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第二章 寸胴一つあれば大抵どうにかなります
回想、そしてこの世界で生きる喜び
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意気軒昂と騎士達が愛馬と歩みを早める中、俺達はと言うと……
「ハティ、少し引きすぎだ。緩めてくれ」
「こう?」
「あぁ、いい感じだ。――よっ、と」
馬車の荷台にキュイジーヌ家の紋章、交差する二本の剣と月桂樹の葉、が現れた。幌を張ったのだ。
途端に、馬車の左右に付いていた警護の騎馬が嘶き、歩調を乱す。紋章の織り糸が放つ光沢に仰天したのだろうか。執務室には鼻を衝く蝋燭を置き、幌には金をかける。父上の貴族観が馬達の角膜にダメージを負わせたのだ。
――馬も人も金目の輝きに目が焼けるわけだ。
下らない気付きだと自覚しつつ、幌の向こうにいるであろう、馬の手綱を慌てて繰る騎士達に軽く頭を下げた。自分の責任も一割五分位はあるだろうから。
”貴族が馬車仕事をするなど!”と父上が雷を落としそうな行為だな、と思う。自重せねば、と。そう思いはするのだが、親の目が届かない所でやんちゃするのが子供という生き物なのだから。紳士諸侯はこの蛮行も一時のものだと、泰然自若、この眼前に広がる平原の如き雄大な心持ちでいてほしいものだ。丁度、平原を睥睨するように屹立するあの山脈のように。
今世の父親は、まあ、及第点だろうか。兄二人の振る舞いに目くじらを立てる様子はない。前世の父は……まあ、そう悪くもなかったと思う。これまた及第点だ。
――前世も今世も、俺が及第点に遠く及ばなかったことが難点だな。
突然だが、読者諸賢には余談に少し付き合ってもらいたい。前世という今となっては余談にしかならない十数年のことを。
俺、いやその頃はまだ自分を”僕”と遜って呼ぶ殊勝さがあった頃のこと。姉から遅れること十余年、僕は日本の片田舎に生まれた。海と山に囲まれた、隠れ里のような所だ。両親は揃って四十路で、玉のように可愛くはないが卵顔の僕は、なかなか愛されていたと思う。長閑な山村で大自然に育てられた、などと親が悲しみそうなことを言ってみる。
人の生活圏は狭く、里山は脅威であり恵みでもあった。瞼の裏には、ポジフィルムのように四季折々の風景が鮮明に焼き付いている。
春の山には、長い冬を堪えた木々が若々しく萌える。山道にはガードレールなんてハイカラな物は無く、代わりに桜並木が延々と続く。誰がいつ植えたかも分からないその桜が春水を吸い上げ、余寒にその蕾を震わせる様は実に可愛らしい。淡い木漏れ日に隠れながら、青く香り立つ風に撫ぜられ、さらさらと擦れる葉の中で今か今かと膨らむそれらを眺めて歩くのが好きだった。
夏の田では、稲が空に向けて背筋を伸ばす。炎夏にきらきらと光る水田は、稲穂が汗をかき、塩の結晶が散っているのかもしれない。コンクリートで舗装された灰色の側面には、ジャンボタニシの赤い卵が彩りを添える。血を吸われるから触ってはならないよ、と耳にタコが出来るほど言われた。あと三日すればこの宝石箱は中干しで旱魃のような地獄の風景になるのだが、数日耐えれば水が満ちる。物心ついて数年、毎年それを見ては胸を撫で下ろすのだ。
秋の空気は、死の気配に満ちている。一年の盛りを超え、あとは冬に向けたスパートだと世界が気を急く。乾田には褪せた鍍金色の稲穂の丸太が痛々しい。ストローのような断面から地の気が抜けていく。山では落葉樹がそこかしこで血を吐く。秋咲きのコスモスはチアノーゼ色で、なんだか気味が悪い。しかし、これすら枯れればもう冬は隣。木陰からこちらを覗いている。
冬の海は、なんだか暖かい。霜枯れ時は山も人も景気が悪く、狸や猿をあまり見かけない。里にあるのは切干大根と干柿、同じくらい皺だらけの年寄りくらいのもの。なのに魚だけは変わらず海中を泳いでいるのだから、きっと暖かいのだろう。重い飛沫を散らす海面は鈍色で、夕日が触れると派手な音を立てそうだ。凍った浜風に手を揉み、つるつると滑る道を帰った。冬の風呂はひたすらに熱く、馴染んでしまえば出たくない。魚は何故ふやけないのかと不思議だった。
世界の彩りを五感で味わいつつも、僕の楽しみはこの世に一つだけであった。幼い少年の鮮烈な感性を一心不乱に注がれた世界一の幸せ者。それは生物。
とは言っても、生命の神秘なんてものには毛ほども興味は無く、ただその命の潰える瞬間に立ち会うことが堪らなく好きだった。無論、興奮なんてしない。落ち込みもしない。心は大海に影を落とす夜のしじまのように穏やかなものだ。
最初は蚊だった。皺枯れた理科のお爺ちゃん先生が、「蚊が腕に止まったら、グッと力を入れてみなさい。針が抜けなくなって面白いぞ」と教えてくれた。一日千秋の思いで夏を待ち、いざ試してみる。蚊は前足か腕か知らないがジタバタとし、動かなくなった。人類はこの日、蚊に勝利したのだ。両親や先生に報告をすると、彼等彼女等は楽し気に笑い、頭を撫でてくれた。
次は机に液体のりを広げ、ハエの足を張り付けてみた。
逃げないよう、ガチャガチャのプラカップで覆う。羽を五月蠅く鳴らし抗議をするかのようなそれを眺めていると、いつの間にやら窓から厳しい西日が差している。咎められているようで煩わしい。なんとなくそう思い、ペールブルーのカーテンを閉めた。世界が紫がかり、幻想的にライトアップされる。星の透かした模様がプラネタリウムのように至福の時間を飾った。
幸せは足早に過ぎるもので、机上の電波時計は18:30と表示している。夕食時だ。階下から響く母と姉が僕を呼ぶ声に、大好きなカレーの香りが乗って届く。「はーい!」答えると同時に失念を詫びるようにお腹が鳴ると、電気を消し、踊るように部屋の外へ出る。扉の隙間からは命乞いをするような悲嘆の羽音が漏れ出ていたので、閉じ込めた。
その日のカレーは不気味なほど美味しく、部屋に戻る頃にはシャツの前がまん丸に膨らんでいた。珍しく二杯もおかわりしてしまったのだ。虜囚のことはとっくに忘れ、ベッドに倒れ込み意識を手放した。
そうこうしている内に、次の夏がやってきた。夏は忙しい。尋常でない量の宿題をこなした上で、毎朝ラジオ体操に行かなければならないからだ。隣クラスの嫌いな男子から距離をとり、仲の良い奴らと徒党を組んでスタンプを集めた。
帰宅し、良く冷えた麦茶を飲み喉を潤す。風呂上りの父が決まって言う、「沁みる」というやつだ。真似をすると、「何背伸びしてるんだか」と母と姉に笑われた。
今日はカエルだ。河原を歩くと、すぐに捕まる。ゴム質の感触が面白く、しばらく眺めていた。もう見所が無くなった頃、カエルを足下の石に投げつけて虫の息にする。カエルが虫の息とは皮肉なものだ。
石の上にカエルを仰向けに寝せ、その白い腹に虫メガネで光を集める。するとどうしたことか、腹がまるで風船のように丸く膨らむではないか。内臓が薄く透ける様に僕は手を叩いて笑い、この遊びでひと夏を乗り切った。
挙げればきりがないほど奥深い趣味だが、この辺にしておこう。
いつしか僕は俺になり、将来の夢はヒーローから料理人になった。
この趣味嗜好を活かせる仕事というのは多くなく、一番楽しそうなのが料理人だった。趣味と実益を兼ねるというやつだ。両親や姉は背中を押してくれた。家業を継げとも言わず、学校にほど近い物件の比較的高い家賃も払ってくれる。トントン拍子に進んで、こちらの用意が追い付かないほどだった。
上京、別れの日。三者三様の惜別の言葉を貰い、胸が熱い。三人は震える体をやをらに動かしハグをして、「さようなら」と、耳元でそう言った。
出発時刻まで残り三分。ホームとワンマン電車の隙間に寂しさを感じながら、乗り込んだ。
車窓のガラスは年季で黄ばみ、陽光を淡く減じている。座席に適当に腰を下ろすと、コートの下に汗が噴き出た。暖房の吹き出し口の真下は暑く、汗ばむ首元からマフラーを剥ぎ取ると、いくらかマシだ。続けてコートを脱ぐと、マフラーと丸めて脇に置いた。
新居までは片道半日。それだけ遠ければ焦りもしない。一眠りするかと目を閉じると、暖房の熱風に煽られて、懐かしい記憶が蘇る。
――あぁ、そう言えば、あのハエはどうしたっけ。いつの間にか机に無かったんだよな……。トカゲもスズメも。それと……。
電車が低く鳴動すると、その長大な体をくねらせ始める。車体がホームから滑り出て、懐かしい記憶を名残惜しく思いながらも目を開ける。最後に一目と思い家族を探すと、俺が見たのは良く知るファミリーカーの後ろ姿だった。相対速度以上に足早に遠ざかる家族に、俺は全てを悟った。
時代遅れの模様が浮かぶ座面に深く体を沈め、絞り出すように故郷の空気を吐く。「さよなら」と吐き捨てるように呟き、強く瞼を結ぶ。左から右に切り替わっていく車窓の風景は、あたかもネガティブフィルムのように俺の感情を明暗反転させた。
鳥獣保護法を脇に置いて、閑話休題
ハティを見ていると、父性と世間一般で呼ばれる諸感情が自分の中に存在していたことに驚かされる。月虹を渡りどこかへ消えてしまいそうな危うい美を湛える彼女も、こうしてソファで足をバタつかせている曲線の柔らかさを持つ彼女も。彼女が自分を肯定してくれるのなら、自分も彼女の有様を肯定しよう。
俺は、生まれて初めて自身を肯定してくれる世界と人間に出会った。肯定される気分というのはこういうものかと知った。胸の支えが取れ、深く呼吸が出来る。世界を受け入れ、世界に受け入れられる。生きるという感覚を、初めてこの世界で知ることが出来たように思う。
思い出も心残りも無ければノスタルジアなど湧かないもので、馬車の背後に一騎がピタリとついたことにも気付いていた。「ご報告を致します!」声の通りを意識した野太さの中に、若さが垣間見える声。俺は木箱の脇を通り、荷台の後尾へ移る。
「ランスか、どうした」
まともに話すのは野営の夜以来だ。どうやら伝令に使われているらしい。
「ボールス副団長から報告です。馬の消耗を加味して、ライゼ村付近には2日後の昼前に到着する予定とのこと。ライゼ村まで宿をとれるような町は無いため、野営となります。数名を先行させ、偵察しつつ道中の安全を確保する、とのことです」
なるほど、馬の脚か。寝る間を惜しみ昼夜を問わず走り抜く、なんて真似は現実には出来ない。そんなことをすれば馬が潰れるからだ。なんともロマンの無い話だが、悲しいけどこれ、現実なのよね。
「そうか。報告ご苦労。ボールスに了解したと伝えろ。下がっていいぞ」
「はっ」
折り目正しい敬礼の後、彼は馬車を離れ後ろに流れていき、銀色の点描に紛れた。
馬車の緩慢な進みが焦れったいようで、それと同時に引き留めたい気持ちもある。御者越しの風景は、少しずつ目的地の山の面積を増していく。これから自分がこの世界の人間となる戦いの舞台に向けて。じりじりと。しかし着実に。
「ハティ、少し引きすぎだ。緩めてくれ」
「こう?」
「あぁ、いい感じだ。――よっ、と」
馬車の荷台にキュイジーヌ家の紋章、交差する二本の剣と月桂樹の葉、が現れた。幌を張ったのだ。
途端に、馬車の左右に付いていた警護の騎馬が嘶き、歩調を乱す。紋章の織り糸が放つ光沢に仰天したのだろうか。執務室には鼻を衝く蝋燭を置き、幌には金をかける。父上の貴族観が馬達の角膜にダメージを負わせたのだ。
――馬も人も金目の輝きに目が焼けるわけだ。
下らない気付きだと自覚しつつ、幌の向こうにいるであろう、馬の手綱を慌てて繰る騎士達に軽く頭を下げた。自分の責任も一割五分位はあるだろうから。
”貴族が馬車仕事をするなど!”と父上が雷を落としそうな行為だな、と思う。自重せねば、と。そう思いはするのだが、親の目が届かない所でやんちゃするのが子供という生き物なのだから。紳士諸侯はこの蛮行も一時のものだと、泰然自若、この眼前に広がる平原の如き雄大な心持ちでいてほしいものだ。丁度、平原を睥睨するように屹立するあの山脈のように。
今世の父親は、まあ、及第点だろうか。兄二人の振る舞いに目くじらを立てる様子はない。前世の父は……まあ、そう悪くもなかったと思う。これまた及第点だ。
――前世も今世も、俺が及第点に遠く及ばなかったことが難点だな。
突然だが、読者諸賢には余談に少し付き合ってもらいたい。前世という今となっては余談にしかならない十数年のことを。
俺、いやその頃はまだ自分を”僕”と遜って呼ぶ殊勝さがあった頃のこと。姉から遅れること十余年、僕は日本の片田舎に生まれた。海と山に囲まれた、隠れ里のような所だ。両親は揃って四十路で、玉のように可愛くはないが卵顔の僕は、なかなか愛されていたと思う。長閑な山村で大自然に育てられた、などと親が悲しみそうなことを言ってみる。
人の生活圏は狭く、里山は脅威であり恵みでもあった。瞼の裏には、ポジフィルムのように四季折々の風景が鮮明に焼き付いている。
春の山には、長い冬を堪えた木々が若々しく萌える。山道にはガードレールなんてハイカラな物は無く、代わりに桜並木が延々と続く。誰がいつ植えたかも分からないその桜が春水を吸い上げ、余寒にその蕾を震わせる様は実に可愛らしい。淡い木漏れ日に隠れながら、青く香り立つ風に撫ぜられ、さらさらと擦れる葉の中で今か今かと膨らむそれらを眺めて歩くのが好きだった。
夏の田では、稲が空に向けて背筋を伸ばす。炎夏にきらきらと光る水田は、稲穂が汗をかき、塩の結晶が散っているのかもしれない。コンクリートで舗装された灰色の側面には、ジャンボタニシの赤い卵が彩りを添える。血を吸われるから触ってはならないよ、と耳にタコが出来るほど言われた。あと三日すればこの宝石箱は中干しで旱魃のような地獄の風景になるのだが、数日耐えれば水が満ちる。物心ついて数年、毎年それを見ては胸を撫で下ろすのだ。
秋の空気は、死の気配に満ちている。一年の盛りを超え、あとは冬に向けたスパートだと世界が気を急く。乾田には褪せた鍍金色の稲穂の丸太が痛々しい。ストローのような断面から地の気が抜けていく。山では落葉樹がそこかしこで血を吐く。秋咲きのコスモスはチアノーゼ色で、なんだか気味が悪い。しかし、これすら枯れればもう冬は隣。木陰からこちらを覗いている。
冬の海は、なんだか暖かい。霜枯れ時は山も人も景気が悪く、狸や猿をあまり見かけない。里にあるのは切干大根と干柿、同じくらい皺だらけの年寄りくらいのもの。なのに魚だけは変わらず海中を泳いでいるのだから、きっと暖かいのだろう。重い飛沫を散らす海面は鈍色で、夕日が触れると派手な音を立てそうだ。凍った浜風に手を揉み、つるつると滑る道を帰った。冬の風呂はひたすらに熱く、馴染んでしまえば出たくない。魚は何故ふやけないのかと不思議だった。
世界の彩りを五感で味わいつつも、僕の楽しみはこの世に一つだけであった。幼い少年の鮮烈な感性を一心不乱に注がれた世界一の幸せ者。それは生物。
とは言っても、生命の神秘なんてものには毛ほども興味は無く、ただその命の潰える瞬間に立ち会うことが堪らなく好きだった。無論、興奮なんてしない。落ち込みもしない。心は大海に影を落とす夜のしじまのように穏やかなものだ。
最初は蚊だった。皺枯れた理科のお爺ちゃん先生が、「蚊が腕に止まったら、グッと力を入れてみなさい。針が抜けなくなって面白いぞ」と教えてくれた。一日千秋の思いで夏を待ち、いざ試してみる。蚊は前足か腕か知らないがジタバタとし、動かなくなった。人類はこの日、蚊に勝利したのだ。両親や先生に報告をすると、彼等彼女等は楽し気に笑い、頭を撫でてくれた。
次は机に液体のりを広げ、ハエの足を張り付けてみた。
逃げないよう、ガチャガチャのプラカップで覆う。羽を五月蠅く鳴らし抗議をするかのようなそれを眺めていると、いつの間にやら窓から厳しい西日が差している。咎められているようで煩わしい。なんとなくそう思い、ペールブルーのカーテンを閉めた。世界が紫がかり、幻想的にライトアップされる。星の透かした模様がプラネタリウムのように至福の時間を飾った。
幸せは足早に過ぎるもので、机上の電波時計は18:30と表示している。夕食時だ。階下から響く母と姉が僕を呼ぶ声に、大好きなカレーの香りが乗って届く。「はーい!」答えると同時に失念を詫びるようにお腹が鳴ると、電気を消し、踊るように部屋の外へ出る。扉の隙間からは命乞いをするような悲嘆の羽音が漏れ出ていたので、閉じ込めた。
その日のカレーは不気味なほど美味しく、部屋に戻る頃にはシャツの前がまん丸に膨らんでいた。珍しく二杯もおかわりしてしまったのだ。虜囚のことはとっくに忘れ、ベッドに倒れ込み意識を手放した。
そうこうしている内に、次の夏がやってきた。夏は忙しい。尋常でない量の宿題をこなした上で、毎朝ラジオ体操に行かなければならないからだ。隣クラスの嫌いな男子から距離をとり、仲の良い奴らと徒党を組んでスタンプを集めた。
帰宅し、良く冷えた麦茶を飲み喉を潤す。風呂上りの父が決まって言う、「沁みる」というやつだ。真似をすると、「何背伸びしてるんだか」と母と姉に笑われた。
今日はカエルだ。河原を歩くと、すぐに捕まる。ゴム質の感触が面白く、しばらく眺めていた。もう見所が無くなった頃、カエルを足下の石に投げつけて虫の息にする。カエルが虫の息とは皮肉なものだ。
石の上にカエルを仰向けに寝せ、その白い腹に虫メガネで光を集める。するとどうしたことか、腹がまるで風船のように丸く膨らむではないか。内臓が薄く透ける様に僕は手を叩いて笑い、この遊びでひと夏を乗り切った。
挙げればきりがないほど奥深い趣味だが、この辺にしておこう。
いつしか僕は俺になり、将来の夢はヒーローから料理人になった。
この趣味嗜好を活かせる仕事というのは多くなく、一番楽しそうなのが料理人だった。趣味と実益を兼ねるというやつだ。両親や姉は背中を押してくれた。家業を継げとも言わず、学校にほど近い物件の比較的高い家賃も払ってくれる。トントン拍子に進んで、こちらの用意が追い付かないほどだった。
上京、別れの日。三者三様の惜別の言葉を貰い、胸が熱い。三人は震える体をやをらに動かしハグをして、「さようなら」と、耳元でそう言った。
出発時刻まで残り三分。ホームとワンマン電車の隙間に寂しさを感じながら、乗り込んだ。
車窓のガラスは年季で黄ばみ、陽光を淡く減じている。座席に適当に腰を下ろすと、コートの下に汗が噴き出た。暖房の吹き出し口の真下は暑く、汗ばむ首元からマフラーを剥ぎ取ると、いくらかマシだ。続けてコートを脱ぐと、マフラーと丸めて脇に置いた。
新居までは片道半日。それだけ遠ければ焦りもしない。一眠りするかと目を閉じると、暖房の熱風に煽られて、懐かしい記憶が蘇る。
――あぁ、そう言えば、あのハエはどうしたっけ。いつの間にか机に無かったんだよな……。トカゲもスズメも。それと……。
電車が低く鳴動すると、その長大な体をくねらせ始める。車体がホームから滑り出て、懐かしい記憶を名残惜しく思いながらも目を開ける。最後に一目と思い家族を探すと、俺が見たのは良く知るファミリーカーの後ろ姿だった。相対速度以上に足早に遠ざかる家族に、俺は全てを悟った。
時代遅れの模様が浮かぶ座面に深く体を沈め、絞り出すように故郷の空気を吐く。「さよなら」と吐き捨てるように呟き、強く瞼を結ぶ。左から右に切り替わっていく車窓の風景は、あたかもネガティブフィルムのように俺の感情を明暗反転させた。
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ハティを見ていると、父性と世間一般で呼ばれる諸感情が自分の中に存在していたことに驚かされる。月虹を渡りどこかへ消えてしまいそうな危うい美を湛える彼女も、こうしてソファで足をバタつかせている曲線の柔らかさを持つ彼女も。彼女が自分を肯定してくれるのなら、自分も彼女の有様を肯定しよう。
俺は、生まれて初めて自身を肯定してくれる世界と人間に出会った。肯定される気分というのはこういうものかと知った。胸の支えが取れ、深く呼吸が出来る。世界を受け入れ、世界に受け入れられる。生きるという感覚を、初めてこの世界で知ることが出来たように思う。
思い出も心残りも無ければノスタルジアなど湧かないもので、馬車の背後に一騎がピタリとついたことにも気付いていた。「ご報告を致します!」声の通りを意識した野太さの中に、若さが垣間見える声。俺は木箱の脇を通り、荷台の後尾へ移る。
「ランスか、どうした」
まともに話すのは野営の夜以来だ。どうやら伝令に使われているらしい。
「ボールス副団長から報告です。馬の消耗を加味して、ライゼ村付近には2日後の昼前に到着する予定とのこと。ライゼ村まで宿をとれるような町は無いため、野営となります。数名を先行させ、偵察しつつ道中の安全を確保する、とのことです」
なるほど、馬の脚か。寝る間を惜しみ昼夜を問わず走り抜く、なんて真似は現実には出来ない。そんなことをすれば馬が潰れるからだ。なんともロマンの無い話だが、悲しいけどこれ、現実なのよね。
「そうか。報告ご苦労。ボールスに了解したと伝えろ。下がっていいぞ」
「はっ」
折り目正しい敬礼の後、彼は馬車を離れ後ろに流れていき、銀色の点描に紛れた。
馬車の緩慢な進みが焦れったいようで、それと同時に引き留めたい気持ちもある。御者越しの風景は、少しずつ目的地の山の面積を増していく。これから自分がこの世界の人間となる戦いの舞台に向けて。じりじりと。しかし着実に。
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