朝顔に水浅葱

夏凪彗

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後篇

第二部

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 その夜から三週間程が経過した明くる日、女は買い物の途中で雨に降られた。
 近くの、庇の有る建物の下に駆け込む。雨脚が強い。
 何時止むのだろうと思った刹那、視界の隅に人を捉えた。そっと顔を見て、思わず息を呑んだ。


 あの男――言う迄も無く、女が想いを寄せる彼の事だ――だったからである。


 ――どうしましょう。

 ぱっと正面を向いて、彼に気付いていない素振りをした。だが何もしないのも不審がられるだろうと、着物に付いた水滴を払い落とす。この間、妹に持って行かれた水浅葱の紬だ。返して貰えるかしらと女が聞いた時の、彼女の不機嫌さを思い起こす。あの鋭い眼付き。未だに背筋が竦む程であった。

 そうっと彼の方を見る。
 すると彼も同じ様に女を見ていたらしく、ぱちりと視線が交錯した。あの夜を彷彿とさせるその瞳に、女は「あ……」と声を漏らしてしまう。

 磁石の如く、彼の方へと引き寄せられる。
 立ち止まった時には、手を伸ばさずとも触れられる程に近くにいた。

 彼の唇が、何か言いたげに薄く開いては閉じる。女は何を言えば良いか判らず、只その彼の動作を見つめていた。


 「――――お逢い、しましたよね。何時かの夜」


 男の唇から、言葉が紡がれる。
 あの日の夜は色々な事に動揺していて、じっくりと声を聞く余裕等無かった。
 が、今一度耳を傾ければ、その声は何処か秋の夜に似た安らかさを感じさせる、心地好い低音をしている。もっと聞いていたい、と切実に思った。


 「ええ。月を見に外へ出たのです。あの夜は今の時期にしては珍しく晴れていましたし、満月でしたので……。誰も居ないとばかり思っていましたから、吃驚しました」


 特に、貴方が居るなんて――との言葉は内に秘めておく。
 不意に、彼と妹が向かい合っていた事を思い出した。もやりと黒い霧が胸を覆った様な心地。笑んでそれを取り繕う。


 「……あの夜、貴方は何故外にいらしたのですか」


 男が帽子を被り直す。下がった眉尻がまるで「恥ずかしい」とでも物語っている様だった。


 「少々寝呆けていた様です。俗に言う『夢遊病』ではないかと。昔、寝ていた筈の妹も同じ様な行動をした事が有りまして」


 「大人が夢遊病を起こすのは、過度な精神負担が原因だと聞いた事が有りますが……」


 そう言った女は、そっと彼を窺う。
 刹那、視線が絡み合った。再びそのまま黙りこくる。

 ――この間、

 ちらり、と彼の唇に目を遣る。身体の奥で熱が燻ったのを自覚した。
 女は信じられなかった。彼のその唇と、自分のそれが触れ合った事が。
 それでも未だに感触は鮮明で、脳が悪い蟲に侵蝕されてしまったかの様に、幾度と無く口付けをした時の事を反芻していた。

 彼は「『夢遊病』だったのでは」と言った。
 恐らくあの日、夢遊病者として夜街を彷徨っていた彼は、自分でも何をしているか判らない状態だったのではないか。夢遊病患者の大半は、その症状が出た時の事を憶えていないと謂う。

 だからきっと彼も、女と口付けを交わした事は忘れている筈だ。

 それでも良い、女はそう思った。
 誰からも愛されなかった人生で、たった一人、運命を望む相手に――例え事故の様なものであったとしても――恋人に対する様に触れられるなんて。


 酷く幸せな事では無いか。


 「…………」


 男が、小さく息を吐いた。その目は未だ女を捉えていて、段々と居心地が悪くなって来る。
 小さく身じろいで、遠慮がちに告げた。


 「……そんなに見詰められると、その、……恥ずかしいです」


 口元か何処かに、何かが付いていたのだろうか。そう思い着物の袖で口元を隠す。


 「し……失礼。余りに奇麗だったもので、」


 漸く男が目を逸らした。
 しかし、気を休める間も無く、彼は女の心を確実に揺さ振る。

 ――奇麗、だなんて。

 思わず指を捏ね繰り回す。
 常に美人の妹と比べて、比べられて生きて来た。不細工だと罵られる事も、心無く嗤われる事も有った。鏡を見れば溜息しか出ず、底を付いた自己評価。「貴女さえ居なければ」と、何度妹を憎んだか知れない。
 それでも愛されたくて、認めて欲しくて、その一心で出来得る事を最大限に探して。少しでも輝ける様にと、髪の結い方や化粧、更には笑い方――嫌悪感を呑み込んで鏡と向き合い、自身を磨く毎日を過ごした。
 ずっと、朝顔に微笑む彼の姿を思い浮かべて。

 頑張って良かった、と女は一人、涙を堪えていた。



 雨が上がった後、男の家に訪ねる事になった。それは女にとって非常に喜ばしい事この上無かったのだが、


 「此処を左に曲がります」


 懇切丁寧に家への道順を説明する、その声を聞き乍らふと思う。
 ――私が彼の家を知っているだなんて、彼はきっと思わないのでしょうね……。
 女は、自分が如何に不審者じみた行動をしていたかを思い知った。
 もし彼にこの事を知られたのなら、嫌われてしまうだろう。それだけは嫌だ。何が何でも隠し通そうと決める。


 「着きましたよ」


 彼の声で、はたと我に返る。
 俯いていた顔を持ち上げると、目の前に大きな木造の日本家屋。門扉から玄関を繋ぐ石畳の道の両脇に、庭に数々の植物が植えられている。それも無秩序なものでは無く、きちんと整えられているのであった。

 この場所に立って、何度彼に焦がれたか。


 「……大きな御宅ですね。ご家族とお住まいなのですか?」


 膨れ上がっていく想いから目を背ける様に、当たり障りの無い問いを投げ掛けたつもりだった。


 「いいえ、……独りです。幼い頃に妹を亡くして、父、母と順に」


 男の表情に昏い翳の様なものが滲む。
 何と声を掛けるべきかと悩んでいると、彼は困った顔をして笑った。


 「そんなに悲痛な顔をしないで。私は大丈夫ですから」


 男がそうっと女の頬に触れる。其処に熱が集まるのを、女は感じた。
 門扉を開いて女を招き入れ、玄関へと先導していた彼が、唐突に「あっ」と声を上げて女の方を振り向いた。
 何だろうと首を傾げると、


 「自己紹介が未だでしたね」


 「そう云えば、確かに」


 和やかに笑い合った後、畏まった風に彼が一礼する。


 「私は野木宗寿郎と申します。貴女のお名前を伺っても?」


 「ええ。……私は、」


 風が吹いて、庭の草花がさわりと揺れる音がした。
 その音のした方を見遣って、それから瞳に映った鮮烈な青を焼き付ける様に、ゆっくりと瞬きをする。彼に向き直り、告げた。



 「――――朝顔と申します」



 「朝顔さん、ですか」


 こくりと頷くと、彼は嬉しそうに破顔して女の手を取った。


 「朝顔、家で育てているんですよ。可愛らしい青色に咲いたんです」


 こっちです、と声を弾ませる彼に手を引かれて庭を足早に歩く。
 雨露に濡れた葉が、太陽の光を含んできらきらと誇らし気にしていた。
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