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134 歪な家庭《ヴィクター》

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 ───バシッ!!!

 蝋燭一つだけを灯した仄暗い部屋に、鋭い音が響いた。

「なんで?
 ……どうしてっ!?」

 胸の奥に沸々と湧き上がる不満をぶつける様に、箒の柄を力一杯振り下ろす女。

「いつもっ、私ばっかり……!
 私が悪いの? 私だけが悪いのっっ!?」

 ───バシッ!!!

 何度も殴られれば心も体も悲鳴を上げるが、声を発すれば彼女が益々激昂するのは経験上理解している。
 だから、幼い頃の彼は己の口を両手で塞ぎ、彼女の荒ぶる気持ちが鎮まるまで、懸命に耐える事しか出来なかった。

 しかし、今はもう、何も出来なかった子供の頃とは違う。

 彼は再度振り下ろされた箒の柄を片手で軽々と受け止め、もう片方の手でポケットに入っていた香を取り出す。
 それを目にした彼女の両手から、急に力が抜けた。
 彼女の手から滑り落ちた箒が、カランと音を立てて床に転がる。

 彼女が呆然としている隙に、彼は香に火を付けた。

 甘い香りが部屋いっぱいに広がると、彼女の瞳に少しずつ光が戻り始める。




「───ごめん、ごめんねっ。
 貴方が悪い訳じゃないのに、本当にごめんなさい……」

 義母は弱くて、そして、とても優しい人なのだ。

 だって激しい暴力の嵐が過ぎ去った後には、いつだってこうして彼を抱き締め、泣きながら謝ってくれるのだから……。

 そのお陰で……、いや、そのせいでと言うべきか。
 彼は、義母を憎む事が出来なくなってしまったのだ。




 彼、ヴィクター・リンメルの出自はとても複雑である。

 リンメル伯爵家の長女だった実母は、不幸にも結婚直前に婚約者を病気で亡くしたせいで婚期を逃してしまった。
 今更新たな相手を探そうにも、ろくな男は残っていないだろう。後妻や愛妾の座を狙うなんて真っ平だ。
 そう考えた彼女は結婚を諦め、両親を説得し、侍女として王宮に勤め始めた。

 しかし、そんな彼女がある日、新たな命をその身に宿した状態で実家に戻ってきたのだ。
 真面目な子だと思っていた娘の突然の妊娠に、当然ながら両親は激怒した。
 相手の名を問い詰めたが彼女は最後まで口を割らず、出産の直後に自ら死を選んだ。

 そうして生まれた子供がヴィクターである。

 その頃、既にリンメル伯爵家を継いでいた実母の弟夫妻は、一人目の子を流産してからなかなか子を授からない事に悩んでおり、ヴィクターを養子に迎えようと決めた。

 義母となった叔父の妻は子供好きな女性で、自身とは血が繋がらないヴィクターを実の息子の様に育ててくれた。

 しかし、ヴィクターが四歳になった頃、状況は一変する。

 その頃から、義父である叔父は、複数いる愛人の存在を隠さなくなった。
 愛人達は皆平民だったので、正妻として迎える事は出来ない。
 義父が義母と離婚しないのは、不貞が発覚しても文句を言えない立場の正妻が必要だったからである。

『後継を産む事も出来ない女を妻の座に留まらせてやっているのだから、どんなに理不尽な扱いをしても文句は言わないだろう』

 不妊の原因が妻の流産にあると考えていた義父は、そんな身勝手な理由で義母との夫婦関係を続けていた。

 夫の本音を知った義母だが、疎遠になっていた実家を頼る事も出来ずに、徐々に心を病んでいった。
 そして夫に向けられない怒りの矛先を、ヴィクターにぶつける様になったのだ。



 義母からの理不尽な暴力に耐えながらも成長した彼は、学生時代の友人の影響で薬学に興味を持った。

 もしも義父と愛人の間に子が出来たら、自分はお払い箱になる。
 そうなった時、手に職が無ければ路頭に迷ってしまうと考えたヴィクターは、薬師の資格を取る事にした。

 実母譲りの真面目な性格で、どんどん薬の知識を増やして行ったヴィクター。
 その才能が開花するのに、然程時間は掛からなかった。


 とある高貴な男性が、リンメル伯爵家を訪ねて来たのは、その少し後の事である。

「この子がお探しのヴィクターです」

 ニヤニヤと媚びる様な笑みを浮かべた義父が、来客にヴィクターを紹介する。
 応接室のソファーにふんぞり返っていた男性は、先ずヴィクターの左手に視線を向けて、微かに口角を上げた。
 次に全身を無遠慮にジロジロと眺めてから、徐に口を開く。

「ほう。母親に似て、なかなか美しい顔をしているじゃないか」

「こちらの教皇猊下が、お前の本当の父親だと名乗り出て下さった。
 さあ、ご挨拶なさい」

「……」

 どうやら驚き過ぎると人は思考能力が著しく低下するらしい。
 ヴィクターは義父の言葉が理解出来ずに、ただ微かに眉根を寄せた。

「何を黙っているんだ。早く挨拶せんかっ!」

「まあ良い。
 突然の事で、彼も動揺しているのだろう」

 怒鳴り声を上げる義父を鷹揚に宥めた教皇は、思いも寄らぬ提案をした。

「君を認知し、私の死後、財産の一部を相続出来る様にしてやろうと思う」

「……対価は何ですか?」

 ヴィクターが簡潔に問うと、教皇は興味深そうに目を細め、ククッと小さく笑った。

「聡い人間は嫌いじゃない。
 ある薬を開発して提供するのが条件だ」

「ある薬?」

「それは契約が成立してから教える」

 教皇の反応に若干嫌な予感がしつつも、ヴィクターは別の質問を投げた。

「……では、財産の一部とは?」

「金貨五千枚」

 金貨五千など、教皇からすればきっと端金なのだろう。
 しかし、リンメル伯爵家はあまり裕福な家ではないし、そのリンメル伯爵家を継げるかどうかさえも微妙な立場にいるヴィクターにとって、金貨五千は充分過ぎる程魅力的な金額である。

 どうやら義父も、この話には乗り気の様だ。
 きっと『上手くすればヴィクターから金を引き出せる』とでも思っているのだろう。
 権力者である教皇と縁が繋がる事にも、魅力を感じているのかもしれない。

 義父の思惑通りにしてやるつもりは無いが、金は喉から手が出る程欲しかった。

「……分かりました。どんな薬を作れば良いのですか?」

 教皇を真っ直ぐに見たヴィクターの瞳には、強い決意の色が浮かんでいた。



 今思えば、それが彼にとって一つ目の、運命の分かれ道だったのだ。
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