181 / 200
181 終わらない夢・前《教皇》
しおりを挟む
王宮の敷地内にある地下牢に、教皇は収監されている。
一日三度の食事が支給される以外、ここに人が訪れる事は滅多に無い。
窓が無いこの部屋は昼間でも真っ暗で、魔道具のランプの薄明かりが無ければ何も見えない程である。
太陽の光を感じられないせいか、時間の感覚が徐々に曖昧になってきていた。
(ここへ入れられて、何日経ったのだろうか?)
自分の刑罰が『鞭打ち百回と毒杯』と決まった事は、数日前に、食事を届ける騎士から伝えられていた。
ギギィィーーッと耳障りな音を立てながら、錆びた鉄の扉が開く。
(さっき昼食を食べたと思ったが、もう夕食の時間なのか?)
教皇はボンヤリとした頭で、そんな事を考えた。
黴臭い籠った空気が少しだけ入れ替わり、甘い香水の香りが仄かに漂う。
鉄格子の向こうに姿を現したのは、王太子夫妻と近衛騎士と侍女であった。
「臭いわね」
ポツリとそう言った王太子妃は、白いレースのハンカチで鼻と口を押さえ、眉根を寄せた。
王太子妃は侍女と共にその場に留まり、男性達だけが鉄格子の内側に入ってくる。
だが、教皇の視線は格子の向こうに釘付けになったまま。
大きな腹を抱える王太子妃だが、凛としたその佇まいは神々しいまでに美しかった。
(やっぱり、良い女だな)
「見るな。穢れる」
地を這う様な声が響いたと同時に、腹にドゴッと強い衝撃が加わり、壁際まで吹っ飛んだ。
王太子妃マーガレットを舐める様に眺めていた教皇は、サディアスからの強烈な回し蹴りを喰らったのだ。
「グハッ……ゴホッ……」
サディアスは、冷たい床に倒れたままで咳き込む教皇に冷ややかな眼差しを投げながら、「やれ」と、言葉少なに騎士へ指示を出す。
(とうとう鞭打ちが始まるのか?)
そう考えて身構えた教皇だが、近付いてきた騎士が手にしていたのは、鞭ではなかった。
ガシャンと音がして、腕に大きく重い金属の輪が取り付けられる。
「腕輪……?」
装飾品にしては重過ぎるが、銀色に光るその腕輪には繊細な模様が彫られており、赤く輝く大粒の石が幾つか嵌め込まれている。
「外そうとしても無駄だぞ。
王家の血を引く者にしか、取り外しは出来ないのだからな」
サディアスのその言葉に、『きっと、どうしても外したくなる様な物なのだろう』と察して、ジワリと嫌な汗が滲む。
顔色が悪くなった教皇を見て、マーガレットがフフッと小さな笑い声を零した。
「それ、『永遠の夢』って通称で呼ばれているんですって。
ロマンティックでしょう?」
「…………永遠の、夢……?」
通称だけを教えられても、その意味は全く分からない。
これは何なのか?
自分は何をされてしまったのか?
グルグルと考えている内に、いつの間にか、男性陣も鉄格子の向こうに出ていた。
「では、良い夢を」
満足そうな笑みを残して、マーガレットが踵を返すと、他の者達も彼女を追う様にして出て行った。
鉄の扉が軋みながらゆっくりと閉じられ、牢の中には静寂が戻ってきた。
何が起こるのかビクビクしながら過ごしたが、暫くは何も起こらなかった。
(一体なんなんだ? ただの脅しか?)
腕輪はちょっと重くて邪魔だったが、徐々に重さにも慣れて、その存在が気にならなくなった。
それが効力を発揮したのは、粗末な夕食を食べた後、教皇が硬いベッドで眠りに就いてからだった。
夢の中で、彼はなんとなく見覚えのある森の中にいた。
「ここは何処だ?」
自分が何故森の中に居るのか思い出せなくて、木漏れ日の道をトボトボと歩いていると、透明な水を湛えた美しい湖が彼の眼前に姿を現した。
「ああ、そうか……」
ここは、子供の頃に父が持っていた別荘の裏にあった森だ。
そう思い出したその時、ドンッともの凄い力で背中を押され、目の前の湖に落ちた。
湖水は思った以上に冷たく、着水した瞬間、心臓がギュッと音を立てて縮んだ気がした。
足に水草が絡み付いて思う様に動かせない。
必死に藻搔いて水面に頭を出すと、死んだ筈の幼い弟が水際に佇み、無邪気な笑みを浮かべてこちらに手を振っているのが見えた。
「た、助けっ……!」
なんとか湖の縁に泳ぎ着き、弟に助けを求める様に手を伸ばす。
幼いままの姿の弟に、現在の姿の自分を引っ張り上げる力などある筈もないが、そんな事さえ思い付かないくらいに切羽詰まっていた。
「兄上」
ニコニコと微笑みながら、手を伸ばし返してくれる弟。
その小さな手に縋ろうとしたが……。
弟の手は教皇の後頭部をガッと乱暴に掴んで、子供とは思えない力強さで彼の顔を水中に沈めた。
驚きつつもなんとか息を止めたが、それも直ぐに限界となり、口から大きな気泡がゴボッと漏れ出た。
凄い勢いで、口の中に水が入ってくる。
死に物狂いで顔を上げても、余裕の微笑みを浮かべた弟の手が何度でも彼を水に沈める。
その異様な状況が、死への恐怖を更に加速させた。
やがて体が芯から冷え切って、手足を動かす事さえ出来なくなった。
肺の中まで冷たい水に浸食され、胸に鋭い痛みが走る。
痛い。苦しい。息が出来な……。
「フフッ……。ウフフ。アハハ」
子供の無邪気な笑い声が響く中、力尽きた教皇は暗い湖の底へと沈んで行った。
「ゲホッ、ゴホッ!!」
大きく咳き込みながら目を覚ました教皇は、路地裏の様な所に寝かされていた。
「ゆ、夢か?」
夢とは思えない位に、リアル過ぎる痛みと苦しさだった。
胸に手を当てると、壊れそうな位に心臓がバクバク動いている。
だが、その心音に『生きている』という事を実感して、教皇は安堵の息を吐き出した。
トントンと肩を叩かれて初めて、自分の隣に付き添っている女の存在に気付いた。
異国の出身なのか、黒髪黒目で浅黒い肌をした、エキゾチックで美しい女だった。
「お前が私を助けたのか?」
「……」
女は小さく首を傾げてニッコリと微笑む。
何処かでチリンと鈴の音がした。
一日三度の食事が支給される以外、ここに人が訪れる事は滅多に無い。
窓が無いこの部屋は昼間でも真っ暗で、魔道具のランプの薄明かりが無ければ何も見えない程である。
太陽の光を感じられないせいか、時間の感覚が徐々に曖昧になってきていた。
(ここへ入れられて、何日経ったのだろうか?)
自分の刑罰が『鞭打ち百回と毒杯』と決まった事は、数日前に、食事を届ける騎士から伝えられていた。
ギギィィーーッと耳障りな音を立てながら、錆びた鉄の扉が開く。
(さっき昼食を食べたと思ったが、もう夕食の時間なのか?)
教皇はボンヤリとした頭で、そんな事を考えた。
黴臭い籠った空気が少しだけ入れ替わり、甘い香水の香りが仄かに漂う。
鉄格子の向こうに姿を現したのは、王太子夫妻と近衛騎士と侍女であった。
「臭いわね」
ポツリとそう言った王太子妃は、白いレースのハンカチで鼻と口を押さえ、眉根を寄せた。
王太子妃は侍女と共にその場に留まり、男性達だけが鉄格子の内側に入ってくる。
だが、教皇の視線は格子の向こうに釘付けになったまま。
大きな腹を抱える王太子妃だが、凛としたその佇まいは神々しいまでに美しかった。
(やっぱり、良い女だな)
「見るな。穢れる」
地を這う様な声が響いたと同時に、腹にドゴッと強い衝撃が加わり、壁際まで吹っ飛んだ。
王太子妃マーガレットを舐める様に眺めていた教皇は、サディアスからの強烈な回し蹴りを喰らったのだ。
「グハッ……ゴホッ……」
サディアスは、冷たい床に倒れたままで咳き込む教皇に冷ややかな眼差しを投げながら、「やれ」と、言葉少なに騎士へ指示を出す。
(とうとう鞭打ちが始まるのか?)
そう考えて身構えた教皇だが、近付いてきた騎士が手にしていたのは、鞭ではなかった。
ガシャンと音がして、腕に大きく重い金属の輪が取り付けられる。
「腕輪……?」
装飾品にしては重過ぎるが、銀色に光るその腕輪には繊細な模様が彫られており、赤く輝く大粒の石が幾つか嵌め込まれている。
「外そうとしても無駄だぞ。
王家の血を引く者にしか、取り外しは出来ないのだからな」
サディアスのその言葉に、『きっと、どうしても外したくなる様な物なのだろう』と察して、ジワリと嫌な汗が滲む。
顔色が悪くなった教皇を見て、マーガレットがフフッと小さな笑い声を零した。
「それ、『永遠の夢』って通称で呼ばれているんですって。
ロマンティックでしょう?」
「…………永遠の、夢……?」
通称だけを教えられても、その意味は全く分からない。
これは何なのか?
自分は何をされてしまったのか?
グルグルと考えている内に、いつの間にか、男性陣も鉄格子の向こうに出ていた。
「では、良い夢を」
満足そうな笑みを残して、マーガレットが踵を返すと、他の者達も彼女を追う様にして出て行った。
鉄の扉が軋みながらゆっくりと閉じられ、牢の中には静寂が戻ってきた。
何が起こるのかビクビクしながら過ごしたが、暫くは何も起こらなかった。
(一体なんなんだ? ただの脅しか?)
腕輪はちょっと重くて邪魔だったが、徐々に重さにも慣れて、その存在が気にならなくなった。
それが効力を発揮したのは、粗末な夕食を食べた後、教皇が硬いベッドで眠りに就いてからだった。
夢の中で、彼はなんとなく見覚えのある森の中にいた。
「ここは何処だ?」
自分が何故森の中に居るのか思い出せなくて、木漏れ日の道をトボトボと歩いていると、透明な水を湛えた美しい湖が彼の眼前に姿を現した。
「ああ、そうか……」
ここは、子供の頃に父が持っていた別荘の裏にあった森だ。
そう思い出したその時、ドンッともの凄い力で背中を押され、目の前の湖に落ちた。
湖水は思った以上に冷たく、着水した瞬間、心臓がギュッと音を立てて縮んだ気がした。
足に水草が絡み付いて思う様に動かせない。
必死に藻搔いて水面に頭を出すと、死んだ筈の幼い弟が水際に佇み、無邪気な笑みを浮かべてこちらに手を振っているのが見えた。
「た、助けっ……!」
なんとか湖の縁に泳ぎ着き、弟に助けを求める様に手を伸ばす。
幼いままの姿の弟に、現在の姿の自分を引っ張り上げる力などある筈もないが、そんな事さえ思い付かないくらいに切羽詰まっていた。
「兄上」
ニコニコと微笑みながら、手を伸ばし返してくれる弟。
その小さな手に縋ろうとしたが……。
弟の手は教皇の後頭部をガッと乱暴に掴んで、子供とは思えない力強さで彼の顔を水中に沈めた。
驚きつつもなんとか息を止めたが、それも直ぐに限界となり、口から大きな気泡がゴボッと漏れ出た。
凄い勢いで、口の中に水が入ってくる。
死に物狂いで顔を上げても、余裕の微笑みを浮かべた弟の手が何度でも彼を水に沈める。
その異様な状況が、死への恐怖を更に加速させた。
やがて体が芯から冷え切って、手足を動かす事さえ出来なくなった。
肺の中まで冷たい水に浸食され、胸に鋭い痛みが走る。
痛い。苦しい。息が出来な……。
「フフッ……。ウフフ。アハハ」
子供の無邪気な笑い声が響く中、力尽きた教皇は暗い湖の底へと沈んで行った。
「ゲホッ、ゴホッ!!」
大きく咳き込みながら目を覚ました教皇は、路地裏の様な所に寝かされていた。
「ゆ、夢か?」
夢とは思えない位に、リアル過ぎる痛みと苦しさだった。
胸に手を当てると、壊れそうな位に心臓がバクバク動いている。
だが、その心音に『生きている』という事を実感して、教皇は安堵の息を吐き出した。
トントンと肩を叩かれて初めて、自分の隣に付き添っている女の存在に気付いた。
異国の出身なのか、黒髪黒目で浅黒い肌をした、エキゾチックで美しい女だった。
「お前が私を助けたのか?」
「……」
女は小さく首を傾げてニッコリと微笑む。
何処かでチリンと鈴の音がした。
1,311
お気に入りに追加
6,320
あなたにおすすめの小説

[完結]本当にバカね
シマ
恋愛
私には幼い頃から婚約者がいる。
この国の子供は貴族、平民問わず試験に合格すれば通えるサラタル学園がある。
貴族は落ちたら恥とまで言われる学園で出会った平民と恋に落ちた婚約者。
入婿の貴方が私を見下すとは良い度胸ね。
私を敵に回したら、どうなるか分からせてあげる。
【完結】恋は、終わったのです
楽歩
恋愛
幼い頃に決められた婚約者、セオドアと共に歩む未来。それは決定事項だった。しかし、いつしか冷たい現実が訪れ、彼の隣には別の令嬢の笑顔が輝くようになる。
今のような関係になったのは、いつからだったのだろう。
『分からないだろうな、お前のようなでかくて、エマのように可愛げのない女には』
身長を追い越してしまった時からだろうか。
それとも、特進クラスに私だけが入った時だろうか。
あるいは――あの子に出会った時からだろうか。
――それでも、リディアは平然を装い続ける。胸に秘めた思いを隠しながら。

【完結】婚約者の義妹と恋に落ちたので婚約破棄した処、「妃教育の修了」を条件に結婚が許されたが結果が芳しくない。何故だ?同じ高位貴族だろう?
つくも茄子
恋愛
国王唯一の王子エドワード。
彼は婚約者の公爵令嬢であるキャサリンを公の場所で婚約破棄を宣言した。
次の婚約者は恋人であるアリス。
アリスはキャサリンの義妹。
愛するアリスと結婚するには「妃教育を修了させること」だった。
同じ高位貴族。
少し頑張ればアリスは直ぐに妃教育を終了させると踏んでいたが散々な結果で終わる。
八番目の教育係も辞めていく。
王妃腹でないエドワードは立太子が遠のく事に困ってしまう。
だが、エドワードは知らなかった事がある。
彼が事実を知るのは何時になるのか……それは誰も知らない。
他サイトにも公開中。

ある王国の王室の物語
朝山みどり
恋愛
平和が続くある王国の一室で婚約者破棄を宣言された少女がいた。カップを持ったまま下を向いて無言の彼女を国王夫妻、侯爵夫妻、王太子、異母妹がじっと見つめた。
顔をあげた彼女はカップを皿に置くと、レモンパイに手を伸ばすと皿に取った。
それから
「承知しました」とだけ言った。
ゆっくりレモンパイを食べるとお茶のおかわりを注ぐように侍女に合図をした。
それからバウンドケーキに手を伸ばした。
カクヨムで公開したものに手を入れたものです。

私は側妃なんかにはなりません!どうか王女様とお幸せに
Karamimi
恋愛
公爵令嬢のキャリーヌは、婚約者で王太子のジェイデンから、婚約を解消して欲しいと告げられた。聞けば視察で来ていたディステル王国の王女、ラミアを好きになり、彼女と結婚したいとの事。
ラミアは非常に美しく、お色気むんむんの女性。ジェイデンが彼女の美しさの虜になっている事を薄々気が付いていたキャリーヌは、素直に婚約解消に応じた。
しかし、ジェイデンの要求はそれだけでは終わらなかったのだ。なんとキャリーヌに、自分の側妃になれと言い出したのだ。そもそも側妃は非常に問題のある制度だったことから、随分昔に廃止されていた。
もちろん、キャリーヌは側妃を拒否したのだが…
そんなキャリーヌをジェイデンは権力を使い、地下牢に閉じ込めてしまう。薄暗い地下牢で、食べ物すら与えられないキャリーヌ。
“側妃になるくらいなら、この場で息絶えた方がマシだ”
死を覚悟したキャリーヌだったが、なぜか地下牢から出され、そのまま家族が見守る中馬車に乗せられた。
向かった先は、実の姉の嫁ぎ先、大国カリアン王国だった。
深い傷を負ったキャリーヌを、カリアン王国で待っていたのは…
※恋愛要素よりも、友情要素が強く出てしまった作品です。
他サイトでも同時投稿しています。
どうぞよろしくお願いしますm(__)m

ご安心を、2度とその手を求める事はありません
ポチ
恋愛
大好きな婚約者様。 ‘’愛してる‘’ その言葉私の宝物だった。例え貴方の気持ちが私から離れたとしても。お飾りの妻になるかもしれないとしても・・・
それでも、私は貴方を想っていたい。 独り過ごす刻もそれだけで幸せを感じられた。たった一つの希望

初夜に大暴言を吐かれた伯爵夫人は、微笑みと共に我が道を行く ―旦那様、今更擦り寄られても困ります―
望月 或
恋愛
「お前の噂を聞いたぞ。毎夜町に出て男を求め、毎回違う男と朝までふしだらな行為に明け暮れているそうだな? その上糸目を付けず服や装飾品を買い漁り、多大な借金を背負っているとか……。そんな醜悪な女が俺の妻だとは非常に不愉快極まりない! 今後俺に話し掛けるな! 俺に一切関与するな! 同じ空気を吸ってるだけでとんでもなく不快だ……!!」
【王命】で決められた婚姻をし、ハイド・ランジニカ伯爵とオリービア・フレイグラント子爵令嬢の初夜は、彼のその暴言で始まった。
そして、それに返したオリービアの一言は、
「あらあら、まぁ」
の六文字だった。
屋敷に住まわせている、ハイドの愛人と噂されるユーカリや、その取巻きの使用人達の嫌がらせも何のその、オリービアは微笑みを絶やさず自分の道を突き進んでいく。
ユーカリだけを信じ心酔していたハイドだったが、オリービアが屋敷に来てから徐々に変化が表れ始めて……
※作者独自の世界観満載です。違和感を感じたら、「あぁ、こういう世界なんだな」と思って頂けたら有難いです……。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる