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22 つけペンと終わらない書き物
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22 つけペンと終わらない書き物
シガウスとの会談を終えた翌日、俺は筋肉痛に悩まされていた。案の定、乗り慣れない馬に乗った事で腰と股関節を中心とした下半身が死んでいる。
幸いというかなんというか、昨夜はオルテガがすんなり寝かせてくれたので体力的には良かったのだが、筋肉痛で思ったように動けない。これが治ったらちゃんと運動しよう。乗馬も練習する。
「大丈夫か?」
日も天上から緩やかに西へと傾き始めた午後。筋肉痛に苦しみつつ、昼食も碌に摂らずに進めているにも関わらず遅々として書き物が終わらない。そんな俺のデスクに紅茶を置きながら苦笑混じりに心配してくるオルテガをキッと睨み付けてやる。遅筆なのは俺のせいだが、筋肉痛はお前のせいだぞ!
「誰かさんが馬車を帰さなかったら半分くらいはこんな思いしなくて済んだんだが?」
「悪かった。次はもっとゆっくり走る」
そういう問題じゃない。
そんなやり取りをしていても不毛だとこれ見よがしに深い溜息を零してから手元の便箋に視線を落とす。
朝から書き綴っているのはシガウスに宛てた指示書だ。昨夜の話し合いで今日には渡すと言ってしまったし、明日にはシガウスも王都へ発つからこれだけは今日中に渡してしまいたい。
しかし、書く事が多過ぎる。こういう時にパソコンやスマホが有ればもっと楽なのに。なんて文明の利器を恋しく思いながらもせかせかと手を動かす。
オルテガは俺が書いている内容を見ないように努めてくれていた。俺がオルテガを巻き込む事を望んでいないと再三言い聞かせたおかげか、気にはしているが覗こうとはしてこない。
ああ、それにしても本当に書く事も考える事も多い。シガウスが来た段階である程度の構想は考えてあったが、予想外に味方が多かった事で計画の根本を見直す部分が出てきたのだ。
昨日挙げられた協力してくれそうな貴族や有力者の中でセイアッドが信頼出来る者を選び、その人にして欲しい事を考えて書くだけでも大変なんだが、俺が一番苦痛なのは筆記用具だ。
どうやらこの世界にはボールペンのように補充無しで延々と書き続けられる道具がないらしい。一応鉛筆はあるんだが、先が丸くなったらいちいちナイフで削らないといけないのが面倒なのと、筆圧の問題なのか芯がすぐに折れてしまう。そうなると必然的に道具はペンになるんだが、それも原始的なつけペンなのだ。
つけペンとは書いて字の如く、ペン先にインクをつけて書くものだ。インクが切れたらインク壺にペン先を浸してインクを補充して書くんだが、これもまた長くは保たず、いちいちインクをつけなきゃいけないのが不便だった。
改めて現代日本は便利な世の中だったんだと痛感する。諸々が終わったらロアール商会の人間に新商品としてボールペンの開発をお願いしたい。切実にな……!
そんな現実逃避をしていても時間は待ってくれない。朝からずっと動かしっぱなしの右手が悲鳴を挙げている。明日には足腰のみならず腕も腱鞘炎になっているかもしれない。
こんな時に書記官というよりも右筆がいれば楽なんだろうが、貴族相手に向けた文書として扱うなら代筆よりも俺の直筆の方が効果が高いし、代筆を頼むにしても余程信頼のおける人物じゃないとそこから情報が漏れる懸念もある。
久々の書類仕事に目がしぱしぱしてきて、キリがいいところで一度ペンを置いて眉間を揉んだ。宰相時代は眼精疲労を軽減する眼鏡を使用していたが、生誕祭で断罪され殴られた際に壊れたし、そのまま会場に置いてきてしまった。
結構高かった上に貴重な魔道具だったのに。今更あの眼鏡を恋しく思いながらもロアール商会の者に代替品がないか頼んでいるが、「あんな珍しい物がホイホイ転がってる訳ないっしょー?」と普段商会を任せている男に渋い顔をされたのであんまり期待していない。
せめて現物があったら修理くらいなら出来たかもしれないのにと追加で文句を言われたが、格好付けの為に投げ捨ててきた手前なにも言い返せなかった。誰か拾っといてくれないかな。
「あー……目が痛い」
「あの眼鏡はどうしたんだ? 高かったが良い品だと言ってただろう」
「……聞かないでくれ」
俺の様子に首を傾げながらも、オルテガが俺の後ろに回る。何をするつもりなのかと思っていればそっと肩に触れられた。そのまま肩と首を揉み解されて思わず呻き声が漏れる。
オルテガの温かい手と絶妙な力加減のマッサージは久々の追い込み仕事で凝り固まった体に効果抜群だった。
「あー、気持ち良い……」
「あまり根を詰め過ぎるなよ」
「そうは言っても今日中に渡さないといけないから。ありがとう、フィン。もう少しだから頑張る」
「そうか……」
残念そうに呟くとオルテガが俺の背後から離れ、来客用に置いてあるソファーセットの方へと向かう。今日の彼の定位置はそこだ。俺が書き物をしている間、オルテガは図書室から持ち出してきた本を読み耽っている。
今読んでいるのは「私」が幼い頃に読んでいたこの地方の伝承を集めた民話集、というよりも童話集みたいなものだ。随分可愛らしいものを読んでいるなと思いながら嫌々手を動かす事を再開する。頑張れ俺、あと少しだ。
修正液もないのでおちおち書き損じも出来ない。そう思ってミスが無いようにと力めば力むほどミスするもので……。
新たな便箋に半分ほど書いた所で白い紙の上に、つけすぎたインクがペン先からぽたりと滴り落ちた。
「あっ」
声に出すが既に後の祭り。白い便箋の上には黒いインクの花が咲く。その様子を見て深い溜息を零して再びペンを置く。
「はー、ダメだ。少し気分転換してくる」
そう言って立ち上がろうとした俺の下半身に忘れかけていた筋肉痛が襲い掛かる。痛みに呻きながら動きを止める俺を見てオルテガが本を閉じて苦笑する。
「治癒魔法を使ったらどうだ?」
「自分に使うのは反動が大きいからあまり使いたくない」
他人に使う時や自身に使う時でも軽い擦り傷程度なら良いが、自分自身に乱用すると自家中毒のような症状を起こして余計にダメージを受ける羽目になる。宰相時代にあまりに体が辛くて自身に治癒魔法を使って酷い目に遭った。あの有様は人様にはあんまり見せたく無い。特に、オルテガには。
「どうする、庭に出るなら俺が運んでやるが」
そう言って腕を広げて見せるオルテガは楽しそうだ。筋肉痛でギシギシする体を引き摺って時間をかけながらその腕の中に収まれば、片膝の上に俺が座る形でそっと抱き締められる。
外に行くのもいいが、これだけでも十分。昨日付けていた香水の香りがしない事が少し残念だったが、四六時中あの香りを纏われたら俺の理性がダメになりそうだ。
甘えるように胸に頬を擦り寄せれば、オルテガの大きな手が俺の頬を撫でる。児戯のような触れ合いだが、俺の胸には温かなものが満ちていく。乾いた砂に水が染み込むように、オルテガが与えてくれるものは「俺」と「私」、それぞれが抱えていた孤独と願望を潤してくれる。
胸に擦り寄るのをやめて見上げれば、俺の望みを解してくれたオルテガが額に、頬に、瞼にキスを落とした。柔らかな感触が触れる度にとくりとくりと鼓動が早くなる。
……「私」は昔からオルテガの事が好きだった。されど、自分はレヴォネ家の嫡男であり、いずれは宰相を継ぐ身だ。同じ様に代々騎士団長を務めてきたガーランド家の者と婚姻する事は出来ないと、その淡い恋心を殺し続けてきた。
貴族の婚姻というのは惚れた腫れたで結べる程安易なものではない。それが、国に於いて重要な地位にある家ならば尚更。
いずれ宰相となる者と次男とはいえ代々騎士団長を務める一族の者。権力の偏りが出てしまうから、望んでも出来ない婚姻だと諦めて。
オルテガが勇退したアルトゥロの跡を引き継いで騎士団長になった時、セイアッドは完全に恋心を殺した。ただの幼馴染として、親友として共に国を護っていけるなら、「私」にとってはそれだけで十分だった。
だから、昨夜オルテガから聞いた話は本当に寝耳に水だったのだ。セオドアがそんな事を考えていたなんて知りもしなかった。もしかすると、彼なりに息子に示した愛情だったのかもしれない。
記憶の中の父セオドアはよく笑う人だ。セイアッドに良く似た顔でからからと笑いながら引っ込み思案の息子に様々な悪戯を仕掛けては笑わせてくれる、そんな人だった。
成長し、宰相を継ぐ為に父の側でその仕事ぶりを見て憧れを抱いた。こんな風になれたらと必死に努力して、勉強して……そんな矢先にセオドアは呆気なくこの世を去った。
レヴォネ領と隣合う領地で発生した黒斑病。兼ねてから別国で黒斑病に効くと言われ、レヴォネ領で育てて来た薬草の効果を確かめる為に視察に向かって、その地で感染してしまったのだ。
セオドアは最期まで自らの体で薬草の検証を行いながら死んでいった。感染するからと死に目にも会えず、遺されたのは書記官がドア越しに聞き取り書いて寄越した遺書だけだ。
その遺書にすら、主に自分の体に起きた薬効が事細かに書かれていて、残りは国の仕事についてだった。家族について遺されたのは最後の最後にほんの一言。されど、重い一言だった。
……こんな風に「私」の記憶を紐解く度にここがゲームの世界ではなく、現実に人が生きている世界なのだと思い知る。
「俺」はゲームのキャラクターとしてセイアッドを産み出したが、その父であるセオドアについてはこんなに作り込んではいない。
これは主要キャラにも物語りに関わって来ない人物にも当てはまるのだが、それぞれが皆連綿と己が人生を紡ぎ、それを次代へと繋げている。そんな当たり前の人の営みがここには確かに存在していた。ゲームで表現された時間など、その僅かな一幕でしかないのだろう。
オルテガの腕の中に収まりながら小さく溜息を零す。この熱も匂いも、本当に全て現実なのだろうか。そんな事をふと思う。
死に際に観ている長い泡沫にしては現実味が深く、現世にしてはあまりにも幻想的。
「俺」はこの世界に於いて異端の存在なのだ。そんな俺がこの世界に干渉する事で今は良くとも遠い未来がどう捻じ曲がるか分からない。だが、俺にとって重要なのは「今」だ。
セイアッドが幸せで在れば、それで良い。
ただ、現状のまま膿を抱え続ければ国が破綻する未来もあるだろう。いずれにせよ、俺が「私」がやる事は変わらない。
自らにかけられた冤罪を晴らし、逆にセイアッドを貶めた者達の罪を問う。そして、この国に巣食う毒蟲達を一掃する。
いずれ意識の主導権を「私」に返す時が来るその日まで。俺は「俺」に与えられたこのチャンスを逃す訳にはいかない。
日本に生きていた時には終ぞ叶える事が出来なかった自らの幸福。そして、「俺」の力が及ばなかったが故に不幸にしてしまったセイアッド。
この世界ならば……。
シガウスとの会談を終えた翌日、俺は筋肉痛に悩まされていた。案の定、乗り慣れない馬に乗った事で腰と股関節を中心とした下半身が死んでいる。
幸いというかなんというか、昨夜はオルテガがすんなり寝かせてくれたので体力的には良かったのだが、筋肉痛で思ったように動けない。これが治ったらちゃんと運動しよう。乗馬も練習する。
「大丈夫か?」
日も天上から緩やかに西へと傾き始めた午後。筋肉痛に苦しみつつ、昼食も碌に摂らずに進めているにも関わらず遅々として書き物が終わらない。そんな俺のデスクに紅茶を置きながら苦笑混じりに心配してくるオルテガをキッと睨み付けてやる。遅筆なのは俺のせいだが、筋肉痛はお前のせいだぞ!
「誰かさんが馬車を帰さなかったら半分くらいはこんな思いしなくて済んだんだが?」
「悪かった。次はもっとゆっくり走る」
そういう問題じゃない。
そんなやり取りをしていても不毛だとこれ見よがしに深い溜息を零してから手元の便箋に視線を落とす。
朝から書き綴っているのはシガウスに宛てた指示書だ。昨夜の話し合いで今日には渡すと言ってしまったし、明日にはシガウスも王都へ発つからこれだけは今日中に渡してしまいたい。
しかし、書く事が多過ぎる。こういう時にパソコンやスマホが有ればもっと楽なのに。なんて文明の利器を恋しく思いながらもせかせかと手を動かす。
オルテガは俺が書いている内容を見ないように努めてくれていた。俺がオルテガを巻き込む事を望んでいないと再三言い聞かせたおかげか、気にはしているが覗こうとはしてこない。
ああ、それにしても本当に書く事も考える事も多い。シガウスが来た段階である程度の構想は考えてあったが、予想外に味方が多かった事で計画の根本を見直す部分が出てきたのだ。
昨日挙げられた協力してくれそうな貴族や有力者の中でセイアッドが信頼出来る者を選び、その人にして欲しい事を考えて書くだけでも大変なんだが、俺が一番苦痛なのは筆記用具だ。
どうやらこの世界にはボールペンのように補充無しで延々と書き続けられる道具がないらしい。一応鉛筆はあるんだが、先が丸くなったらいちいちナイフで削らないといけないのが面倒なのと、筆圧の問題なのか芯がすぐに折れてしまう。そうなると必然的に道具はペンになるんだが、それも原始的なつけペンなのだ。
つけペンとは書いて字の如く、ペン先にインクをつけて書くものだ。インクが切れたらインク壺にペン先を浸してインクを補充して書くんだが、これもまた長くは保たず、いちいちインクをつけなきゃいけないのが不便だった。
改めて現代日本は便利な世の中だったんだと痛感する。諸々が終わったらロアール商会の人間に新商品としてボールペンの開発をお願いしたい。切実にな……!
そんな現実逃避をしていても時間は待ってくれない。朝からずっと動かしっぱなしの右手が悲鳴を挙げている。明日には足腰のみならず腕も腱鞘炎になっているかもしれない。
こんな時に書記官というよりも右筆がいれば楽なんだろうが、貴族相手に向けた文書として扱うなら代筆よりも俺の直筆の方が効果が高いし、代筆を頼むにしても余程信頼のおける人物じゃないとそこから情報が漏れる懸念もある。
久々の書類仕事に目がしぱしぱしてきて、キリがいいところで一度ペンを置いて眉間を揉んだ。宰相時代は眼精疲労を軽減する眼鏡を使用していたが、生誕祭で断罪され殴られた際に壊れたし、そのまま会場に置いてきてしまった。
結構高かった上に貴重な魔道具だったのに。今更あの眼鏡を恋しく思いながらもロアール商会の者に代替品がないか頼んでいるが、「あんな珍しい物がホイホイ転がってる訳ないっしょー?」と普段商会を任せている男に渋い顔をされたのであんまり期待していない。
せめて現物があったら修理くらいなら出来たかもしれないのにと追加で文句を言われたが、格好付けの為に投げ捨ててきた手前なにも言い返せなかった。誰か拾っといてくれないかな。
「あー……目が痛い」
「あの眼鏡はどうしたんだ? 高かったが良い品だと言ってただろう」
「……聞かないでくれ」
俺の様子に首を傾げながらも、オルテガが俺の後ろに回る。何をするつもりなのかと思っていればそっと肩に触れられた。そのまま肩と首を揉み解されて思わず呻き声が漏れる。
オルテガの温かい手と絶妙な力加減のマッサージは久々の追い込み仕事で凝り固まった体に効果抜群だった。
「あー、気持ち良い……」
「あまり根を詰め過ぎるなよ」
「そうは言っても今日中に渡さないといけないから。ありがとう、フィン。もう少しだから頑張る」
「そうか……」
残念そうに呟くとオルテガが俺の背後から離れ、来客用に置いてあるソファーセットの方へと向かう。今日の彼の定位置はそこだ。俺が書き物をしている間、オルテガは図書室から持ち出してきた本を読み耽っている。
今読んでいるのは「私」が幼い頃に読んでいたこの地方の伝承を集めた民話集、というよりも童話集みたいなものだ。随分可愛らしいものを読んでいるなと思いながら嫌々手を動かす事を再開する。頑張れ俺、あと少しだ。
修正液もないのでおちおち書き損じも出来ない。そう思ってミスが無いようにと力めば力むほどミスするもので……。
新たな便箋に半分ほど書いた所で白い紙の上に、つけすぎたインクがペン先からぽたりと滴り落ちた。
「あっ」
声に出すが既に後の祭り。白い便箋の上には黒いインクの花が咲く。その様子を見て深い溜息を零して再びペンを置く。
「はー、ダメだ。少し気分転換してくる」
そう言って立ち上がろうとした俺の下半身に忘れかけていた筋肉痛が襲い掛かる。痛みに呻きながら動きを止める俺を見てオルテガが本を閉じて苦笑する。
「治癒魔法を使ったらどうだ?」
「自分に使うのは反動が大きいからあまり使いたくない」
他人に使う時や自身に使う時でも軽い擦り傷程度なら良いが、自分自身に乱用すると自家中毒のような症状を起こして余計にダメージを受ける羽目になる。宰相時代にあまりに体が辛くて自身に治癒魔法を使って酷い目に遭った。あの有様は人様にはあんまり見せたく無い。特に、オルテガには。
「どうする、庭に出るなら俺が運んでやるが」
そう言って腕を広げて見せるオルテガは楽しそうだ。筋肉痛でギシギシする体を引き摺って時間をかけながらその腕の中に収まれば、片膝の上に俺が座る形でそっと抱き締められる。
外に行くのもいいが、これだけでも十分。昨日付けていた香水の香りがしない事が少し残念だったが、四六時中あの香りを纏われたら俺の理性がダメになりそうだ。
甘えるように胸に頬を擦り寄せれば、オルテガの大きな手が俺の頬を撫でる。児戯のような触れ合いだが、俺の胸には温かなものが満ちていく。乾いた砂に水が染み込むように、オルテガが与えてくれるものは「俺」と「私」、それぞれが抱えていた孤独と願望を潤してくれる。
胸に擦り寄るのをやめて見上げれば、俺の望みを解してくれたオルテガが額に、頬に、瞼にキスを落とした。柔らかな感触が触れる度にとくりとくりと鼓動が早くなる。
……「私」は昔からオルテガの事が好きだった。されど、自分はレヴォネ家の嫡男であり、いずれは宰相を継ぐ身だ。同じ様に代々騎士団長を務めてきたガーランド家の者と婚姻する事は出来ないと、その淡い恋心を殺し続けてきた。
貴族の婚姻というのは惚れた腫れたで結べる程安易なものではない。それが、国に於いて重要な地位にある家ならば尚更。
いずれ宰相となる者と次男とはいえ代々騎士団長を務める一族の者。権力の偏りが出てしまうから、望んでも出来ない婚姻だと諦めて。
オルテガが勇退したアルトゥロの跡を引き継いで騎士団長になった時、セイアッドは完全に恋心を殺した。ただの幼馴染として、親友として共に国を護っていけるなら、「私」にとってはそれだけで十分だった。
だから、昨夜オルテガから聞いた話は本当に寝耳に水だったのだ。セオドアがそんな事を考えていたなんて知りもしなかった。もしかすると、彼なりに息子に示した愛情だったのかもしれない。
記憶の中の父セオドアはよく笑う人だ。セイアッドに良く似た顔でからからと笑いながら引っ込み思案の息子に様々な悪戯を仕掛けては笑わせてくれる、そんな人だった。
成長し、宰相を継ぐ為に父の側でその仕事ぶりを見て憧れを抱いた。こんな風になれたらと必死に努力して、勉強して……そんな矢先にセオドアは呆気なくこの世を去った。
レヴォネ領と隣合う領地で発生した黒斑病。兼ねてから別国で黒斑病に効くと言われ、レヴォネ領で育てて来た薬草の効果を確かめる為に視察に向かって、その地で感染してしまったのだ。
セオドアは最期まで自らの体で薬草の検証を行いながら死んでいった。感染するからと死に目にも会えず、遺されたのは書記官がドア越しに聞き取り書いて寄越した遺書だけだ。
その遺書にすら、主に自分の体に起きた薬効が事細かに書かれていて、残りは国の仕事についてだった。家族について遺されたのは最後の最後にほんの一言。されど、重い一言だった。
……こんな風に「私」の記憶を紐解く度にここがゲームの世界ではなく、現実に人が生きている世界なのだと思い知る。
「俺」はゲームのキャラクターとしてセイアッドを産み出したが、その父であるセオドアについてはこんなに作り込んではいない。
これは主要キャラにも物語りに関わって来ない人物にも当てはまるのだが、それぞれが皆連綿と己が人生を紡ぎ、それを次代へと繋げている。そんな当たり前の人の営みがここには確かに存在していた。ゲームで表現された時間など、その僅かな一幕でしかないのだろう。
オルテガの腕の中に収まりながら小さく溜息を零す。この熱も匂いも、本当に全て現実なのだろうか。そんな事をふと思う。
死に際に観ている長い泡沫にしては現実味が深く、現世にしてはあまりにも幻想的。
「俺」はこの世界に於いて異端の存在なのだ。そんな俺がこの世界に干渉する事で今は良くとも遠い未来がどう捻じ曲がるか分からない。だが、俺にとって重要なのは「今」だ。
セイアッドが幸せで在れば、それで良い。
ただ、現状のまま膿を抱え続ければ国が破綻する未来もあるだろう。いずれにせよ、俺が「私」がやる事は変わらない。
自らにかけられた冤罪を晴らし、逆にセイアッドを貶めた者達の罪を問う。そして、この国に巣食う毒蟲達を一掃する。
いずれ意識の主導権を「私」に返す時が来るその日まで。俺は「俺」に与えられたこのチャンスを逃す訳にはいかない。
日本に生きていた時には終ぞ叶える事が出来なかった自らの幸福。そして、「俺」の力が及ばなかったが故に不幸にしてしまったセイアッド。
この世界ならば……。
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