陽だまりに廻る赤

小春佳代

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11.埴

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以前からあなたに、毒のような何かを感じていたのは事実だ。

 僕に対する必要以上の接近や視線、書店員でありながら小説を軽んじた態度、そして十年前のやり取りがまるで誘い出されたかのようなあの先日の出来事。

 あなたは一体。

「はにくん」

 今日もまた妙に似合う臙脂色のエプロンに身を包み、肩のあたりで優しくカールされた栗色の髪を揺らしながら、本棚に挟まれた通路を自身が有する城の廊下のように凛として歩いて来るんだ。

 僕の名前を口にしながら。

「はにくん」

 いつもいつの間にか近づいている。

「遠野さん、この前は……すみませんでした」

 あの豪雨の日、共に勤務しながら話をすることができなかった。

 いや、ただ動揺していて避けていただけかもしれない。

「え、違うの、謝って欲しくて話しかけたわけじゃないの」

 カールされた毛先から光り落ちる滴が、僕の脳裏をかすめる。

「私は……」

 突然言葉は途切れ、漆黒の瞳は動きを失った。

 瞳は僕を通り越して何かを捉えている。

 僕は。

 唾を飲んだ。

 もしかしたら、とうとうその時が、来たのかもしれない。

 僕を通り越す漆黒の瞳の先へ振り返る。

 本棚の端から控えめに顔を覗かせる若い女の子。

「彼女でしょ」

 今まで聞いたことのない、冷えた地底に張られた根のようにどこまでも深く低い、ただ確実にあなたの声が、真後ろから僕の心臓を刺した。

 僕の彼女は僅かに肩を上げて僕の視線を受け止め、片手に持っている物を小さくアピールした。僕の携帯だ。忘れてしまっていたらしい。

 何せさっきまで、彼女の家で会っていたのだから。

 そしてその彼女だけを目で捉えながらもあなたにも何か言わなければと、喉を震わせようとしたが、口内の空気の塊が拒む……。

 もなかった。

「ママ」

 それは僕の背後、やけに現実的な天使の声がしたんだ。

「ちいちゃん!どうしたの?」

 あなたの自然な声色が物語る。

 ああ……。

 あの日のセーラー服姿のあなたが、硝子のパズルの絵柄となって微笑んでいる。
 それが遙か高いところで絵画のように、無機質な空中に浮かんでいるんだ。
 しばらくするとスカートの辺りのピースから、はらりはらりと地面に向かって落ち出した。
 それが地面に触れた瞬間に、無音の世界でスローモーションに輝く硝子粉を舞い散らす。

 僕の想いは終わりだ。



「買い物のついでに、どうしてもこれを見せたいって聞かなくてね」

 遠野さんの母親とおぼしき女性が、困ったような顔をしながら工作を手に持つ幼い女の子の後に続いた。

「あんまりここに来て欲しくないのは知ってたけど、さすがに携帯はいるでしょ?」

 前々から周りにとやかく言われるのが嫌で、バイト先に来ることをなんとなく遠慮してもらっていた僕の彼女が、凄まじいタイミングで忘れ物を届けてくれた。

「ありがとう」

 僕と遠野さんはそれぞれの相手に向けて感謝を述べる。

「じゃあママ、バイバ~イ!お仕事頑張ってね~!」
「今日また電話するね」

 僕と遠野さんのそれぞれの相手は、まるで日常の一場面のようにその瞬間を終えようとしていた。

 残された二人は無言で次の言葉を待つ。

 それは自分から相応しい言葉が湧き出てくるのを待っているのか、それとも何でもいいから相手から何か発されるのを待っているのか、もはや分からなかったが。

「母親なの、私」

 媚びは消え失せていた。

「でも、はにくんに近づいたのは」

 僕の陽だまりだった遠野さん。

「もう一度、昔みたいに」

 切実に廻る赤い毒の成分が。

「『綺麗です』って言って欲しかったから」

 明かされる。
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