盤上に咲くイオス

菫城 珪

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51 不躾な賓

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51  不躾な賓
 
 屋敷に戻ったが、結局ダーランはこの日帰らなかった。代わりに先触れの男が来て、明日には戻るとの事だった。
 帰ってきたら説教してやると思いながら夕食を摂り、自室へと引っ込めば襲ってくるのは寂寥だ。オルテガの荷物は置きっぱなしになっていて、彼の気配を感じるから余計に。
 広い部屋の中、弱々しい月明かりの落ちる窓辺のテーブルにはレインから貰った香水が並んでいる。寄り添うようなその瓶の、藍色の方へと手を伸ばして蓋を開けた。
 途端に押し寄せてくるのはあの香りだ。だが、それもオルテガが身に付けていた時ほど魅力を感じられない。
 香水というものはその人が持つ匂いと混ざる事でより魅力的になると聞いた事がある。この香水だけでは物足りなく感じるのはきっとオルテガの匂いがないからだろう。
 なんて言いつつも、人間というのは存外単純な生き物なのかもしれない。
 記憶の底にある香りを思い出して、背筋にぞくりと甘い痺れが奔る。
『リア』
 耳元で低く甘い声が響いた気がして一気に体が熱くなっていく。毎日抱き合っていたのに、この三日程は寂しさを誤魔化す為に早々に眠りに就いていたせいか、なかなかおさまる気配もない。
 戻って来たらまた気絶する程抱いてもらおう。そう思いながら気を紛らわせるためにベッドサイドに置いていた本へと手を伸ばす。この間ダーランが置いていった王都で流行っていたというライドハルトとステラをモデルにした小説だ。まだ半分くらいしか目を通していないが、既に読むのに飽きて来て全然進まないんだなぁ、これが。
 ありがちな展開にこういうの言わせときゃお前ら萌えるだろと言わんばかりのくさいセリフの数々。なんでこんなのが流行るのか理解出来ない。オルテガの方が何倍もかっこいいだろうが!
 作中ではオルテガをモデルにしていると思しきキャラクターが当て馬としてちらっと出ているのも腹立たしい。作者はどこのどいつだ。見つけたらオルテガの魅力について一晩でも二晩でも語ってやるのに。
 そういえば、何の音沙汰もないが、ダーランが言っていた本の話はどうなっているんだろうか。流石に出版したら一言くらい声を掛けてくるかと放置していたんだが、アイツが帰ったら確かめてみるか。一応目を通してから世に出したい。
 世間に自分の恋愛事情を読まれるのなんか御免蒙りたかったが、今はそれよりもオルテガの魅力を世に知らしめたい方が大きい。頭空っぽのバカ王子より、誠実な騎士の方が良いに決まっているだろう。
 くだらない文章を流し読みしているうちにやってくるのは睡魔だ。今夜も大して進まなかったが、そのまま眠ってしまおうと本を閉じ、ランプを消した時だった。部屋のドアが控えめにノックされた。
「旦那様、お休みのところ申し訳ありません。来客が……」
 気のせいかと思ったところで聞こえてきたのは執事のアルバートの声だ。折角眠れそうだったのにと思いながら体を起こす。
「客? こんな時間に誰だ?」
 眠気で気怠くなった声を御しながら尋ねれば、ドアの向こうにいるアルバートが言い淀む。何か喫緊の用事ならばこの場で手短に用件を話すだろうが、どうやら説明に困っているらしい。
 仕方がないと小さく溜め息をついてからナイトガウンを羽織ってドアを開ければ、同じくガウン姿のアルバートが魔石ランプを手に立っていた。
「夜分に申し訳ございません。私では対応に困りましたので旦那様のご判断を」
「わかった。それで、先触れも出さずにやって来た無礼者は誰なんだ?」
「ヤロミール・マレク・アスフール侯爵令息様です」
 アスフールの名に、思わず思い切り顔を顰めてしまった。ダーランの言う通り嫌な予感が当たったようだ。こんな夜分の訪問とは穏やかではない。
 ヤロミールは先日ダーランと話をしたアスフール侯爵家の次男に当たる。セイアッドとの接点はないし、敵対勢力だというのに何をしに来たのか。それもこんな夜に、先触れもないなんて不躾もいいところだ。
 憤慨しながら階段を降りて待たせているというリビングに向かう。くだらない用件だったら叩き出してやる。
「リア!!」
 そう思いながらリビングのドアを開けたところで、突然聞き覚えのない声に挨拶も無しに真名を呼び捨てにされた。
 前にも話したが、この国の貴族にはファーストネームが二つある。一番目の名前は一つ名と呼ばれる普段使いにする名前で、二番目の名前は真名と呼ばれ、家族や婚約者、親しい者にだけ呼ぶ事が許されるものだ。当然、当人の許可なくその名を呼ぶのは無礼にあたる。
「……夜分に先触れもなく訊ねて来た上に許していない真名を呼び捨てにするとは良い度胸だな」
 ちょうど気持ち良くうとうとしていた所を叩き起こされた上にいきなり真名を呼び捨てにされた俺は不機嫌マックスだ。ただでさえオルテガ不足で落ち込んでいたところに厄介事が来やがって。相手の顔も碌に見ないままつい威嚇してしまった。
 俺の声音から不機嫌な事を察したのだろう。立ち上がり掛けていた青年は中途半端な体勢のまま、困惑したように俺を見ている。蒲公英のような濃い金色の髪に深い紫色の瞳をした青年の顔に見覚えはないが、その色味はまさしくアスフール家の血縁者だと示していた。
「何故そんなことを言うんだ、リア。迎えに来るのが遅れたことに怒っているのかい?」
「はぁ?」
 困惑した様子で意味不明な事を言い出す相手に思わず素っ頓狂な声が出た。迎えに来るとは一体何の話だ。
「話が読めないんだが。第一、私と貴殿は初対面だろう。許しも得ずに真名を呼ぶな」
 次はない、と睨み付けてやれば漸く相手も何かおかしいと思ったらしい。とりあえず、ソファーに座らせて改めて相手を見る。
 確かヤロミールは今年で20歳くらいじゃなかっただろうか。学園で在学期間は被ったかもしれないが、学園でも宰相になった後も会話をした記憶は一切無い。
「その、何故怒っているんだ? 先触れは出しただろう」
「そんな覚えは……」
 ないと言い掛けた所でふと思い出すのはダーランと話したあの怪文書だ。あれの印璽は星と小鳥だったが、どうやらあの手紙の事を言っているらしい。
「まさかとは思うが、近く迎えに行くというアレか?」
「そうだ。ちゃんと出しているだろう」
 得意げにするヤロミールの態度に唖然とする。先触れというのは相手に訪問する予定の日時を知らせ、受け入れの準備などの時間を作る役割もあるというのに。そもそも名前を書きもせずに一方的に内容もあやふやな先触れを送り付けた上に夜遅くの訪問なんて非常識にも程がある。思わず零れた深い溜め息を誰が責められようか。
「あれでいいと思っているならアスフール家の教育に苦言を呈したいところだ。差出人の名前も書けないのか」
「俺達は結婚するんだから俺の印璽くらい知っているだろう?」
 嫌味を言えば、斜め上の言葉が返って来た。
 やばい、さっきからコイツの言っている事が一切理解出来ないんだが。
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