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第二章 寸胴一つあれば大抵どうにかなります

憐れみ、そして臭い

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 屋敷の鉄扉を潜り、行政区まで続く緩やかな下り坂をもどかしい思いで進む。あたかも大蛇の背を渡るように恐々と動く行軍の列は長く伸び、その中程に俺がいる。坂がとぐろを巻けば、中心でいち早く圧死しそうな、そんな危険な位置だ。

 次第に親蛇に添う子蛇のように見え、この遅さも微笑ましく感じ始めた頃、子蛇の頭が千切れて飛んだ。先頭の軍馬が駈足になったのだ。その騎士は坂を一騎駆けに下った先で、町衆に道を開けるように叫ぶそうだ。露どころか猫も杓子も払うような野太い声に違いない。――こんな朝っぱらからごめんよ。

 自分でぶち上げておいて世話ないのだが、逸る気持ちを抑えようと、領主邸の建つ丘から領都を一望する。大まかには画一的でありながら、それでも不揃いな屋根の高低が見える。朝日を反射するような美しい白壁があったかと思えば、吸い込むような古臭い土色の壁があったりもするのだ。そこに暮らす人々の懐事情や歴史が、家の色形、ある意味で顔色に現れているような気がして面白い。こんなことは、そう長い時間を消費できる楽しみではないが、丘に広く繁茂する草木の照り返しに比べれば、大いに豊かな感覚だ。食用でない植物を見ても、俺の心には何の感慨も湧かないのだから。

 

 ところで、今俺とハティは幌馬車に揺られている。領主の子になんて扱いを! と憤る読者諸賢には、どうか落ち着いていただきたい。皆様の御心には平素より御礼申し上げるが、これは俺自信が申し出た結果なのだ。諸賢の憤りは当家の厳つい副団長が既に代弁し、その上で納得してもらえた。もう何も言うまいな? ソファを急設した特別性だぞ。

 幌馬車には木箱が積まれ、心地よい冷気を放っている。シリアルバーや干し肉のような常温保存が可能なものは他の馬車に積まれ、冷凍冷蔵の食料はスキルで面倒を見ているのだ。

 ジリジリと、蟻が歩むような速度で消耗している感覚がある。❝つる×まほ❞におけるスキルは、【剣術】や【弓術】といった武術系統のスキルは体力を消費して発動し、【炎魔法】や【風魔法】といった魔法系統のスキルは魔力を消費して発動していた。【料理】はその両方の性質を持っているので、ゲーム内では体力魔力双方を消費した。つまり、【冷凍】【冷蔵】を発動している今は魔力を絶賛消費中。体感は気疲れのようなもので、心の活気が嵩を減らしていくような感じだ。

 こうしてスキルについて振り返ると、マックが如何に恵まれ、そして不運だったかと憐れまずにいられない。

 転生? 憑依? 前のマックは、血筋に恵まれた上に父親の影響で熱心に鍛錬を積んでいた。武術系統であれ魔法系統であれ、一端の使い手になれたことだろう。たとえ家督は継げずとも、飯には困らない生活が約束されていたと言って良い。

 しかしながら、いや、だからこそ、貴族が料理という使用人の仕事を学ぶというのは有り得ないことだった。腐心に苦心を重ね必死に育てたプライドは彼の背骨であって、同時に杭でもあった。スキルを使いこなせず腐ってしまった。そうして世界に裏切られ、親に見限られた。僅か十五年の人生と、その先の茫漠たる時間を捧げた結果、彼には何も残らなかったのである。

――日本の武士には庖丁道があった。こっちにそういう文化、いや設定があればマックにも違う道があったんだろうか。

 積み荷が心まで冷やしたのか、詮無いことを考えてしまった。ジャーギングが脳を揺らして正気に戻った。


 
 切迫した状況を知らない馬の歩みは緩慢だ。俺達の前に座る御者は、ハティから急かされるように背を突かれて頭を掻いている。背中のスイッチを押すと動く縫い包みのようで、なんだか可愛い。実体は中年の脂ぎった男なのだから、一生振り向かなければ俺達は皆幸せでいられる。人類皆平和。ラブ・アンド・ピースだ。

「えぇっと……、良い天気でまことに結構でございますねぇ」

「――そうだな」

結構毛だらけ猫灰だらけ。振り向いた御者の頭にはバーコードのような髪がいくらかあるばかりで、何やら寂しい気持ちになってきた。頭皮の血行が悪いのだろう。気まずい時の天気の話題は色々とリスキーなのだ。そら振り向くなと言っただろうに。

 「ハティ。ラグナ村に到着するのは明日の予定だ。そう御者を急かしても距離は縮まらないぞ」

 「走った方が速い!」

 ふんすふんす、石炭をくべた汽車のようにハティの鼻息が荒れる。落ち着けようとするが、どうにも身が入らない。彼女が言わんとすることが分かるからだ。大人数で動くということは、えてして速度を犠牲にしがちで、兵站を考えれば尚更だろう。

 「お前は、な。俺やあいつらはそうじゃない。馬には勝てんさ」

 「うぅ……」

 華奢な彼女には似つかわしくない無骨なガントレットが悔し気に打ち合わされて、重量のある金属音が狭い幌に木霊した。❝つる×まほ❞の強力な装備を知っている俺からすれば何てことない鉄製のガントレットだが、彼女が身に付けるだけで特別な物のように見えるから不思議だ。死を回避するためには装備も重要になるだろう。勇者との力量差を埋めるために宝物庫を漁りたいところだが、鍵を持っていないので不可能だ。強さに拘りのある父上のことだ、強力な武具が蔵されているに違いないのだが……。口惜しい。

「狩人は獲物を手玉に取るのが理想だろう? こちらが焦ってしまえば狩りは上手くいかないし、最悪は返り討ちに遭うかもしれん。その辺のことはお前が一番知っているはずだが」

 これまでの彼女の戦いを見ていて思ったことがある。その戦いは狩人の戦いであって、騎士の戦いではない。素早く一撃で勝負を決める静かな戦いなのだ。

「そうだね……。うん、そう」

「殺るか、殺られるかの世界。というやつだな」

「うん。それが野生」

獣の気性に近しい獣人が言うと、説得力が増す。

「今回は血で血を洗うような、激しい戦闘になるかもしれんな」

「それじゃあ、臭い消しできないよ? 見つかっちゃう」

――臭い消し、か。

 前世で色々な生物を捌いた俺の手は、いったいどんな臭いが染み付いているのだろう。食べるために捌く日もあれば、楽しむために捌いた日もあっただろう。日に透かして見ても、何も分からないし変わらない。ただ、じっとりとした汗で湿っていた。

「今回は、ではなくだ。臭いを消す間に、次の獲物がおいでになるさ。お前は殴殺蹴殺のスタイルだから、吐血を浴びそうだな」

ソファの座面に手を擦りつけながら、そう呟いた。これは闘争心が滲んだものだと自分に言い聞かせるように、祈るように、詫びるように、繰り返した。

「水浴びするから大丈夫!」

屈託のない花が綻ぶような笑顔を彼女は俺にくれた。目は弓のように反り、唇から前歯を覗かせ、えくぼが抉れている。淡い頬の赤み。風に流れる絹糸のような長髪が口に入りそうなことも厭わない。極めて健やかで、人間離れして清らかだった。

晒すように、俺は両の手を顔の前まで持ち上げていた。

「洗えば落ちるものなのか? 長くこびり付いて、酷い臭いだったらどうする?」

責めるような口調で俺はハティに答えを求めた。懺悔や告解にも近いかもしれない。

「見えない汚れは気にならないよ? 臭いなんて濃いか薄いかだよ」

鼻をヒクつかせるハティに、心臓が止まりそうなほどにギュッとなる。床掃除をした雑巾を絞ったように汗が噴き出て、脇と股がしとどに濡れる。海水浴の後に着る服のように下着が張り付き、強烈に不快だ。

遮る物のない草原の風が、冷や汗に塗れた俺をあたかも見世物小屋の怪物を眺めるようにして通り過ぎる。冷やかしの口笛のように、ぴゅう、と軽薄な音が鳴った。

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