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第二章 寸胴一つあれば大抵どうにかなります

料理を片づけて、そして月光

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 外はもうとっぷりと暮れていた。本来であれば料理人達は使用人の食事の用意に忙しい時間だが、今夜に限ってはそうではない。竈と燭台、それから俺が浮かべる炎に照らされ、キッチンはこの世界では珍しいほど光り輝いていた。暖かな光の内側には、さらにアツい雰囲気が充溢していた。

 「ふぅ――。ギモーヴにマシュマロ、マシュマロを融かして穀物を固めたシリアルバーにオークのコンフィ、一丁あがりっと」

 おそらく五・六百丁くらいはあがっているのだが、これは様式美と言う奴だ。
 
 こうして終えてみると、思い出したように疲労が疾風怒濤に押し寄せて来る。額に浮いた汗の雫を漆黒のコックコートの袖口で拭う。食欲に憑りつかれたハティから一日俺の体を守ってくれたこの服は、なかなかの強靭さをしているようだった。

 労わるように上のボタンを外し、合わせを開くと、窮屈さに喘ぐ熱気が解放された。

 「お疲れ様でした。マック様。勉強させていただきました」

 カレームが磁器のカップを差し出してくる。ハティには期待できない心遣いになにやら感動を覚えつつ、「すまんな」と迎えた。薄手のカップに触れると、予想外の冷たさに指先が引っ込んだ。男は度胸だとまでは言わないが、二度も驚いてなるものかと今度は腹を決めてしかと掴む。冷たさが掌から伝わり、疲労を溶かしてゆく。

 「いや、お前達の働きが無ければこんなものでは済まなかっただろうさ。どいつもこいつも勉強熱心でなによりだな。うちのキッチンは安泰だ」

 最初はどうにも怪訝な目線をコート越しに感じたものだが、結局は全員が参加していた。

――やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、褒めてやらねば、人は動かじ。ってな。

 軍人も料理人も上下関係が厳格な体力仕事なのだから、相通ずる部分があるのだろう。

 「コンフィについては、油で煮る時間があれほどとは……。マック様に火を出していただかなければ、薪をどれ程使うことになったやら。油に薪に、これはこれで金のかかる料理です」

 カレームが作業台に積まれた陶器の壺を感慨深げに眺め、「の仕込みも上々ですな」と悪戯顔で歯を見せた。一日遊びに耽た少年のような、満足した顔だった。

「金のかかる保存食というのも可笑しな話だが……。このまま焼いてやれば立派な一品だ。残りは今夜皆で食べるといい。俺の馬鹿メイドのように事あるごとに味見をするのは如何なものかと思うが、お前達は真面目に働いてくれたからな」

「お心遣い痛み入ります」

慇懃なその態度に、背筋がむず痒い。いたたまれなくなった俺は、困った時の狼型メイドを探す。ボウルや鍋を洗う料理人達のそば、部屋の角で体を抱えるようにして寝ている彼女の姿がそこにあった。

「マック様はそこのメイドが大層お気に入りのようですな」

カレームが、好々爺と呼ぶには少し早い、コピー用紙を丸めたようなクシャクシャの笑顔で野次を飛ばす。不思議と嫌味の無い、小気味よい外連味を帯びたその声色に、彼がこの場を仕切る立場にある理由を垣間見た気がした。

「彼女は俺の命綱なんだよ」

「命綱、でございますか」

「あぁ、運命共同体と言い換えてもいい」

「何やら素敵な表現ですな」

こんな血生臭い表現もないだろうがと、なんだか馬鹿馬鹿しくなり、張り付いた髪を払い立ち上がった。



 煮炊きと人の熱で蒸されたキッチンは、いつからか窓や扉を開けっ広げていたらしい。幾らかは抜けていったのだろうが、それでも熱気が渦巻いて、天井に雲が出来そうだ。カップを傾けると、水が心地好く喉を冷やしていく。いやぁ、甘露甘露。

 ハティの味見を牽制しつつも、向こうの調理法とこちらの食材の相性を調べるために、かなりの量を俺も食べた。随分とくちくなった腹を摩ると、張って返事を返してくる。今夜はもう夕食はいらなそうだ。

 「保存は如何しますか?」

達成感と慰労の声が響く中、カロリーヌが同僚達の間をもみくちゃにされながら寄ってきた。

「到着までは俺が冷やし続けるつもりだが」

「師匠、魔法を使い続けても大丈夫なのですか? 大変消耗すると聞きますが……」

 自分も疲れているだろうに、気丈に他人の心配をするとは殊勝な奴だ。ハティに爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。しかし残念なことに、彼女の手は深爪過ぎるほどに切り揃えられ、垢は背中か二の腕か。当然、そんなことを尋ねはしない。変態ではないのだから。

「これも鍛錬の内さ。風味が落ちるのは業腹だが、コンフィは【冷凍】して保冷剤代わりにするつもりだ。それを囲うように積み込もう」

「保冷剤、ですか?」

ああ、そうか。そうだった。保冷剤なんてものはこの世界には存在しないのだった。
 
「あぁ、ええと……。冷気を保つから保冷剤、というわけだ。言い得て妙だろう?」

「なるほど、氷室を持ち歩くようなものですか……。素晴らしいですね!」

今度から氷室と言おう。そうしよう。瞳を輝かせる弟子の握り拳に、そう誓った。

 
 
 縁も酣ではあるが、明日の出発に向けてそろそろ休ませてもらおう。そう思い、部屋の隅で舟を漕いでいるハティに歩み寄る。そこだけ起きていたように三角耳が忙しなく動いたかと思うと、彼女は目を覚ました。肩を揺すろうと伸ばしかけていた腕が行き場を見失い、宙で藻掻く。責任を取らせねばと、なんとなく三角耳を避けて頭を叩いておいた。
 
「起きたか狼娘」

「うん。おはよう……」

彼女は獣のように顔を擦ると、首をブルブルと振り、伸びをした。

「明日は出発だ。もう今夜は休むぞ」

「わかった。――今日は疲れたね」

「あぁ、本当にな」

味見に満足して寝ていたこいつもこいつだが、手伝わせた負い目もあり、もう一発頭を叩くことで手を打つことにした。

料理人達はこの後食事に入る。立場が上の人間がいると気も休まらないだろうと気を利かし、喧騒に乗じて手を振り振りキッチンを後にした。



 キッチンと本邸を結ぶ渡り廊下には清風明月が満ちていた。眠前に体の余熱を捨てるには相応しい。ふと夜空を見上げると、月明かりの中に悪目立ちする星がちらほら。一等星は一等けばけばしい。星の配置に想像を膨らませる余地はあるが、如何せん前世も今世もそんなロマンティックな趣味は無い。

「…………」

「ハティ?」

足音を寂しく思い振り向くと、彼女は夜に囚われていた。

明るく冴える青に心奪われ、瞳孔の散大した金の瞳は、月を丸呑みせんとばかりに虚ろであった。桃李と言うよりも芙蓉のかんばせ。灰白の毛は月光を浴び、その色を白銀へと変じている。四肢は流麗な曲線を描きのびやかで、日を知らぬように白い。

月が受肉した姿が、そこにあった。
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