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1巻

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     ◇ ◇ ◇


「ルナちゃん、今日もお疲れ様」

 王太子妃教育も今日で十日目が終了しました。
 基本的に毎朝、王宮を訪れてセレニティ王国の歴史や魔術についての講義を受けます。
 午後からはダンスや淑女しゅくじょとしての所作などの講義です。最後に王妃様とのお茶会で締めくくられます。お茶会もお勉強です。
 女性は政治の世界に出るわけではありませんが、お茶会で他の貴族の方とのつながりを作ったり、情報や流行を操作したりします。
 王妃様とのお茶会では一日の報告をしながら、お茶会での主催者としての在り方などを教わります。
 クロード様のお母様である王妃様は、金の髪と瞳をしたとてもお優しい方です。クロード様の弟殿下は王妃様と同じ金の髪と瞳です。
 ちなみに国王陛下はクロード様と同じ深青の髪と瞳で、クロード様は国王陛下似のようです。

「ありがとうございます。王妃様」
「もう! お義母かあ様って呼んでって言ってるのに」

 王妃様はねたようにおっしゃいます。
 いや。呼べませんから。王妃様は王妃様です。

「成婚の折にはぜひそう呼ばせて下さい」
「もう! そんなの四年も先じゃない」
「母上。ティアを困らせないで下さい」

 あら? クロード様がいらっしゃいました。珍しいですね。王妃様とのお茶会の時間においでになるなんて。

「だって、クロード」
「母上がそんなことをおっしゃるから、父上までお義父とう様と呼んでもらいたいと、先日僕に言い出したんですよ」

 国王陛下が? それは聞いていませんでした。ですけど、呼べませんわ。いずれは呼ばせていただきたいと思ってますけど。まだ早いです。

「仕方ないじゃない。クロードもユリシスも可愛いけど、ルナちゃんほどじゃないんだもの」
「ティアが可愛いのは認めますけど」

 いや、クロード様? 認めますけどじゃないです。王妃様と国王陛下を止めて下さい。
 あ。ユリシス様とおっしゃるのは、クロード様の二歳年下の弟殿下です。
 王妃様によく似た、とても愛らしい方で、私にもなついて下さってます。
 私は兄弟がいませんので、とても嬉しいです。ユリシス殿下はとても可愛いのです。

「そうでしょ、そうでしょ。ね? 一回でいいから呼んでみて?」
「ティア……」

 クロード様に、首を振ります。一回で済むわけがありません。一度呼んだらなし崩しに呼ばされます。そして、絶対国王陛下にも。
 私の様子に、クロード様は無理だと判断したようです。

「母上、婚姻すれば呼んでもらえます。そのときの楽しみにされてはいかがですか」
「クロードまで! もう、わかったわ。ルナちゃんに嫌われたくないし、我慢するわ」

 王妃様がねたようにおっしゃいます。ご立派な方なのに、時々可愛らしいお顔をなさいますの。
 私もこんな方になりたいですわ。

「そうなさって下さい。それで、ティアの王太子妃教育のほうはどうですか?」
「ああ。それがね……」

 王妃様が意味深に微笑まれて、言葉を切りました。
 え? 私、何かやらかしました?

「それがね、ルナちゃんがあまりに優秀すぎて、教えることがないらしいのよ」

 私は目を丸くしてしまいます。教えることが、ない? そんなわけありません。

「まぁ、さすがに魔術に関してだけは知識不足らしいけど、セレニティ王国の歴史も他国語も、淑女しゅくじょとしての所作もダンスも、全てが完璧ですって。もちろん、お茶会での主催者としての在り方もね」
「すごいな。まだ十日目なのに?」
「ええ。まるですでに王太子妃教育を終えているかのように完璧よ」

 王妃様の言葉に私はピクリと震えてしまいました。すでに終えている。
 そうです。私は既にランスフォード王国の王太子妃教育を終えています。次の王妃教育にかかろうかというときに、ルイス殿下から婚約破棄をされたのです。
 ですが、セレニティ王国の歴史などは、クラウディア伯母様から教わったので、まだまだのはずなのですが。

「すごいな、ティアは。誰かに教わったの?」
「あ、あの、伯母に……」
「プリンシパル公爵夫人に? ティアは頑張り屋さんだね」

 クロード様が頭をでて下さいます。誕生日は私のほうが少し早いですが、同い年ですよね? 十一歳の子どもに頭をでられるとは思いませんでした。嬉しかったので、かまいませんけど。

「それで、まださすがに王妃教育には早いから、しばらく午前はあなたと王太子教育に参加してみてはと思って」
「他にすることは? しゅうとか……」
「ルナちゃんのしゅうはすごいわよ?」
「え? 母上は見たのですか? ティア! 僕も見てみたいんだけど?」

 どうやらクロード様がお茶会においでになったのは、王妃様がお呼びになったみたいです。
 ええと、王太子教育に参加ってどういうことですか? 参加しても私が政治に口を挟むことなどできないわけですし、意味なくないですか?
 それから、しゅうは普通ですから! まぁ十二歳にしてはできてるのかもしれませんけど。

「クロード様に差し上げるのでしたら、新しく作りますから」
「ええ? わざわざ新しく作らなくても、今あるやつでいいのに」

 しゅうにそんなに何日もかかりませんから。何のしゅうにしたらいいでしょうか? セレニティ王国の御印である王冠と剣と龍とか? 早速布と糸を準備しないとです。

「あら? 良かったわね、クロード」

 王妃様の声で、ハッとしました。しゅうの話で逸れてしまいましたが、王太子教育に参加するのですか? 私が?

「王太子教育ですか? どのようなことをされているのですか?」
「うーん、そうだなぁ。剣の稽古とか、他国との交渉術とかだから、ティアが参加してもつまらないだろうし。うーん……」

 どうやら参加してもあまり意味がないみたいです。多分、王妃様は私がクロード様と一緒の時間を取れるようにと思って提案して下さったのでしょう。

「あ。そうだ。母上はね、お菓子作りが趣味なんだ。ティアも一緒にどうかな?」
「王妃様が手作りなさるのですか?」

 貴族でも手料理される方はいらっしゃいますが、まさか王族である王妃様がお菓子を手作りされるなんて思いもしませんでした。

「そうしたら僕もティアの手作りを食べられるし。母上、どうですか? 未来の娘と一緒にお菓子作りというのは」
「まぁ! 素敵‼ そうよね、王太子教育なんてつまらないものより、私と一緒にお菓子作りをしましょう?」

 つまらないものって……王妃様が提案なさいましたよね? いえ。私もお菓子作りのほうがいいですけど。
 こうして私は、午前中に魔術講義としゅうを、午後から王妃様とお菓子作りとお茶会をすることになりました。
 王太子妃教育、たった十日しかしてませんけど、いいのでしょうか?


 王妃様とのお菓子作りは、とても楽しいものでした。
 お菓子なんて前回の人生でも一度も作ったことなかったけれど、大変なものなのですね。
 次からお菓子をいただくときは、今まで以上に感謝していただきます。
 バターを混ぜて白くなるまでなんて言われたときは、腕が取れちゃうかと思いました。
 粉を入れてさっくりと混ぜるなんて、切るようにってどういうこと? 混ぜると切るなんて全く違うことをしろと言われて混乱しました。
 だけど、出来上がったパウンドケーキはとても甘い香りで、口に入れると今まで食べたどのお菓子よりも美味おいしく感じました。
 初めてだから簡単なものをと言われて作ったパウンドケーキ。他のものはもっと難しいのでしょうか。でも、こんなに美味おいしくできるのなら、他のものも作ってみたいです。
 自分で作ったものってこんなに美味おいしいと思えるものなのですね。今度、お父様たちにも作って差し上げたいです。
 クロード様に差し上げるためのパウンドケーキを抱えて、私は少々浮かれていたのかもしれません。
 クロード様がいる騎士団の練習場へ向かっていた私は、突然後ろから突き飛ばされ土の上へと倒れ込みました。
 かごの中のパウンドケーキが散らばり、私は慌ててそれを拾い集めます。
 いくら包装しているからといって、土の上に落ちたものを王太子殿下に差し上げるわけにはいきません。
 だけど、せっかく初めて作ったお菓子なのです。クロード様に差し上げることはできないけど、このまま捨てたりしたくなかったのです。
 かごに全て入れてから顔を上げると、真っ赤なドレスに身を包んだご令嬢が、私を馬鹿にしたように見下ろしていました。

「あら? どこの使用人かしら? 土にまみれたお菓子を大事そうに。ドレスも汚れて汚らしいこと」

 何かを言い返したい気持ちはありましたが、彼女が突き飛ばしたという証拠はどこにもありません。
 他に誰もいませんから、このご令嬢だとは思いますが、証拠もないのに突き飛ばしましたねとは言えません。
 確かに私のドレスは土が付いて汚れていますし、落としたお菓子を大切に抱えているのも事実です。
 私は二年間クラウディア伯母様のところでお世話になっていましたが、他の貴族のご令嬢と会ったことはありません。
 ですから、このご令嬢が誰なのかも知りませんし、逆に彼女も私が誰なのかわからなくても仕方ないことです。
 ですが、使用人だからと見下す態度には好感は持てません。誰のおかげで綺麗なドレスを着て、美味おいしい食事ができていると思うのでしょうか。
 自分でお菓子を作ってみて、つくづく思い知りました。
 自分がどれだけ恵まれているのかを。誰かの苦労の上で幸せに暮らせているということを。
 しかし、それを私は彼女にく気にはなりませんでした。
 本来なら、王太子殿下の婚約者としてくべきなのでしょうが、私が婚約者であることは、まだ正式には公表されていません。
 セレニティ王国では、王太子殿下が十二歳の誕生日を迎えられた時点での公表になるそうなのです。クロード様の誕生日は、三ヵ月後です。
 ですから、私は立ち上がると、黙って彼女に礼をしてからそこから立ち去りました。
 後ろであざわらうような笑い声が聞こえましたが、今はこの場から立ち去ることしか私にできることはありませんでした。


 本当なら、今日はクロード様のところへお菓子をお届けに行く約束をしていました。
 お菓子が出来たら持って行きますねって言っていましたのに、お約束を守ることができませんでした。
 私は誰にも見つからないように、部屋に戻りました。
 王太子であるクロード様の隣の部屋は、王太子妃に与えられる部屋です。
 現在、私が王太子妃教育に訪れるためにお借りしているお部屋です。
 私は、そこで拾ったお菓子を抱えたまま、泣いてしまっていました。
 我ながら、情けないと思います。
 こんなことでメソメソと泣いていて、王太子妃が務まると思っているのでしょうか。
 あの日、ずっと愛していたはずの婚約者に婚約破棄を告げられ、バルコニーから飛び降りて命を落としたはずでした。
 目覚めて、婚約する前の自分に戻っていると気付いたとき、心に決めたはずです。強くあろうと。
 お父様やお母様を絶対に悲しませないと決めたのです。
 今度こそ幸せになるのだと、決めたはずです。
 今日だけ――今だけ泣いたら、明日からは元気になります。ケーキも明日また焼き直しましょう。
 そう心に決めて、お菓子の袋に付いた泥をぬぐっていると、突然扉が開きました。
 繰り返しますが、私の今いるお部屋は、王太子妃のお部屋。誰でもが勝手に入れる部屋ではありません。
 その部屋にノックもなく入って来られるのは……

「ティア!」

 部屋に入ってきたクロード様が、私に駆け寄って下さいます。

「クロード様……」
「どうして泣いているの? 何があった?」

 あ。そうでした。
 私、泣いたままでした。ダメです。このままでは、心配させてしまいます。

「ごめんなさい。転んだんです。それで、お菓子を落としてしまって」
「ティア? 正直に言って? ドレスにも泥が付いてる」
「ですから、転んでしまって。本当に、何でもないんです。ご心配をおかけして、ごめんなさい」

 私は本当にダメですね。
 こんなところで泣いていないで、すぐにドレスの汚れを取ってもらうべきでした。
 転んで泣いているなんて、小さな子どもでもあるまいし、クロード様にあきれられてしまいます。

「これ、ティアの作ったケーキ?」
「はい。でも、地面に落としてしまったので、明日また作り直しますね」
「平気だよ。袋に入ってるんだから」

 そう言って、クロード様は私からお菓子を取り上げてしまいます。
 ダメです。落としたものを王太子殿下に差し上げるなんて。

「ダメです!」
「うん。美味おいしい」

 なのに、クロード様はあっさりとそれを口にされてしまいました。

「クロード様!」
美味おいしいよ。ティアの手作りが食べられるなんて、たんれんの疲れも吹っ飛ぶね。すごく幸せだ」

 満面の笑みでそう言って下さるクロード様に、ぬぐったはずの涙が、またこぼれてしまいます。
 どうしてこの方は、こんなに優しいのでしょうか。
 私が言ってほしい言葉、してほしいことをいつもいつもして下さる……
 クロード様。私のほうこそ幸せです。


   ◇ ◇ ◇


 目が覚めてベッドから起き上がると、すぐに王宮勤めのメイドが現れ、湯あみへと連れて行かれました。
 どうやら私はあのまま泣き疲れて眠ってしまったみたいです。
 本当に、恥ずかしい。クロード様に優しく抱きしめられたのを覚えています。温かい胸に安心して眠ってしまうなんて。淑女しゅくじょとしてありえませんわ。
 しかも汚れたドレスのままクロード様に抱きしめられ、ベッドで眠るなんて。
 メイドの方々のお手をわずらわせてしまいました。

「ごめんなさい。汚れたドレスのままで。シーツを汚してしまったわ」
「お気になさらないで下さい。王太子妃殿下のお部屋のベッドはお使いいただけていないので、たまにはシーツを交換しませんと」

 メイドの方はそうおっしゃいますけど、いつも綺麗に整えられた様子からも、使っていなくても交換されていることくらいわかります。
 薔薇ばらの花びらを浮かべたお風呂で、ゆっくりと髪を洗ってもらいます。
 しみると思ったら、手のひらを少しりむいていました。
 すぐに気づいたメイドが綺麗な水で傷口を洗って薬を塗ってくれます。
 何も聞かないメイドの優しさに、また泣きそうになってしまいました。目もれているのでしょう。冷やしたタオルを当てられます。
 お風呂から上がる頃には、少しは目のれはマシになったみたいですわ。
 シンプルな真っ白のワンピースに袖を通して部屋へ戻ると、ソファーに座っていたクロード様が、すぐに立ち上がって手を引いてくれました。
 泣いてしまったことが恥ずかしくて、うつむいた私のほおに、クロード様の手が触れます。

「クロード様。ごめんなさい」
「ダメ。謝ったら」

 クロード様の指が私の唇を押さえます。これでは口を開けません。

「んっ……」

 唇で指を押すと、クロード様がクスクスと笑います。クロード様が笑って下さると、悲しかった気持ちが溶けていくようです。

「今夜は王宮に泊まると、プリシンパル公爵家には知らせてあるから。ここでゆっくりと眠るといいよ」
「え? でも……」
「一人じゃ寂しい? 僕が添い寝してあげようか?」
「クロード様‼」

 クロード様が私を揶揄からかうように笑います。きっと、私が泣いたりしたから、元気づけようとしてくれてるんだと思います。
 本当に、この方は優しい方です。
 この方と婚約できて本当に良かったです。

「クロード様……」

 私は、本当に……

「クロード様が好きです」

 この人の婚約者になって、本当に心から温かくて、幸せな気持ちになれました。
 きっとこの方はいろんな人に愛されているのでしょう。
 私は婚約者になれたけど、でもきっと、他のご令嬢たちからも多くの申し込みが来ていたに違いありません。
 多分……あの赤いドレスのご令嬢は、そんなご令嬢のうちの一人だったのではないでしょうか。
 だけど。

「ティア?」
「私はクロード様が好きです。クロード様の婚約者でいたいです。四年後にはクロード様のお嫁さんになりたいです」

 私がそう言うと、クロード様にキツく抱きしめられました。おでこにキスをされます。
 慌てておでこに手をやると、今度はほおにキスをされました。
 両方のほおにキスをされます。きっと私の顔はりんみたいに真っ赤です。
 そんな私の顔を見て、クロード様は再び、おでこにチュッとキスをされました。


 繰り返しキスをされた後、私はクロード様に優しく抱きしめられました。
 婚約者とはいえ、お風呂上がりにこんなに近くにいるのは、恥ずかしいです。
 真っ赤になっているだろう私のほおでながら、クロード様はゆっくりと話し始めました。

「ティアには、この国に来た時点から王家の影を付けている。ティアは王太子である僕の婚約者。公表はしていないけど、未来の王太子妃だ。たから、影の報告を受ければ何があったのかはわかる。でも、ティア。君から話してほしい」
「私……から?」
「僕はティアを傷つける者を許せない。その気持ちは本当だよ。だけど同時に僕は王太子でもある。自分の感情だけで行動するわけにはいかない」

 クロード様のおっしゃっていることは理解できます。
 クロード様がただの平民なら、私のために誰にでも立ち向かって下さったでしょう。
 ですが、クロード様は王太子殿下です。
 王太子殿下が、自分の感情だけで誰かを罰するようなことがあってはいけません。
 そう。かつての元婚約者のように、感情だけで行動してはいけない立場なのです。
 そして、きっとクロード様は、私にも強くあれとおっしゃっているのだと思います。
 王太子妃になるならば、一人の貴族令嬢に突き飛ばされた程度でメソメソと泣いていてはいけないのです。

「実は、温室の辺りで、後ろから突き飛ばされたのです」
「誰に?」
「お名前はわかりません。赤いドレスを召した方でしたわ。ですが、その方が突き飛ばしたという証拠もなく、私は何も言えずにその場を立ち去ったのです」

 もっと、ちゃんと対応するべきでした。

「名前は影に確認するけど、その令嬢に僕から対処はしない。立場上するわけにはいかないからね」
「わかっています。本当なら私がきちんと対応するべきでした」
「だけど、ホッとしたよ」

 そう言ったクロード様に、首を傾げます。ホッと?

「ティアはたった十日で王太子妃教育も終えてしまったし、あまりに優秀で完璧すぎたからね。たまには足りないところもないとね」

 そんなことを言って、クロード様は笑われます。
 本心でないことくらいわかりますわ。私が落ち込まないように、おどけた言い方をされていますのね。
 本当にお優しい方。
 私も、この方の隣に立つために、ふさわしくならなければなりません。


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