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第二章 寸胴一つあれば大抵どうにかなります
燃ゆる、そして決着
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孤独な咆哮が木々を揺らし山を軋ませる。戦火を逃れようとする小動物の騒めきが、残響に急かされるようにして遠く離れていく。かく言う俺の耳の底にも咆哮は居座り、未だ鼓膜と心臓を震わせているような気さえする。袖で拭う額の汗は茶色く濁り、コックコートの黒い袖に下手糞な名残を描き留めた。
樹木、地面、空ばかりの寂しい野営地に広がる賑わい。種々の余韻が冷めきらぬ中、先に動いたのは――オークだった。怒りに任せて無闇矢鱈と暴れることをせず、急所へのダメージを庇うために右腕しかまともに使用出来ない。であるからこそ、動いたのだ。
彼は上体を僅かに前傾。体側に下げていた右腕の指先を地面に深く食い込ませた。見える範囲の筋肉全てが隆起し、血管が青々と張り、地を掴む。溜めを一拍。激越を纏った再度の咆哮と共に、地面を抉り取るようにして右腕を振り抜いた。
襲い来る砂礫の嵐。
咄嗟に叫んだ彼女の名は、咆哮を追い風に凄烈たる勢いで飛来する砂礫に圧倒され、呑み込まれ、鑢をかけられた。「――――!」と、その姿形や込められた意味さえ覆い隠され削られた。電線や電波を断ち切り歪める天災は、さらに原始的な呼応ですら遮ったのである。その虚しさだけが残り、嵐に湧く砂埃に混ざった。
嵐が過ぎ去るのは一瞬。しかし、その被害は計り知れない。
「ゴホゴホ――大丈夫か。お前達」
後ろを振り向くことなく、背にした馬車とその側で倒れ伏す冒険者パーティーにそう尋ねる。
「お蔭さまで助かりました。ありがとうございます。…ケホッ」
誰かは判別不能だが、ハティの声でないなら冒険者パーティー内の誰かである。咳こみながらも、俺の声は今度は必要十分な役割を果たした。時間が経ち薄らと晴れる砂埃の中で、彼等彼女等の咳や呻き声だけが確認出来る。
油断などしていなかった。戦闘が生易しいものではないことを体感していたから。
警戒していた。頸椎を断てなかった、その瞬間から。
そうして気付けた。❝つる×まほ❞におけるオークの攻撃パターンに唯一、1ターンの溜めを要するものが存在していたから。
――――【礫投げ】
誰しも経験する子供の投石遊びを想像させる技名。しかし、いくらオークの巨体と言えど、一握の砂礫では到底有り得ない規模。アンダースローのモーションからかけ離れた、明らかな超常の香りが漂うそれは、オークの土属性範囲攻撃【礫投げ】に他ならない。
「ハティ! おい、ハティィィ!」
彼女に届くように名を叫ぶ。今度こそ、と。
「――――――――だいじょぶ」
暗茶色の臭う霧の向こうから、気の抜けた小さな声が返ってきたことに、俺は毛羽立つ胸を撫で下ろす。
「――――――――マックは……はぁ……うぇっくしょん! ぶしゅん!」
……小汚いくしゃみの音が続かなければ良い雰囲気の応答であっただろうに、なんとも残念なメイドである。やはりこのような危機の只中にあっても、俺達の間に色っぽい糸は繋がらないらしい。それが却って俺の笑みを濃くした。
重く辺りに垂れ込む土の霧が徐々に風に流され散ってゆく。嵐の前で人間に出来ることは、精一杯籠ることだけ。俺の眼前には渦巻く水が浮かび、渦中に土塊や拳大の石、それから砂を巻き込んで茶色く濁っている。
「それは魔法ですか?」冒険者の誰かが、そう疑問を口にした。過ぎる程端的に「あぁ」、と答えると、嵐に逆らうように前に突きだした両腕を下げ、【流水】と【ミキサー】の複合魔法を解除する。ゲーマーの脳細胞が咄嗟に作成した疑似的な盾は、重い音を立てて地面に広がった。
その水音と共に、肩甲骨間の強張りが解け、呼吸のために胸が開く。決して肺に優しくない粒子の舞う空気であっても、それでも思いきり吸い込む。口渇を覚え唇を湿らすと、ざらざらした感触と土のミネラル感ある独特の味がした。
「マック、生きてて良かった」
「お互いにな」
確かな足音と共に霧の中から現れたハティは、全身が細かな切り傷や青い打撲痕に塗れ、痛々しい姿をしていた。しかし、彼女の瞳は未だ死の色を湛えてはいない。むしろ、奥底に猛る闘争心に金の輝きを一層増し、総毛立つような高揚に似た感情を俺に喚起させた。
「予想外の反撃だったが、不意打ちを生き残ればこっちのもの。ここから第二ラウンドだ。まだやれるか?」
「うん。お返しする。痛かったんだから」
彼女は大小無数の傷や凹みを纏ったガントレットを強く打ち鳴らす。先ほどのゴングは彼の痛烈な一撃に繋がったが、今回はどうか。この金属音が最終ラウンドになる予感が、何故だか俺にはあった。誰が為にゴングは鳴る。
砂埃が概ね風に攫われ、久方ぶりに彼と再会することになった。
砂を被ったシャリシャリの髪を掻き上げ、「また会えて嬉しいよ」と軽口を叩いてみる。人語を解さないであろう彼は動かない。而してこちらの一挙一動に油断しない。普段頼りになる鼻が、鬱陶しい砂埃の影響で利かなかったからだろうか。距離があるからか。それとも他の何か。こちらを厳しく睨み付けている。彼から目を離してなるものかと眼光を返しつつ、ハティと策を練る。
「これ以上【礫投げ】を喰らっていてはジリ貧だ」
「うん」
「撃ててあと数回だろうが、数回も撃てば十分こちらに致命打を与えられる。俺の防御も全力で何とか一撃を防いだに過ぎない」
「そうなの? だったら……近づかないと」
彼女の丸い目が細く引き締められた。
オークの魔力量は少ない。序盤に出てくる魔物が強力なAOEを連発するわけにはいかないからだ。現に彼は肩で息をしている。消耗しているのだ。耐え続け消耗を待つという選択肢がこちらに無い以上、彼の行動を制限するためには、近付くことでプレッシャーをかけ、【礫投げ】のモーションに入る余裕を奪うしかない。遠距離攻撃は腕の延長に等しく、彼我の距離は一方的な安全圏を相手に与えるのみ。死中に活を求めると言うが、まさしく。
思い立ったが吉日の勢いで、俺とハティは左右に分かれて駆け、彼との距離を一気に詰める。彼は当惑するでもなく、しかし瞠目して両の目玉を左右に落ち着きなく揺らす。彼の思考を代弁するなら、痛打の拳を放つ人の女と命を断ち得る一撃を放つ人の男、そのどちらに対応するべきか、といった所だろう。大いに難儀するといい。
情けなくも、俺は右腕の側をハティに任せる。申し訳ない限りではあるが、彼女の動体視力や空間把握能力、直感、それら格闘の才幹が無ければ対応は難しいからだ。
かと言って、俺も左で遊ぶわけではない。俺の狙いは首を守る左腕。その破壊を目指す。
先程は人の頸椎の五番と六番の間を断つように【寸胴切り】を出した。そこに骨が当たったということは、オークの背骨は猪のように十九個あり、あの巨体を支えていると考えるのが自然だろう。
ジビエの解体経験がここで活きた。人も豚も猪も背骨の数は個体差があるが、概ね決まっている。人は二十四、猪は十九。実際は刃を当ててみないと分からないが、次に【寸胴切り】を入れる箇所は先程の箇所から上下にズラす必要がある。
――次は殺す。そうでなければ、殺される。
俺は生温い手汗の滲む右掌をコックコートの裾に擦りつけ、滑るナイフの柄を強く握りなおした。
先にオークに仕掛けたのはハティだ。ダメージなど無いと挑発せんばかりの俊足を存分に発揮し、オークに肉薄する。滴る血が彼女の勇歩の跡に散り、山地に酸鼻な彼岸花が咲く。接地点、傷だらけのレガースの底が土に盛大にめり込み、死人花を躙り散らす。腰を捻ると柔軟に上体を反り、「――ッシ!」、鋭い掛け声を伴い全身を連動させた鉄の右拳を突き出した。
彼は無事な右腕で正面からそれを掴み受け止める。その瞬間、なんとも形容し難い肉を叩く重い音が辺りに響いた。オークは端厳な獣面に渋面を作り、掴んだ拳を振り回して宙に放る。彼女は空中で身を捻り、両手足をサスペンションのように扱い衝撃を和らげ軽やかに着地を果たすと、間髪を容れず、再度死圏へ飛び込む。
その一連の攻防が一巡した頃、漸く俺もオークの左に陣取っていた。先の防御より既に息は切れている。それでも行動を止めることは無い。それは勝敗が決するその時まで訪れることは無い。
ハティが派手に鳴らして戦う脇で、首を保護するために突き出た肘にナイフを振るう。狙うは上腕骨から尺骨を結ぶ内側側副靭帯。屈曲や進展に関わるそれにダメージが加われば、人は激痛で肘の動作を諦める。オークは魔物であるが、動作は極めて人に近しい。直立二足歩行で指の数も同じ。使い方も同じ。となれば、身体の構造も近くなければ道理に適わない。
スキルにより強化された刃が入り、ブチブチと抵抗を感じつつも強靭な三つの靭帯を纏めて断った。
「―――――――!」
左腕に走る激痛に猪鼻を鳴らす。回転するように右腕を大きく振るうと、彼は俺達から離れるように不格好なバックステップを試みた。双牙の奥に裂けた大きな口を、あたかも人の笑みと同じように弓なりに持ち上げ、次の瞬間には眉間に幽谷の如き深い皺を刻んだ。あたかも人が困惑するように。
「―――――――!?」
「代弁してやろうか。何故傷が治らないんだ? だろう。――焼いたからだよ。【着火】を纏ったナイフでな」
距離を空けることを許しはしない。俺達は不即不離の間すら設けず追い縋る。
そもそもがおかしかったのだ。首という明らかな急所を頸椎に達するほど切られたというのに、押えているだけ、というのが。そして肉薄して気付いた。首元から血が流れていないことに。止血の為に添えたはずの左腕が脱力し始めていることに。
「凄まじい回復能力。それがお前達オークの強味だと知っていた。ただ、致命傷手前の傷までこの速度で治すなんて書いてなかったから、正直面食らったぞ」
要は加熱メスの要領だ。生物の細胞を構成するタンパク質を熱で変性させ、回復機能を奪ったのである。炭化した肉を削げば健常な組織が働くのだが、戦闘以外の面でお世辞にも知的とは思えない彼の頭脳にそこまでの期待を寄せるのは酷という物だ。
オークは肘が使い物にならないことを悟ったのであろう、ヌンチャクのようにして乱暴に振り回しはじめた。痛みを押してでも抵抗せねばならぬと、彼の生存本能が痛覚の優先順位を低下させた。
「どうした、左脇ががら空きだぞ」
乱雑な攻撃は無防備と同義。武器を壊したその次は、使い手を壊すのが道理。
【着火】の青い炎が銀の剣閃に乗り、固い獣毛の奥でエラのように張る脇の棘下筋を断つ。皮下脂肪の薄いそこは、蛋白質の焼ける小気味よい音と抵抗の後、黒く固い切創を残した。遂に左腕はその大本の支えすら不確かにし、ヌンチャクどころか垂れ下がる肉の棒にまで堕ちた。
「――――――――!」
彼の散らす僅かな出血と濃く滂沱たる脂汗の熱い飛沫が俺の頬を打ち、濡らす。不快感は無い。肌に沁み込むそれらの感覚は、過活動の心臓を重ねて急かす燃料としてくべられ、悲鳴を上げる身体各所に英気の鞭を振るい、今一度漲らせるのだ。
加速度を増す斬撃は狙いを定めず、であるからこそ彼の意識を一手に引き受けた。
「――良い匂いがする」
平静を失った獲物を逃す狩人などいない。最早どちらの流した血か判別不能な赤を纏い、ハティは更に一歩踏み込む。息の根に近付く一歩を。
繰り出される自棄の大振りを屈んで躱した彼女は、低い姿勢から両足を揃えた飛び蹴りを繰り出し、オークの右膝を横から蹴り抜いた。当て感に優れる彼女の一撃は体重の乗る一瞬を見事に捉え、――ゴキッとも、グシャッとも聞こえる異音がして、彼は崩れた。悲痛な叫びを上げ、巨体が砂埃を巻き上げ隠れた。
風が砂埃を晴らし、右腕と左足というアンバランスさでどうにか身を起こす彼の姿を明らかにする。あれほど威容を誇っていたオークも、こうなれば形無しだ。
「よぉ、さっきとは逆になったな」
彼の左腕は、もう碌に動かない。右足もあれではグチャグチャだ。膝蓋骨は砕け、靭帯もズタズタだろう。選手生命終了。ゲームオーバー。
充血しこちらを睨む瞳と天を衝く双牙が、むしろ哀れですらある。
「マック、止め刺さないと」
ハティが警戒しつつ近付く。手負いの獣は恐ろしく、体勢を崩しながらも右腕を伸ばし、目前の脅威を薙ぎ払わんとする。瞬時に身構える俺達。その横を、高速で飛翔する物体が通り過ぎたかと思うと、オークは左目を押え、何度目かという叫びを上げた。
「忘れてんじゃないわよ! レックスの仇め!」
背後から聞こえる甲高い声に振り向くと、弓使いの女が得物を掲げて得意気な笑みを浮かべている。50メートルを優に超える距離で小さな目玉を射抜くとは、舌を巻く腕前だ。
これまた背後から聞こえる呻き声に振り向くと、オークは右腕で左目を押えている。つまりは、右腕が無防備ということ。ハティは容赦なく右前腕ごと顔面を殴りつけ、その衝撃でオークは仰向けに倒れた。
仰ぎ見るハティの姿は、彼の目にどう映るのだろうか。
月は優美であると同時に底知れぬ冷たさを内包している。夜の恐ろしさとは、照らすようで満足に照らさない月光の奔放な優しさと残酷さにこそあるのだ。本質をそう仮定すれば、彼女は月の両面をまさしく体現している。左の光を失った彼には、それが芯から理解出来るだろう。
折れた骨が突き出た右腕も、当分は使えまい。満身創痍の極みである。そんな彼を見下ろし、二人で止めを刺す。
「心臓を突き刺してもいいんだろうが、こう体が厚いとナイフでは一苦労だな。どうするか」
「もう一回首切ってみる?」
ハティの提案は、それ以上ないと言わんばかりにストンと腹に収まった。
「――そうだな。失敗したままというのは性に合わん」
俺達は早速オークの巨体を裏返すことにした。動かせるのが腰と首くらいの彼は、碌に抵抗も出来ず、されるが儘に地に伏した。彼が呼吸をする度に砂埃が舞い、鬱陶しい。早く〆めねば。
極太の頸椎を左腕でなぞり、隙間を探る。俺の手が首を這う感触を追うように、オークの汗の雫が垂れ、鳥肌の波が立つ。緊張しているのだろうか。どこまでも人間的な生物だ。
固い体毛と皮下脂肪に阻まれ四苦八苦しつつも、暫くして当たりを付けた。【寸胴切り】の傷跡が極々薄く残る位置の、僅か3センチ程下の箇所だ。
「ハティ、一撃で終わらせたい。首を持ち上げてくれるか」
「息が臭いから……。あっ、良いこと思いついた!」
助走の距離をとったハティに腕を上げ合図を出す。駆け寄り勢い良く蹴り上げる彼女の右足が首を跳ね上げ、伸びた所を俺の【寸胴切り】が断った。
「終わったな。お疲れさん」
「お腹空いたね」
転がる頭部の前で、俺達はいつものように擦れ違う会話をする。日常を取り戻した実感に浸り、膝が笑い、血の広がる地面に尻もちをついた。歪なあみだくじのように伸びる血の線が手に触れ、命の温かさが流れ出て次第に冷えてゆく様に、高揚や安心感などが混然一体となった複雑な感情が沸き上がる。
何となしに見上げると、晴れやかな青空に鳥類の小さな影が横切った。死傷の蜷局が伸びきったのだ。安堵の空気が野営地に吹き込み、すっかり乱れた銀髪を優しく揺らした。
「皆を助けたら、ご飯食べよ?」
温かな言葉と共に差し出される右手に、「あぁ、そうするか」と、俺も同じ手を重ねる。仰ぎ見る残りの月。引き上げる無骨なガントレット越しに、彼女が生きていることを示す温かさを感じた。
背後から聞こえる喝采に彩られ、ここにオークとの死闘は決したのだった。
樹木、地面、空ばかりの寂しい野営地に広がる賑わい。種々の余韻が冷めきらぬ中、先に動いたのは――オークだった。怒りに任せて無闇矢鱈と暴れることをせず、急所へのダメージを庇うために右腕しかまともに使用出来ない。であるからこそ、動いたのだ。
彼は上体を僅かに前傾。体側に下げていた右腕の指先を地面に深く食い込ませた。見える範囲の筋肉全てが隆起し、血管が青々と張り、地を掴む。溜めを一拍。激越を纏った再度の咆哮と共に、地面を抉り取るようにして右腕を振り抜いた。
襲い来る砂礫の嵐。
咄嗟に叫んだ彼女の名は、咆哮を追い風に凄烈たる勢いで飛来する砂礫に圧倒され、呑み込まれ、鑢をかけられた。「――――!」と、その姿形や込められた意味さえ覆い隠され削られた。電線や電波を断ち切り歪める天災は、さらに原始的な呼応ですら遮ったのである。その虚しさだけが残り、嵐に湧く砂埃に混ざった。
嵐が過ぎ去るのは一瞬。しかし、その被害は計り知れない。
「ゴホゴホ――大丈夫か。お前達」
後ろを振り向くことなく、背にした馬車とその側で倒れ伏す冒険者パーティーにそう尋ねる。
「お蔭さまで助かりました。ありがとうございます。…ケホッ」
誰かは判別不能だが、ハティの声でないなら冒険者パーティー内の誰かである。咳こみながらも、俺の声は今度は必要十分な役割を果たした。時間が経ち薄らと晴れる砂埃の中で、彼等彼女等の咳や呻き声だけが確認出来る。
油断などしていなかった。戦闘が生易しいものではないことを体感していたから。
警戒していた。頸椎を断てなかった、その瞬間から。
そうして気付けた。❝つる×まほ❞におけるオークの攻撃パターンに唯一、1ターンの溜めを要するものが存在していたから。
――――【礫投げ】
誰しも経験する子供の投石遊びを想像させる技名。しかし、いくらオークの巨体と言えど、一握の砂礫では到底有り得ない規模。アンダースローのモーションからかけ離れた、明らかな超常の香りが漂うそれは、オークの土属性範囲攻撃【礫投げ】に他ならない。
「ハティ! おい、ハティィィ!」
彼女に届くように名を叫ぶ。今度こそ、と。
「――――――――だいじょぶ」
暗茶色の臭う霧の向こうから、気の抜けた小さな声が返ってきたことに、俺は毛羽立つ胸を撫で下ろす。
「――――――――マックは……はぁ……うぇっくしょん! ぶしゅん!」
……小汚いくしゃみの音が続かなければ良い雰囲気の応答であっただろうに、なんとも残念なメイドである。やはりこのような危機の只中にあっても、俺達の間に色っぽい糸は繋がらないらしい。それが却って俺の笑みを濃くした。
重く辺りに垂れ込む土の霧が徐々に風に流され散ってゆく。嵐の前で人間に出来ることは、精一杯籠ることだけ。俺の眼前には渦巻く水が浮かび、渦中に土塊や拳大の石、それから砂を巻き込んで茶色く濁っている。
「それは魔法ですか?」冒険者の誰かが、そう疑問を口にした。過ぎる程端的に「あぁ」、と答えると、嵐に逆らうように前に突きだした両腕を下げ、【流水】と【ミキサー】の複合魔法を解除する。ゲーマーの脳細胞が咄嗟に作成した疑似的な盾は、重い音を立てて地面に広がった。
その水音と共に、肩甲骨間の強張りが解け、呼吸のために胸が開く。決して肺に優しくない粒子の舞う空気であっても、それでも思いきり吸い込む。口渇を覚え唇を湿らすと、ざらざらした感触と土のミネラル感ある独特の味がした。
「マック、生きてて良かった」
「お互いにな」
確かな足音と共に霧の中から現れたハティは、全身が細かな切り傷や青い打撲痕に塗れ、痛々しい姿をしていた。しかし、彼女の瞳は未だ死の色を湛えてはいない。むしろ、奥底に猛る闘争心に金の輝きを一層増し、総毛立つような高揚に似た感情を俺に喚起させた。
「予想外の反撃だったが、不意打ちを生き残ればこっちのもの。ここから第二ラウンドだ。まだやれるか?」
「うん。お返しする。痛かったんだから」
彼女は大小無数の傷や凹みを纏ったガントレットを強く打ち鳴らす。先ほどのゴングは彼の痛烈な一撃に繋がったが、今回はどうか。この金属音が最終ラウンドになる予感が、何故だか俺にはあった。誰が為にゴングは鳴る。
砂埃が概ね風に攫われ、久方ぶりに彼と再会することになった。
砂を被ったシャリシャリの髪を掻き上げ、「また会えて嬉しいよ」と軽口を叩いてみる。人語を解さないであろう彼は動かない。而してこちらの一挙一動に油断しない。普段頼りになる鼻が、鬱陶しい砂埃の影響で利かなかったからだろうか。距離があるからか。それとも他の何か。こちらを厳しく睨み付けている。彼から目を離してなるものかと眼光を返しつつ、ハティと策を練る。
「これ以上【礫投げ】を喰らっていてはジリ貧だ」
「うん」
「撃ててあと数回だろうが、数回も撃てば十分こちらに致命打を与えられる。俺の防御も全力で何とか一撃を防いだに過ぎない」
「そうなの? だったら……近づかないと」
彼女の丸い目が細く引き締められた。
オークの魔力量は少ない。序盤に出てくる魔物が強力なAOEを連発するわけにはいかないからだ。現に彼は肩で息をしている。消耗しているのだ。耐え続け消耗を待つという選択肢がこちらに無い以上、彼の行動を制限するためには、近付くことでプレッシャーをかけ、【礫投げ】のモーションに入る余裕を奪うしかない。遠距離攻撃は腕の延長に等しく、彼我の距離は一方的な安全圏を相手に与えるのみ。死中に活を求めると言うが、まさしく。
思い立ったが吉日の勢いで、俺とハティは左右に分かれて駆け、彼との距離を一気に詰める。彼は当惑するでもなく、しかし瞠目して両の目玉を左右に落ち着きなく揺らす。彼の思考を代弁するなら、痛打の拳を放つ人の女と命を断ち得る一撃を放つ人の男、そのどちらに対応するべきか、といった所だろう。大いに難儀するといい。
情けなくも、俺は右腕の側をハティに任せる。申し訳ない限りではあるが、彼女の動体視力や空間把握能力、直感、それら格闘の才幹が無ければ対応は難しいからだ。
かと言って、俺も左で遊ぶわけではない。俺の狙いは首を守る左腕。その破壊を目指す。
先程は人の頸椎の五番と六番の間を断つように【寸胴切り】を出した。そこに骨が当たったということは、オークの背骨は猪のように十九個あり、あの巨体を支えていると考えるのが自然だろう。
ジビエの解体経験がここで活きた。人も豚も猪も背骨の数は個体差があるが、概ね決まっている。人は二十四、猪は十九。実際は刃を当ててみないと分からないが、次に【寸胴切り】を入れる箇所は先程の箇所から上下にズラす必要がある。
――次は殺す。そうでなければ、殺される。
俺は生温い手汗の滲む右掌をコックコートの裾に擦りつけ、滑るナイフの柄を強く握りなおした。
先にオークに仕掛けたのはハティだ。ダメージなど無いと挑発せんばかりの俊足を存分に発揮し、オークに肉薄する。滴る血が彼女の勇歩の跡に散り、山地に酸鼻な彼岸花が咲く。接地点、傷だらけのレガースの底が土に盛大にめり込み、死人花を躙り散らす。腰を捻ると柔軟に上体を反り、「――ッシ!」、鋭い掛け声を伴い全身を連動させた鉄の右拳を突き出した。
彼は無事な右腕で正面からそれを掴み受け止める。その瞬間、なんとも形容し難い肉を叩く重い音が辺りに響いた。オークは端厳な獣面に渋面を作り、掴んだ拳を振り回して宙に放る。彼女は空中で身を捻り、両手足をサスペンションのように扱い衝撃を和らげ軽やかに着地を果たすと、間髪を容れず、再度死圏へ飛び込む。
その一連の攻防が一巡した頃、漸く俺もオークの左に陣取っていた。先の防御より既に息は切れている。それでも行動を止めることは無い。それは勝敗が決するその時まで訪れることは無い。
ハティが派手に鳴らして戦う脇で、首を保護するために突き出た肘にナイフを振るう。狙うは上腕骨から尺骨を結ぶ内側側副靭帯。屈曲や進展に関わるそれにダメージが加われば、人は激痛で肘の動作を諦める。オークは魔物であるが、動作は極めて人に近しい。直立二足歩行で指の数も同じ。使い方も同じ。となれば、身体の構造も近くなければ道理に適わない。
スキルにより強化された刃が入り、ブチブチと抵抗を感じつつも強靭な三つの靭帯を纏めて断った。
「―――――――!」
左腕に走る激痛に猪鼻を鳴らす。回転するように右腕を大きく振るうと、彼は俺達から離れるように不格好なバックステップを試みた。双牙の奥に裂けた大きな口を、あたかも人の笑みと同じように弓なりに持ち上げ、次の瞬間には眉間に幽谷の如き深い皺を刻んだ。あたかも人が困惑するように。
「―――――――!?」
「代弁してやろうか。何故傷が治らないんだ? だろう。――焼いたからだよ。【着火】を纏ったナイフでな」
距離を空けることを許しはしない。俺達は不即不離の間すら設けず追い縋る。
そもそもがおかしかったのだ。首という明らかな急所を頸椎に達するほど切られたというのに、押えているだけ、というのが。そして肉薄して気付いた。首元から血が流れていないことに。止血の為に添えたはずの左腕が脱力し始めていることに。
「凄まじい回復能力。それがお前達オークの強味だと知っていた。ただ、致命傷手前の傷までこの速度で治すなんて書いてなかったから、正直面食らったぞ」
要は加熱メスの要領だ。生物の細胞を構成するタンパク質を熱で変性させ、回復機能を奪ったのである。炭化した肉を削げば健常な組織が働くのだが、戦闘以外の面でお世辞にも知的とは思えない彼の頭脳にそこまでの期待を寄せるのは酷という物だ。
オークは肘が使い物にならないことを悟ったのであろう、ヌンチャクのようにして乱暴に振り回しはじめた。痛みを押してでも抵抗せねばならぬと、彼の生存本能が痛覚の優先順位を低下させた。
「どうした、左脇ががら空きだぞ」
乱雑な攻撃は無防備と同義。武器を壊したその次は、使い手を壊すのが道理。
【着火】の青い炎が銀の剣閃に乗り、固い獣毛の奥でエラのように張る脇の棘下筋を断つ。皮下脂肪の薄いそこは、蛋白質の焼ける小気味よい音と抵抗の後、黒く固い切創を残した。遂に左腕はその大本の支えすら不確かにし、ヌンチャクどころか垂れ下がる肉の棒にまで堕ちた。
「――――――――!」
彼の散らす僅かな出血と濃く滂沱たる脂汗の熱い飛沫が俺の頬を打ち、濡らす。不快感は無い。肌に沁み込むそれらの感覚は、過活動の心臓を重ねて急かす燃料としてくべられ、悲鳴を上げる身体各所に英気の鞭を振るい、今一度漲らせるのだ。
加速度を増す斬撃は狙いを定めず、であるからこそ彼の意識を一手に引き受けた。
「――良い匂いがする」
平静を失った獲物を逃す狩人などいない。最早どちらの流した血か判別不能な赤を纏い、ハティは更に一歩踏み込む。息の根に近付く一歩を。
繰り出される自棄の大振りを屈んで躱した彼女は、低い姿勢から両足を揃えた飛び蹴りを繰り出し、オークの右膝を横から蹴り抜いた。当て感に優れる彼女の一撃は体重の乗る一瞬を見事に捉え、――ゴキッとも、グシャッとも聞こえる異音がして、彼は崩れた。悲痛な叫びを上げ、巨体が砂埃を巻き上げ隠れた。
風が砂埃を晴らし、右腕と左足というアンバランスさでどうにか身を起こす彼の姿を明らかにする。あれほど威容を誇っていたオークも、こうなれば形無しだ。
「よぉ、さっきとは逆になったな」
彼の左腕は、もう碌に動かない。右足もあれではグチャグチャだ。膝蓋骨は砕け、靭帯もズタズタだろう。選手生命終了。ゲームオーバー。
充血しこちらを睨む瞳と天を衝く双牙が、むしろ哀れですらある。
「マック、止め刺さないと」
ハティが警戒しつつ近付く。手負いの獣は恐ろしく、体勢を崩しながらも右腕を伸ばし、目前の脅威を薙ぎ払わんとする。瞬時に身構える俺達。その横を、高速で飛翔する物体が通り過ぎたかと思うと、オークは左目を押え、何度目かという叫びを上げた。
「忘れてんじゃないわよ! レックスの仇め!」
背後から聞こえる甲高い声に振り向くと、弓使いの女が得物を掲げて得意気な笑みを浮かべている。50メートルを優に超える距離で小さな目玉を射抜くとは、舌を巻く腕前だ。
これまた背後から聞こえる呻き声に振り向くと、オークは右腕で左目を押えている。つまりは、右腕が無防備ということ。ハティは容赦なく右前腕ごと顔面を殴りつけ、その衝撃でオークは仰向けに倒れた。
仰ぎ見るハティの姿は、彼の目にどう映るのだろうか。
月は優美であると同時に底知れぬ冷たさを内包している。夜の恐ろしさとは、照らすようで満足に照らさない月光の奔放な優しさと残酷さにこそあるのだ。本質をそう仮定すれば、彼女は月の両面をまさしく体現している。左の光を失った彼には、それが芯から理解出来るだろう。
折れた骨が突き出た右腕も、当分は使えまい。満身創痍の極みである。そんな彼を見下ろし、二人で止めを刺す。
「心臓を突き刺してもいいんだろうが、こう体が厚いとナイフでは一苦労だな。どうするか」
「もう一回首切ってみる?」
ハティの提案は、それ以上ないと言わんばかりにストンと腹に収まった。
「――そうだな。失敗したままというのは性に合わん」
俺達は早速オークの巨体を裏返すことにした。動かせるのが腰と首くらいの彼は、碌に抵抗も出来ず、されるが儘に地に伏した。彼が呼吸をする度に砂埃が舞い、鬱陶しい。早く〆めねば。
極太の頸椎を左腕でなぞり、隙間を探る。俺の手が首を這う感触を追うように、オークの汗の雫が垂れ、鳥肌の波が立つ。緊張しているのだろうか。どこまでも人間的な生物だ。
固い体毛と皮下脂肪に阻まれ四苦八苦しつつも、暫くして当たりを付けた。【寸胴切り】の傷跡が極々薄く残る位置の、僅か3センチ程下の箇所だ。
「ハティ、一撃で終わらせたい。首を持ち上げてくれるか」
「息が臭いから……。あっ、良いこと思いついた!」
助走の距離をとったハティに腕を上げ合図を出す。駆け寄り勢い良く蹴り上げる彼女の右足が首を跳ね上げ、伸びた所を俺の【寸胴切り】が断った。
「終わったな。お疲れさん」
「お腹空いたね」
転がる頭部の前で、俺達はいつものように擦れ違う会話をする。日常を取り戻した実感に浸り、膝が笑い、血の広がる地面に尻もちをついた。歪なあみだくじのように伸びる血の線が手に触れ、命の温かさが流れ出て次第に冷えてゆく様に、高揚や安心感などが混然一体となった複雑な感情が沸き上がる。
何となしに見上げると、晴れやかな青空に鳥類の小さな影が横切った。死傷の蜷局が伸びきったのだ。安堵の空気が野営地に吹き込み、すっかり乱れた銀髪を優しく揺らした。
「皆を助けたら、ご飯食べよ?」
温かな言葉と共に差し出される右手に、「あぁ、そうするか」と、俺も同じ手を重ねる。仰ぎ見る残りの月。引き上げる無骨なガントレット越しに、彼女が生きていることを示す温かさを感じた。
背後から聞こえる喝采に彩られ、ここにオークとの死闘は決したのだった。
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