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君がこの世界からいなくなっていた数年間、普段は心の奥底にいた面影が、不意に姿を現す時があった。
雑踏の中、面影がスカートを揺らしながら俺の前を歩き、こちらを振り返ろうとした瞬間に。
消えるんだ。
そして思う、一体この世界のどこにいるのか、いないのかさえ、分からないけど。
どうか今、君が笑っていますように、と。
時折背中から聞こえてくる、泣き残りのような鼻をすする音に、俺は理沙がずっと笑顔で耐えていたんだということを思い知らされる。
行きと同じように理沙を荷台に座らせて、闇にかくまわれるように俺らは次の場所に自転車を走らせた。
そう最初、君を連れ去ろうとペダルに足を掛けた時は、両親によって傷ついたであろう心を癒してあげたかったんだ。
十七歳の俺が思いつく精一杯の逃亡劇。
竹筒の器に綺麗におさまっていた抹茶パフェ、生い茂る緑を背景に車と競うように漕いだ坂道、『春のシュト―レン』と謳うたう旗を目にした信号待ち。
「親友の恋人とキスをしたの」と告白させてしまった、橙だいだい色の光と共に揺らめく海。
君が傷ついていたのは、両親によって子に与えられた罪深い行いなんかではない。
シュト―レンが引き金になった、親友への裏切りという自分の罪だったんだ。
俺は今、何度も何度も踏み込むように自転車で前方に進みながら、背中越しに存在する理沙の気持ちや過去をひとつずつ噛み砕いていく。
あの日起こったことをアニカが知ってしまったかどうかは、俺は知らない。
俺が知っているのは、あの後すぐ、もともと心臓が悪かったお祖母さんが亡くなり、理沙はドイツに残ることを選ばなかったということだけだ。
何が起こるか分からないと覚悟していたかもしれないにしても、お祖母さんの死は理沙の傷口をどうしようもなく深めていったに違いない。
そして日本に、俺のもとに帰って来た。
俺が今の君に見せてあげられるものは、パフェでも海でも、何でもなかった。
美しくない、現実を。
「懐かしいね……」
理沙にとってはどういう思いが残る場所なんだろう。
ようやく俺らは、短くて長い旅路を終えようとしていた。
色褪いろあせたレンガで囲まれた、闇夜に息をひそめているかのようなお屋敷をぼんやり眺める理沙。
「今は老夫婦が住んでるよ」
「そっか……」
幼い頃から二人で過ごした庭、両親と衝突したであろうリビング、秘密を覆い隠すかのように存在する木々。
レンガの外側から見えるわけではないけれど、きっと理沙の目には、脳裏には、この家の中のありとあらゆる場所の記憶が。
でも俺が見せたかったのは、ここじゃない。
「理沙、父さんが仕事から帰って来たら車で送ってもらおう」
「え?いいよ、電車で帰るよ」
「もうすぐ帰って来るからさ」
そう言って俺は、お屋敷の隣家である我が家に自転車を停める。
「うん……ありがとう」
「いいって、いいって」
そして玄関の鍵をカバンからおもむろに取り出し、カチャリと音を立てた。
「あれ?おばさんは?」
俺は返答もせずにドアを開け、乱雑に脱がれている数足の靴を避けるようにして家に上がった。
「今夜はお出かけなのかな……?」
理沙もそんな俺に遅れまいと、何か違和感を抱きながらも後ろからついてくる。
パチン
リビングの電気をつけた途端に、浮かび上がる現実と言葉を失くした理沙。
キッチンのシンクにたまった数々のコップと食器、ダイニングテーブルには汁が残されたカップラーメンの容器に飲み干されて転がる缶ビール、畳まれずにソファに積まれたままの洗濯物、床に落ちたまま拾われないチラシや新聞、中身が溢れそうなゴミ箱。
「掃除は毎日しないとなーって、分かってるんだけど」
言い訳めいたことを呟き、ゆっくりと理沙の方を見た。
「一カ月前ぐらいに、母さんが出て行ったんだ」
青い目が大きく開く。
「お菓子教室の先生を好きになったんだって」
そう言い終えて、ふうと息を吐いた。
「もうずっと前の話、理沙がいなくなって俺がへこんでた頃に母さんが言ったんだよ」
なんとなく、視線を外す。
「私がシュト―レン作ってあげるから、って」
理沙の体が僅わずかに震えた。
「それで、柄にもなくお菓子教室通い始めて、たぶん最初の数年間は何にもなかったんだろうけど、何のきっかけか、そういうことなって」
散らかる床に目線を落とすが、焦点が合わない。
「シュト―レンなんかどうでも良かったのに。今までは理沙の母さんが作ってくれてたっていうだけで、別に一生食べられなくても良かった。それなのに、お菓子教室なんて行くから……。俺、許すとか、許さないとか、よく分からないんだ。いや、まず、そんな立場なのか、って。……とにかくはっきりしているのは」
ようやく、また理沙を見る。
「俺にとってはいい母さんだったんだ」
青い目が、俺の心の奥の奥の方まで、ただ、真っ直ぐに。
「確かに俺は傷ついた。母さんが別の人のところに行ってしまったことに、家族として、勝手に傷ついた。でもたぶん傷つけた方も、不可抗力なほどの想いを抱えていたかもしれない……」
時計の秒針音が、空白を刻む。
「そう、全てが不可抗力だったなら、仕方ない。だからこそ傷ついた方は、誰かや何かの存在によって、いつかは癒えるようになってるんだと思う」
こんなのは自論に違いない。正論なんか分からない。何事も前向きに捉えるのが正解だなんて思わない。
だけど。
「俺は理沙が帰って来てくれたから、元気が出てきたよ」
これだけは真実。
そして。
「理沙の辛そうな顔を見て、母さんももしかしたらすごく辛かったんじゃないかって、思った」
綺麗ごとかもしれないけど。
「でも母さんには寄り添ってくれる相手がいるし、いいんだ、もう」
思いの限りを伝え終えた。
「だから理沙、帰って来てくれて、ありがとう」
ぺたん……と、その場に正座を崩したかのように座り込む理沙。
「だめだ……、敵わないな」
「え、何が?」
俺も目線を合わせるようにしゃがんだ。
「あの呪文よりも効いたよ」
「呪文って……」
記憶の中、幼き日の二人が向かい合っている。
アイン
ツヴァイ
ドライ
ほら、もう大丈夫でしょ?
雑踏の中、面影がスカートを揺らしながら俺の前を歩き、こちらを振り返ろうとした瞬間に。
消えるんだ。
そして思う、一体この世界のどこにいるのか、いないのかさえ、分からないけど。
どうか今、君が笑っていますように、と。
時折背中から聞こえてくる、泣き残りのような鼻をすする音に、俺は理沙がずっと笑顔で耐えていたんだということを思い知らされる。
行きと同じように理沙を荷台に座らせて、闇にかくまわれるように俺らは次の場所に自転車を走らせた。
そう最初、君を連れ去ろうとペダルに足を掛けた時は、両親によって傷ついたであろう心を癒してあげたかったんだ。
十七歳の俺が思いつく精一杯の逃亡劇。
竹筒の器に綺麗におさまっていた抹茶パフェ、生い茂る緑を背景に車と競うように漕いだ坂道、『春のシュト―レン』と謳うたう旗を目にした信号待ち。
「親友の恋人とキスをしたの」と告白させてしまった、橙だいだい色の光と共に揺らめく海。
君が傷ついていたのは、両親によって子に与えられた罪深い行いなんかではない。
シュト―レンが引き金になった、親友への裏切りという自分の罪だったんだ。
俺は今、何度も何度も踏み込むように自転車で前方に進みながら、背中越しに存在する理沙の気持ちや過去をひとつずつ噛み砕いていく。
あの日起こったことをアニカが知ってしまったかどうかは、俺は知らない。
俺が知っているのは、あの後すぐ、もともと心臓が悪かったお祖母さんが亡くなり、理沙はドイツに残ることを選ばなかったということだけだ。
何が起こるか分からないと覚悟していたかもしれないにしても、お祖母さんの死は理沙の傷口をどうしようもなく深めていったに違いない。
そして日本に、俺のもとに帰って来た。
俺が今の君に見せてあげられるものは、パフェでも海でも、何でもなかった。
美しくない、現実を。
「懐かしいね……」
理沙にとってはどういう思いが残る場所なんだろう。
ようやく俺らは、短くて長い旅路を終えようとしていた。
色褪いろあせたレンガで囲まれた、闇夜に息をひそめているかのようなお屋敷をぼんやり眺める理沙。
「今は老夫婦が住んでるよ」
「そっか……」
幼い頃から二人で過ごした庭、両親と衝突したであろうリビング、秘密を覆い隠すかのように存在する木々。
レンガの外側から見えるわけではないけれど、きっと理沙の目には、脳裏には、この家の中のありとあらゆる場所の記憶が。
でも俺が見せたかったのは、ここじゃない。
「理沙、父さんが仕事から帰って来たら車で送ってもらおう」
「え?いいよ、電車で帰るよ」
「もうすぐ帰って来るからさ」
そう言って俺は、お屋敷の隣家である我が家に自転車を停める。
「うん……ありがとう」
「いいって、いいって」
そして玄関の鍵をカバンからおもむろに取り出し、カチャリと音を立てた。
「あれ?おばさんは?」
俺は返答もせずにドアを開け、乱雑に脱がれている数足の靴を避けるようにして家に上がった。
「今夜はお出かけなのかな……?」
理沙もそんな俺に遅れまいと、何か違和感を抱きながらも後ろからついてくる。
パチン
リビングの電気をつけた途端に、浮かび上がる現実と言葉を失くした理沙。
キッチンのシンクにたまった数々のコップと食器、ダイニングテーブルには汁が残されたカップラーメンの容器に飲み干されて転がる缶ビール、畳まれずにソファに積まれたままの洗濯物、床に落ちたまま拾われないチラシや新聞、中身が溢れそうなゴミ箱。
「掃除は毎日しないとなーって、分かってるんだけど」
言い訳めいたことを呟き、ゆっくりと理沙の方を見た。
「一カ月前ぐらいに、母さんが出て行ったんだ」
青い目が大きく開く。
「お菓子教室の先生を好きになったんだって」
そう言い終えて、ふうと息を吐いた。
「もうずっと前の話、理沙がいなくなって俺がへこんでた頃に母さんが言ったんだよ」
なんとなく、視線を外す。
「私がシュト―レン作ってあげるから、って」
理沙の体が僅わずかに震えた。
「それで、柄にもなくお菓子教室通い始めて、たぶん最初の数年間は何にもなかったんだろうけど、何のきっかけか、そういうことなって」
散らかる床に目線を落とすが、焦点が合わない。
「シュト―レンなんかどうでも良かったのに。今までは理沙の母さんが作ってくれてたっていうだけで、別に一生食べられなくても良かった。それなのに、お菓子教室なんて行くから……。俺、許すとか、許さないとか、よく分からないんだ。いや、まず、そんな立場なのか、って。……とにかくはっきりしているのは」
ようやく、また理沙を見る。
「俺にとってはいい母さんだったんだ」
青い目が、俺の心の奥の奥の方まで、ただ、真っ直ぐに。
「確かに俺は傷ついた。母さんが別の人のところに行ってしまったことに、家族として、勝手に傷ついた。でもたぶん傷つけた方も、不可抗力なほどの想いを抱えていたかもしれない……」
時計の秒針音が、空白を刻む。
「そう、全てが不可抗力だったなら、仕方ない。だからこそ傷ついた方は、誰かや何かの存在によって、いつかは癒えるようになってるんだと思う」
こんなのは自論に違いない。正論なんか分からない。何事も前向きに捉えるのが正解だなんて思わない。
だけど。
「俺は理沙が帰って来てくれたから、元気が出てきたよ」
これだけは真実。
そして。
「理沙の辛そうな顔を見て、母さんももしかしたらすごく辛かったんじゃないかって、思った」
綺麗ごとかもしれないけど。
「でも母さんには寄り添ってくれる相手がいるし、いいんだ、もう」
思いの限りを伝え終えた。
「だから理沙、帰って来てくれて、ありがとう」
ぺたん……と、その場に正座を崩したかのように座り込む理沙。
「だめだ……、敵わないな」
「え、何が?」
俺も目線を合わせるようにしゃがんだ。
「あの呪文よりも効いたよ」
「呪文って……」
記憶の中、幼き日の二人が向かい合っている。
アイン
ツヴァイ
ドライ
ほら、もう大丈夫でしょ?
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