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波紋
しおりを挟む桜子は先日の憤りがくすぶったまま翌朝を迎えた。
昨日は女中達が臍をまげた桜子の機嫌を取ろうと代わる代わるに部屋を訪れたが、桜子がそれに応えることは一度としてなかった。
一晩経てば少しはマシになるかと思った不快さも対して変わっておらず、何とも目覚めの悪い朝となった。
いつもなら女中たちを呼び、女学校へと向かう身支度をするのだがどうにも気が乗らない。
どうしたものかと考えているとふいに桜子の腹の虫が鳴る。その音を聞き昨夜はあまりの腹ただしさに朝食をとった以降、何も口にしていなかったことを思い出す。
軽くスープでも腹に入れようと、重い足取りのまま桜子は部屋をでる。
居間へ向かう途中に香ってきた珈琲の匂いに桜子は目を細めた。
(ほう、珍しく父上がおられるようだ。昨日のことをきちんと説明してもらおうか)
敏正は商売が忙しくこの頃は朝早くから家を開けることが多かったが、どういう訳か今日は珈琲を飲む余裕まであるらしい。
「父上!先日のあの男はなんですか!?無礼にもほどがある!!」
居間へ入るや否や朝の挨拶も早々に桜子は開口一番に非難めいた言葉を口にした。
茶色い革張りの椅子に腰かけ、珈琲を口にしながら新聞に目を通していた敏正は桜子へと視線を向ける。
「おはよう桜子。挨拶ぐらいきちんとしなさい。あの男とは明仁君のことかい?」
落ち着きなく、敏正と向かい合うように席に着く桜子は身を乗り出しかねない勢いで迫る。
テーブルの上には敏正の分とは別に、もう一人分の朝食が置かれていた。
女中たちは桜子が腹をすかせ、居間に顔を出すことを想定していたのだろう。
テーブルの上に置かれた欧米風の洋食はまだ日本内では珍しく、外交に携わる敏正の好みである。
珍妙な形をしたワッサンと言う名のパンを紅茶で流し込む。
「ええ、そうです。父上が招いた無礼な者のことです!!あのような、・・・・・・女を辱める語言を吐く男など気に食わぬ!!二度と顔を合わせとうございません!この度の話は絶対に断ってください。」
整った顔を歪ませ捲し立てる桜子に敏正は小さなため息を漏らす。
敏正は一人娘の桜子を溺愛してきた自負はあるが、どうも甘やかしすぎたようだ。幼くして母親を失った娘への同情もあったが、何よりも妻の忘れ形見である。娘が望むものは何でも与え、その意思に沿うようにしてきた。だが、こればかりは桜子の願いを聞くわけにはいかないのである。
「それは無理というものだよ。この話は五年も前から先方と話がついている。今更なったことには出来ないよ。お前ももう十四だ。許嫁や婚約者がいてもなんら問題はない。」
敏正の言うとおりである。本来ならばもっと早くに縁談の話が決まっていてもおかしくないのだ。
だが、桜子は幼いという庇護のもと相手側の配慮で今まで見逃されていただけである。
適齢期になった今、この婚約を断る理由など何一つとして持ち合わせてはいないのだ。
それこそ、気に入らないという理由など通るはずもない。
「いいえ、父上。ま・だ・十四です。それに今は女性の解放運動も認められてきたではありんせんか。女人でも自由に生きれるのです。父上だって、そう思うから女学校に入るのを許してくれたのではないのですか。
明治に入り急速に女性の立場は独立していった。そのうちの一つが女学校である。女は家に入り子を育て、夫に使えるのが良妻とされていた日の本ではこれまで女に学門は不要とされていた。それが小学校まで通うことが義務化され、女学校と呼ばれるものも出来た。っが、小学校を出てさらに上級の女学校に進学できる者などまだまだほんの一握りである。その大方が貴族の令嬢だ。地方の方では家の働き手として小学校に通えない娘たちも多いと聞く。運よく小学校を出たとしても女学校に通う経済的余裕などありはしない。
そのような理由から多くの者が小学校を出てからは奉公に出向くか床入りすることが多かった。
無論、世間の憧れである女学校に通っている貴族の令嬢も例外ではない。女学校と言えば聞こえはいいが、そこは身分と教養が兼ね揃えられた身元のはっきりとした令嬢が集う場所である。貴族の間では、子息の嫁探しには事欠かせない場所であることが周知に知れ渡っていた。見初められた令嬢たちの中には、自主退学を余儀なくされる者も少なくないのだ。
桜子は今年で女学校の六年生になる。女学校に入る女性は大きく分けて二つのタイプに分かれる。女性解放運動の影響を受け、先陣を切って勉学を学びたいと感銘受ける者と当主の命により花嫁修業の一環として教養を身につけるために入った者だ。
桜子は前者である。女性解放運動を全面的に支持しているわけではないが、おおむね賛同はしていた。だからこそ、生涯の伴侶パートナーは自身で選びたいのである。
「桜子、私は女性が箔をつけることに反対はしないよ。人はみな平等に学ぶべきだからね。だがそれと同時に、女人の幸せとはやはり家庭に入ることだとも思っているよ。子をなし夫に仕える。それが一番お国のためになる。侯爵家の跡目を継げる男児がいない今、お前には遅かれ早かれ子を産んでもらわねばならん。私は侯爵家を絶やすつもりはない。」
真剣な面持ちで話す敏正は見慣れている父の顔ではなく、侯爵家を背負う当主としての顔を覗かせていた。
だが、当主の一言で食い下がるほどたおやかな心を桜子は持ち合わせていない。
「父上、何も私は結婚をしないと言っているわけではありんせん。まだ早いと言っているのだ。そう、せめて女学校を出るまでは待っていただきたい。」
「ならん。己の身分を弁えよ。お前は侯爵令嬢だ。身分がある者はその身分に見合った行いをしなければならん。今後、女学校に通うかはお前の主君になる明仁君の判断に委ねる。お前はその指示に従いなさい。」
敏正の口から出た厳しい言葉に桜子は目を見開く。
許嫁の件でさえ納得出来ていないのだ。それに加え女学校まで辞めさせられるかもしれないなど冗談ではない。桜子にはまだまだ学びたいことがたくさんある。父の商談を継ぐつもりで外国語だって学んできたのだ。それを今更、水の泡にされるなど堪ったものではない。
「私は明日からしばらく家を開ける。三月みつきは帰ってこん。その間の留守を明仁君が預かることとなった。女中や家人たちには既に伝えてある。お前も良く持て成すように。」
「・・・・・・なっ、許嫁と言えど赤の他人を家に上げるなど、何を考えておられるのですか!」
「これは当主命令だ。反論は許さん。ああ、思った以上に時間をくってしまったな。」
敏正はチラリと腕元の時計を確認し、腰を上げる。
「桜子、私がいない間の一任は全て明仁君に任せてある。私がいない間は彼が当主の代理だという事を忘れるな。」
「父上!!」
話は終わりだと言わんばかりに居間を出ていく敏正の背中を桜子は見送るしかなかった。
桜子は敏心中で敏正の言葉を反芻しながらすっかり冷めた紅茶へと視線を落とした。
(あの男が当主の代理?なんの冗談だこれは)
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