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第1章 「頭痛」の謎
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目覚めるとぼんやりと、天井と覗きこむ顔が見えた。
メガネが掛けられ、視界がくっきりする。他人にメガネを掛けさせてもらったのは初めてだったので、なんだか気恥ずかしかった。
「ごめんなさいね。露天風呂だったとはいえ長いこと湯に浸かっていたからのぼせてしまったのね。湯あたりでないとよいのだけれど」
「俺、湯あたりしたことないんで大丈夫ですよ。ここは……」
「ここはね、わたしの部屋。きみには『牡丹の間』と言った方がわかりやすいのかな。肇さんがここまで運んでくれたのよ」
どうやら、気を失ってしまったようだ。
そのせいだろうか、いつもとは見え方が若干違うような感覚を抱いた。
「肇さんって、男湯にいたおじいちゃんのことですか」
「ええそうよ。食堂で会って意気投合したの。同じ職業だったから話に花が咲いてね、それでカップ酒ふたつでわたしの仕事を手伝ってもらったの」
俺は掛け布団を押し退け、上体を起こした。
「今、何時ですか」
「23時をちょっと過ぎたくらいよ」
だとすると20分くらい気を失っていたことになる。
「自己紹介がまだだったわね。わたしの名前は渡良瀬鏡子。優秀なメガネ屋よ。それとわたしのことはお姉さんって呼んで構わないから」
つっこみどころが多い自己紹介だ。
長く艶のある黒髪に黒縁のメガネ。
化粧っ気はないがかなりの美人で、温泉浴衣に紅色の茶羽織姿が妙に艶めかしい。
年齢は俺よりだいぶ上だろう。
「俺は九頭竜蒼志。19歳。弟とは半年近く話をしていなかったんでその……なにも知りませんでした」
「急に押しかけてきたのはわたしのほうだからね。明日ちょうどこの近くの家に仕事で行くことになっていたから、挨拶しておこうと思ったの。よろしくね、蒼志くん」
「こちらこそよろしくお願いします。渡良瀬さん」
やはり、お姉さんなどとは呼べない。
あとで弟には確認がてら説教でもしておこう。俺にはいまだ彼女がいないというのに。
「でもどうして風呂場で視力検査だったんですか?」
渡良瀬さんの視線が泳ぐ。
「えっと、それは一度もやったことがなかったから……かな。それに浴場で欲情って響きがどうにもいいでしょう」
急に親父ギャグですか。
「決して、欲情はしてませんよ」
禁止されるほど見たくなるのがカリギュラ効果だ。それにあの状況なら誰だって――話題を変えよう。
「視力検査の結果はどうだったんですか。あっさり終わってしまいましたけど」
――長い沈黙のあと、低い声色で「最悪」と告げられた。
検査らしい検査はほとんどしていないはずだと思うのだが――まさかこのあと水晶玉とかお守りとかを買わされる展開だったりして。
「なによその疑った目は。蒼志くんは過矯正のメガネを使っていたのよ」
「……過矯正……」
「分からないわよね。それじゃあ、お姉さんが優しく教えてあ・げ・る」
専門用語なのだからわからなくて当然だ。
「過矯正というのは遠くがよく見える矯正のことで、遠くが見えすぎちゃうと言ったほうがわかりやすいかもしれないわね。よいことのよう聞こえるかもしれないけど、これだと近くのものを見るとき必要以上に目の筋肉を使ってしまい眼精疲労になりやすいの」
渡良瀬さんは、ゆっくりと丁寧に教えてくれた。
それにしても、本当にあの簡単な視力検査だけでわかったというのか。それも携帯画面越しにだぞ。
「つまりは疲れ目から頭痛が起きていたということになるわね。原因がわかってよかったでしょう」
「ちょ、ちょっと待ってください。俺、頭痛に悩んでるなんて言いました?」
「療養でここにいると言っていたし、それに今日一日蒼志くんの働きぶりをこっそり観察していたから」
観察されていることには全然気付けなかったが、俺はこの原因不明の頭痛のせいで浪人生となったと言っても過言ではないのだ。彼女の話が本当なら、温泉療養も大自然の癒しも結果的には効果がなかったことになるな。
「残念ながらメガネは万能ではないの。極端な話、遠くを見るのには遠用メガネが必要だし、近くを見るのには近用メガネが必要なのよ」
「なら、2本のメガネを使いわける必要があったんですか?」
「まぁ、それもひとつの選択肢ね。蒼志くんの場合はもっとよい解決法があるわ」
「ぜひ教えてください」
いつの間にか、前のめりになって訊いていた。
「くっきり見える完全強制度数のメガネではなく、ほどよく見える少し弱めの度数のメガネを使えばよいのよ」
思い返せば、頭痛に悩まされ始めたのもこのメガネを買った一年前からだ。
辻褄が合う。
たしかこのメガネを買うとき、できるだけよく見えるようにと店員さんに頼んだのは俺自身だった。黒板の文字が見づらいと感じていたからに他ならない。それに、視力はだんだん悪くなると思っていたから、よく見えるメガネのほうがお得だと勘違いもしていた。例えるなら成長を見越して少し大きめの服を買う感覚だ。結局、俺の誤った判断で過矯正のメガネを選択し、自ら頭痛に悩まされていたことになる。
「過矯正のこと教えてくれて本当にありがとうございました。それに介抱まで……俺、風呂場の掃除がまだ残ってますのでこれで失礼します」
お礼を言ってから立ち上がり、ドアノブに手を掛けたときだった。
「その、言いにくいのだけれど……、服……着た方がいいわよ」
渡良瀬さんは背を向け、俺が下着姿であることを指摘してくれた。(細かいことだが、肇さんが着せてくれたんだよねっ)
メガネが掛けられ、視界がくっきりする。他人にメガネを掛けさせてもらったのは初めてだったので、なんだか気恥ずかしかった。
「ごめんなさいね。露天風呂だったとはいえ長いこと湯に浸かっていたからのぼせてしまったのね。湯あたりでないとよいのだけれど」
「俺、湯あたりしたことないんで大丈夫ですよ。ここは……」
「ここはね、わたしの部屋。きみには『牡丹の間』と言った方がわかりやすいのかな。肇さんがここまで運んでくれたのよ」
どうやら、気を失ってしまったようだ。
そのせいだろうか、いつもとは見え方が若干違うような感覚を抱いた。
「肇さんって、男湯にいたおじいちゃんのことですか」
「ええそうよ。食堂で会って意気投合したの。同じ職業だったから話に花が咲いてね、それでカップ酒ふたつでわたしの仕事を手伝ってもらったの」
俺は掛け布団を押し退け、上体を起こした。
「今、何時ですか」
「23時をちょっと過ぎたくらいよ」
だとすると20分くらい気を失っていたことになる。
「自己紹介がまだだったわね。わたしの名前は渡良瀬鏡子。優秀なメガネ屋よ。それとわたしのことはお姉さんって呼んで構わないから」
つっこみどころが多い自己紹介だ。
長く艶のある黒髪に黒縁のメガネ。
化粧っ気はないがかなりの美人で、温泉浴衣に紅色の茶羽織姿が妙に艶めかしい。
年齢は俺よりだいぶ上だろう。
「俺は九頭竜蒼志。19歳。弟とは半年近く話をしていなかったんでその……なにも知りませんでした」
「急に押しかけてきたのはわたしのほうだからね。明日ちょうどこの近くの家に仕事で行くことになっていたから、挨拶しておこうと思ったの。よろしくね、蒼志くん」
「こちらこそよろしくお願いします。渡良瀬さん」
やはり、お姉さんなどとは呼べない。
あとで弟には確認がてら説教でもしておこう。俺にはいまだ彼女がいないというのに。
「でもどうして風呂場で視力検査だったんですか?」
渡良瀬さんの視線が泳ぐ。
「えっと、それは一度もやったことがなかったから……かな。それに浴場で欲情って響きがどうにもいいでしょう」
急に親父ギャグですか。
「決して、欲情はしてませんよ」
禁止されるほど見たくなるのがカリギュラ効果だ。それにあの状況なら誰だって――話題を変えよう。
「視力検査の結果はどうだったんですか。あっさり終わってしまいましたけど」
――長い沈黙のあと、低い声色で「最悪」と告げられた。
検査らしい検査はほとんどしていないはずだと思うのだが――まさかこのあと水晶玉とかお守りとかを買わされる展開だったりして。
「なによその疑った目は。蒼志くんは過矯正のメガネを使っていたのよ」
「……過矯正……」
「分からないわよね。それじゃあ、お姉さんが優しく教えてあ・げ・る」
専門用語なのだからわからなくて当然だ。
「過矯正というのは遠くがよく見える矯正のことで、遠くが見えすぎちゃうと言ったほうがわかりやすいかもしれないわね。よいことのよう聞こえるかもしれないけど、これだと近くのものを見るとき必要以上に目の筋肉を使ってしまい眼精疲労になりやすいの」
渡良瀬さんは、ゆっくりと丁寧に教えてくれた。
それにしても、本当にあの簡単な視力検査だけでわかったというのか。それも携帯画面越しにだぞ。
「つまりは疲れ目から頭痛が起きていたということになるわね。原因がわかってよかったでしょう」
「ちょ、ちょっと待ってください。俺、頭痛に悩んでるなんて言いました?」
「療養でここにいると言っていたし、それに今日一日蒼志くんの働きぶりをこっそり観察していたから」
観察されていることには全然気付けなかったが、俺はこの原因不明の頭痛のせいで浪人生となったと言っても過言ではないのだ。彼女の話が本当なら、温泉療養も大自然の癒しも結果的には効果がなかったことになるな。
「残念ながらメガネは万能ではないの。極端な話、遠くを見るのには遠用メガネが必要だし、近くを見るのには近用メガネが必要なのよ」
「なら、2本のメガネを使いわける必要があったんですか?」
「まぁ、それもひとつの選択肢ね。蒼志くんの場合はもっとよい解決法があるわ」
「ぜひ教えてください」
いつの間にか、前のめりになって訊いていた。
「くっきり見える完全強制度数のメガネではなく、ほどよく見える少し弱めの度数のメガネを使えばよいのよ」
思い返せば、頭痛に悩まされ始めたのもこのメガネを買った一年前からだ。
辻褄が合う。
たしかこのメガネを買うとき、できるだけよく見えるようにと店員さんに頼んだのは俺自身だった。黒板の文字が見づらいと感じていたからに他ならない。それに、視力はだんだん悪くなると思っていたから、よく見えるメガネのほうがお得だと勘違いもしていた。例えるなら成長を見越して少し大きめの服を買う感覚だ。結局、俺の誤った判断で過矯正のメガネを選択し、自ら頭痛に悩まされていたことになる。
「過矯正のこと教えてくれて本当にありがとうございました。それに介抱まで……俺、風呂場の掃除がまだ残ってますのでこれで失礼します」
お礼を言ってから立ち上がり、ドアノブに手を掛けたときだった。
「その、言いにくいのだけれど……、服……着た方がいいわよ」
渡良瀬さんは背を向け、俺が下着姿であることを指摘してくれた。(細かいことだが、肇さんが着せてくれたんだよねっ)
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