろしいでしょうか」

 俺の名前を呼ぶ耳慣れた声。だが、その声を耳にした俺の心臓はどくりどくりと大きく脈打ち始めた。急に胸が圧迫されたような息苦しさに襲われる。自然、呼吸は浅く速くなる。
 これまでで最大の混乱に見舞われる俺へ、もう一度同じ声が届く。

「ユーク様?」
「はい、れ」

 掠れた声でかろうじてそう言うと、扉が開き一人の男が室内に足を踏み入れた。

「ジェイド・シトリー……」

 つい口に出して名前を呼ぶと、ジェイドは「は」と答え身を正した。
 自分の目に映る光景が信じられず、一瞬呼吸も忘れてジェイドを凝視した。
 エメラルドの瞳と視線がかち合う。瞬間、憐みを込めて見下ろす瞳がはっきりと記憶の中で蘇った。この顔、この声、間違うはずもない。
 俺は確かにこの男の手によって殺されたのだ。
 憎悪や痛み、苦しみ、死ぬ直前の孤独と恐怖。感情が一斉にフラッシュバックする。どっと汗が噴き出し、心臓が痛いくらい脈打った。

「何故、」
「本日のご予定をお伝えに参りました」

 ジェイドが生真面目に答える。そういう意味じゃないと言いたかったが、限界を迎えた思考では何の言葉も出て来なかった。
 そんな俺を見て、ジェイドは微かに眉をしかめた。

「顔色が優れませんね。本日は雨で気温も低いですから、炉に薪を足しましょう」

 そう言って暖炉に向かうジェイドを目で追う。その途中の一点に視線が縫い付けられる。壁にかけられた剣。使用したことはなく壁を飾るだけの置物と化していたが、刃はある。それから、もう一度ジェイドに目をやる。暖炉に薪をくべる背は無防備で、今なら容易く殺せるに違いなかった。
 脳裏に自分を見下ろす碧眼がちらちらと過ぎる。
 湧き上がってくるのは煮えたぎるような憎悪。
 俺は迷いなく壁の剣を手に取り、ジェイドに向かって歩く。物音に振り向いたジェイドの表情が一瞬にして凍りついた。

「何を……」

 困惑するジェイドには何も答えず、無言のまま距離を詰めていく。
 咄嗟に火搔き棒を取ろうとしたジェイドの腕を斬り払った。腕から血飛沫があがり、壁と床に鮮血が飛び散った。

「ぐっ……」

 苦痛に歪む表情が俺を睨み付ける。高揚感と優越感が身体の芯を満たす。死の直前に抱いた孤独感や無力感が消えていくのを感じる。口元が自然と吊り上がる。
 見ろ、俺を。お前を殺す、この俺を。
 そうして、俺はジェイドの体を剣で貫いた。

「な、ぜ」

 ごぷりと口から血を吐きながら、ジェイドの体が床に沈む。剣を引き抜くと、傷口から止めどなく溢れる血が絨毯を赤く染め上げていった。
 怒り、屈辱、無念さ、憎しみ。俺見下ろした煌めく碧が、今はそんな感情を露わに俺を見上げていた。それもしばらくのことで、やがて瞳から完全に光が消え失せるとジェイドは物言わぬ死体となった。

「これが俺とお前のあるべき関係だろうが」

 記憶の中で俺を見下ろす男に吐き捨ててやった。



***



 ガルシア暦892年3月10日。
 冷たい霧雨が降り注ぐその日、俺は静かに目を覚ます。

「今日は冷えます。炉に薪を足しましょう」

 事務的な口調で言って、暖炉に薪をくべる男の背を見つめ、俺は深く溜息をついた。

「今日のご予定ですが」

 作業が終わると、男――ジェイド・シトリーは俺に向き直り本題に入った。しかし、続きを言うより早く「いい」と言って俺はそれを遮った。「予定くらい把握している」と言うと、ジェイドは多少訝しげにしつつ「左様で」と引き下がった。

「では朝食をお持ちします」

 そう言って部屋から出ていく。一人になった俺はまたも深い溜め息を落とした。
 さて、今回はどうしたものか。
 正直考えるのも億劫だったが、何もしなければ同じ結末を迎えるだけだ。自らの死という結末を。

 そう、俺は繰り返していた。892年3月10日から、自らの死までの日々を幾度となく。今が何度目かもどうでもよくなるほどに。
 初めは、ジェイドに死の鉄槌を喰らわせるために神だか悪魔だかが俺に機会を与えたのかと思った。事実、俺は何度もあの男を手にかけた。
 しかし、無意味だった。ジェイドを殺そうが殺すまいが、死は訪れた。繰り返し繰り返し、飽きるほどに。そしてまた3月10日に目を覚ますのだ。
 どれほど手を尽くしても死を繰り返すこの地獄は、俺を打ちのめすのに十分だった。初期の頃ジェイドを殺して悦んでいた自分があまりに滑稽で、思い返しては死にたくなる。もちろん、自殺したところでまた3月10日だ。一周まわって笑える。

「お待たせいたしました」

 朝食を持ってきたジェイドが再度入室し、テーブルにカトラリーを並べていく。数分もしないうちに朝食の準備が整い、俺は席についた。

「本日の朝食は――」

 野菜スープ、プレーンオムレツ、バターロール、子羊のローストとフルーツの盛り合わせ。
 ジェイドが言うのに合わせて頭の中で唱える。うんざりするほど聞いたメニューだ。
 湯気を立てる食事にナイフを通し、切り分け、口に運び、咀嚼して、気が付いた。
 味がしない。香りも。
 なるほど、と思った。繰り返しを重ねるほどに、俺はどこかが壊れていくのを感じていた。今回より何回か前からは痛みを感じなくなっている。だから、味がしないことも驚くというよりは納得した。
 味のしないものを噛んで飲み込むというのは想像以上に疲弊する作業ではあったが、食わなければ死ぬ。死ねばそこでこの回は終わりだ。

 どんどん壊れていき、最終的にどうなるのだろう。何も感じられなくなって、考えられなくなって、俺が俺でなくなったら。それがこの歪な螺旋の終着点なのだろうか。
 これから待ち受けている様々な出来事と、その先にある俺自身の終わりに思いを馳せ、俺はもう一度溜息を落とした。
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