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39 怖かった

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「――シェリィ!」

 ソファーに押し倒され、馬乗りのハワードに口を塞がれ、涙をこぼすシェリィを見たオリヴァーは、零れ落ちるのではないかというほど目を見開く。

 その喉がひゅっと鳴ったのが聞こえたと思うや否や、次の瞬間には鈍い音と共にシェリィの上にあった重量物が消えていた。

 何かがテーブルにぶつかる音の後に、パリンパリンと瓶が床に落ちて割れる音が響く。
 どうやらオリヴァーがハワードを殴り飛ばしたらしいが、あっという間の出来事についていけない。
 拳を握り締めたオリヴァーは今まで見たこともない険しい顔をしていて、怒りを通り越して殺気すら感じるそれに、思わず身震いしてしまう。


「随分とふざけた真似をしてくれたな」
「……逢瀬を邪魔するなんて、紳士じゃありませんね」
 ガラスの欠片の中でよろよろと上体を起こしたハワードが、にやりと笑った。

 違う、逢瀬なんかじゃない。
 そう言いたいのに、言葉を紡ぐどころか体を起こすことさえままならない。

 オリヴァーに嫌われるのも恨まれるのも、仕方がない。
 でもハワードのものになったと思われるのだけは嫌なのに、言い訳すらできない自分に腹が立つ。
 オリヴァーがシェリィのそばに近付いても、何を思われているのかが怖くて、目を合わせられない。

「……もう大丈夫」

 包み込むような優しい声音に思わず顔を向ければ、オリヴァーは黒真珠の瞳を細め、そっとシェリィの頬を撫でた。
 そのまま自身の上着を脱ぐとシェリィを包み込むように着せ、抱き上げる。

「――これで済むと思うなよ」

 氷よりも冷たい声でハワードにそう告げると、そのまま研究室を後にする。
 人目の少ない裏庭を抜けて馬車に乗せられる頃には、ようやく口を動かせるようになっていた。


「わ、私……」
「無理にしゃべろうとしなくていい」

「婚約、解消……」
「しない。何があろうと絶対に、婚約は解消しない」

 震えながら必死に話すが、即答で却下された。
 更にこれ以上の訴えは受け付けないとばかりにぎゅっと抱きしめられ、困るのに安心している自分がいる。

 本当はこの温もりに縋りたいし、ずっとそばにいたい。
 でも、今は伝えなければいけないことがある。

「ハワード様、白いシレネの花の、瓶を。カッター侯爵家が……」
「カッター侯爵は関係者の容疑者リストに載っている。すぐに父さん経由で陛下に報告して、調査してもらう。だからもう、心配しなくていい」

 国王にまで報告がいけば、見逃されることもあるまい。
 もうハワードからも距離を取ったので、大丈夫。
 そう思うと緊張が解けて、再び指先が震え出した。


「こ、怖かった、です」
「ああ」

「怖かった……」
「もう大丈夫だから……泣くな」
 オリヴァーに言われて初めて、シェリィは頬を大粒の涙が伝っていることに気付く。

 話が通じない、身動きが取れない、自分の意志を無視して体を奪われそうになる。
 それがこんなに恐ろしいものだとは思わなかった。
 思い出すだけでまた震えてしまい、オリヴァーがそれを宥めるようにぎゅっと抱きしめる。

 今だけ、今だけだから。
 この震えが収まったら、きちんと身の丈に合った距離を取るから。
 そう自身に言い聞かせて、ゆっくりとオリヴァーの背に手を回す。

 抱き着くというにはあまりにも弱いその動きに、それでもオリヴァーはすぐに気が付いて、一層深くシェリィを抱きしめる。

「大丈夫、俺がついている。何も心配いらないから」

 まるで媚薬のように甘く都合の良いその言葉を浴びて、シェリィはただオリヴァーに縋りついて涙をこぼした。




 ……結局、ここに来てしまった。

 リーヴィス邸に到着したシェリィは震えこそ収まったが、酷い顔色だった。
 そこで体を温めるためにと入浴し、バーサにそのまま寝室に送り届けられたのだが、大人しく眠るわけにはいかない。

 オリヴァーにあらためて助けてくれたお礼を伝えたら、婚約解消の話を進めなければ。
 窓の外の夜空には月が昇り始め、美しい金の輝きを見ていると少し勇気が湧くような気がした。

「ああ、起きていたのか。先に寝ていても良かったのに」

 寝室にオリヴァーが入ってきたのを見て、慌ててベッドサイドに置かれた椅子に腰かける。
 本当ならきっちりと普通のドレスを着て、応接室あたりで話し合うべきだけれど、仕方がない。

「お話があります」
「わかった」

 オリヴァーがベッドに座ったけれど、その服装は先ほどと変わらない。
 てっきりオリヴァーも入浴したのかと思っていたが、違うようだ。


「さっきはありがとうございました。その……」

 心から感謝しているが、よく考えればあの状況はかなりよろしくない。
 オリヴァーに婚約解消を申し入れて逃げ出した上でハワードの部屋にいたのだから、浮気……いや、見つかった状況からして不貞を疑われてもおかしくないのでは。

「私、ハワード様とは本当に逢瀬とかではなくて」

 これでは、浮気が見つかった下手な言い訳にしか聞こえない。
 もっと理路整然と、研究成果の発表のように事実だけを伝えればいいとわかっているのに、何を言っても疑われると思ったら怖くなってしまう。

「シェリィはそんな人間じゃないとわかっている。疑ってなんかいないよ。それに無理矢理押さえつけられて泣いていたからな。同意の上じゃないことくらい、一目瞭然だ」

 無理矢理押さえつけるという言葉で一瞬あの時のことを思い出し、無意識のうちに手首をさする。
 微かに痛みを覚えて見てみると、手首には赤い筋が何本か走っている。
 恐らくハワードに掴まれた時についたのだろう。
 すると、それに気が付いたオリヴァーがシェリィの手を取り、眉を顰めた。

「跡がついているじゃないか。くそ、あいつ絶対に許さない! ……痛みはないか?」
「平気です。触らなければ何ともありません」

 オリヴァーは遠慮がちに何度か手を撫でると、シェリィの膝の上にそっと戻す。
 悔しそうに拳を握り締めたオリヴァーは、心を落ち着けるかのように深い息を吐いた。


「『偽りの愛』とカッター侯爵の件は既に父さんに報告した。ハワードの関与も確実なので、そっちにも手を回してもらうよう伝えてある。もともと容疑者リストに入っていて、侯爵には監視もついていたから、逃がしはしない」
 では、シェリィが入浴している間、オリヴァーは関係各所に連絡をしてくれていたのか。

「すみません。私だけがのんびり入浴していたのですね」
「何を言うんだ、シェリィは被害者だぞ。あんな奴のことは気にしないで、休むのが先決だ」
「ありがとうございます。……オリヴァー様が来てくれなかったら、私……」

 きっと、媚薬でも何でも使われて体を奪われていただろう。
 もう大丈夫だとわかっているのに、底知れぬ恐怖を思い出して体がびくりと震えた。

「シェリィ」

 オリヴァーがベッドから腰を浮かせて、シェリィに手を伸ばす。
 きっとこのまま抱きしめて、大丈夫だと慰めて、シェリィを安心させてくれる。
 それがわかっているからこそ、手でそれを押しとどめる。
 シェリィの意思を察してくれたのか、オリヴァーはそのままベッドに腰を下ろした。

「大丈夫ですから。……私との婚約を解消してください」
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