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源田の護衛
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窓の外には一片の雲もない青空。
かつて自分がそこを自由自在に飛び回っていた事を思い出す。
今はベッドから起き上がる事すらできないが…
色々な管やら機械に繋がれて身動きもとれない。
これが最後の入院になるだろう。
今年で…98歳か。
我ながら信じられない。
同期の連中が死んだ年齢の5倍だ。笠井が死んだのは2年前か。俺が甲飛10期最後の生き残り。
青空の中に飛行機雲。飛んでいるのはジェット旅客機だろう。
俺は紫電改であの空を飛び回っていた。
こうやって昔の事が一気に思い出されるのは死期が近いからだろう。
走馬灯って奴だ。
中学卒業して海兵に進む道もあったが俺は少しでも早く飛行機に乗りたかった。
海軍甲種予科練10期生。
土浦空で待っていたのは罰直の嵐。
地獄のような日々だった。前支え、釣り床訓練、バッター、ストッパー…
操偵判定で操縦に決まった時の嬉しさは忘れられない。偵察になった連中の落ち込みぶりも。
三沢の飛練も厳しかったが実用機課程は地獄の徳島空。
戦地帰りの鬼のような教員達による猛訓練。
しかし大日本帝国海軍航空隊戦闘機操縦員に選ばれた誇りでそれを耐え抜いた。
松山空着任。201空S306でグアム進出…ここら辺はあまりにも多くの事が急激に起きたので記憶が断片的だ。
初陣は昭和19年7月、ヤップ島でのコンソリ邀撃。
菅野大尉考案の直上方攻撃。
前上方、正面反航から横転ダイブして射撃、敵機の操縦席脇を下に抜ける。
一歩間違えれば空中衝突だが防弾防御砲火が充実してる米軍爆撃機にセオリー通りの後上方攻撃などしたら命が幾つあっても足りない。
比島戦では特攻機の直掩、同期生が突入するのを目の当たりにした事は忘れられない。
自分も特攻戦死だろうと思っていたが、まさかの内地への転勤命令。
343空戦闘407飛行隊天誅組
また松山に戻ってこれるとは夢にも思っていなかった。
紫電改に機種改変して猛訓練の日々。
4機1区隊での編隊空戦を徹底的に叩き込まれた。
紫電改
正式には紫電21型。俺達S407ではJ改とも呼んでいたが…
素晴らしい戦闘機だった。
零戦とは比べものにならない。
大馬力エンジンに自動空戦フラップ。
これならグラマンやシコルスキーと対等に戦えると思った。
3月19日の初陣。
俺は搭乗割に入れなかったが帰投した連中が勝利感に浸っていたのをよく覚えている。
しかし4月に入り鹿屋に移動してからの喜界島方面制空戦闘は、もちろん誰も口に出しては言わないが、負け戦だったのは明らかだった。
俺は結局343空では戦う事なく、あの日を迎えた。
正確な日にちは覚えていないし自分の航空記録も終戦の時に燃やしてしまったが…
あれは今と同じ頃、6月末の梅雨の中休み、青空が広がった日だった。
源田司令自ら紫電改を操縦して偵察飛行を行う。
予想もしなかった出来事。
謎だらけだ。
五航艦からの命令ではなく源田司令自らの考えだとは思うが…
「源田サーカス」と言っても複葉機時代の話。要務飛行に零戦21型を使っていたが、あれは93式中練より楽にスタントができる飛行機。
松山時代に紫電改を操縦し鹿屋への移動も自分で飛ばしたは聞いていたが
ただ飛ばすのと戦闘は全然違う。
護衛に自分が選ばれたのも謎。
責任重大、正直、気が重かった。
飛行時間は1000時間越えグアム、サイパン、ヤップ、比島戦を経験してるとは言え紫電改での戦闘経験のない俺が何故選ばれた?
護衛の隊長が予学出身というのも理解できない。
これは海兵出身者が選ばれるのが当然のはず。
菅野大尉なんか自分がやると主張しそうだが…
護衛が6機というのも少ない。
あの頃の稼働率から仕方なかったのだろうか?
機数が6機なので昔ながらの3機小隊。俺は1小隊3番機だった。
編成表は残ってないし記憶もはっきりしないが残りの4機の搭乗員に乙飛出身の飛曹長がいたのは憶えている。
発進は夕方で帰投は薄暮だったので夜間着陸をこなせる技量のものが選ばれたはずだが
司令の操縦は着陸の時、少しバウンドしてヒヤリとしたが2000馬力級の飛行機を、ほとんど操縦した事がないにしては上出来だろう。
心配していた敵との遭遇もなく無事に任務完了。
そしてあれが俺の最後の飛行となった。
その後、護衛隊の隊長は戦死、戦後の戦友会でも何故か誰もこの話に触れようとはしなかった。
戦後、航空自衛隊ができた当初、最終階級が飛行兵曹長以上でなければ採用されなかった。
俺は上飛曹で一つ階級が足りなかった。
飛行時間1000時間越えてて実戦も生き延びた俺が採用されず海兵73期で実戦経験無し飛行時間200程度でも最終階級中尉だから入れるとは理不尽で腹が立った。
階級条件が撤廃された時には俺は会社員で結婚して子供も生まれる所だったので諦めた。
今でも飛行機を操縦している夢を時々見る。
看護婦、いや今は看護師というのか…が部屋に入ってきた。
定期巡回の時間か。
真面目そうでかわいらしいお嬢さん。
二十歳そこそこだろう。
眩しい程の若さを放っている。
彼女の目に微かな哀れみの色が浮かんでいるように思えるのは気のせいだろうか?
お嬢さん、俺にも貴方みたいな時があったんだよ。
戦闘機に乗って戦争してたけどね。
俺の戦争は昭和19年7月コンソリ邀撃に始まり昭和20年6月源田司令の護衛で終わった。
操縦桿を握る右手、スロットルレバーを握る左手、フットバーの上の両足から誉発動機の振動が伝わってくる。
OPLにはグラマン。左手の発射把抦を握る前に後ろを確認…
やはり列機がいた。
主翼の前縁をオレンジに染め、すだれのように薬莢を撒き散らせながら突っ込んでくる。
被弾の衝撃を感じながら左ラダーを蹴っ飛ばすと機を左に横転させ操縦桿を前に押す。
電子音が鳴り響き看護婦が顔色を変えて駆け寄ってくる
かつて自分がそこを自由自在に飛び回っていた事を思い出す。
今はベッドから起き上がる事すらできないが…
色々な管やら機械に繋がれて身動きもとれない。
これが最後の入院になるだろう。
今年で…98歳か。
我ながら信じられない。
同期の連中が死んだ年齢の5倍だ。笠井が死んだのは2年前か。俺が甲飛10期最後の生き残り。
青空の中に飛行機雲。飛んでいるのはジェット旅客機だろう。
俺は紫電改であの空を飛び回っていた。
こうやって昔の事が一気に思い出されるのは死期が近いからだろう。
走馬灯って奴だ。
中学卒業して海兵に進む道もあったが俺は少しでも早く飛行機に乗りたかった。
海軍甲種予科練10期生。
土浦空で待っていたのは罰直の嵐。
地獄のような日々だった。前支え、釣り床訓練、バッター、ストッパー…
操偵判定で操縦に決まった時の嬉しさは忘れられない。偵察になった連中の落ち込みぶりも。
三沢の飛練も厳しかったが実用機課程は地獄の徳島空。
戦地帰りの鬼のような教員達による猛訓練。
しかし大日本帝国海軍航空隊戦闘機操縦員に選ばれた誇りでそれを耐え抜いた。
松山空着任。201空S306でグアム進出…ここら辺はあまりにも多くの事が急激に起きたので記憶が断片的だ。
初陣は昭和19年7月、ヤップ島でのコンソリ邀撃。
菅野大尉考案の直上方攻撃。
前上方、正面反航から横転ダイブして射撃、敵機の操縦席脇を下に抜ける。
一歩間違えれば空中衝突だが防弾防御砲火が充実してる米軍爆撃機にセオリー通りの後上方攻撃などしたら命が幾つあっても足りない。
比島戦では特攻機の直掩、同期生が突入するのを目の当たりにした事は忘れられない。
自分も特攻戦死だろうと思っていたが、まさかの内地への転勤命令。
343空戦闘407飛行隊天誅組
また松山に戻ってこれるとは夢にも思っていなかった。
紫電改に機種改変して猛訓練の日々。
4機1区隊での編隊空戦を徹底的に叩き込まれた。
紫電改
正式には紫電21型。俺達S407ではJ改とも呼んでいたが…
素晴らしい戦闘機だった。
零戦とは比べものにならない。
大馬力エンジンに自動空戦フラップ。
これならグラマンやシコルスキーと対等に戦えると思った。
3月19日の初陣。
俺は搭乗割に入れなかったが帰投した連中が勝利感に浸っていたのをよく覚えている。
しかし4月に入り鹿屋に移動してからの喜界島方面制空戦闘は、もちろん誰も口に出しては言わないが、負け戦だったのは明らかだった。
俺は結局343空では戦う事なく、あの日を迎えた。
正確な日にちは覚えていないし自分の航空記録も終戦の時に燃やしてしまったが…
あれは今と同じ頃、6月末の梅雨の中休み、青空が広がった日だった。
源田司令自ら紫電改を操縦して偵察飛行を行う。
予想もしなかった出来事。
謎だらけだ。
五航艦からの命令ではなく源田司令自らの考えだとは思うが…
「源田サーカス」と言っても複葉機時代の話。要務飛行に零戦21型を使っていたが、あれは93式中練より楽にスタントができる飛行機。
松山時代に紫電改を操縦し鹿屋への移動も自分で飛ばしたは聞いていたが
ただ飛ばすのと戦闘は全然違う。
護衛に自分が選ばれたのも謎。
責任重大、正直、気が重かった。
飛行時間は1000時間越えグアム、サイパン、ヤップ、比島戦を経験してるとは言え紫電改での戦闘経験のない俺が何故選ばれた?
護衛の隊長が予学出身というのも理解できない。
これは海兵出身者が選ばれるのが当然のはず。
菅野大尉なんか自分がやると主張しそうだが…
護衛が6機というのも少ない。
あの頃の稼働率から仕方なかったのだろうか?
機数が6機なので昔ながらの3機小隊。俺は1小隊3番機だった。
編成表は残ってないし記憶もはっきりしないが残りの4機の搭乗員に乙飛出身の飛曹長がいたのは憶えている。
発進は夕方で帰投は薄暮だったので夜間着陸をこなせる技量のものが選ばれたはずだが
司令の操縦は着陸の時、少しバウンドしてヒヤリとしたが2000馬力級の飛行機を、ほとんど操縦した事がないにしては上出来だろう。
心配していた敵との遭遇もなく無事に任務完了。
そしてあれが俺の最後の飛行となった。
その後、護衛隊の隊長は戦死、戦後の戦友会でも何故か誰もこの話に触れようとはしなかった。
戦後、航空自衛隊ができた当初、最終階級が飛行兵曹長以上でなければ採用されなかった。
俺は上飛曹で一つ階級が足りなかった。
飛行時間1000時間越えてて実戦も生き延びた俺が採用されず海兵73期で実戦経験無し飛行時間200程度でも最終階級中尉だから入れるとは理不尽で腹が立った。
階級条件が撤廃された時には俺は会社員で結婚して子供も生まれる所だったので諦めた。
今でも飛行機を操縦している夢を時々見る。
看護婦、いや今は看護師というのか…が部屋に入ってきた。
定期巡回の時間か。
真面目そうでかわいらしいお嬢さん。
二十歳そこそこだろう。
眩しい程の若さを放っている。
彼女の目に微かな哀れみの色が浮かんでいるように思えるのは気のせいだろうか?
お嬢さん、俺にも貴方みたいな時があったんだよ。
戦闘機に乗って戦争してたけどね。
俺の戦争は昭和19年7月コンソリ邀撃に始まり昭和20年6月源田司令の護衛で終わった。
操縦桿を握る右手、スロットルレバーを握る左手、フットバーの上の両足から誉発動機の振動が伝わってくる。
OPLにはグラマン。左手の発射把抦を握る前に後ろを確認…
やはり列機がいた。
主翼の前縁をオレンジに染め、すだれのように薬莢を撒き散らせながら突っ込んでくる。
被弾の衝撃を感じながら左ラダーを蹴っ飛ばすと機を左に横転させ操縦桿を前に押す。
電子音が鳴り響き看護婦が顔色を変えて駆け寄ってくる
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