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12.伝えたいことの尊さ
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誰かが去っていきそうな時に、どうにかすることをやめたの。
父がベトナムへ旅立つことを告げた日、私はどうにかしようとしたの。
まだ中学三年生で、親が子供を置いて夢に走ってしまうなんていうことに対して、確実に拒否ができる権利があると思っていた。
父がしようとしていることの異常さを、感情をむき出しにして説く。
説いた声は、目を細めて遠くを見るように微笑む父の前で、物体に当たって砕け散った雪玉のように。
きらきらと。父に届くこともなく。きらきらと。
自分たちが父にとって、声も届かないほどの存在になってしまったこと。
誰かが何かに夢中になった時に、その対象が自分ではなかった時に、何を言う必要がある?
去る者が耳を澄ますのは、去り行く方に向けて。
背中を向けられた私は、感情をむき出しにした分だけ傷ついてしまう。
背後から雑音が聞こえるなんて、思われたくない。
思い返せば透也先輩が去ってしまった時も、口をつぐみ。
そして汐崎さんが去ってしまう今も……、汐崎さんと両想いだったわけでも何でもないけれど。
私のことを「佳代ちゃん」として見てくれていた汐崎さんはもういない。
彼が私のことを見るフィルターに少なからず「気になる人の妹」という透明な膜が加わった。
悲しいけれど、花火の魔法をかけてくれた汐崎さんはもう。
いない。
過去に歩んできた日々の道のりをなぞるように。
足はその扉の前に身を運ぶ。
きっと彼女なら私の存在に気づいてくれるだろうと。
何の合図もなしにその扉は開く。
「こんばんは」
十年越しの彼女に夜の挨拶をして、笑む。
「こんばんは」
彼女、403号室のお姉さんは突然の来訪を何のためらいもなく受け入れてくれる。
まるで、ずっと前からこの日ここに来ることが約束されていたような。
クリーム色で統一された長袖とロングスカートが、背中に広がる暗い廊下から淡く浮かび上がっている。
あなたがまだここにいてくれて良かったと、16歳の私と26歳の私が一瞬重なった。
「失恋してたんです」
部屋の中には、本来あるべきはずの明るさはない。
柔らかな暖色の間接照明が、お姉さんの不思議な生活を守る。
「本当は、『好き』だと思った瞬間からずっと」
もてなしの鮮やかな赤いワインに、十年前の赤い紅茶が思い出され、大人になったんだと思う。
「でも、好きでいる状態が心地よくて。『失恋』していることに気づくことを先延ばしにしてたんです」
汐崎さんには、こちらからは見えない場所に奥さんと子供がいた。どう考えても事実だった。
「相手にされてたら、どうしたの?」
お姉さんの前にも、ワイングラスの中で微かに揺らめく紅い波。
「相手にされてたら、どうしたんだろう。でも、どうしても想像ができないな……それは」
ただ私の願望は、女として相手にされたいというものではなかった。
その日その日で、汐崎さんがどういう瞬間に私に笑ってくれるのか。
どういう言葉を私と交わしてくれるのか。
どれくらいの時間を私と共有してくれるのか。
日々儚く消えてしまう汐崎さんの表情や言葉、すべてを忘れたくないと。
一人になった時に好きな気持ちを反芻して、消えてしまう愛おしいものすべてを心の中で再現した。
「『失恋』を受け止めたのは、その人が私の姉に興味を持っている姿を目にしてしまったからなんです。その人がどういうつもりかは、分かりません。姉のいるカフェにはあれから何度か通ってるみたいで。ただの知人として話したいだけなのか、……女の人として興味があるのか。でももし女の人として惹かれてしまったのなら、そしてもし姉もその人に惹かれてしまったのなら、少なからず姉は傷つきます」
姉が今まで本気で人を好きになった話は知らない。
自分と私のためにカフェの経営に日々を捧げてきた姿しか、私は知らない。
もし姉が人を好きになったなら、全力で応援したいのに。
どうして汐崎さんの可能性が出てくるのだろう。
私の好きな人であり、姉が傷つくことが分かっている人。
「あなたのお姉さんが傷つく前に、あなたが傷ついてるでしょう?」
間接照明の下、目が合う。
「……はい、でももういいんです。好きな人に何か夢中なものができた時、何を言っても、変わらないんです。昔から」
呑み込んできたの、傷を。昔から。
「変えることが目的なの?」
ふと、照明以外の光を肌に感じた。
凛とした青白い空気が窓硝子を通して滲にじみ、壁際に飾られた白い花を浮かび上がらせた。
あれは、当時もらったポストカードに咲いていたWhite ginger。
花嫁を祝福する花。
今、どんな想いで、この花と生きて……
「何も変えられない“伝えたいこと”の尊さを」
暗く長かった夜が。
「知ってみたら?」
明けていた。
父がベトナムへ旅立つことを告げた日、私はどうにかしようとしたの。
まだ中学三年生で、親が子供を置いて夢に走ってしまうなんていうことに対して、確実に拒否ができる権利があると思っていた。
父がしようとしていることの異常さを、感情をむき出しにして説く。
説いた声は、目を細めて遠くを見るように微笑む父の前で、物体に当たって砕け散った雪玉のように。
きらきらと。父に届くこともなく。きらきらと。
自分たちが父にとって、声も届かないほどの存在になってしまったこと。
誰かが何かに夢中になった時に、その対象が自分ではなかった時に、何を言う必要がある?
去る者が耳を澄ますのは、去り行く方に向けて。
背中を向けられた私は、感情をむき出しにした分だけ傷ついてしまう。
背後から雑音が聞こえるなんて、思われたくない。
思い返せば透也先輩が去ってしまった時も、口をつぐみ。
そして汐崎さんが去ってしまう今も……、汐崎さんと両想いだったわけでも何でもないけれど。
私のことを「佳代ちゃん」として見てくれていた汐崎さんはもういない。
彼が私のことを見るフィルターに少なからず「気になる人の妹」という透明な膜が加わった。
悲しいけれど、花火の魔法をかけてくれた汐崎さんはもう。
いない。
過去に歩んできた日々の道のりをなぞるように。
足はその扉の前に身を運ぶ。
きっと彼女なら私の存在に気づいてくれるだろうと。
何の合図もなしにその扉は開く。
「こんばんは」
十年越しの彼女に夜の挨拶をして、笑む。
「こんばんは」
彼女、403号室のお姉さんは突然の来訪を何のためらいもなく受け入れてくれる。
まるで、ずっと前からこの日ここに来ることが約束されていたような。
クリーム色で統一された長袖とロングスカートが、背中に広がる暗い廊下から淡く浮かび上がっている。
あなたがまだここにいてくれて良かったと、16歳の私と26歳の私が一瞬重なった。
「失恋してたんです」
部屋の中には、本来あるべきはずの明るさはない。
柔らかな暖色の間接照明が、お姉さんの不思議な生活を守る。
「本当は、『好き』だと思った瞬間からずっと」
もてなしの鮮やかな赤いワインに、十年前の赤い紅茶が思い出され、大人になったんだと思う。
「でも、好きでいる状態が心地よくて。『失恋』していることに気づくことを先延ばしにしてたんです」
汐崎さんには、こちらからは見えない場所に奥さんと子供がいた。どう考えても事実だった。
「相手にされてたら、どうしたの?」
お姉さんの前にも、ワイングラスの中で微かに揺らめく紅い波。
「相手にされてたら、どうしたんだろう。でも、どうしても想像ができないな……それは」
ただ私の願望は、女として相手にされたいというものではなかった。
その日その日で、汐崎さんがどういう瞬間に私に笑ってくれるのか。
どういう言葉を私と交わしてくれるのか。
どれくらいの時間を私と共有してくれるのか。
日々儚く消えてしまう汐崎さんの表情や言葉、すべてを忘れたくないと。
一人になった時に好きな気持ちを反芻して、消えてしまう愛おしいものすべてを心の中で再現した。
「『失恋』を受け止めたのは、その人が私の姉に興味を持っている姿を目にしてしまったからなんです。その人がどういうつもりかは、分かりません。姉のいるカフェにはあれから何度か通ってるみたいで。ただの知人として話したいだけなのか、……女の人として興味があるのか。でももし女の人として惹かれてしまったのなら、そしてもし姉もその人に惹かれてしまったのなら、少なからず姉は傷つきます」
姉が今まで本気で人を好きになった話は知らない。
自分と私のためにカフェの経営に日々を捧げてきた姿しか、私は知らない。
もし姉が人を好きになったなら、全力で応援したいのに。
どうして汐崎さんの可能性が出てくるのだろう。
私の好きな人であり、姉が傷つくことが分かっている人。
「あなたのお姉さんが傷つく前に、あなたが傷ついてるでしょう?」
間接照明の下、目が合う。
「……はい、でももういいんです。好きな人に何か夢中なものができた時、何を言っても、変わらないんです。昔から」
呑み込んできたの、傷を。昔から。
「変えることが目的なの?」
ふと、照明以外の光を肌に感じた。
凛とした青白い空気が窓硝子を通して滲にじみ、壁際に飾られた白い花を浮かび上がらせた。
あれは、当時もらったポストカードに咲いていたWhite ginger。
花嫁を祝福する花。
今、どんな想いで、この花と生きて……
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「知ってみたら?」
明けていた。
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