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しおりを挟む序章 婚約破棄の夜
今夜は王宮内でダンスパーティーが開かれています。
本来ならエスコートしてくれるはずの婚約者を待ちながら、私はぼんやりと入口で立ち尽くしていました。
本当はわかっています。ここで待っていても彼は来てくれないことを。
あの方はきっと、噂の子爵令嬢と既に会場にいるのでしょう。
十歳のとき、公爵である父に連れられて訪れた王宮で出会ったルイス王太子殿下。
ランスフォード王国の次期国王である彼にひとめぼれされ、私ことルナティア・ブライト公爵令嬢は王太子殿下の婚約者となりました。
あれから六年――
ひとめぼれされた彼のことを、私は六年の年月をかけて少しずつ好きになっていきました。
見目も麗しい人でしたが、それよりも私を大切にしてくれて、いつも優しいところに心惹かれたのです。
そんな彼が学園に入学して数ヵ月経った頃から、妙な噂が立つようになりました。
彼がある子爵令嬢と懇意にしていると。
まさかと思いました。彼は王太子殿下という身分にもかかわらず、誰にも分けへだてなく優しく接する人です。きっと、そのせいでそんな噂が出たのでしょう。
私も努力してそう思おうとしていました。だけど、彼が噂の子爵令嬢と共にいる姿をたびたび見かけるようになりました。
彼にさりげなく伝えても一切聞き入れてもらえず、彼は私から距離を取るようになっていきました。
彼は王太子です。
色々なことに疲れてしまったのだと思います。ほんの少し、学園内で過ごすときぐらい、自由に何のしがらみも感じずに過ごしたいだけなのだと、私はそう思うことにしました。
きっと、私のところに戻ってきてくれる。そう思って、国王陛下にも王妃様にも、お父様にもお母様にも、何でもないと笑って伝えていました。
それなのに。
「お前のような心の醜い女など、王太子妃にふさわしくない! 私は真実の愛に目覚めたんだ! お前とは婚約破棄だ‼」
パーティー会場の中央で、そう叫ぶ彼のその傍らには例の子爵令嬢、アリス・テングラーが寄り添っています。
心の醜い女……ですか。
六年間、ずっと寄り添ってきた私との関係は真実の愛ではなかったのですね。
ルイス王太子殿下。あなたと六年共に過ごした日々はいったい何だったのでしょうか。
「かしこまりました。婚約破棄、承ります」
「お前の顔など見たくもない。この国から出て行け!」
殿下の言葉にもう返事はせず、私はお辞儀をして王太子殿下の前から立ち去ります。
周囲の視線が私を貫きますが、もう痛みを感じることもありません。
――国外追放ですか。
そんなことをされた娘がいるなんて、我が公爵家の面汚しです。
もう、家にも帰れません。お父様、お母様、親不孝な娘で申し訳ありません。
私は人気のないバルコニーへと足を踏み入れました。
六年間通い詰めた王宮です。
どこが人がいないかなんて手に取るようにわかります。
ルイス王太子殿下。
ひとめぼれしたと婚約を申し込まれてからのこの六年間、いろんなことがありました。
私が、私が死んだら……
ほんの少しくらいはあなたは心に留めてくれるでしょうか。
私は躊躇わず、バルコニーからその身を投げました。
さようなら、私の愛した王太子殿下。
第一章 十歳―新しい私に―
「ルナティアお嬢様? 気がつかれましたか?」
侍女のメアリの声に、そうか私は死ねなかったのかと絶望感に襲われました。
あのバルコニー、思っていたよりも低かったかしら? よほど落ちどころが良かったのね。
うっすらと目を開けると、心配そうに私の顔を覗き込むメイドのメアリが見えました。
あれ? メアリ、ずいぶん若返りましたね。というか、幼くなってませんか? どう見ても十五歳くらいに見えます。おかしいです、メアリは二十一歳だったはず。
そこまで考えて、初めて自分の眠っているベッドが妙に大きく感じることに気付きました。
そうっと手をかざしてみます。
小さい。小さすぎます。何ですか、これ。まるで子どもの手じゃないですか。
それに、あのバルコニーから落ちたというのに、体に痛みを感じません。
「お嬢様? 手がどうかしたのですか?」
メアリが心配そうにこちらを見ています。メアリが子どもの姿で、私の手が小さい?
ハッとして起き上がります。
妙に高く感じるベッド。小さな手足。細く三つ編みされた髪。
間違いありません。
私は、子どもの姿になっています。
え? どういうことでしょうか?
私はたしかに十六歳の誕生日を迎え、そして学園に通っていました。
そして、王宮で行われたダンスパーティーで王太子殿下から婚約破棄を申し渡され、そのまま間違いなくバルコニーから身を投げたはずです。
「お嬢様? どこか痛みますか? 旦那様と奥様をお呼びしてまいりますね?」
「メアリ。メアリは今、いくつだっけ?」
「お嬢様? 本当にどうかされたのですか?」
ええ、どうかしたんだと思います。自分の発した声を聞いて、その幼さにクラクラします。
「私は先日十五歳の誕生日を迎えました。お嬢様がお祝いのリボンをくださったじゃないですか」
「……うん。そう……だったね。メアリのオレンジの髪にベルベットのリボンがよく似合ってた」
私がそう言うと、メアリはようやく安心したように笑いました。
「三日も高熱で寝込んでいらしたので混乱されていたのですね。じゃあ、旦那様たちをお呼びして来ますね」
そう、たしかに十歳の頃、私はメアリの誕生日の数日後に高熱で寝込みました。
あの日に戻ったということなのでしょうか?
そんなことってあるんですか?
だけど、もしあの日に戻ったというのなら、今の私はまだ王太子殿下と出会っていません。
王宮に行ったのは、熱が下がって一ヵ月ほど経ってからですから。
それなら、ルイス王太子殿下、私はもうあなたの婚約者にはなりたくないです。
あんなに好きだった人だけれど――
あなたは優しかったけど、笑顔を向けてくれていたけど。だけど結局は私を選ばないんですから。
それなら――
二度目の人生では、私はもうあなたを好きになりません……
◇ ◇ ◇
婚約者にならないと決意はしましたが、王家から申し込まれると断り切れるものではありません。
ここは、何か対策を練る必要があります。お父様とお母様に相談してみましょう。
「お父様、お母様、お願いがあります」
お部屋に来て下さったお父様とお母様にお願いしてみます。
「ルナ、目が覚めたんだね。良かったよ。三日も高熱でうなされていたから心配したよ」
「ルナちゃん。もう熱は引いたの? もう少し眠っていたほうが良くないかしら?」
お父様、お母様。心配してくれているのは嬉しいんですが、私の話を聞いて下さい。
お父様もお母様も、お二人とも私にとても優しくて。十六年間、甘やかし放題といっても過言でないくらいに、愛して下さっていました。
私はそんな両親を悲しませることをしてしまいました。
自ら死を選ぶなんて――なんて親不孝をしたのでしょう。
やり直しをさせて下さった神様、感謝いたします。
「お母様、大丈夫です。それで、お願いなのですが」
「うん? 何か欲しいものでもあるのかな? 何でも言ってごらん」
お願いする側が言うのは間違いですけど、お父様、甘すぎです。そんなに溺愛してばかりでは、ダメな子に育ちますよ?
「私、婚約者が欲しいです」
「は?」
「ルナちゃん、今なんて?」
「ですから、婚約者です。私はこの公爵家養子に来てくださる婚約者が欲しいです」
そうすれば、王太子殿下の婚約者にはならずに済みますよね。
王家の子どもは王太子殿下一人。そして、我がブライト公爵家も子どもは私一人です。
本来なら、婿養子を取るはずだったのに、王家からの申し込みで婚約することになったのです。
「そんな。心配はいらないよ。ルナは好きな人と結婚すれば良いんだよ」
「そうよ。おうちのことは気にしなくていいのよ?」
「そうじゃないです。私はお父様とお母様みたいに、お互いにずっと好きでいられる人と結婚したいです。そして、ずっとお父様とお母様と一緒にいたいです」
具体的に言うと、私と婚約破棄して子爵令嬢と仲良くする王太子殿下とは婚約したくないです。
国王陛下と王妃様のことは好きでしたけど。できることなら、お義父様とお義母様とお呼びしたかったですけど。
お父様とお母様はとても嬉しそうに、私の頭を撫でてくれます。
「可愛いな、ルナは。婚約者かぁ」
「旦那様、誰か良い人いまして?」
「そうだなぁ。我が家を継いでもらうなら公爵家か侯爵家の次男が三男か……」
まぁ、そうなりますね。
我が国には公爵家が四家、侯爵家が四家あります。ですが、次男か三男がいるのは、公爵家一家と侯爵家一家だけです。しかも、年齢が少々離れているんですよね。
「あ! そうだ‼」
「お父様?」
「ルナは覚えてないだろうけど、私の姉が隣国に嫁いだんだよ」
覚えてますよ。
「クラウディア伯母様?」
「うん。そうだよ。それで、その姉が前からルナに会わせたい子がいるって言ってたんだ」
そうなのですか? 初めて聞きました。
というか、前からっていうことはお父様忘れてましたね?
「早速、聞いてみるよ。返事が来るまで待ってくれるかな?」
「もちろんです、お父様。ふふっ。でも、女の子かもしれないですね」
女の子だったら、お友達になってくれるでしょうか。
十日後……
お父様のお姉様、つまり私の伯母様が我が家を訪れました。
我が国と隣国は馬車で十日ほどかかると思うのですが? 連絡をして、こちらに着くには早すぎませんか?
いえ。あと二十日後に王宮に行くまでに婚約者を決めたいですから、早いのはありがたいのですが。間に合わなければ、最悪、仮病を使おうかと思っていたくらいです。
クラウディア伯母様は、お父様によく似たお顔立ちでピンと背筋の伸びた、淑女の見本のような方でした。
「最後に会ったのは三歳くらいだから、覚えてはいないでしょうね。ルナティア。伯母のクラウディアよ」
「ご無沙汰しております、クラウディア伯母様。ルナティアです。今回は無理をお願いしてすみません」
「まぁ! 可愛い上にこんなに立派な挨拶ができるなんて‼ なんて、可愛い!」
……そうでした。クラウディア伯母様は、お父様たちと同じように、いえ、お父様たち以上に私のことを可愛がって下さっていたのでした。
ほとんど会えないからだったのでしょうが、本当の娘のようにたくさん可愛がってもらいました。
クラウディア伯母様は、隣国のセレニティ王国の公爵家に嫁がれています。
公爵夫人が往復二十日もかけての里帰りはなかなかできることではないですから、私が十六年間で会ったのは二度ほどです。
たった二度会っただけの姪に、クラウディア伯母様はとても優しかったのを覚えています。
会えない分、贈り物は毎年。お手紙は、私が読めるようになってからは必ず月に一度くださっていました。
伯母様、私、婚約破棄されたんです。まさかそんなことになるなんて知っていたら、あの方と婚約なんてしなかったのに。
「それで姉上、そちらの方が?」
そうでした。伯母様の後ろには深青の髪と瞳の美少年が立っていたのです。
いけません。お待たせしてしまいました。
「あら、いけない。ごめんなさいね? 殿下、私の弟のカイル・ブライトですわ」
ちょっと待って下さい。伯母様? 今、殿下って言いました?
「はじめまして、ブライト公爵。クロード・フォン・セレニティと申します」
「はじめまして、クロード殿下。おいで、ルナ。殿下、娘のルナティア・ブライトでございます」
「はじめまして。ルナティア・ブライトと申します」
スカートをつまんで、ちゃんと礼はします。しますけど、伯母様? クロード・フォン・セレニティ殿下って、セレニティ王国の王太子じゃないですか!
私は公爵家に養子に来て下さる方を希望しましたのに……
「ね? クロード殿下。可愛らしい姪でしょう?」
「ええ。肖像画以上に可愛らしい方ですね」
伯母様? 肖像画ってどういうことですか?
お父様、お母様、うんうんじゃありませんわ。お父様たちが私の肖像画を伯母様に送っていたということですか?
いえ。肖像画を伯母様にお送りするのは構わないのですが、どうしてそれを王太子殿下にお見せしたりするんですか。
たしか、セレニティ王国の王太子殿下は私と同じ年齢だったはずです。私がルイス殿下と婚約した時点では、まだ婚約者はいらっしゃらなかったと思いますが。
「じゃあ、あちらでお話をいたしましょう?」
お母様に促されて、居間に場所を移します。
お母様? 私の希望を覚えて下さってますか? 私はこの公爵家にお婿に来て下さる方と婚約したいって言ったんです。
ええ? 本当に隣国の王太子殿下と婚約するんですか?
「それで、クラウディア。前から言っていた紹介したいというのが?」
お父様の言葉に、再度王太子殿下が頭を下げてくださいます。
「改めまして。セレニティ王国王太子のクロード・フォン・セレニティと申します」
もう王太子なんですね。
まだ十歳ですよね。たしか、記憶では二歳年下の弟さんがいらしたはずです。
「クロード殿下はルナティアの肖像画を見てひとめぼれしたのよ」
「プリンシパル公爵夫人!」
――ひとめぼれですか。
嫌な思い出しかありません。しかも王太子というのも前回と同じです。
「いいじゃない。内面なんて長く付き合っていかないとわからないんだから。見た目で好きになって何が悪いの?」
「そうですよね、お義姉様。ルナちゃんは内面も良い子ですけど」
「クロード殿下も良い方よ」
お母様。恥ずかしいので娘自慢はやめて下さい。でも、そうですよね。長く付き合わなければ内面なんてわかりませんよね。
私、ルイス殿下のことはひとめぼれではありませんでした。六年かけて好きになったんです。長い時間かけて内面に惹かれたのに、終わるときは一瞬なんです。
この方も、長い時間かければ好きになるのかもしれません。
でも、また婚約破棄されてしまうかもしれない。
私の顔には、不安が表れていたのでしょう。クロード殿下が私の横に跪きました。
「ルナティア嬢。いきなりこんなことを申し上げて、困惑させてしまったと思います。ですが、どうか僕と婚約していただけませんか?」
「クロード殿下……」
「ルナティア嬢のことを大切にします。お約束しますから」
十歳なのに、真摯にお約束してくれます。私、もう一度信じても大丈夫なのでしょうか?
王太子殿下に対して、不敬ですが、お願いをしてもいいでしょうか。
「クロード殿下……ご不敬だとわかってはいますが、お願いがあります」
「うん。いいですよ。何でも言ってみて下さい」
私が不敬なことを言い出しても、お父様もお母様も伯母様も平気な顔をしています。
まぁ、三人とも私のことを溺愛して下さってますから、もし殿下のご機嫌を損ねても、さっさとクロード殿下にはお帰りいただくのでしょうね。
「もし、私以外の方をお好きになったら、婚約破棄ではなく、婚約を解消して下さい」
「え? そんなことありえないと思うけど」
「この先、運命の相手に出会うかもしれないじゃないですか」
「それ、僕にとってはルナティア嬢なんだけどな」
かつての婚約者も、似たようなことを言ってくれてました。
だけど、真実の愛とやらを見つけるんです。そして私に婚約破棄を告げるんです。
私が引かないとわかったのでしょう。クロード殿下は頷かれました。
「わかったよ。もしもルナティア嬢以外の女性を好きになることがあれば、そのときはちゃんと伝えて、婚約解消をお願いするよ」
「決して衆人環視の中で破棄を告げたりしないで下さい」
「え? いや、王家の人間としてそれはありえないけど。隣国の公爵家の令嬢との婚約解消を衆人の前で告げるなんて、そんなことをしたら僕が廃嫡されるよ」
でも、あの人はそれをしたんです。皆が集まる王宮でのダンスパーティーで。
王家から正式に公爵家へ婚約解消を申し込まれたなら、悲しくても受け入れましたのに。
婚約破棄でなく婚約解消なら、まだ公爵家に傷は付かなかったと思うのです。それなのに、婚約破棄で国外追放なんて――
そういえば。あのあとはどうなったのでしょうか。公爵家の娘がバルコニーから身を投げ、その原因が婚約破棄だったということは、周囲の皆様は知っていたのですから。
国王陛下と王妃様、私のお父様が素直に子爵令嬢との婚約を許すとは思えません。
しかし、王家の子どもはあの方だけでした。さすがに廃嫡はされなかったとは思いますが。
「ルナティア嬢? わかった。クロード・フォン・セレニティの名に懸けて約束する」
クロード殿下の誠実な誓いを受けて、私はもう一度だけ信じてみることにしました。
「婚約の申し込みをお受けいたします」
こうして私はこの日、隣国セレニティ王国の王太子殿下の婚約者となりました。
◇ ◇ ◇
婚約者になったのはいいのですが、これからどうすればいいのでしょうか。
クロード殿下は隣国へ戻り、王太子としての教育を受けなければいけません。
私はまだ十歳ですから、王太子妃教育が始まるには早いですし、このまま離れ離れということでしょうか。
さすがに馬車で片道十日もかかるので、お互いしょっちゅう行き来するわけにもいかないでしょうし。
ほとんど会えない婚約者……
婚約の意味ってあります? いや、ありますね、他の王家や貴族たちとの婚約防止になりますね。
でも、離れていては内面がわかりません。それに、離れていてはクロード殿下が何をされていても私にはわかりかねます。
「ルナティア? どうかした?」
伯母様の声でハッとします。いけません。考え込んでしまっていました。
「いえ。離れ離れというか、ほとんど会えないのではと……」
「あら? 大丈夫よ? クロード殿下は転移の魔法が使えるから」
「はい?」
転移の魔法って言いました?
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