注ぐは、水と

小春佳代

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「みなさん聞いてください。この部屋には生き物の絵がたくさんあります。また園に帰ったらどんな絵があって、どう思ったのか聞きますので、絵をよく見てくださいね。あと、絵を触ってはいけませんよ。分かりましたか?」

園児たちの従順な返事が響く。

この広い部屋は比較的幼い子たちでも楽しめるように、生き物の絵画で占められているとのこと。最も、年少という年齢で言われた通りに大人しく鑑賞できるのは、この園に鍛えられたためなのだろうが。

園児たちは絵画の前で、思い思いに生き物を発見している。

私はふと行動が心配になった真人くんの姿を探す。

「せんせえ」

振り向くとそこに本人がいた。

「せんせえ、ぼく今日大人しいでしょお?」

予想してなかった言葉に少し目を丸くした。

「れまちゃんに『今日は大人しいねえ』って言われちゃったんだあ」

へへへといたずら混じりに笑う姿に心がきゅうとなる。

いつも大人しかったら退園なんて話にならな……結局自分も大人の都合を押し付けるのか。

「絵を見るのが楽しいからかな?」

うーん、と子供なりに考えて。

「それもあるけど、みんなが楽しそうだからかなあ」

「え?」

「今日はみんなが楽しそうだから、僕が笑わせなくてもいいんだよお」

無意識に両手で口を覆っていた。

この子がいつも暴れていたのは。

大人の圧力に押しつぶされそうになっている友達を笑わせるためだったんだ。

「ねえ、せんせえっ、カエルだあ」

話題をくるりと変えられ、差された指の方向を見ると、そこにはカエルの絵があった。

白い雲が浮かぶ薄水色の空の下、黄緑が鮮やかな草原くさはらに一匹のカエル。

遠くの空を見つめる目は物悲し気で、口元は微笑むことを忘れてしまったかのようだ。草原の色がところどころに淡く空に混じる。

真人くんが言葉を続ける。

「どうして悲しそうなんだろお」

これは。

「カエルなのに、跳べないのかなあ」

私だ。

ねえ、あの日、私のこと、カエルになれたって言ったよね?

でもね、私、ずっと跳べなかったの。

どこにも行けずに、周りに合わせて、毎日を。

毎日を。

「ねえ、せんせえ、次の絵見ようよおー」

服の裾を引っ張る真人くんを思わずぎゅっと抱きしめた。

「私が、守るからね」

必要以上の指導をする園の空気を変える力は私にはない。

だけど、だけど、頑張っている子供たちの心に私が水を注ぐの。

命に水を注ぐの。

不意に心を疼うずかせたのは、与えることで自分を満たしていただけだった彼の冷たい記憶。

私が注ぐのは優しさだけじゃない。

私は、子供たちが大好きなの。

私が、私が注ぐのは。

注ぐのは、水と、愛。
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