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後篇
第一部
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女は思う。
名を問われた時、咄嗟に目に入ったあの花を口にしたのは。
――きっと、やり直したかったから。
何を? 人生を。
屈辱と劣等に塗れた人生を。
女には三つ齢の離れた妹が居る。
甘え上手で可愛らしく、その上要領も良い。末娘と謂う事も相俟って、必然的に彼女は両親から愛された。
女は、そんな妹とはまるで対極的であった。
姉妹で並んで「似ていないんですね」と言われなかった事は一度も無い。それが女に対して「不細工だ」と婉曲的に告げている事を、女は理解していた。
面と向かってはっきりそう言われた経験だって有る。
妹の恋人――今は既に別れている様だ――が実家を訪ねて来た際も、薄い壁一枚を隔てた向こう側で、二人が女を罵り嗤っていたのが聞こえた。流石にその時は手鏡を割る程の屈辱に苛まれたが、今ではもう慣れたものだ。
男の住む屋敷の一室で、化粧台の三面鏡を覗き込む。
一重瞼の所為で元々小さい目は余計に矮小に見える。鼻は低く、全体的にのっぺりとした印象の顔。
彼は奇麗だと言ってくれたけれど。
――地味だなあ。
自嘲気味に呟き、櫛を手に取る。
女が彼に恋情を抱いたのは、季節が初夏に片足を踏み入れた、そんな時期だった。
小間物屋からの帰路で、庭に植えられた朝顔に水を遣る男の前を通り過ぎる。
その時、彼の独り言が耳に入った。
「もう直ぐお前も咲く頃だなあ。どんな色に咲くだろうか」
囁く様な優しい声音に、女は何の気無しに振り向く。
其処には、生まれて来る我が子を心待ちにする父親の様な笑みで、愛おし気にそうっと朝顔の葉を撫でる男の姿が在った。
きゅっと柔和に寄った目尻の皺。水に濡れて照らす太陽を反射する、未だ蕾の儘の朝顔。夏の予感を感じさせる、青い空と大きな雲。
あの時吹いた風の匂いを、女は今でも憶えている。
要するに、一目惚れ、であった。
家に帰ってからもどきどきと高鳴る胸に、嗚呼、此れが恋なのかと気が付いた。
うずうずと落ち着かない心を持て余して、部屋中を右往左往している時――不意に、鏡の中の自分と目が合った。
不細工な、顔。燻っていた熱が、すっと底冷えする様な感覚がした。
――こんな見た目じゃあ、迷惑がられるだけじゃない。
ぎり、と奥歯を噛み締めた。
そんな顔で出歩いて恥ずかしくないの? と嘲笑を浮かべ乍ら問うた妹の声が、頭の中でわんわんと響く。
困った様な笑みで取り繕われた「似ていないんですね」。
両親の、妹に向けた「貴女 "は" 可愛いねえ」の言葉。 私には無かったのに、とふと思った刹那、ぷつりと糸が切れた様な錯覚に陥った。
「あああああああああああああああああああああああああ!」
布団に飛び込み、枕に顔を押し付けて、幼い子供の様に泣きじゃくる。
――私だって、誰かに愛されたかった!
誰かに「可愛い」と言われたかった、誰かに認められたかった、誰かに抱き締められたかった、――誰かの、一番になりたかった。
その儘で良いと、存在を認められたかった。
願わくば、朝顔を愛でるあの彼に。
しゃくり上げる喉を落ち着けて、深く深呼吸をした。濡れた頬に残る涙を手の甲で拭い、ごろりと仰向けになる。
霞む視界の中、彼に会いに行こうと女は決心した。
こんな見た目では、何をしても無駄――そう思っていた女であったが、少しでも見栄えが好くなる様にと様々な努力を重ねた。
例えば、化粧。ほんの少し紅を点すだけで、顔の印象が明るくなるのだと知った。
夜な夜な髪を結う練習もした。
なけなしの有金を叩いて着物も一新した。
そうする内に初めて、鏡の中の自分と目を合わせた時、少しは好くなったのではと思える様になったのだ。
男に恋慕してから、彼のいた庭の前を通る事が女の日課になっていた。
彼に逢えたら――そんな淡い期待を抱いて。実際、運良く逢えたのはほんの数回だったが。
それでも女は、彼の指が愛おし気に触れた朝顔を眺めて、其処に佇む男の姿を想像していた。
その朝顔が、もう直ぐ開き始めようかとする頃の事だ。
夕食を終えた女は、自室へと廊下を歩き乍ら決意する。
――もしも次に彼と逢う事が出来たなら、その時はきっと、想いをお伝えしましょう。
そう考えるだけで、女の心はもぞりと何かが蠢く様な、擽ったい心地になるのだった。
普段よりも大きく鳴る鼓動に、胸元を手で押さえる。恥ずかしいと呟きつつ、火照った身体を冷ます為に掌で風を仰ぐ。
着物の入った葛篭を開けた所で、その手の動きがぴたりと止まった。
「……あら?」
新調した着物一式が無い。確かに昼間、洗濯を終えて此処に仕舞った筈なのに。
「あの子かしら……」
女は妹の顔を思い浮かべた。
末娘の所為か、妹には酷く我儘な所が有る。姉の物は自分の物だ、とでも思っている節も見て取れる。それ故に、女の所有物を無断で持ち去られる事もまあ、無い事では無い。
幼少期から「貴女は姉なのだから、怒ってはならない」と両親に叩き込まれて来た女は、それが悪い事であると認識出来ていなかった。
致し方無く、他の着物に袖を通す。
麻で出来た、白橡色の紬だ。白茶に一匙分の黄色を足した様な、落ち着いた色をしている。
鏡台の前に座り、丁寧に白粉を塗る。頬と唇に薄く紅を点して、その出来栄えに小さく頷いた。
慣れた手付きで髪を結い、仕上げにリボンを括り付ける。
窓の外を見ると、今宵は満月らしかった。この時期では滅多に無い、雲の一つも無い藍色の夜空。零れそうな程の光を放つ蜜色の月が見える。
女はいそいそと自室を出て、下駄を履いて外へ出た。
からん、ころん。下駄が地面と擦れる音を響かせ乍ら、人気の無い夜道を歩く。
あっと言う間に男の住む家の前に辿り着いた。しかし其処に彼の姿はない。女は、消沈とも安堵ともつかない溜息を零した。
庭に植えられた朝顔を見ると、其処に在ったのは今にも身を広げようとせんばかりにぷっくりと膨らんだ蕾。
花が咲いたら彼は、どんな顔をして喜ぶのだろうか。そんな事を思いつつ、家路に就く。
小間物屋の前に人影が見えた。
この時間に珍しい、と自分の事は棚に上げて女がそう思い乍ら近付いて行くと、それは如何やら二人の男女で在る事が判った。
更に彼らに迫れば、なんとその内の一人は女の妹である。水浅葱の着物を着ているが、あれは女の物だ。
やっぱりあの子が持って行ったのね、と納得する女であったが、もう一人の男を何の気無しに見遣れば、見憶えの有る顔。少しばかり経ってから気付く。
あの朝顔を愛でる彼ではないか。
「――――っ、」
ひゅッ、と女が息を吸い込む、鋭い音がした。
どくどくと暴れ回る心臓を宥めようと、胸元に手を遣る。大きく息を吸って吐いて、を三度に渡って繰り返した後、女の脳内は疑問で埋め尽くされていた。
――如何して妹が、彼と……?
お付き合い、されているのかしら――思考が其処に及んだ時、女は胸が張り裂ける様な感覚に陥った。
厭な記憶が蘇る。罵り嗤う声が頭に響く。
「い、や……ッ」
きいん、と耳鳴りがして、とうとう女がしゃがみ込んでしまった時だった。直ぐ近くで空気が揺らいだのに気が付く。
何、と思う間も無く、
「――――どうされましたか」
凛として涼やかな声が鼓膜を撫でた。
俯けていた頭を勢い良く起こして、声の主を振り仰ぐ。
「…………ぁ、」
男だった。先刻、彼と共に会話を交わしていた妹の姿は既に無い。
彼は只、女のみをしっかりと見つめていた。
――私、知っている。
この意思の強そうな、きりりとした目元が、柔らかく細まるのを。赤子に対する様な丸い声で、草花に語り掛ける優しさを。
その時見た、朝顔に注がれていた視線が、今――――女を真っ直ぐに射抜いている。
「立てますか」
「あ……っ、ええ」
そ、と差し出された掌を、遠慮がちに掴む。
骨張った手だ、と思った瞬間にはもう引っ張り上げられていた。
「…………」
その儘の距離で、互いの視線が長い間、交錯する。
男の瞳が月の光を孕んで、潤んでいる様に見えた。
「あ……の」
「はい」
「有難う、御座います」
「もう大丈夫ですか」
「ええ、……ご迷惑をお掛け致しました」
「…………」
「あの……?」
視線が絡んで離れない。
如何したのだろう、と眉尻を下げて問うた刹那、男が動いた。元々近かった距離が更に縮まり、二人を阻む物は何も無くなる。
気が付けば、唇が触れていた。
幾ら交際経験の無い女でも、これが口付けである事は判った。
直ぐ目の前に、小さく首を傾けた男の顔が在る。女の片頬に添えられた、骨張った手。
それは恐らくほんの一瞬の事で、しかし女にはとても長く感じられた。
ふわりと濡れた感触が離れて、再び目が合う。吐息に近い呟きが聞こえた。
「奇麗だ……」
あ、と女は零す。
まるで愛おしい何かを眺めるかの様に、目尻に寄った柔和な皺。
それに気が付いた途端、居た堪れなくなった。
彼の呟いた言葉が何を指しているのか理解しない儘、くるりと彼から背を向け、走り去る。
ばくんばくんと脳にさえ響く心拍音が、動揺をより掻き立てる。
こんな状況下に於いても、走り乍ら見た月はやはり美しかった。
名を問われた時、咄嗟に目に入ったあの花を口にしたのは。
――きっと、やり直したかったから。
何を? 人生を。
屈辱と劣等に塗れた人生を。
女には三つ齢の離れた妹が居る。
甘え上手で可愛らしく、その上要領も良い。末娘と謂う事も相俟って、必然的に彼女は両親から愛された。
女は、そんな妹とはまるで対極的であった。
姉妹で並んで「似ていないんですね」と言われなかった事は一度も無い。それが女に対して「不細工だ」と婉曲的に告げている事を、女は理解していた。
面と向かってはっきりそう言われた経験だって有る。
妹の恋人――今は既に別れている様だ――が実家を訪ねて来た際も、薄い壁一枚を隔てた向こう側で、二人が女を罵り嗤っていたのが聞こえた。流石にその時は手鏡を割る程の屈辱に苛まれたが、今ではもう慣れたものだ。
男の住む屋敷の一室で、化粧台の三面鏡を覗き込む。
一重瞼の所為で元々小さい目は余計に矮小に見える。鼻は低く、全体的にのっぺりとした印象の顔。
彼は奇麗だと言ってくれたけれど。
――地味だなあ。
自嘲気味に呟き、櫛を手に取る。
女が彼に恋情を抱いたのは、季節が初夏に片足を踏み入れた、そんな時期だった。
小間物屋からの帰路で、庭に植えられた朝顔に水を遣る男の前を通り過ぎる。
その時、彼の独り言が耳に入った。
「もう直ぐお前も咲く頃だなあ。どんな色に咲くだろうか」
囁く様な優しい声音に、女は何の気無しに振り向く。
其処には、生まれて来る我が子を心待ちにする父親の様な笑みで、愛おし気にそうっと朝顔の葉を撫でる男の姿が在った。
きゅっと柔和に寄った目尻の皺。水に濡れて照らす太陽を反射する、未だ蕾の儘の朝顔。夏の予感を感じさせる、青い空と大きな雲。
あの時吹いた風の匂いを、女は今でも憶えている。
要するに、一目惚れ、であった。
家に帰ってからもどきどきと高鳴る胸に、嗚呼、此れが恋なのかと気が付いた。
うずうずと落ち着かない心を持て余して、部屋中を右往左往している時――不意に、鏡の中の自分と目が合った。
不細工な、顔。燻っていた熱が、すっと底冷えする様な感覚がした。
――こんな見た目じゃあ、迷惑がられるだけじゃない。
ぎり、と奥歯を噛み締めた。
そんな顔で出歩いて恥ずかしくないの? と嘲笑を浮かべ乍ら問うた妹の声が、頭の中でわんわんと響く。
困った様な笑みで取り繕われた「似ていないんですね」。
両親の、妹に向けた「貴女 "は" 可愛いねえ」の言葉。 私には無かったのに、とふと思った刹那、ぷつりと糸が切れた様な錯覚に陥った。
「あああああああああああああああああああああああああ!」
布団に飛び込み、枕に顔を押し付けて、幼い子供の様に泣きじゃくる。
――私だって、誰かに愛されたかった!
誰かに「可愛い」と言われたかった、誰かに認められたかった、誰かに抱き締められたかった、――誰かの、一番になりたかった。
その儘で良いと、存在を認められたかった。
願わくば、朝顔を愛でるあの彼に。
しゃくり上げる喉を落ち着けて、深く深呼吸をした。濡れた頬に残る涙を手の甲で拭い、ごろりと仰向けになる。
霞む視界の中、彼に会いに行こうと女は決心した。
こんな見た目では、何をしても無駄――そう思っていた女であったが、少しでも見栄えが好くなる様にと様々な努力を重ねた。
例えば、化粧。ほんの少し紅を点すだけで、顔の印象が明るくなるのだと知った。
夜な夜な髪を結う練習もした。
なけなしの有金を叩いて着物も一新した。
そうする内に初めて、鏡の中の自分と目を合わせた時、少しは好くなったのではと思える様になったのだ。
男に恋慕してから、彼のいた庭の前を通る事が女の日課になっていた。
彼に逢えたら――そんな淡い期待を抱いて。実際、運良く逢えたのはほんの数回だったが。
それでも女は、彼の指が愛おし気に触れた朝顔を眺めて、其処に佇む男の姿を想像していた。
その朝顔が、もう直ぐ開き始めようかとする頃の事だ。
夕食を終えた女は、自室へと廊下を歩き乍ら決意する。
――もしも次に彼と逢う事が出来たなら、その時はきっと、想いをお伝えしましょう。
そう考えるだけで、女の心はもぞりと何かが蠢く様な、擽ったい心地になるのだった。
普段よりも大きく鳴る鼓動に、胸元を手で押さえる。恥ずかしいと呟きつつ、火照った身体を冷ます為に掌で風を仰ぐ。
着物の入った葛篭を開けた所で、その手の動きがぴたりと止まった。
「……あら?」
新調した着物一式が無い。確かに昼間、洗濯を終えて此処に仕舞った筈なのに。
「あの子かしら……」
女は妹の顔を思い浮かべた。
末娘の所為か、妹には酷く我儘な所が有る。姉の物は自分の物だ、とでも思っている節も見て取れる。それ故に、女の所有物を無断で持ち去られる事もまあ、無い事では無い。
幼少期から「貴女は姉なのだから、怒ってはならない」と両親に叩き込まれて来た女は、それが悪い事であると認識出来ていなかった。
致し方無く、他の着物に袖を通す。
麻で出来た、白橡色の紬だ。白茶に一匙分の黄色を足した様な、落ち着いた色をしている。
鏡台の前に座り、丁寧に白粉を塗る。頬と唇に薄く紅を点して、その出来栄えに小さく頷いた。
慣れた手付きで髪を結い、仕上げにリボンを括り付ける。
窓の外を見ると、今宵は満月らしかった。この時期では滅多に無い、雲の一つも無い藍色の夜空。零れそうな程の光を放つ蜜色の月が見える。
女はいそいそと自室を出て、下駄を履いて外へ出た。
からん、ころん。下駄が地面と擦れる音を響かせ乍ら、人気の無い夜道を歩く。
あっと言う間に男の住む家の前に辿り着いた。しかし其処に彼の姿はない。女は、消沈とも安堵ともつかない溜息を零した。
庭に植えられた朝顔を見ると、其処に在ったのは今にも身を広げようとせんばかりにぷっくりと膨らんだ蕾。
花が咲いたら彼は、どんな顔をして喜ぶのだろうか。そんな事を思いつつ、家路に就く。
小間物屋の前に人影が見えた。
この時間に珍しい、と自分の事は棚に上げて女がそう思い乍ら近付いて行くと、それは如何やら二人の男女で在る事が判った。
更に彼らに迫れば、なんとその内の一人は女の妹である。水浅葱の着物を着ているが、あれは女の物だ。
やっぱりあの子が持って行ったのね、と納得する女であったが、もう一人の男を何の気無しに見遣れば、見憶えの有る顔。少しばかり経ってから気付く。
あの朝顔を愛でる彼ではないか。
「――――っ、」
ひゅッ、と女が息を吸い込む、鋭い音がした。
どくどくと暴れ回る心臓を宥めようと、胸元に手を遣る。大きく息を吸って吐いて、を三度に渡って繰り返した後、女の脳内は疑問で埋め尽くされていた。
――如何して妹が、彼と……?
お付き合い、されているのかしら――思考が其処に及んだ時、女は胸が張り裂ける様な感覚に陥った。
厭な記憶が蘇る。罵り嗤う声が頭に響く。
「い、や……ッ」
きいん、と耳鳴りがして、とうとう女がしゃがみ込んでしまった時だった。直ぐ近くで空気が揺らいだのに気が付く。
何、と思う間も無く、
「――――どうされましたか」
凛として涼やかな声が鼓膜を撫でた。
俯けていた頭を勢い良く起こして、声の主を振り仰ぐ。
「…………ぁ、」
男だった。先刻、彼と共に会話を交わしていた妹の姿は既に無い。
彼は只、女のみをしっかりと見つめていた。
――私、知っている。
この意思の強そうな、きりりとした目元が、柔らかく細まるのを。赤子に対する様な丸い声で、草花に語り掛ける優しさを。
その時見た、朝顔に注がれていた視線が、今――――女を真っ直ぐに射抜いている。
「立てますか」
「あ……っ、ええ」
そ、と差し出された掌を、遠慮がちに掴む。
骨張った手だ、と思った瞬間にはもう引っ張り上げられていた。
「…………」
その儘の距離で、互いの視線が長い間、交錯する。
男の瞳が月の光を孕んで、潤んでいる様に見えた。
「あ……の」
「はい」
「有難う、御座います」
「もう大丈夫ですか」
「ええ、……ご迷惑をお掛け致しました」
「…………」
「あの……?」
視線が絡んで離れない。
如何したのだろう、と眉尻を下げて問うた刹那、男が動いた。元々近かった距離が更に縮まり、二人を阻む物は何も無くなる。
気が付けば、唇が触れていた。
幾ら交際経験の無い女でも、これが口付けである事は判った。
直ぐ目の前に、小さく首を傾けた男の顔が在る。女の片頬に添えられた、骨張った手。
それは恐らくほんの一瞬の事で、しかし女にはとても長く感じられた。
ふわりと濡れた感触が離れて、再び目が合う。吐息に近い呟きが聞こえた。
「奇麗だ……」
あ、と女は零す。
まるで愛おしい何かを眺めるかの様に、目尻に寄った柔和な皺。
それに気が付いた途端、居た堪れなくなった。
彼の呟いた言葉が何を指しているのか理解しない儘、くるりと彼から背を向け、走り去る。
ばくんばくんと脳にさえ響く心拍音が、動揺をより掻き立てる。
こんな状況下に於いても、走り乍ら見た月はやはり美しかった。
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