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第五章 真実と譲れない想い

章閑話—16 メイドと執事—6

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「オレは怒ってる。ナタリー、君にだ」
「え……」

 今までに見た事のない様な怒りを堪えた瞳を向けられ、ナタリーの心が騒めく。ズキズキと心臓が嫌な音を立てた。
 自分のせいで仕える主人を危険に晒した上、こんな風に迷惑を掛けているのだから無理もない。
 今日だって大切な予定が入っていたかもしれないのに、命じられて此処にいるのだ。
 その事が申し訳なくて、ナタリーは目を伏せると僅かに俯いてしまった。

「君はオレの大切なナタリーをいとも簡単に傷付ける」
「……は?」
「自分の身体を、下手したら命だって……いくらでも代わりがきくと言わんばかりの扱いだ! オレは……それが許せない」
「……っ……」

 思っていたものとは全く違う理由に、思わず呆けてクーラを見つめてしまった。
 そんなナタリーを見つめるクーラの眼差しがまるで乞う様に揺れている。膝の上に置いていた両手が掬い取られると、彼の手がぎゅっと握り締めてくる。その手があの日と同じくらい熱くて、ナタリーの胸が先程とは違う音を立てた。

「ナタリーがカナリア様を大切に思うように、カナリア様もナタリーを大切に思ってる! もちろんオレもだ!! だからっ……頼むから……もっと自分を大切にしてくれ——」

 悲痛な言葉と眼差しに、ナタリーの胸が苦しくなっていく。さっきまでの焦燥感とは全く違うドキドキに戸惑う。

「……心配して、くれるのね……」
「当たり前だろ! 君が倒れているのを見た時……死んでるのかと……怖かった……」
「クーラ……」

 今にも泣き出しそうな顔をして俯く彼の姿が堪らなく愛しく思えた。
 カナリアの為ならどんな目に遭っても構わないと、その思いで仕えてきた。カナリアを守れるのなら何だってするつもりだった。

 だけど……

 目の前で自分よりも自分の事を大切に思ってくれるこの人の気持ちが、くすぐったいのと同時に素直に嬉しかったのだ。

「……それが……怒ってた理由?」
「他に何があるんだ」
「……沢山迷惑を掛けてしまったから……それで……」

 ハァっと大きな溜め息を吐き出すと、再びクーラが眉毛を吊り上げる。「全っ然分かってない!」と怒られてしまった。

「迷惑だと思ってたら此処にいない。オレよりずっと看病の上手な人に代わって貰ってる。それをしないのはどう言う事かくらい、わかるだろう?」

 真剣な眼差しを寄越されて、ナタリーは頬が熱くなるのを感じた。
 顔が熱いのを自覚したまま僅かに頷くと、目を怒らせていたクーラの表情がふっと緩んだ。

「ナタリーが自分の事となるとこんなに鈍い人だとは思わなかった。それとも自己評価が低過ぎるのか?」
「そんな事言われても……こんなの……初めてで……」
「うん、初めてで良かった。だから初めてで弱ってるところにつけ込むよ。……オレは君を諦めたくない」
「……っ!」
「ナタリーの心に少しでも入り込めるなら、オレを見てくれるチャンスがあるなら、何でもする」

 真っ直ぐな想いをそのままぶつけられて、嬉しい反面やはり戸惑ってしまう。
 彼の事を好ましいと思っているのは間違いない筈なのに、どうしてもあの秘密がナタリーに重くのしかかる。
 困った様に眉尻を下げるナタリーに、クーラが穏やかな笑みを浮かべた。

「今すぐでなくて良い。ただ、考える時間を作って欲しいだけだから」
「違うの……その、貴方の気持ちはとても嬉しいの……ただ……」

 これは自分自身の問題だ。
 クーラの事は好きだと思う。彼の気持ちももちろん嬉しい。
 だけど、大きな秘密を抱えたまま、好きな人を偽ってまで、自分の信念を貫く事が出来るだろうか。
 器用な方では決してない自分が、その二つを天秤に掛ける事など出来るだろうか。

 徐に立ち上がったクーラが、ナタリーの隣に腰掛けてくる。
 肩がぶつかる程の距離に座る彼を見上げた。今度はクーラの左手がナタリーの右手を握っている。

「なぁナタリー。君を苦しめるそれは何だ?」
「!!」
「実はオレ、カナリア様に伺ったんだ。ナタリーが思い詰めたのは自分の秘密のせいだと、そう言っておられた」
「カナ、リアが……?」
「もしオレに出来る事があるなら、話してくれないか?」
「……でも……」
「無理にとは言わない。今すぐでなくとも構わない。……でも、そうする事でナタリーの心が少しでも晴れるなら、どんな事でも受け止める」
「……」
「一緒に背負うよ」

 あぁ……この人なら大丈夫だ……
 カナもきっと、そう思ったのね

「……分かった。聞いて欲しい」



 もっと驚くかと思ったのに、彼の表情はとても落ち着いていた。もしかしたら、何となく勘付いていたのかもしれない。
 この人は時に驚く程物事の機微に聡い。

「この別荘に移ったのも、人目につかず『カナリア修行』をする為だったの」
「なるほどな……これでようやく繋がった気がする」
「何か気になる事が?」
「ああ、実は…——」

 そこで初めてナタリーはクーラがカナリアに対し、漠然とした違和感を覚えていた事を知った。同時にカナリアが自分の事を気に掛け、その事をクーラに話していたという事も。
 そんな二人の想いに胸を打たれ、心を温かいものが覆っていく。
 これが愛情なのだという事はもう分かっている。

「もしもこの事が外部に漏れてアズベルト様やカナに危険が迫った時は……その時は……」

 もしまた今回の様な事が起こってしまったら……
 それが、私やクーラのせいだったとしたら……

「その時は、貴方を殺して私も死ぬわ」
「うん。ナタリーとなら本望だな」

 クーラはそう言って微笑んで見せた。
 心のどこかでそう言ってくれる様な気がしていた。
 きっとあの夢も、あの台詞も、彼だったらそう言ってくれるだろうと確信が持てる。

「ナタリーの覚悟は分かった。君が一人で背負っていたのものは、今日から半分オレが貰い受ける。だから結婚しよう」
「……っ!」

 とっくに枯れ果てたと思っていたのに、鼻の奥がツンと痛くなったかと思うと、目頭がじわじわと熱くなっていく。
 ただでさえ酷い顔をしているだろうに、彼は真っ直ぐ私を見つめて、なんの躊躇いもなく言い切った。

「……きっと私はクーラを一番にしてあげられないわ」
「そんな事、最初から分かってる」
「何かあったら、貴方よりカナリアを優先してしまうわ」
「そうだろうな」
「……私なんか……何の価値も無いのに……」
「そんな事ないさ。オレは、ナタリーの真っ直ぐで責任感が強くて世話焼きで気が利いて忠誠心が強くてクールなクセに照れ屋で優しくてカッコ良くてカナリア様を死ぬほど大事にしてて——」
「ちょっ、もういい!! もう!! そう言う事じゃ無いのに!」

 澱みなく出てきた台詞に頬を赤らめながら抗議する。家柄の事を言ったのにと言うと、クーラは笑いながら分かってると頷いた。

「オレはそのままのナタリーが好きだから、ずっとそのままでいい。家とか爵位とか、そんなのは関係ないよ」

 頬が……身体中が熱い。目の奥もずっと熱くて、とうとう瞬きをしたら涙が溢れてしまった。
 昨日から彼の前で泣いてばかりだ。でもそれはきっと、彼の前だから……なのかもしれない。

「今日から泣き虫も追加だな」

 そう言った彼がハンカチで目元を押さえてくれた。そのハンカチを受け取ると、彼がそっと抱き寄せてくる。
 彼の中にすっぽりと収まる。心臓がうるさくて、恥ずかしくて……なのにびっくりするくらい心地良くて、何より安心感があった。
 温かくて、涙は益々止まらない。

「君はカナリア様の事になると平気で無茶をする。その無茶を無茶だと思ってない。……だから、君が傷付きすぎないように、オレが止める。……一番じゃなくていい。だけど、一番側にいさせて?」
「きっと……っ、後悔、する……」
「まさか! する訳ない。オレの愛の深さを舐めるなよ?」

 ……逃げ出せそうもない……

 なんて、そんな気はさらさら無いくせに、自分で可愛くないなと思ってしまう。
 もっと素直にならないと、いい加減愛想をつかされてしまうだろうか。

「…………すき」
「…………え?」
「!!」

 ありがとうって言いたかったのに、思わず零れてしまったそれに自分で驚いた。
 クーラが身体を離そうとしたのが分かって、慌てて首にしがみつく。今顔を見られのは、今までのどんな醜態よりも恥ずかしい。

「え、待って……ナタリー、今何て? オレの聞き間違い、かな? ……え?」

 私の背中に腕を回したまま、クーラがパニックに陥っている。
 恥ずかしくて居た堪れなくて、今すぐ布団に潜ってしまいたかったが、今言った事を否定だけはしたくなかった。

「……奥さんに……なりたい……です……」

 どう答えていいのか分からず、ありったけの勇気を振り絞る。
 返事は待つと言ってくれたけど、自分の中で答えはもうとっくに出ていたのだ。
 散々醜態を晒して、嫌なところを見せてきて、これ以上返事まで待たせたら、今度こそ彼が心変わりしてしまうかもしれない。
 そんなのは絶対に嫌だ。
 こんな私でもありのままで良いと言ってくれたこの人に。私の全部を受け止めてそれでも笑ってくれるこの人と。
 私が一緒に居たいと、そう思ってしまったから。

 ぎゅっと抱き締める腕に力を込めながら、「聞こえなかったからもう一回言って」とニヤけた声で言うその声は、聞こえないフリをした。
 彼の首筋に顔を埋めて、引き離されないよう必死にしがみつく。
 彼も彼で隙あらば引き離そうと、もう一度言わせようと思考錯誤してくる。


 幸せだな

 なんて、思ってしまった。
 こんなくだらないやり取りでも、些細な事でも、こんな事が幸せなんだなぁと。
 好きな人に愛されるって幸せな事なんだなと。
 今なら、カナリアの気持ちがわかる気がした。
『どんな姿になっても』と言って、微笑んでいた彼女の想いが。

 今はもう少しこの幸せを噛み締めていたくて、抱き締める腕を解いて欲しくなくて、しがみつく腕を少しだけ強くした。
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